6
「うわ、最悪」
家を出てから少し歩いて、足を止めてつぶやいた。
それは、次の月曜の朝のことだった。週の頭で憂鬱になっていたところに、さらに追い討ちをかけるものがあった。通学路の途中、前方に仁王立ちをしている茂の姿が見えた。
茂は、私の進行方向と同じ方角をずっと見ていて、私に気づいた様子もない。気づかれずに済んだのは良かったけど、さすがに目の前は通れない。私の顔は、今も茂の頭の中に指名手配されているに違いない。ため息ひとつ、回れ右をした。その時だった。
すぐ隣の家のドアが開いて、「いってきまーす」の明るい声とともに、一人の人物が家を出てきた。その顔に、足が止まった。
「玲美……」
玲美の目が私を認めると、明るい顔から一転した。
「何してんの? 忘れ物?」玲美は、私が学校の方向とは逆を向いていることを訝しんでいるようだった。私は、ちらと茂の方を見た。
「アレがいたから」
「ああ、別にいいじゃん」なんでもないことのように、そう言い切った。
「平気なの?」
「そりゃあ嫌だけど、わざわざ回り道してまでは、ね」
玲美はそう、薄く笑いながら言った。彼女の言うことが、私には分からなかった。
私と玲美が決別をしたあの日、その時も通り道に茂がいて、私から回り道をすることを提案したのだった。玲美も私の提案に同意してくれていたのだと、ずっと思っていた。
だけど今、分かってしまった。本当は、ただ私に合わせていただけだったんだ。
きっと、気づいていないのは私の方だけだった。玲美の方はずっと、私なんかとは違うと思っていて、内心で見下しながらそばにいたんだ。
「大変だね、里子は」と、玲美が言った。
私はずっと見下されていたんだ。そう思ったら、怒りが込み上げた。大変だね、と、同情するはずの言葉が、まるで違う意味に聞こえてしまう。
「じゃあね。私は先行くから」
私を置いて、玲美は学校の方角へと歩いていく。道の途中の茂には礼儀正しく挨拶なんかして、最短距離で学校までの道を歩いていくのだろう。私は、歩き出す玲美を追いかけられずにいた。
いつまでもここにいたら、茂に見つかってしまう。言い返したい気持ちもあったけど、それを抑え込んで、玲美とは反対の方向へと歩き出す。悔しくて、一歩一歩、地面を踏みしめる足にも力がこもった。
茂の家の前を避けるように回り道をすると、玲美と決別をした、あの小さな公園の前を通ることになる。そこで玲美と言い合ったのも、もうずいぶん昔のことみたいだその時のことを思い出しながら、私はふと公園の方を見た。
あの時玲美と並んで座ったベンチに、カモ西の制服を着た一人の女子生徒が座っていた。
彼女は小さくうずくまっていて、その顔は見えない。真っ黒な、長いストレートの髪の毛が印象的だった。
一瞬、見なかったことにして素通りしようかと思った。が、その身体が小さく震えていることに気づいて、私は足を止めた。
私の頭の中にはまだ、さっきの玲美の薄く笑うような表情がこびりついていた。だから、きっとそのせいだった。公園のベンチでうずくまる彼女に、強く興味を惹かれていた。
心配しているわけでもなければ、同情しているわけでもない。ただ単純に興味があった。
この子は、この町の誰とも違う。あんな、つまらない世界に囚われた人たちじゃない。その確信があった。
朝の会の時間までは、まだ少し余裕がある。私は公園の中に入り、彼女の座るベンチの前に立った。
「どうかしたの? 何かあった?」
彼女が顔を上げると、真っ白な肌の中に浮かぶ、真っ赤になった二つの瞳と目が合った。分からないけど、歳は同じくらいだろうか。肌の白さには私も自信があるけれど、彼女の白は少し病的というか、不健康さを感じさせた。
「ごめんなさい」何に対して謝ったのか、彼女は再びうつむいてしまった。うつむいたきり、私のことを無視するように、黙ってしまう。
「困ったな」小さな声で、目の前の彼女に聞こえないようつぶやく。
どうしたものだろう、と考えたけど、まずは事情が分からなければ始まらない。もう一度、今度はもっと優しく声をかけた。
「顔白いけど、具合悪いの? それか、嫌なことでもあった?」
顔の白さから具合が悪いのかとも思うが、じゃあ泣いている理由がわからない。
彼女はまたゆっくりと顔を上げ、
「部屋から、追い出されちゃったんです……」
と、掠れるような声で言った。
意味が分からなかった。
単純な言葉の意味は分かるけど、それが意味するところが分からない。部屋から追い出される……?
きっと変な子なのだろう、と声をかけたことを後悔し始めた時、ふと一つの可能性をひらめいた。
「もしかして、ええと、なんて言ったっけ……そう。大黒舞花ちゃん?」
その名前を聞いて、彼女はハッと顔を上げた。アタリだ、と思った。
「知ってるんですか? 私のこと」
「うん、隣のクラスに引きこもりの女の子がいるって噂で聞いたから。私、二年生。タメだよ」
「そ、そうだったんですね……」
敬語をやめて欲しくて私の学年を伝えたのだが、どうやら意図が伝わらなかったらしい。引きこもりというくらいだし、あんまり会話は得意じゃないのかもしれない。
私は、舞花の隣に座った。
「部屋から追い出されたって、無理やり外に引きずり出された感じ?」そう訊いてから、「あ、タメ口でいいから」と加える。舞花は、ますます困った顔をした。
「ええと、まあそんな感じ……だよ」無理やり加えたような、だよ、だった。
「茂とは一緒に住んでるの? 追い出したのは親?」
「ええと、敷地的には同じなんだけど、家は区切られてる感じで……でも、追い出したのはお母さん。今まで何も言ってこなかったのに、最近になって急に厳しくて……」
「そうなんだ。学校には行けそうなの……?」
そう訊くと、舞花の表情がみるみる曇っていく。答えを聞くまでもなかった。
「やっぱ難しいか」
「ごめんなさい。私のことは、ほっといていいから」
「さすがにほっとけないって。それに、家にも学校にいないってなったら、さすがに騒ぎになるんじゃない?」
「……うん。それは分かってるんだけど……」
舞花は歯切れ悪くそう言うと、またうな垂れるようにうつむいた。
いい加減に、私も時間が気になり始めていた。朝の会に遅れたら、間違いなく大西の小言が炸裂する。舞花の様子からして、無理やり教室に連れていくのは難しそうだし、とはいえ、このままこの場所に放っておくのも気が引ける。
「だったらさ」ベンチの前にしゃがんで、うつむく舞花の顔を覗き込んだ。「とりあえず、一緒に学校まで行ってみない?」
自分でもやけに親切をしていると思う。これが舞花じゃない別の人だったら、きっとここまでのことはしていない。彼女は、どうにも私を惹きつけた。
「でも……」
「クラスには行けなくても、保健室とかに行くだけだったら? 保健室登校? っていうの、聞いたことあるし」
舞花は自分の足元を見つめたまま、悩むそぶりを見せた。
しばらくの後、
「うん、それくらいなら……」
と、決心をしたようだった。
「そうだ。言ってなかったけど、私、遠藤里子。よろしくね」
「よ、よろしくお願いします。遠藤さん」
舞花はベンチから立ち上がり歩き出す。私は彼女の隣に立って、学校までの道を二人で歩いた。舞花は決して口数の多い方ではなかったけど、私にはそれが心地よかった。やっぱり、クラスの能天気なやつらとはまるで違う。
やがて学校に着いたのは、朝の会の始まる三分ほど前のことだった。舞花を保健室に送り届けてから、自分の教室へと急いだ。慌てて教室のドアを開け、中を見る。教壇にはまだ、大西の姿はなかった。ギリギリ間に合ったようだった。
朝の会が始まるまでのわずかな時間、教室では男子たちが今日もふざけているし、吉野のグループは一角に集まって、机に座ったりなんかしながら、一つの雑誌をみんなで囲んで騒いでいる。
私はそれを横目で見ながら、舞花がクラスに行きたくなくなるのも分かるなあ、なんてことを思った。
その日の帰りの会が終わるのと同時に、私は保健室へ急いだ。舞花はまだ保健室にいるだろうか。不安に思いつつドアを開けると、部屋の奥に舞花の顔が見えた。
目が合うと、その顔がパッと明るくなった。今朝は暗い表情しか見なかったから、少し驚いた。
「ずっと保健室で退屈じゃなかった?」舞花を連れて、保健室を出たところで訊いた。
「ううん。本とかもあったから、あんまり」
「なら良かった。でも、私だったら本があってダメだな。マンガなら読めるけど、文字の本を読んでると、すぐ眠くなっちゃうし」
「そうなんだ。確かに、難しい本を読んでると眠くなっちゃうのは分かるかな」
話しながらも、舞花が周りを気にしているのは気づいていた。
廊下で誰かとすれ違うたび、怯えるようにして私の身体の陰に隠れ、うつむきながら顔を隠す。久しぶりの学校だから、周りの視線が気になるのだろう。そんなに気にしなくてもいいのに、とも思ったけど、実際に、舞花の顔を見て何か噂をするようなそぶりを見せるやつもいた。
私の身体の陰で小さくなっている舞花に訊いた。
「この後さ、ちょっと寄り道とかしても平気?」
「う、うん。たぶん大丈夫だと思う」
「なら良かった。実は、ちょっと案内したい場所があるんだよね」
もちろん、案内する先はあの穴だ。舞花には、きっとあれが見える。あの穴を見ることができる人の条件はまだ分かっていないけど、舞花になら見えるという確信があった。
私や保奈美、そして高垣と同じ。舞花は、くだらない世界の中で能天気に生きているやつらとは違う。
学校の敷地を出て少し歩くと、カモ西の生徒の姿は見えなくなった。近くにいた最後の一人が角を曲がって消えていくと、舞花はようやく顔を上げて、私の身体から離れていった。緊張が解けたように、ほうっと息を吐いたのが聞こえた。
「やっぱり気になるんだ」
「……うん。私のことなんて、どうせ誰も気にしてないってことは分かってるんだけど、どうしても、ね……」
「気にしたら負けだよ、あんなやつらの視線なんて。学校なんて、どうせくだらないやつらしかいないんだから」
「遠藤さんは、強いよね」小さな声で、舞花はこぼした。
「そうかな」
「うん。すごくしっかりと自分を持ってるように見える」
「どうなんだろ。自分ではよく分かんないけど。でも、負けたくないとは思うよ。誰かに何か言われたり、何かされただけで、自分の意見は絶対に曲げたくないし」
「やっぱり、遠藤さんは強いよ。私には、そんな考え方はできないな」
そう言って、諦めたみたいに弱弱しく笑った。何か励ます言葉を言おうとした時、「ねえ」と舞花が言った。「これ、どこに案内してくれてるの?」
この話題を嫌ったのだと分かった。それに気づかないふりをして、あからさまに逸らされた話題に乗る。
「着いてからのお楽しみ、かな」と、にやりと笑った。
そこからしばらく歩くと、いつもの山の入り口が見えてくる。どこへ向かっているのかを察したのか、舞花は不思議そうな顔をした。
「山に入るの?」
「そ。嫌だった?」
「ううん。ちょっと意外だっただけ」
山の中に入ると、舞花は戸惑いながらも素直に後ろをついてきてくれた。山の入り口の辺りは平坦だが、少し進むと傾斜が出てくる。ずっと部屋の中にこもっていたせいか、やはり体力はないようで、山の傾斜を登っていると、息が上がって歩くペースが遅くなった。それに合わせて、私もゆっくりと歩く。
私がペースを合わせているのに気づいたのか、舞花は申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい。普段、あんまり歩かないから……」
「いいって。私が勝手に舞花ちゃんを連れ回してるんだから」
口にして、ふと思った。
「舞花ちゃんて、なんか他人行儀だね。舞花でいい?」
「……うん」
少し気恥ずかしそうに、でも確かに舞花は笑った。その反応が、こそばゆかった。
ほどなくして、いつもの目印の巨木が見えた。「ここだよ」と、舞花の手を引いて、その木の横を抜ける。視界が開けた。
舞花の口から、息が漏れた。
舞花にはきっとこれが見えるだろうという私の読みは、やはり当たりだった。
見える? とは訊かなかった。訊く必要もない。間違いなく、舞花の視線は、あの穴のちょうど真ん中の辺りに釘付けになっている。
やがて、舞花がぽつりとつぶやいた。
「外には、こんなものがあるんだね」
「舞花なら、きっと見えると思った」
「え?」と、不思議そうな顔でこっちを向いた舞花に、この穴の説明をした。
人によって見えたり見えなかったりすること。見る人や、その時々によって大きさが変わること。現実味のないその話に、驚いたり戸惑ったりしている様子はあったけど、たぶん、疑うことなく信じてくれたと思う。
私が全てを説明し終えると、舞花はまた穴の方へと視線を向けた。そして、じっとそこから目を逸らさない。引き込まれているのだと分かった。
「すごく、不思議だね」それを見たまま、舞花が言った。
「ホントにね。意味分かんないよね。いったいどういう原理なんだか、どういう条件なんだか」
「なんで、私にはこれが見えるんだろう」
「なんでって、舞花も私と同じだからだよ」
「ううん。私は遠藤さんとは違うよ。嫌なこととか、怖いことからすぐに逃げちゃうような、そんな弱虫。遠藤さんとは、違う」
「強いとか弱いとか、どうでもいいじゃん。舞花にだって見えるんだから、やっぱり私と同じなんだよ」
弱々しい表情でそれを見つめる舞花を励まそうとしたけど、どこまで届いているかは分からない。舞花が胸の奥に抱えているものが分からなくて、もどかしかった。これ以上かける言葉が見つからない。
舞花は目を伏せて、静かに謝った。
「ごめんなさい。つまらない話しちゃったね」
「そんなこと……」
「もしもまた私が部屋から出られたら、その時も私といてくれる?」
「もちろん。舞花といると楽しいもん」
それは本心からの言葉だった。舞花は、他の誰とも違う。このつまらない田舎に染まっていないし、他のくだらないクラスメートとも違って、話をしていてすごく落ち着く。
そんな私の思いがどこまで届いたのか、
「……ありがとう」
と、かすかに微笑んだ。
日が落ち始めて、辺りはもう夕焼けのオレンジで染まっている。いい加減に帰り始めないと、途中で日が沈みきってしまう。
「帰ろっか」
私がそう言うと、舞花も「うん」とうなずいた。
来た道を引き返すように、私たちは街の方を目指して歩き始める。だんだんと暗くなり始める山の中を、舞花のペースに合わせてゆっくりと歩く。その間、私たちは最低限の会話しか交わさなかった。
ようやく山を抜けて、久しぶりのコンクリートの地面を歩く。舞花の体力が限界に近づいたところで、舞花と茂の家の前まで着いた。
「今日はありがとう。学校にも行けたし、山も、案内してくれて嬉しかった」舞花が、小さく微笑みながら言った。
「ううん、こっちこそ。付き合ってくれてありがと。いろいろ話もできて楽しかったよ」
「……うん」
「また学校でね」
「うん、またね」
手を振り合って、舞花は家の中へ入っていく。それを見送ってから、私も自分の家へと歩き出す。
明日もまた会えたらいいな、と思った。
次の日の朝、そんな期待を抱きなら、遠回りをしてあの小さな公園に行ってみた。今朝もそこに舞花はいるかな、と。
けれど、そんな私の期待とは裏腹に、そこに舞花の姿はなかった。少し待ってみても現れる気配はなくて、学校の保健室に行ってみても、やっぱり彼女の姿は見えなかった。どこか私の知らない場所を歩いているのかもしれないし、また自分の部屋で引きこもっているのかもしれない。けど、どっちだってよかった。舞花がいないという事実は変わらない。
今更ながらに、連絡先くらい交換しておくんだったと後悔した。家なら知っているけど、茂がいるあの家に、私は絶対に近づけない。
それから毎朝、あの公園と保健室を確認し続けたけど、やはり舞花の姿はない。結局、その週の最後まで舞花が現れることはなかった。
「くっ、くく……」
耐えられずに、私の口から笑い声が漏れ出る。ダメだ、この組み合わせは、あまりにも卑怯だ。
土曜の昼間、そのあまりに異色の顔合わせに、溢れる笑い声をこらえるのに必死だった。
いつもの山の入り口で、高垣と保奈美が向き合っている。あの穴の謎を調査をするため、今日、私たちはついに三人で集まっていた。これが高垣と保奈美の、初顔合わせだ。クラスの違う二人は、ほとんど面識がない。
「よろしくお願いします」と、仰々しく挨拶を交わす高垣と保奈美の姿がおかしくて、いよいよ吹き出してしまう。高垣の方は平静だが、保奈美の方はかなり緊張している風に見えた。挨拶を終えた保奈美が私のもとに飛んできた。
「ちょっと、さとちゃん! 高垣くんが来るなんて聞いてないよ!」
「新メンバーが来るって言ったじゃん」笑い声の混じった声になった。
「それが高垣くんだなんて聞いてない! 聞いてないよ!」
どうやら保奈美は、高垣の突然の登場に、完全に動揺してしまっているらしい。
高垣の存在は学年中に広まっていて、たとえクラスが違っても、彼を知らない生徒はほとんどいない。今年から高垣と同じクラスになった女子が、去年からずっと気になっていたのだと話していたのを聞いたことがある。保奈美はきっと、噂の男子が目の前に突然現れて、興奮しているんだろう。
このモテ男め、と高垣の方を睨んでみたが、私の視線の意味にも気づいていなさそうだ。相変わらず、面白みのないやつだ。
「ほら、さっさと行こ。二人とも教室隣なんだから、お互いに顔くらい知ってるでしょ?」
このまま二人(主に保奈美だが)が馴染むのを待っていたら、昼が終わって夜になってしまう。未だ落ち着かない保奈美を無視して、先陣をきって山の中へと入る。保奈美がまだ何かブツブツ言うのが聞こえたけど、言いながらもちゃんと後をついてきてくれていた。
高垣は、その一歩後ろを歩いていた。私と保奈美のことを遠巻きに眺めるみたいに、その顔には大人びた笑いを浮かべて、ただ黙って歩いている。その笑みは、私の大嫌いな大人たちのそれとそっくりだ。その表情を見ていると、あの日の高垣こそが偽物だったみたいに思えてくる。
怒りに身を任せて木を蹴り続けていた高垣はただの幻で、売り物みたいな笑顔を顔に貼り付けて、素直に大人の言うことを聞いている高垣こそがやっぱり本物だったのだ、と、そんな風にさえ思えてしまう。
けど、高垣にはあの穴が見える。そのことが、確かにあの日の高垣こそが本物なのだと証明している。分かっていても、今も高垣の顔に浮かんでいる大人みたいな表情を見ていると、やっぱり簡単には納得できない。
やがて、穴のある開けた場所までたどり着つくと、荷物を脇に置いてから、三人でそれの前に立った。
私たちは何をするでもなく、ただじっとそれを見つめる。どれだけ見つめたところで何が変わるわけでもないその穴に、私たちの視線はくぎ付けになっていた。まるで何かの儀式みたいだ、と思った。
しばらくが経って、「で、今日はどうすんだ」と、高垣が訊いた。
「今日は、底がどれだけ深いのかを確かめようと思ってる」私は答えた。
「底なんてないように見えるけど、確かに気になるな」
「私もいいと思う。でも、どうやって調べるの?」
保奈美は、なんてことのない素朴な疑問のような口調で訊いた。その問いに、ハッとした。
調べる方法なんて、まるで考えていなかった。こんな真っ黒で、底なんてないように思える穴の深さを測るなんて、そんなことができるだろうか。
「そ、それを考えるところから、今日の活動ということで……」
苦し紛れの提案に、保奈美はポカンとして、「ま、いいんじゃないのか」高垣は苦笑した。
そうして、三人揃っての最初の調査が始まった。
それぞれで調べる方法を考えて、思いついた方法はみんなで試そうという方針だ。真っ先に手を挙げたのは保奈美だった。
保奈美の案は、適当な長い枝を穴の中に突き立てて、その深さを探るというものだった。さっそく三人で山の中からできるだけ長い枝を探す。私たちが持ち寄った枝の中で、高垣が見つけた二メートル近い枝が一番長かった。それを穴の中に突き刺すのは、当然枝を見つけてきた高垣だ(決して、穴に近づくのが怖かったから押し付けたわけではない)。保奈美と二人で見守る中、高垣が突き刺す。
――が、その枝の先が穴底に当たることはなかった。
穴に突き刺さる枝を見て、ただの穴というよりは池のようだと思った。深く刺さした枝は、穴の表面を境に、刺した先が全く見えなくなっている。真っ黒に濁った水が張られた池に同じことをすれば、きっとこんな風になる。
次に、高垣の提案で、辺りのものを投げ入れてみることにした。投げ入れたものが底に当たれば、その衝撃が聞こえないかと考えてのことだった。
が、結局これも無反応だった。目についたものをこれでもかと三人で投げ入れたが、どんなに耳をそばだててみても、わずかな物音一つ聞こえなかった。
あまりにも不可解なその穴に、私たちはすぐに白旗をあげた。
「うーん、結局進展なしかぁ……」
近くの倒木に腰をかける。高垣と保奈美も続いて、私の隣に座った。
「やっぱわけわかんないな。そもそも本当に底なんてあるのか? って感じ」
「うん。明らかに普通じゃないし、調べるのは無理があったのかも」
保奈美からは弱気な声が出た。確かに、弱気になるのも無理はない。何かが分かるどころか、分からないことが増えるばかりだ。
「そういえば、まだ遠藤の案を試してないじゃん」思いついたように高垣が言った。
「もう今更でしょ。それに、これ以上案なんて出せないって」
「ま、それもそうだよな。なんか、普通に調べても分かる気がしないし」
「あーあ。深さくらいなら分かるかと思ったけど、思った以上に分かんないや」
降参するように、両足をぽーんと前に投げ出した。その拍子に、ふと足首のあたりが目に入った。デニムとソックスの間、わずかに覗いた素肌から血が出ていた。
「え、うそっ。いつの間に」
とっさに足を引き寄せて傷口を見る。それほど深くはなさそうだったけど、まっすぐ伸びる、きれいな切り傷だった。さっき、山の中を歩いていた時に、草か何かで切ったのだろう。
「え。どうしたの、それ」保奈美も気づいたようだった。
「たぶん、葉っぱか何かで切っちゃったんだと思う。最悪だよ」
そうは言いつつも、たかが小さな切り傷だ。放っておこうとした私へ、保奈美は強い口調で言った。
「ダメだよ、放っておいたら。そこからばい菌が入ったら大変だから。足見せて」
「う、うん」
言われるままに傷口を差し出すと、保奈美は自分のカバンを漁り始めた。そこから取り出したのは、消毒液と絆創膏だ。隣からは高垣の「すご」という感嘆の声が聞こえた。
「これ、いつも持ってるの?」気になって、私は訊いた。
「うん。持ってないと逆に不安になっちゃうんだよね」
「さすが長女だねぇ。あ、私もか」
消毒液に浸した脱脂綿を、そっと傷口に触れさせた。傷口を覗くように屈んでいる保奈美の顔が見えない。
「私には、これくらいしかないからさ」
自嘲するような声だった。何かを言おうとした時、傷口に消毒液がしみて、言葉が引っ込んだ。保奈美の声が続いた。
「私は、弟みたいに何か才能があるわけでもないから。その分、気配りくらいはしないと」
「そんな風に言わないでよ」保奈美のことをそんな風に言う保奈美が嫌で、思わず強い口調で言っていた。
「……ごめん」
一瞬、沈黙が漂った。保奈美は絆創膏を包みから取り出して、私の傷口に当てる。シワにならないよう、丁寧な動作でそれを貼ると、「よしっ」と顔を上げた。
「うん、できたよ」
足に貼られたのは、薄ピンク色の柄付きの絆創膏だった。救急道具をカバンにしまう保奈美に、私はもう何も言えなかった。
結局、この穴の正体は分かりそうにもない。諦めムードになった私たちは、これ以上調査を続ける気にもなれなくて、ただ雑談をするだけになった。この三人で話すことなんてないように思えたけど、保奈美が高垣のことを聞きたがって、意外にも話が途切れることはなかった。しばらくそうして三人で並んで話していると、不意に高垣が立ち上がった。
暗くなるにはまだ早かった。
「悪い。俺、そろそろ戻らないと」
「用事?」と、保奈美が訊いた。
その答えが、私には分かっていた。
どうせ、家の手伝いでもあるんだろう。高垣の顔を冷ややかに見ると、その視線に気づいたのか、「まあ、ちょっと」と、答えを濁して目をそらした。
この場所にいても、今ここにいる高垣は、私のよく知る高垣だった。大人に従順で、つまらないクラスメート。なぜか荷物を持ったまま固まっている高垣に焦れて、「早く行きなよ」と催促をした。やがて、「ああ」と、高垣は歩き出す。
「じゃあ、また学校でね」と、そんな言葉と一緒に、私たちは手を振った。
次の週の途中、久しぶりに気が向いて穴を見に行くと、そこには先客がいた。
遠目で、高垣でも保奈美でもないと分かった。こんな場所に誰だろう。恐る恐る近づいて、その先客の顔が見えた時、思わず声をあげた。
「舞花!」
「あ、遠藤さん」舞花も私に気づくと、表情が明るくなった。私の名前を呼ぶその声も、いつものおとなしさの中に、安堵が含まれているように聞こえた。
「良かった、また会えて。もう会えないかと……」
「大げさだよ。やっぱり、あれから学校には行ってなかったの?」
「……うん。結局、遠藤さんに会った次の日から、また部屋から出られなくなっちゃって」
「そうだったんだ。でも、また無理やり部屋から出されたりしなかったの?」
「もちろん、追い出そうとはされたよ。だけど、部屋に鍵して、呼びかけも全部無視して籠城してた。部屋から出たら、今度は無理やり教室まで連れていかれるんじゃないかとか、いろいろ考えたら、動けなくなっちゃったの……」
そう語る舞花の声は、どんどん弱々しく変わっていく。また部屋に閉じこもってしまった自分のことを恥じているような、そんな響きにも聞こえた。
「この時間なら外に出ても平気なの?」
「うん。もう学校も終わってるし、それに、この時間にここにいたら、また遠藤さんに会えるような気がしたから」
舞花の言葉を聞いて思った。
「もしかして、毎日来てた?」
「えと、まあ最近は」
「ごめん」
「こっちこそごめんなさい。押しかけるようなことしちゃって」
いつもベンチ代わりにしている倒木のところに私は座って、隣に来るように促した。舞花もすぐに隣に座った。今なら訊ける気がした。
少し改まって、舞花と向き合った。
「舞花はさ、どうしては引きこもるようになったの?」
私は、少し躊躇いながらも訊いてみた。その理由が、どうしても知りたかった。単なる興味本位じゃなくて、舞花のことをもっと知りたいと思うから。
舞花はしばらく悩むようなそぶりを見せて、やがて、「怖いから」と言った。
「怖い?」
「うん。授業で当てられて間違えたらどうしようとか、体育でミスしたらどうしようとか、みんなが笑うところじゃない時に笑っちゃったらどうしようとか……そういうことばっかり頭がいっぱいになっちゃって、どうしようもなく不安で、怖くなるの」
「授業出てれば答えを間違うことくらいあるし、失敗くらい誰でもするよ」
「頭では分かってるの。だけど私、耐えられなくて……」また舞花の声が弱々しくなる。私が何も返せずにいると、舞花は続けた。
「この辺りの小学校だと、運動会でダンスをするでしょ? 私、練習の時から全然うまく踊れなくて……動きを間違うたびに視線を向けられて、転んじゃうたびに、男子が笑ってた。私は、それがたまらなく辛かったの」
笑われるのは嫌だ。クラスの男子たちに笑われたら、悔しいし、腹が立つ。でも、別にそれだけだ。そんなくだらない連中のことなんて、見返してやればいいし、それができないなら無視すればいいだけのことだ。
予想はしていたけど、やっぱり私には舞花の感覚が分からなかった。安易に、分かるよ、なんて言いたくなかった。
「ごめん、やっぱりよく分からないや。私は、何か言ってくるやつなんて、逆に負けたくないって思っちゃうタイプだから」
「遠藤さんは、やっぱり強いね」
「そんなことないよ」
強いとか弱いとか、たぶんこれは、そういうことじゃない。私はただ、いろんなことが赦せないだけなんだと思う。
「でも、話してくれてありがとね」
「ううん。こういうの、誰かに話したのは初めてだったから、なんだかちょっとすっきりした」
舞花にはこの穴が、いったいどれほどの大きさに見えているのだろう。気になったけど、なんとなく訊いてはいけない気がして、私は黙った。それを訊くということは、相手の心の中にまで踏み込んでいくということだ。
「なんか、ほんと変な感じだよね」代わりに、そんなことをつぶやいた。
「うん。何なんだろうね。すごく、心がざわざわする。ずっと見ていたら、呑み込まれてしまいそう」
言い終わると同時、「あ」と、舞花は何かを思いついたような声を出した。「私、この感覚知ってるかも」
「え?」
「たぶんこの感覚、夜に似ているんだ。明日が迫ってるっていう恐怖と、それでも夜にしがみついていれば、明日は来ないんだっていう安堵感。そういう、よく分からない複雑な感じがすごく似ている気がする」
舞花の例えは、私にはピンと来なかった。
けれど、そういうものなのだろうと思う。感じ方なんて人それぞれ違う。だってこの穴は、人によって見えたり見えなかったり、大きさが違ったりするんだ。何の感覚に似ているとか、そんなものが同じなわけがない。
「私の場合だったら、なんだろう」少し考えてみる。
例えば、そう。
「私の感覚だと、将来のことを考えてる時に似てるかも。私は絶対に東京に出て、楽しい毎日を送るんだっていう希望と、本当に叶えられるのかなっていう不安が混ざり合ってる感じ」
時々、不意に訪れる、胸の奥がドロドロとぐちゃぐちゃと掻き乱れる感覚。この穴を見ていると、そんな感覚がよみがえる。そしてきっと、これが見える人はみんな、それぞれの感覚を持っている。
舞花が、ぽつりと言った。
「なんだか、本当に不思議だね。みんな同じものを見ているはずなのに、見え方も、感じ方もまるで違うなんて」
「……ね。本当に」
本当に、不思議なものだと思った。少しずつ分かったことも増えてきたけど、やっぱり分からないことだらけだ。
不意に思い出した。
「ねえ、連絡先教えてよ。ここでしか会えないなんて、ちょっと不便だし」
ちょっと唐突すぎたかな? とも思ったけど、舞花の顔を見てどうでも良くなった。舞花は少し戸惑いながらも、嬉しそうに目を細めていた。きっと、こんな風に連絡先を訊かれるのに、慣れていないんだ。
「う、うん……けど、やり方が分からなくって」
「えっとね」と、携帯を出して、連絡先の交換方法を説明する。こんな風に友達に携帯の操作方法を教えるなんて、新鮮で面白かった。やっぱり、舞花といると面白い。クラスのやつらは舞花の魅力に気づけないかもしれないけど、私には分かる。
やがて交換が完了すると、舞花は携帯を両手で持って「ありがとう」と微笑んだ。
「そういえばさ、私の他にもここに来てる人いなかった?」
「えっと……」顎に軽く手を当てて、考えるそぶりを見せた。「一昨日かな。同い年くらいの女の子が来てたよ。背が低くて、おとなしそうな子だった」
保奈美だ、と思った。
「私の他にも二人、見える人がいてさ、この穴のこと調べようって言って、時々一緒に来てるんだよね。だから、もしかしたら鉢合わせちゃうかも」
「うん、分かった。放課後の時間はずらして来るようにするから大丈夫だよ。遠藤さんに会いたい時は、連絡するし」言いながら、たった今連絡先を交換したばかりの携帯に視線を向ける。まるで、魔法の道具を見るかのような目だった。
本当は舞花を二人と会わせてみたかったけど、まだ少し憚られた。
「今日はありがとうね」
携帯を手に握って、舞花が改めて感謝を告げた。ありがとう、と、たったのその一言が、本当に嬉しかった。