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奔流を泳ぐ  作者: 琴羽
7/16

最近、私の見ている穴は小さかった。

大口を開けて、全てを呑み込もうとする怪物みたいな穴は、すっかり影を潜めている。それがいいことなのかは分からないけれど、ここ最近の私の毎日は、それなりに安定していた。

玲美との距離感はだいぶ掴めてきて、いい意味でお互いに無視できるようになっていた。進路のことも、この前の進路希望調査書の提出でひと段落して、次は年度末に控える全国模試の準備をするだけになっている。私の目指す堀岡高校はそんなにレベルの高い高校ではないし(というか、むしろ低い)、今の学力を維持していれば、A判定は堅いだろうと思っている。

だけど、日頃のイライラはどうしようもない。母は相変わらずうっとうしいし、大西は顔を合わせるたびに、私の髪型や服装に文句を言ってくる。時々本当にキレそうになる時もあるけど、どうにか耐え抜いている毎日だった。

放課後、山の入り口の前に行けば、保奈美や高垣、それか舞花がいる。そこに行けば、私の心も少しはマシになる。この日もまた、私はそこで苛立ちを消化させようとしていた。

穴の前で、先に来ていた保奈美と高垣に声をかけた。

「おまたせ」

保奈美が「あ、さとちゃん」と出迎えると、高垣は「よう、珍しく遅かったな」と返した。

「ちょっと大西に捕まってた」

「本当、遠藤はよく捕まるな」

「笑いごとじゃないから!」

「さとちゃん、目つけられてるもんねー」

私のそんな悩みにも、保奈美はちゃんと受け止めてくれる。

「いいじゃん。別にヘアゴムがピンクだったからって。どうせ後は帰るだけなのに」

「これから帰るところだからダメなんだろ。身だしなみがなってないのを、近所の人に見られるのが、教師的には良くないんだろうから」

「高垣ってさ、ホントつまんないよね」

こんな調子で、私と高垣はいつもケンカをする。いつも隣にいる保奈美には申し訳ないと思うけど、高垣が相手だと制御ができなかった。いつだって高垣は、つまらない返ししかしてこない。

「でもさ、真面目な話、さとちゃんは内申点大丈夫なの? 東京の学校だって、最低限はないとダメなんじゃない?」

保奈美の言葉に、耳が痛くなる。

「東京?」高垣が訊いた。

そういえば、高垣にはまだ私の願いを話していなかった。本当の高垣を知る前だったら、絶対にそれを打ち明けることはなかっただろう。だけど今なら、少し恥ずかしいけど、話してもいいと思えた。

「私、東京の高校に行くの」

「一人暮らしをするってことか?」

高垣のことだから、驚くか反対するかと思ったのに、意外にも冷静でつまらない。

「ううん。学生寮があるところに行く」

「親はなんて?」

「一回言ったら、思いっきり反対された……けど、絶対に行く」

高垣は、今度こそ驚いて絶句しているようだった。少しの間があってから、「やっぱ遠藤はすげえな」と言った。

「バカにしてる?」

「いや、マジマジ。本気ですげえって思ってる」

「ま、なんでもいいけどさ」

別に、こんなやつにどう思われようとどうでもいい。今、問題はそこじゃない。

「で、その高校に行くのに内申点が不安だと」高垣が話題を戻した。

「別にそんな極端に悪いわけじゃないし……」

「前期の評定平均はどんなだった?」

「なんでそんなこと言わなきゃいけないわけ」と、私が拒絶した瞬間、

「確か、二と三の間くらいだったと思うよ」

保奈美が、隣から口を挟んだ。

「ちょ、保奈美。なんでバラすの!」

この裏切りもの! と心で叫ぶ。そういえば、意外にも保奈美は手厳しいんだった。今更だけど、通知表の見せ合いなんてするんじゃなかった。

「公立にしろ私立にしろ、試験の結果だけじゃなくて内申も重要視してるところ多いみたいだし、もう少し気にした方がいいと思うぞ」

正論なのは分かっているけど、高垣に言われると無性にイラっとくる。

「別に、なんとなるし。最近は授業中寝ないように頑張ってるし」

「んなの当たり前だ。今度の数学の小テスト、大丈夫なのか? たぶん、ああいうのも思いっきり内申響くぞ」

何か不穏な言葉が聞こえてきた。そっぽを向けていた顔を、ぐるん、と高垣の方へ向けた。

「なにそれ、いつあるの⁉︎」

「来週。決まってないらしいけど、月曜か火曜辺りじゃないかな」

全く知らなかった。まさに寝耳に水だ。

「ちなみに、範囲は?」

「二学期の範囲全部」とんでもないことを、なんでもないことのように高垣は言った。

驚いて、何も言えなかった。別に高垣がテストを決めているわけではないと分かっているけど、彼を憎らしく思わずにはいられなかった。「ていうか話聞いとけよ」という、高垣の耳に痛いツッコミは無視をする。

「さとちゃん、確か数学苦手だったよね。大丈夫?」

大丈夫なわけがない。数学の公式なんて、習った瞬間から右から左だ。数学だけは、五段階の評定で一度も三以上を取ったことがない。

「だいじょばないけど……やばいかな?」

「そりゃあ、メインは期末テストだろうけど、逆に言えば、今からできてないとヤバイかもな」

今までは、普通の小テストも期末テストのような大きなテストも、どんなにひどい点数でも割り切っていた。が、内申点のため、そして、目指す高校に行くため、そうも言っていられなかった。

「二人とも、お願いがあるんだけどさ……」二人の顔を交互に見る。「私に、数学教えてくれない?」

保奈美と高垣は、驚いてから顔を見合わせた。次に、苦笑をしながら声を合わせて、

「もちろん」

と、頼もしい声だった。


それを頼んだ翌日、保奈美と高垣の二人が、さっそく私の家を訪れた。

どこかで待ち合わせたのか、二人は同時にやって来た。チャイムが鳴って、私が二人を出迎えると、リビングから母もやってきた。わざわざ私の友人を出迎えようとする母に、私は顔をしかめた。

礼儀正しく「お邪魔します」と、入ってくる二人に、母は「いつもありがとうね」なんて取り繕った声で言った。

私は、母のその声が嫌いだった。よそ行きみたいな笑顔を浮かべて、その裏で何を思っているか分からない。いつも通りアルマージュで固めた保奈美の私服を見て嫌悪しているかもしれないし、高垣を見てくだらない想像を働かせているかもしれない。そんなことを考えると余計にむしゃくしゃして、さっさと二人を二階にある私の部屋まで連れていった。

「ちょっと、散らかってるけど」

部屋に入った二人は、借りてきた猫みたいになって、部屋の入り口で突っ立っている。高垣が、感心したように部屋を眺めていた。

「ちょっと。あんまりジロジロ見ないでよね」

「ああ、悪い。女子の部屋なんて初めてだったから、つい」

「そうなの? 意外。高垣くんって女子に人気あるから、てっきり」保奈美が言った。

「そんなことないよ」と、高垣。

この生真面目ヤロウのことだ。どうせ勉強とか店の手伝いとかで、誰かと遊ぶということをほとんどしてこなかったんだろう。立ったまま話す二人にクッションへ座るよう促すと、二人はそこへおずおずと腰を下ろした。私は部屋の隅に立てかけた折りたたみの机を持ち出し、それを二人の前に広げた。

なんというか、本当に違和感だ。私の部屋に、あの高垣稔がいる。保奈美を部屋に招くのは意外にも初めてだったけど、いつも二人で遊んでいるから、それほど違和感はない。けど、この部屋にいる高垣は、明らかに異質でしかない。完全に、異物が一つ紛れ込んでしまっている。

できることなら、勉強を教えてもらうのは保奈美一人がよかった。けど、保奈美はそれほど数学ができるわけではないし、高垣の数学の成績は学年でもトップクラスだ。頼らない手はなかった。

内申点のため、小テストのため、あくまで利用してるだけなのだ。そんな風に割り切って考えないと、いろいろと許せなくなってしまいそうだった。

不意に、私の部屋を眺めた高垣が言った。

「なんて言うか、遠藤の部屋って感じだな」

「なにそれ」

「でも、分かるかも。すごくしっくりくる感じ」

私にはよく分からなかったけど、保奈美は共感したみたいだった。

「別に、普通の女子の部屋だと思うけど」

「あんまり普通っていうのはよく分かんなけど、なんかしっくりくるんだよな」

「うんうん。なんとなくだけど、さとちゃんっぽいんだよね」

私の部屋の家具は、好きな色の薄ピンクを基調にしている。棚の上には保奈美と一緒に買ったキャラもののぬいぐるみもあって、その辺りのものを見て私らしい部屋だと言ったのだろうか。なんだか、自分の内面を見透かされているみたいで、途端に気恥ずかしくなった。無理やり話を切り替える。

「いいから、早くやろ。時間もったいないし」

数学の教科書と、参考書、問題集なんかをありったけ机の上に置く。二学期の範囲を今日一日でやりきるのは、実際のところ、たぶん厳しい。だから、急いで始めないといけないのも事実だった。

「そうだな。遠藤に教えるのは骨が折れそうだし、さっさと始めようか」

小馬鹿にする言い方がムカついて高垣を睨んでみたが、素知らぬふりをしている。本当に、いちいち癪に触る。すぐ隣では、保奈美が困ったように笑っていた。

「さて」と、高垣が教科書を開く。

いよいよ、授業が始まるようだった。

実際に教えを受けるまで、勉強を教える高垣に食ってかかってしまわないか心配だった。偉そうに指摘されたりしたら、私は絶対に冷静でいられない。

けど、そんなのは杞憂だった。

高垣はまず、しっかりとテストの範囲を確認してから、次にその中で私の苦手な箇所を見つけていった。そして、分からない箇所は一から丁寧に解説をした。

端的に言うと、高垣の教え方は本当にうまかった。教える流れも、理解の確認の仕方も、完璧だったと思う。まるで本物の家庭教師みたいだ。最初は自分の勉強をしていた保奈美も、途中からは一緒になって教わっていた。

言われた問題集を解いていた私は、途中で訊きたいところを見つけて、高垣の方を向いた。高垣は部屋の隅に座って、何かを読んでいるようだった。よく見ると、その手にあったのは、東京の受験案内の冊子だった。

そういえば、今朝に眺めてその辺に置いたままだった。

「ちょっと、何勝手に読んでんの」

「悪い。ちょっとそこにあったから、つい。やっぱ東京って高校多いんだな」

高垣はそれを手放すことなく、ページ数を確認するように、パラッー、と冊子の最初から最後まで一気にめくる。

「当たり前でしょ。こんなど田舎とは、全然違うんだから」

「ふーん」と言いつつ、またページをめくる。口調とは裏腹に、真剣な顔でそれを見ているものだから、奪い返すタイミングを逃した。

「なあ」冊子の一角、一つの高校の名前を指差して見せながら、高垣は言った。「ここなんてどうよ」

指の差す先には『成豊高校』と、あった。初めて目にする名前だった。

「どうって?」

「いや、目標校としていいんじゃないかなって。偏差値もそこそこだけど、入試時の点数によっては段階的に学費免除とかもしてくれるっぽいし」唐突の提案に驚いていると「あと、ちゃんと寮もある」と加えた。

お節介にもほどがある。私の進路は、誰かに決められるものじゃない。なんだってこの人たちは、平気で他人の人生に踏み込んでくるんだ。

「勝手に決めないでよ。私の行く先は、あんたなんかに決められないし、行きたい高校ならもう決まってるから」

そう言って睨みつけると、高垣はうなだれるように目を伏せた。

「そうだよな。ごめん。遠藤はそれでこそだもんな」

拍子抜けだった。とりあえず謝ったというより、己の失言を恥じているように見えた。気落ちした様子で冊子を脇に置く高垣の姿に、何も言えなくなる。

その時、部屋をノックする音が聞こえた。

「お菓子持ってきたよ」母だった。

部屋のドアを開けると、隙間から母の姿がのぞいた。相変わらずその顔には、いい母親を気取った笑顔が張り付いている。「家にあったやつだから、大したものじゃないけど」と、お菓子とお茶が入ったグラスの乗ったお盆を差し出す。部屋の中では、保奈美と高垣が礼儀よく頭下げて感謝を告げた。

こんな時だけいい母親ヅラをしやがって。母の手からお盆をひったくって、すぐに部屋のドアを閉めた。

「こんなにしてもらって、なんか申し訳ないな」

「いいよ。どうせ、いい母親を演じたいからって、あの人が勝手にやってることだし」

「そんな風に言っちゃダメだよ。いいお母さんだと思うよ」

保奈美はそう言って、お菓子の乗ったお盆に目を落とした。

普段を知らないから言えるんだよ、と言いかけて黙った。お菓子を見つめるその目が、やけに寂しそうだった。

「私のママは、私が友達を連れてきても、顔も見せようとしないし」

その言葉に、ハッとした。確かに、もう何度も保奈美の家には行っているけど、一度も母親の顔を見たことがなかった。家にいないのではなく、奥のリビングからは気配がするのに、必ず顔を見せない。

保奈美の部屋で遊んでいる時、よく声が聞こえていた。それは、保奈美の弟と、母親と思われる女性が楽しそうに話している声だった。それに気づいて、私は何も言えなくなった。

察したのか、保奈美が無理したような明るい声を出した。

「さあ。食べたらまた頑張ろっか。実は、私も高垣くんに教えてしいところがあってね」

保奈美はテキストを取り出して高垣に見せる。保奈美の目には、もうさっきまでの寂しそうな色はない。

私は出されたクッキーを一枚つまんで、その様子を眺めていた。

結局、その勉強会は夕食の時間の直前まで続いた。勉強することに慣れていないせいで、最後の方は集中力の限界だったけど、充実感はあった。

小テストは来週だ。

昨日までのテストへの不安は、もうなくなっていた。


週が明けて最初、一時間目の授業が終わった時のことだ。やけに教室がざわついていた。なんだろうと思って、そのざわめきに耳を傾けていると、その理由はすぐに分かった。「この後の数学、小テストだって!」一人の男子の声が聞こえて、私は、慌てて教室を出た。

外に出ると、ちょうど保奈美と廊下で鉢合わせた。

「ねえ、小テストの噂って……」食いつくように保奈美に訊いた。

「うん。さっき、うちのクラスであったよ。そっちも今から数学だよね?」

「……うん」

同じ教師による数学の授業が、保奈美のクラスと私のクラスとで、一時間目、二時間目と続く。基本的には同じ授業が行われるから、小テストも続くはずだった。教室がざわついた瞬間から覚悟はしていたけど、いざ実際に告げられると気が重くなる。

「……どうだった?」恐る恐る、私は訊いた。

「まあまあ、かな。あんまりひねった問題はなかったし、今のさとちゃんなら、解けない問題は多くないと思うよ」

「……うん、ありがと」

実際、今ここでテストの内容を聞いたところで、対策を取る時間もないし、どうしようもない。あとはもう、気持ちの問題だ。

その時、すぐ隣でドアが開く音がした。振り向くと、教室から出てきたのは高垣だった。

「今からみたいだな」高垣が言った。

「……うん」

「頑張れよ」

高垣は、それだけ言って廊下の奥の方へ消えていった。

キザなやつ、と思ったけど、あれだけ付きっきりで勉強を教えてもらったんだ。下手な点を取るわけにもいかない。

高垣のいなくなった廊下に「頑張るよ」と、つぶやいた。

数学の授業は大方の予想通り、小テストから始まった。教師がそれを告げると教室には悲鳴が広がったが、いざ問題を配られれば泣き言を言ってもいられない。「始め!」の合図と同時、教室中に問題用紙をめくる音が響いた。

テストが始まると、とにかく私は無心で手を動かした。途中、難しい問題にぶつかって焦る時もあったけど、高垣に言われた通り、後回しにして解ける問題から解いていく。今までは開始五分で匙を投げていたのが嘘みたいに、私のシャープペンはスラスラと紙の上を走り続けた。

解きながら、今まで感じたことない手応えを感じていた。解ける問題は全て解き、後回しにした難問だけが残るが、時間制限ギリギリまで解くことをやめない。制限時間ギリギリいっぱい、どうにか最後の一問の解答欄にも答えが埋まった。

小テストの時はいつも、隣の席の人と解答を交換して、その授業時間内で採点を行うことになっている。この日のテストも例外ではなく、私は右隣の席の男子と解答を交換して採点をし合うことになった。

採点を進めながらも、右隣の席をちらと見る。意外そうな顔でこっちを見る男子と目が合った。隣の机にある解答用紙には、赤字の丸が上から下までびっしりと埋まっているのが見えた。普段はバツばっかりなのに、何があったのかと驚いているのだろう。思わず、得意げな顔になった。

授業が終わると、テストの緊張から解放されたクラスメートたちが続々と席を立ちあがり、テストの結果なんかを騒々しく語り合っている。私はそれをうるさく聞きながら、緊張をほぐすように、席に座ったまま大きく伸びをした。

その時、私のすぐ隣を高垣が通りかかるのが見えた。気づけば、「あっ」と呼び止めていた。高垣がこっちを向いた。

変な噂になりたくなくて、クラスメートの前では、なるべく高垣とは話をしたくなかった。勢いで呼び止めたけど、次の言葉に躊躇する。高垣は立ち止まり、怪訝な顔でこっちを見ている。その顔を見ていたら細かいことを気にするのも面倒になって、小さな声で、

「ありがと」

と、つぶやいた。

高垣は軽く微笑みながら低い位置で手を振って、そのまま教室を後にした。


その日の帰りの挨拶が終わった直後だった。

このまま一人で帰るか、保奈美に声をかけようか迷いながら荷物を整理している時、一つの人影が私の机の隣に立った。顔を上げて見ると、そこにある意外な顔に驚く。

玲美が、私を見下ろしていた。

「ねえ、今日一緒に帰らない?」

いったい何のつもりだろう。すぐ隣で立っている玲美の表情は、私たちが決別をする以前のものと変わらない。その表情の裏で何を企んでいるのか、まるで腹の内が読めなかった。

教室には、まだクラスメートが多く残っている。彼らの前で険悪な空気を作るわけにもいかなくて、露骨に嫌な顔はできなかった。

「うん、いいよ」席を立って、カバンを背負う。私も、前までと変わらぬ笑顔で返した。

校舎内を二人で並んで歩く間、どうにも肩に力が入ってしまった。玲美はいつも通りを装って、くだらない世間話をしているが、私はそれにぎこちなくあいづちを打つだけだ。英語の時間の宿題が面倒くさいとか、太った中年男教師の徳田が今日も気持ち悪かったとか、そんな本当にくだらない話だ。

中学校の敷地を抜け、そこからまたしばらく歩く。五分ほど歩くと、周りからは同じ制服を着た生徒がいなくなった。それを合図にするように、玲美は世間話をピタリと止め、私の顔を見た。いやに真面目な表情だった。

「里子、最近何かあった?」今までの世間話の時より、音高を下げた声だった。

「別に何もないけど」

突然の質問を訝しく思いつつも素直に答えると、玲美はますます不機嫌そうな顔をした。玲美を怒らせるようなことをした記憶はなくて、ますます混乱する。最近では、玲美とは適切な距離感を保てているつもりだったから、それらしい出来事はまるで思いつかない。

私の態度にしびれを切らしたのか、玲美は一度ため息をついてから、はっきりと告げた。

「里子さあ、なんか最近やけに高垣くんと仲よさそうじゃない?」

あまりにも想定外の言葉に拍子抜けした。そんなことか、と言いかけてやめた。きっと、玲美にとっては重大事項なのだろう。こんなど田舎では恋愛くらいしか娯楽もないし、玲美がそれに対して真剣になるのも、仕方ないことなのかもしれないけど。

「別に、普通だよ。何にもないって」そう返しても、玲美から向けられる疑いの表情は晴れない。

「じゃあ、今日のあれは何? 数学の授業の後、なんか二人でこそこそ話してなかった?」

数学の小テストが終わった後、高垣のことを呼び止めて、感謝を伝えた時のことを言っているのだろう。そういうところは、本当に目ざとい。

別にほとんど話はしてなかってけど、それを言っても玲美は絶対に納得をしない。

「気のせいじゃない? 私、高垣と喋ることなんかないし」

「本当に?」言葉の真偽を確かめるように、私の顔をじっと見た。

「本当だって。あんなやつ、できることなら話もしたくない」

伝わるように、私もじっと見つめ返す。

やがて、興味を失ったように玲美は目をそらした。

「まあいいけどさ。どうせ、高垣くんと里子じゃ住む世界が違うし」

なんだよ、それ。その言い方にイラっときた。言葉の端から、下に見られているのがありありと伝わってきて、思わず頭に血がのぼる。

少し前だったら、確かにその通りだと引き下がっただろう。あんなやつのことは理解できないし、理解したいとも思わない。住む世界が違うのも当然だ、と。

けど、今は違う。あいつのことは相変わらず嫌いだけど、まったく理解できないわけじゃない。あいつは、違う世界の人間なんかじゃない。

「どうだろ」別の世界にいるのは、案外玲美だったりするかもよ? そんな言葉を、胸の中で吐き捨てた。実際に口にしてしまったら、きっと玲美は今度こそ激昂しただろう。だから私は、それを飲んだ。

「別に里子がどう生きようといいけどさ、誰かの足を引っ張ることだけはやめてよね」

玲美が、冷ややかに言い放つ。何を言っているんだろう、と思った。

足を引っ張っているのはそっちじゃないか。常識だかなんだか知らないけど、そんなくだらないしがらみで、私たちを縛り付けようとする。

だけど今の私は、もうそんな風に食ってかかることはしない。意味がないことは、もう分かっていた。そっち側にいる人間と話したって、分かり合えるはずがないんだ。

だから最後に、確認をしようとした。

「ねえ。玲美はさ、山の中に大きな穴があるのを見たことはある?」

「は? 何それ」

「いいから。山に入ったことはあるでしょ? その時に見たことない?」

「……あるわけないじゃん。なんかの比喩?」

「いや、見たことないならいい。忘れて」

ついに気が狂ったか? とでも言いたげな目を、私に向けた。つまらなさそうな、理解できないものを拒絶するような、そんな目だった。

今度は、玲美の方から訊いてきた。

「里子さ、まだあの東京のよくわかんない高校目指してるの?」

「だったら?」

「いい加減やめなよ。私、やっぱり里子のこと、そうバッサリ切り捨てられない。東京の高校は諦めて、今からでもちゃんと、里子に合ったところを探そうよ」

玲美は、悲しみのこもったような目で私を見た。ご丁寧に眉毛なんて垂らして、だれが見ても、悲しんでいることが伝わる表情をしている。だけどそれは、少なくとも対等な友人へ向けるそれではない。だってそれは、哀れみとか、同情とか、そういった類のものだ。

――余計なお世話だ。

今更になって、友達思いな自分を演出しないでほしい。私のことなんて、ずっと見下してきたくせに。

「私、やめるつもりなんてないから。絶対に、諦めたりしないから」

「……そうだね。里子はそうだったね。誰かに言われたくらいで、簡単に諦めるわけないよね」

気づけば、もう玲美の家の前まで来ていた。お互いに、足を止めた。

玄関の前で、少しの間見つめ合う。

やがて、玲美は目をそらしつつ「まあ、頑張ってよ」と、思ってもいなさそうなことを口にした。

きっと、さっきの問いが最後通告だったのだろう。玲美のその言葉は、とてもそっけなく響いた。だから私もそれに応えるように、

「せいぜい頑張るよ」

と、皮肉っぽく返した。

「もう一回言っておくけど、高垣くんをたぶらかす真似したら許さないから」

最後にそう釘を刺して、玲美は自分の家の中に消えていった。

私たちの関係が壊れる前までは、ドアが閉まる寸前まで手を振り合ったりしたけど、今そのドアは、何のためらいもなく閉められた。ガシャンと音を立てて閉まり、その後に鍵の音。そのドアに向かって、溜息を吐いた。

あまりのバカらしさに、嫌気がさした。やっぱり玲美は何もわかっていない。私のことも、高垣のことも。

本当の私たちを理解できないからこそ、私と高垣の関係を、恋愛という自分にも理解できる尺度に当てはめて想像するしかないのだろう。理解しようともしないくせに、つまらない想像で干渉してくるのが赦せなかった。

今までも気を付けてはいたけれど、これからはますます高垣と話すのに気をつけなければいけなさそうだ。

ああ、本当に面倒くさい。こういう女同士の面倒ごとは、田舎に限った話じゃないかもしれないけど、今の私を蝕む苛立ちの元凶であることには変わらない。

こんな時高垣だったら、山の中の木を蹴り飛ばしているのかな、と思った。太い木の幹へ、思い切り蹴りを入れる私を想像してみる。

足を上げて、そして、ありったけの力で木の幹を蹴る。

きっとそれは、すごく爽快に違いない。


「ごちそうさま!」

和明は、いつもよりもずっと早く、夕食の終わりを告げた。自分の分の食器をそそくさと流しに置くと、大慌てで隣のリビングまで行った。少しして、賑やかなテレビの音が聞こえてきた。どうやら、急いで食べたのはそれが目的のようだった。

私の向かいには、のんびりと食事を続ける母と父。この空間に一人残されるのは、たまらなく居心地が悪い。

和明がいなくなって、私も食べるスピードを一段速めた。母と父は、和明が今どんなテレビを見ているのか、と話をしている。その隙に最後の汁物を飲み干して、「ごちそうさま」と、席を立った。自分の食器だけをまとめてから、すぐに部屋に逃げ込む。

――そのつもりだった。

「里子、ちょっと」

逃げるように去ろうとした私を、母が呼び止めた。分からないけど、いい話じゃないのは間違いない。見計らったように声をかけられて、いい話題だった試しがない。

母に見せた嘘の進路希望調査書、あれの存在が頭をかすめた。が、その考えはすぐに打ち消した。あれがバレたのであれば、間違いなく母は激怒するはずだ。今の母に、その様子はない。

「何?」

言いながら、再び自分の席に座る。応えたのは、父だった。

「最近どうだ?」

週に一度ほど、夕飯の席で父が使う常套句だ。なぜ今このタイミングで、これが出たんだろう。不思議に思いつつ、「別に」と返す。親に話すような出来事なんて、別に何もない。普段なら私がそう返すと、いつも通りが一番だからな、と父は困ったように笑う。だがなぜか、今日はその限りではないようだった。

「実はな」いつもと違う前置きに、思わず顔を上げた。「進路のことで母さんとちょっと話をしたんだ。それで、広い選択肢があった方がいいと思って」

そう言って、父は席を立つ。いったい何が出てくるのか、身構えていると父はすぐに戻った。手にしていたのは書店の袋だった。袋から取り出して、中身をテーブルに出した。

置かれたのは、県内全ての高校の情報が載っている受験案内だった。

「ちょっと書店で中身を見てみたんだけど、いろんな高校のことが細かく載ってて、良さそうだったから。里子、こういうの全然持ってないだろ? 今まで知らなかった高校とも出会えるかもしれないぞ」

この人は、なんて的外れなことを言うんだろう。県内なんて興味ないのに。そこに書かれた文字をどれだけ読んでも、私の心が変わることなんて、万に一つもないのに。

「実はね、私からもあるの」

そう言って母が取り出したのは、数種類の高校のパンフレットだ。その中には、前に母から勧められて嘘の進路希望調査書に書いた、篠川高校のものもある。

「お父さんの受験案内で情報が足りなかったら、こっちのパンフレットも見てみて。眺めているうちに興味が出てくる高校もあるかもしれないし」

……何が広い選択肢、だ。

そこに置かれているのは、近隣の公立校や、良いと言われている私立校しかない。全部、母の希望が透けて見える。こんなの、どれも私の行きたい場所じゃない。

私は、あんたの決めた場所にだけは、絶対に行かない。

「いらないから」

ただ一言の拒絶を伝えてから、私は席を立った。

テーブルに置かれた県内の学校案内や各高校のパンフレットもそのままに、自分の部屋へと向かう。後ろから母の呼び止めようとする声が聞こえたけど、私は止まらない。二人が今どんな表情をしているか、気になったけれど、振り返ることはしない。

悪いのは全部、あの人たちだ。人の気持ちを理解しようともせず、自分たちの希望だけを押し付けて……

苛立つ気持ちを胸の奥で押し殺しながら、私は食卓を後にした。

テーブルの上に置き去りにしたその冊子が再び私の目の前に現れたのは、その次の日のことだった。

学校から帰ってきて自分の部屋に入ると、例の学校案内とパンフレットが机の上に綺麗に並べて置かれていた。捨ててやろうかと思ったけど、流石にやめた。折り目の一つもない新品のそれを捨てるのは、さすがにもったいないと思ったから。

捨てる代わりに、邪魔にならないよう部屋の隅に積み上げる。それだけは足りなくて、その上に適当な雑誌を置いて蓋をした。

この雑誌をどかすことは、絶対にない。


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