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奔流を泳ぐ  作者: 琴羽
8/16

待ち望んだ瞬間は、不意に訪れた。

東京へ遊びに行きたい。ずっとそう願っていた私は、それを叶えるために、コツコツと貯金を続けてきていた。この中二の夏に、どうにか一回は遊びに行けるだけの金額は貯まったけど、私のなけなしのお小遣いでは、そう気軽に何度も行くことはできそうにない。貯めたお金はすぐには使わず、いつか何かきっかけがあった時のために、と、そう思いながら、大切に取っておいてきた。

そして今、そのきっかけが、大切にとっておいたそれを使う決心をさせるだけの理由が、私の前に現れた。

放課後の時間、私は興奮を胸に抱えながら、保奈美と二人でいつもの山へ向かっていた。二人で歩きながら、今すぐにでもそれを話してしまいたい衝動に駆られたけど、今はまだその時じゃない。山の入り口で少し待って、高垣と落ち合った。山の中を歩く間も、まだ我慢だ。なんでもない普通の話をしながら間を持たせるのがやけに億劫だった。

鬱蒼とした道を抜けて、穴のある開けた場所に出る。今日はやけに小さな穴が、私を出迎えた。

しばらくそれを眺めた後、いつものベンチ代わりの倒木の上に三人で腰をかける。一息をついて、ようやくそれを話すにふさわしい時がきた。

私は興奮を抑えて、努めてなんでもない風を装って声をかけた。

「今週末だけどさ、ちょっと付き合ってよ」

事情を知らない二人は、きょとんとした顔をした。

「今週は何の予定もないから、別にいいけど……」

保奈美は事情も聞かずに承諾をしてくれたけど、高垣の方はそうはいかない。「何かするのか?」と、まず要件を訊いてきた。

もったいぶるように、私はわざと少しの間を作ってから、

「一緒にさ、東京までついてきてくれない?」

と、核心を告げた。

「なんでまた突然」高垣がまた、質問で返した。

「いいじゃん、別に」

「東京って言っても、どこに行くの?」保奈美は興味ありげに、身を乗り出すようにしながら訊いた。保奈美の訊きたいことは分かった。

「とりあえず新宿。でも時間はあるから、たぶん池袋も寄れるかな」

東京の地理はいまいちよく分からないけど、少し調べたら、新宿と池袋はどうやらすごく近いらしいし。

「なら行く!」

保奈美は高いテンションで言った。保奈美の池袋に対する憧れは分かっていたし、東京行きの話をしたらこうなることは予想できていた。あまりに読み通りで、思わず笑ってしまう。

「新宿で何かあるのか?」高垣が訊く。

「まあ、ちょっと……」なんとなく理由を話すのが恥ずかしくて濁したけど、わざわざ東京までついてきてもらうんだ。ちゃんと話さないわけにもいかない。

「えっと、私の好きなアイドルで、天月そらっていうんだけど……今度の土曜に、その人のトークショーが新宿であるって知ったから……」

「なるほど。それで一人だと心細いから、一緒に来て欲しいと」

「まあ、間違ってはないけどさ……」

話を簡単にまとめられて、恥ずかしくなるのと同時にちょっとムカついた。その言い方ではまるで、私が一人で行動できない弱虫みたいじゃないか。

「でも、別に一人で東京に行くのが怖いとかはないし、どうせ行くなら誰かと行った方が楽しいだろうから――」

「いいよ」

私の言い訳に被せるように、高垣は言った。「意外に思うかもしれないけど、俺だって東京に興味がないわけじゃないし」

隣では保奈美が微笑ましそうに笑っている。高垣に文句の一つでも言おうかと思ったけど、ふさわしい言葉が出てこない。

黙っていると保奈美が、「決定だね」と、私の代わりに取りまとめた。

「う、うん……」

自分から誘ったのだけれど、いまいち実感が湧かなかった。

保奈美と高垣、そして私。この三人で今週の土曜、東京に行く。なんだかありえなくて、笑えてくる。

「さとちゃん、池袋は絶対だからね」真剣な顔で保奈美が釘をさす。

「分かってる分かってる」

「あ、俺せっかくだしスカイツリー見たい」高垣も流れに乗って口を挟んだ。

「ちょっと、私の新宿の用事がメインなんだからね?」

「新宿とスカイツリーって近いのかな?」と保奈美。

「分かんないけど、電車に乗ればどこでも行けるだろ。ていうか、そのトークショーっていうのは、そんなに時間かかるのか?」

「え、分かんない。たぶん一時間とか二時間とじゃない?」

「あのなあ……」と、高垣の呆れ声。「土曜までにちゃんと調べとけよ」

幸いなことに、今日はまだ水曜だ。土曜のトークショーまでは、まだ少し時間がある。

高垣に向かって、うん、とうなずいて承諾した。

「みんなで東京に行くなんて、初めてかも。お店とか、ちゃんと調べておかないとね」

まるで、保奈美の目にはもう東京の景色が写っているかのように笑った。だから私も、その場所の景色を頭に浮かべてみた。

「だね。行きたいところ多すぎて、絶対に時間なくなりそう」

東京、東京。頭の中で繰り返しその言葉を反芻する。最後にそこに行ってから、いったい何年ぶりになるだろう。あんな両親だったから、ほとんど連れて行ってもらった記憶はなくて、たぶん小学校低学年の頃に一度だけ行ったきりだと思う。その時の記憶は、もはや断片的にしか残っていない。

まさに、念願が叶う想いだった。

東京に行くんだ。ずっと夢見てきた場所に、ようやく行ける。好きな洋服や高いコスメを我慢してようやく貯まったお金を使って、私は東京へ行く。

私の目には、もう目の前の景色は映らなかった。相変わらず真っ黒な不気味な穴も、一面を覆う草木の緑も、意識の隅へと追いやられる。私の脳裏に映るのは、林立する巨大なビルと、その間を歩く煌びやかな見た目の人たち。

あと少しで、それが幻でなくなるのだ。

すぐ隣で聞こえた「楽しみだね」の声に、私は深く、深くうなずいた。


その次の日の放課後。私は舞花と連絡を取り、いつもの山の中で落ち合う約束をつけていた。

いつもの開けた場所に出た瞬間、目当ての顔を見つけて私は声をあげた。

「舞花!」

「あ、遠藤さん」

舞花は今日も穴のそばで佇んでいた。秋と冬の空気が入り混じった風が、舞花の長い黒髪を揺らしている。近寄りながら、改めて思った。舞花のその現実離れした肌の白さと、儚げな表情が、同じく現実離れしたこの空間に合っていて、すごく絵になっている。私は、舞花の隣に立った。

「どうしたの、やけに嬉しそうだね」舞花はさっそく私の表情に気づいたようだった。一目で分かるほど、今の私の顔は緩み切ってしまっているのだろうか。

「ちょっと楽しみなことがあってね」できるだけ、興奮を抑えて言った。「実は今週の土曜に、東京に行くことになったんだ」

「え、すごい!」

引きこもりがちな舞花でも東京に興味はあるのだろう。目を輝かせながら、「普通に観光で行くの?」と訊いた。

「用事ついでに観光もって感じかな。私の好きなアイドルが東京でトークショーをやるんだけど、それに友達も連れて行って、終わったら一緒に観光する感じになると思う」

「いいなあ。私も、もうずっと東京なんて行ってないから」

「舞花も来る?」

きっと保奈美や高垣なら、舞花のことを受け入れられる。いつか引き合わせたいとは思っているけど、なかなか良い機会がなくて言い出せずにいた。もし保奈美たちと一緒に、舞花とも東京を回れたら、それはすごく楽しいことのはずだ。

だけど舞花は、私のその提案に表情を曇らせた。

「……悪いよ。お友達も来るんでしょ? 私なんかが行っても、邪魔になっちゃうだけだよ」

「そんなことないって。舞花なら絶対仲良くなれるよ」

「そう、かな……」

「そうだよ。絶対あの二人は、舞花のことを笑ったりしないから」

舞花は困ったような顔をして目をそらした。じっと穴の方を見つめて、何か考えるようなそぶりを見せている。私の誘いに揺れているようにも見えた。じっと、舞花の決断を待つ。

しばらくが経って、静かに首を横に振った。

「ありがとう。でも、やめておく。やっぱりまだ遠藤さん以外と会うのは不安だし、実際に東京に行くのは怖いから」

「そっか」

「ごめんなさい、せっかく誘ってくれたのに」

「ううん。急に誘っちゃったわけだし、大丈夫だよ。ただ舞花も一緒の方が楽しいかなって思っただけだから」

私がそう明るく返しても、舞花は「ごめんなさい」と、また謝った。

「でも、友達同士で東京に行くなんてすごいね。親とは一緒じゃないんだよね?」

「もちろん。あんな人たちと一緒に行くなんて、ありえないって。親に頼らないでも行けるように、ずっとずっと、一生懸命お金を貯めてきたんだから。私のお小遣い、絶対にみんなより少ないのに」

「遠藤さんは、本当に東京が好きなんだね」

思わず熱くなって語った私に、舞花は目を細めて微笑んだ。私を見つめるその細い目は、ショーウィンドウの向こうに置かれた、手の届かないマネキンを見つめる時のそれに似ていた。その目で見られるのに耐えられなくなって、思わず目をそらした。

「好きっていうか、憧れかな。けど、憧れだけじゃ終わらせない。東京は、私が行くべき場所なの」

――そう。ただの行きたい場所で終わらせてはいけない。東京こそが、私の行くべき場所で、いるべき場所。

「行くべき場所、か……」舞花は、小さくつぶやくように反覆した。

それは、独り言のような、ほんのささいな一言だった。けれど、そうつぶやく舞花の顔に、わずかに影が差した気がした。何となく不安になって、私は慌てて話題を変えた。

「ねえ。何かさ、東京で買ってきてほしいお土産とかある? あんまり名物とか詳しくないけど、たぶんいろいろあるだろうし」

「うーん、私もよく分からないけど、でもいいよ。遠藤さんからのお土産話がたくさん聞ければ」

「そんなの当然だよ。じゃあお土産はこっちで適当に探してみるね」

「うん。ありがとう」

その顔にはもういつもの穏やかな笑顔が戻っていたけど、なんとなく、まだ舞花の周りには暗い空気が漂っているような気がした。東京への誘いを断ったことを、気に病んでいるのだろうか。そうだとしたら、そんなに落ち込まなくてもいいのに。

私は舞花に、東京で寄る予定の場所の話をしながら、そんなことを考えた。

その違和感にも似たおかしな空気が、落ち込んだ気持ちによるものだけでないと知ったのは、次の日になってだった。


金曜日の朝は、いつもよりも通学路を歩く足も軽くなる。そして、特別な終末が待つその日は、なおさらだった。

いよいよこの日を乗り切れば東京行きだ。まさしく浮き足立って道を歩く。いつもはだらだらと歩く朝の通学路も、まるで普段と違う道を歩いているみたいだ。

正門をくぐって、学校の敷地へと入る。そこから少し歩いた先の玄関の手前、私は目を見張った。物陰に隠れるように立ち尽くす、彼女の姿が見えたから。

なんで舞花がここに? ここまで一人で来たの? 頭には次々と疑問が浮かぶ。が、その疑問の答えは、どれだけ考えたところで分かるはずもない。

舞花がたったの一人で学校にいること自体が、あり得なかった。

私が初めて舞花と会った時、彼女は部屋から無理やり追い出されて、一人公園でうずくまって泣いていた。あの時保健室まで行けたのは、私がそこまでついて歩いたからだ。

胸の奥で、何かがざわざわと揺れていた。

私は、慌てて駆け寄った。

「舞花」呼びかけると、彼女の肩がビクッと震えた。振り向いた彼女の目は、赤に染まって潤んでいた。私の顔を認めると、安堵した顔になる。

「遠藤さん……」

すぐ横を登校中の生徒が通り過ぎていく。舞花の表情を不思議がる視線があった。

「ちょっと場所を移そうか」

「……うん」と、舞花はうなずいたのかうつむいたのかよく分からない動きをした。どこなら人目につかないかと思案して、結局保健室へ行くことにした。保健の先生なら舞花の事情も知っているだろうし、何より他に適当なところが思いつかなかった。

人目を気にしながらこそこそと歩き、滑り込むように保健室に入る。出迎えた保健の先生に事情を説明すると、部屋の奥にあるカーテンで区切られたベッドのところへ案内をしてくれた。舞花はそのベッドの端に、私はその近くの丸椅子に腰をかけた。

「……ごめんなさい、迷惑かけて」

「ううん、迷惑なんて。でもどうしたの? やっぱり、また部屋から追い出されたの?」

そうであってほしいと、心のどこかで思いながら訊いていた。

舞花は小さく首を横に振った。

「ううん、今回は違うの。自分で、出てきた」

「そうなの? すごいじゃん」

「すごくなんてないよ。私、また動けなくなってた。本当は教室に行きたかったのに、玄関の手前あたりで怖くなって、歩けなくなってた。私、怖くなると動けなくなるの。全然、変わってない」

「でも、ここまで来れたじゃん」

追い出されたわけではなく、自分の意思でここまで来たのだ。きっと、それはすごい変化のはずだ。けれど、舞花はまた首を横に降る。

「ダメなの、こんなのじゃあ。私は、遠藤さんみたいになりたいのに」

「どういうこと?」

「遠藤さんは、いつも前向きで、自分の決めた道にどんどん突き進んで行けるから……私も、そんな風になりたかった」

「やめてよ、私なんてそんな」

「遠藤さんが東京に行くの誘ってくれたの、嬉しかった。遠藤さんのお友達にも、会ってみたかった。でも、私は一歩が踏み出せなかったの。それが悔しかったから、頑張って変わろうと思って、今日は学校の入り口まで来たのに……やっぱりダメだった」

「そんな無理に変わろうとしなくたって……」

「ううん。無理にでも変わらなきゃなの。遠藤さんみたいに、まっすぐ自分の道に進んで行けるようになりたいから」

「私だって別に――」言いかけて、私は言葉を止めた。口にした途中で、気づいた。

私だって別に、舞花が思うほど強い人間じゃない。私が自分の決めた道に突き進んで行けるのは、そこにしか行き場がないからだ。この町に居場所なんてなくて、早くどこかへ逃げて行きたいからだ。

――そう、たったそれだけの理由なんだ。

だから、舞花だって別にそれでいいじゃないか。こんなくだらない世界を相手に無理に立ち向かわないで、舞花は舞花の居場所を探せばいいんだ。

「うん、やっぱり舞花はダメなんかじゃないよ」

「でも――」

「違うんだよ。合ってないだけなんだよ。この町が、今の居場所が、舞花には合ってないだけ。だから、今が上手くいかないのは当たり前なんだよ」

舞花は目を丸くした。きっと、これが目から鱗という顔に違いない。

だって、舞花がこの町に合うわけがないんだ。だから私は、初めて舞花を見かけたときに声をかけたんだ。この子は絶対、この町のつまらないやつらとは違う、と。

私が、私の居場所を求めて東京に行きたいと願うように、舞花も、舞花の居場所を探せばいいんだ。

「……そういうものなのかな」半信半疑で舞花が訊いた。

「きっとそうだよ。ううん、絶対にそうだって。舞花は、舞花に合った場所を探せばいいんだよ」

舞花が落ち込んでいると、私は悲しい。だから、元気になって欲しくて励まそうとした。

「私に合った場所、どこかにあるのかな」

「絶対」

「そこに行けたから、私も変われるかな……」

それは、つぶやきに近かった。小さな声で、自分に言い聞かせているみたいに聞こえた。そう口にする舞花の顔があまりにも真剣で、力強くて、私は次の言葉を失っていた。

これ以上の言葉が必要ないことも、分かってしまった。

それは、望んだ反応のはずだった。舞花のそんな顔が見たくて、励ましの言葉をかけたはずだった。

なのになぜだろう。舞花のその真剣で力強い表情を見ていたら、どうしてか急に不安になった。

舞花の中で、何かが変わろうとしている。

落ち着かない気分になって視線をさ迷わせていると、保健室の壁に掛けられた時計が目に入った。朝の会の始まりまで、残り五分を切っていた。私は椅子から立ち上がった。

「ごめん、そろそろ教室行くね」

「こっちこそ、ギリギリまでごめんなさい。でも、遠藤さんと話せてよかった」

「私も、舞花が元気になったならよかった」

そう口にしたら、少し胸が痛んだ。

「それじゃあね」と、お互いに手を振って別れる。保健の先生に軽く会釈だけして、私は保健室を出た。

廊下に出た私の足は、そこで一度止まってしまった。遅刻の瀬戸際を急ぐように廊下を走る男子を眺めながら、保健室のドアの前で立ち尽くす。

『そこに行けたら、私も変われるかな』そう語っていた舞花の顔が頭に浮かんだ。

その顔は力強く、覚悟を決める表情にも似ていた。

舞花のその表情に、私の心はざわついていた。


その日の放課後、私は保奈美と二人で帰っていた。

退屈な学校がようやく終わって、もう意識は完全に明日を向いていた。明日という時の待ち遠しさに、どうにも落ち着かなくなる。帰り道を歩きながら保奈美と話をしていても、まるで上の空だった。

なんでもないふりをするのもいよいよ辛くなって、学校の正門を越えてしばらくした頃、私は満を持して切り出した。

「いよいよだね」

「うん、本当にね。楽しみすぎて、今日の授業、全然頭に入らなかったよ」

「私も。一時間目からずっと右から左だった。ま、私の場合はいつもかもしれないけど」

「あはは」と、保奈美は小さく笑ってから、「でも、さとちゃんと東京に行けるなんて、本当に夢みたい」

そう語る保奈美の視線は、もう明日の方を向いていた

「ねえ、明日着ていく服どうする?」保奈美が訊いた。

東京へ着ていくのは、もちろんアルマージュだ。だけど、その中でもどれをどう合わせるかが問題だ。近くの大きな駅まで遊びにいくのとは、訳が違う。

「この後じっくり考えるつもり。せっかくだから、小物にまでこだわりたいし」

「いいねいいね。じゃあ、さとちゃんが何を着てくるのかも明日の楽しみにしようかな」

保奈美はそう言って笑うと、ぶるっと身体を震わせた。自分自身を抱くように、両腕を交差させる。

「今日は寒いね」

「そう?」

「明日は厚着しなきゃかな……東京って、ここよりもあったかいのかな?」

「どうだろ、さすがにうちより寒いことはなさそうだけど」

「あはは。だよね」

話をしていたら、保奈美の家の前の通りへ続く分かれ道が来た。やっぱり、保奈美の家は学校から近い。まだ話をしていたかったけれど、明日の準備だってしなくちゃいけない。名残惜しかったけど、「それじゃあね」と、お互いに手を振った。

角を曲がって、保奈美の姿は消えていく。

――そう、明日だ。

東京は、もうすぐそこまで迫っている。持っていく荷物だってまとめなくちゃいけないし、着ていく服だって今日のうちに決めなくちゃいけない。歩き出す足は、自然と早足になっていた。


家に帰って夕食もお風呂も済ませた後、さっそく私は明日の支度に取り掛かった。忘れ物のないように、一つ一つ確認しながらカバンに荷物を詰めていく。荷物の準備を終えたら、次は明日のコーデを考える。クローゼットを漁り、あれでもない、これでもないと組み合わせを試す。結局、コーデが決まったのは、考え始めてから一時間近くが経ってのことだった。

すべての準備を終えると、ベッドに身体を放り投げる。だらだらとしながら身体を休めていたら、枕元に置いた東京の受験案内が目に入った。枕ものにあるのは、眠る前に眺めて空想に浸るためだ。私はなんとなくそれを手に取った。

パラパラとめくっていると、癖になったそのページが開かれる。堀岡高校、オレンジの蛍光ペンで囲んだ欄。私が目指す、私の憧れ。それをしばらく眺めてから、私はまたページをめくる。今度は一ページずつゆっくりとめくっていき、やがてそのページに当たった。

成豊高校。それは、前に高垣がこの部屋に来た時に、ここなんてどうだ? と、見せてきた高校だ。私の偏差値より上で、そして、特待生制度が何段にも分かれてあるらしい。私は少しの間そのページを見つめ続けた。

私の頭には、今朝の舞花の顔が浮かんでいた。

覚悟を決めたような、遠くへ行こうとするような、あの表情。

あの表情を、私も――。

「まさかね」つぶやいて、私は冊子を閉じた。普段の舞花の表情とあまりにも離れていたから、少し変な気分になってしまっただけだ。別に気にするようなことなんて、何もない。

閉じた冊子を床に放り投げる。分厚いそれは、重たい音を立てて地面に落ちた。ベッドの上で寝返りを打つ。

明日になれば東京に行けるんだ。そんな些細なことはいいじゃないか。

そうだ、あと半日も経てば、私は東京にいるんだ。それを思った瞬間、胸が踊るようにドクンと跳ねたのを感じだ。

その時だった。携帯がピロンと鳴った。

枕元に置いたそれを手に取ってみると、保奈美からのメールだった。開いて全文を見る。東京行きを誘ってくれたお礼と、明日が楽しみであることが書かれていた。

保奈美からのメールは、一通の文面が長い。私はそれに何通かに分けて返信をして、それに対する返事がまた長文で来る。少しずれたこのメッセージのやり取りだけど、案外私はこれが嫌いじゃなかった。グループでメッセージをやり取りする時特有の、言葉とタイミングを選ぶ緊張感は、そこにはない。

東京に行ったら、どんなお店に行こう。どんなご飯を食べよう。お互いに、気になったお店や行ってみたい場所を出し合って盛り上がる。お店や場所も、行ってみたいところがありすぎてキリがない。絶対に一日じゃ回りきれないな、と思いつつも、候補を出し合うこの時間も楽しかった。

ベッドの上で寝そべったまま、ただ時間が過ぎていく。ふと時計を見ると、もう二十三時近い。明日も朝早いし、だんだん寝ようかと考えていた時、また保奈美からメールが届いた。文面を見て、違和感を覚えた。

『今日、弟の描いた絵が、県の優秀賞を取ったらしいよ。すごいよね。』

別に、私たちはお互いのきょうだいの話なんてしていなかった。脈絡がないように思えて、返事に窮する。県の優秀賞がそれほどすごいものなのかは知らないけど、今ここで私に伝える内容だったのだろうか。別に意味のない世間話くらいするけど、やけに違和感を覚えるメールだった。

ふさわしい言葉が見つからなくて、返信の言葉を打っては消してを繰り返していると、ぽっ、と新しく届いた保奈美からのメールが表示された。『明日早いし、そろそろ寝よっか。せっかくなのに寝坊したら最悪だもんね。』戸惑いつつも、助かったような気持ちを覚え、『そうだね。また明日だね。おやすみ』と返した。

そう、明日。明日だ。

この夜が明ければ、東京に行く日が今日になる。それを思うと、胸の辺りがそわそわして、目が冴えてくる。でも、寝なくては。

保奈美から『おやすみ』の返事が返ってきたのを画面上の通知で確認して、私は部屋の電気を消した。眠れる気はまったくしない。でも、寝るための努力をやめてしまったらダメだ。携帯のアラームがしっかりと設定されていることを確認して、私は目を閉じた。

身体はこのベッドの上に残して、意識だけが明日の東京の街並みへ飛んで行ったみたいな気分だった。


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