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奔流を泳ぐ  作者: 琴羽
5/16

5

その週末の土曜、私はさっそく保奈美を誘って山の中まで行く約束を取り付けていた。二人で会う時は、いつも全身をアルマージュで固めて行くけど、これから山に行くとあって、さすがにこの日はラフな格好にした。せっかく堂々とアルマージュを着ていける貴重な機会なのに、少し憎たらしい。

保奈美との待ち合わせは、山の入り口ということで決まっていた。軽いリュックだけを背負って、山までの道のりを歩く。その途中、商店街がある。チェーン店なんて一つもなく、どれも一つ前の時代から続いているみたいな、古びた店構えだ。呉服屋とか和菓子店とか、私には関係のない、つまらない店ばかりが並ぶ。昼も夜もシャッターが閉まっているような店も半分くらいある、寂れた商店街だ。

私はそこを急ぎ足で歩く。寂れていたとしても、一応は商店街だ。やっぱり、そこを歩いている人は多い。

だから、その出会いも予見できたものだったかもしれない。

目の前から歩いて来るそいつに、思わず「げ」と声が漏れた。その声はたぶん、そいつまでは届いていないと思う。

ちょうど向かいから歩いて来る、高垣稔と目が合ってしまった。今さら気づいていないふりはできそうにもない。

「よう。遠藤とここで会うのは珍しいな」

高垣の腕には、買い物袋のようなビニール袋が提げられている。ちら、と左脇の方に視線を向ける。彼の実家でもある高垣電気が、そこにはあった。私は、ちょうどその店の目の前を歩いていたようだった。

「そうかも。商店街なんてあんまり来ないし。高垣は、これからまた店の手伝いでもするの?」

また、の部分に力を込めた。皮肉ったのに、高垣はそんな私の意図にも気づかないように苦笑する。

「まあな。最近、父親が具合良くないしさ。母親の方は商品のことなんてさっぱり分かってないし、俺しかいないから」

高垣は、まるでちょっとした面倒ごとみたいに語る。そのことに自分の人生がかかっているなんて、微塵も感じさせない口ぶりだ。

「やっぱり、家電は重いの多いしなー」と呑気な声を出した。

彼のその、なんてことのなさそうな表情が、また私をイラつかせる。高垣は一人っ子で、他に頼れるきょうだいもいない。店の中へと目を向けてみても、そこには今、誰の気配もない。店の中にいるべき人物は、たぶん、私の目の前だ。

「そんなに家のことばっかして、絵を描く時間はあるの?」

「うーん、やっぱりちょっとキツイかな。勉強もしなきゃだから、どうしても後回しになっちゃうし」

また、イラっときた。何をヘラヘラとしているんだ。それでどうして、そんなに上手い絵を描くんだ。

ふつふつと怒りが湧き上がる。私が彼に抱く怒りは、明らかに尋常じゃない。自分でも、少し異常だと思う。

「よくやるよ」

「まあ、しょうがないよ。俺の他に頼れる人がいるわけでもないし。まさか店を閉めておくわけにもいかないしな」

『しょうがない』その一言に、高垣のすべてが集約されている気がした。こいつの中にある、こいつ自身の願いは、その『しょうがない』の一言で押し潰されているんだ。

やっぱり、私たちは絶対に分かり合えない。

「家のことなんて放っておけばいいのに」独り言のように小さくつぶやく。その声が高垣の耳に届いた様子はない。

親の店がどうなろうが、高垣自身には何の関係もないのに。どうして高垣はそれを自分のことのように考えて、自分自身を捨てようとするのだろう。それを言ったところで、どうせこいつは諦めたような顔で笑うだけだ。

だから、これ以上何も言えなかった。

「それより、遠藤はこれからどっか遊びに行くんだろ?」

「うん、まあ……」今から私が向かう場所を思い出して、思わず歯切れが悪くなった。

高垣には、あの穴のことは打ち明けられない。こんなやつには、絶対にあの穴は見えない。そんなものあるわけないと、鼻で笑うにきまってる。

高垣は、私の向かう先を深く追求しなかった。

「引き止めて悪かったな」

「ううん、別に急いでなかったし」

「そっか、ならよかった。また学校でな」

「うん、また学校で」と、私たちは別れた。

どうせ学校で会ったところで言葉の一つも交わさないのに、形式だけの別れの言葉だ。高垣は私の横を通って、自分の家でもある電気屋の中に入っていく。

いったい、彼はこれからどのくらい働くのだろう。商店街が閉まるのは、午後の六時。もちろん店によってそれより早いところはあるけれど、どこもそう大差はない。腕時計を見る。今はまだ、午前十一時だ。午後の六時までは、まだまだ長い。彼の姿が店の中に消えて行くのを見て、私はまた歩き出した。


山の入口の前には、もう保奈美の姿があった。

いつものアルマージュではなく、ラフな服装で身を包んでいる。保奈美のパンツスタイルは、初めて見た。遠目から、ジーンズを履いた太ももが少し苦しそうだった。近づいて、「おはよ」と挨拶を交わす。

「まさか、ここにさとちゃんと一緒に来ることになるとは思わなかったな」

「私も。保奈美がいてくれると、嬉しいし、心強いよ。少しは慣れたけど、一人で山に入るのって、やっぱりちょっと心細いんだよね」

「うんうん。分かる分かる」

山の入り口の手前、すぐ隣では保奈美が穏やかに笑っている。それだけで、すごく安心した。同じ場所でも、違う気分だ。

「じゃ、行こっか」と、私たちは山の中へと入っていく。人が歩くための整備もされていない、鬱蒼とした道とも呼べない道が続くけれど、保奈美と二人で歩けばハイキング気分だった。風でざわめく葉の音も、つまずきそうになる木の根っこも、今は別に嫌じゃない。

けれど、歩きながら、一つ不安に思っていたことがあった。保奈美とあの穴の話をする中で、私たちは『山の中にある穴』としか言っていない。お互いに想像しているものが同じなのか、少し心配だった。あんなものがそう何個もあったらたまらない、とも思うけど。

山の中を私たちは進んでいく。保奈美がいつもの私の道から外れて歩くたび、別の場所へ向かっているんじゃないかと焦ってしまう。二人で、あっちでもない、こっちでもないと言い合いながら歩いていくけど、結局、たどり着いた先は同じ場所だった。

私の心配は要らない心配だったようで、それが目の前に現れると、「これ!」と二人で同じ場所を指差して興奮した。

「なんか、変な感じ」相変わらず真っ黒なそれを見ながら、私は言った。「誰かと一緒にこれを見てるなんて」

「ね」と、保奈美は短いあいづちを打って、それ以上何も言わなかった。だけどその一文字に、一文字以上の共感を詰め込んでくれていることを感じていた。

今日の穴は、あまり大きくなかった。

保奈美は、すうっと穴の方に近づいていき、その目の前で止まった。つま先が少し、穴の淵に乗っていた。

私は慌てて近づき、手を引いた。

「ちょっと、危ないって。分かんないけど、落ちたら絶対ヤバイよ」

「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。穴まではそんなに近づかないようにしてるし」

かみ合わない保奈美の言葉に、視線の先を見て察した。保奈美が見つめる先は、明らかに私が見ている穴の淵からはずれていた。保奈美にはたぶん、私が見ているよりも、この穴が小さく写っているんだ。

「もしかして、さとちゃんのこれは、もっと大きいの?」保奈美も、気づいたようだった。

「……うん」

この穴の大きさは、見に来るたびに変わる。きっとその大きさは、目にする人によっても変わっているんだ。一つ分かったことが増えたような、逆に分からなくなったような、それさえ分からなくなった。

「ひょっとしてさ」おずおずと保奈美が言った。「見えなかった人は、ただ気づかなかっただけなんじゃないかな。本当はそこにあるのに、小さすぎて見えなかったとか」

「まさか」言いつつも、それを否定できるだけの材料はない。もちろん、その可能性に対する根拠もない。

「なんて、ちょっと思っただけ。分かんないけどね」

「うん。ホント分かんないね」

結局、分かったことといえば、何も分からないということだけだった。この得体の知れない真っ暗な穴が持つ意味は、まだ見つかりそうにない。

私たちはそこで、この穴の意味を考えるのをやめた。

近くにあった倒木の上に、二人並んで座る。あとはもう、ただの雑談だった。シチュエーションが違うだけで、話すことはいつもと変わらない。学校のことや家のこと、アルマージュの今度の新作のこと。代わり映えはないけれど、悪くはない。保奈美が家から持ってきてくれたお菓子をつまみながら、飽きることなく話し続ける。

辺りがうっすらとオレンジに染まり始めたのに気づく時まで、私たちは時間も場所も忘れて話し続けた。


バッシュの音は空気のこもった体育館によく響く。音の中は時々、「いけ!」とか、「決めろ!」とか、そんな声が混ざる。私はもちろん、そんな喧騒の外だ。

午前中最後の四時間目の授業は体育だった。お昼前でお腹の空いているこの時間の体育が一番だるい。今日の体育は、バスケの試合だった。試合に出ない空き時間は、体育館の隅にいつものメンバーで集まって、適当に談笑をして過ごす。

私も含めて五人組のこのグループには、当然、玲美もいる。玲美と気まずいのは相変わらずだけど、今、玲美の視線は私の方には向いていない。無視をされているからとか、そんな理由じゃない。もっと別に、目に焼き付けたいものがあるからだ。

ピッ、と笛の音が鳴った。試合の中で得点が入った音だ。きゃあ、と黄色い歓声が上がった。点が入ったのは、目の前の試合じゃない。体育館は真ん中のところをネットで半分に区切っていて、その反対側では男子たちが同じようにバスケの試合をしている。向こうの試合で、高垣がシュートを決めたようだった。

試合に出ていない女子の半分以上は、自分たちの試合よりも男子の試合の方に夢中になっている。中でも、玲美を始め何人かの女子は、高垣の動きだけを目で追っているのが明らかだった。実際、高垣は身長が高いから、まだ成長しきっていない他の男子たちの中で圧倒的に目立っていた。身長の高低は、バスケという競技の中で有利不利に直結する。他の男子が手の届かない位置でボールを受け取ったり、その位置からシュートを放ったり、憎らしいくらいに活躍していた。

もちろん、男子の試合に夢中な女子達も、こっちのコートで誰かがゴールを決めたら拍手をしたりするけれど、そんなのはうわべだけだ。とりわけ、男子との距離が近い吉野由香たちのグループは、こっちのコートを見るフリさえしないで、体育館を区切るネットのところに張り付いて、向こうの試合にくぎ付けだ。目立つ男子グループの一人の三嶋に、「みっしー頑張れー!」なんて声援を送っている。野球部で身長の高い三嶋は、高垣にだって負けていない。チームの違う二人の戦いに、みんな夢中になっていた。

私はそれを、体育館の片隅から冷めた目で見ていた。こんな体育の授業で本気になっている男子も、それを興奮しながら見ている女子も、みんなバカバカしい。

「遠藤さん、スコア係交代」

「ああ、うん」

さっきまでスコアボードをめくっていた女子が、慌てながら私を呼びにきた。試合に合わせてスコアボードをめくるスコア係は、五分おきに交代することになっている。面倒臭く思いつつ、スコアボードの隣に立った。

女子の試合なんて、一部のバスケ部が張り切っているだけで、ほとんどは適当にボールを回しているだけだから、見ていて面白みもない。女子の場合、試合に勝つか負けるよりも、誰が誰にパスを渡したかの方が大事だったりする。そんな試合を見せつけられても、ただ退屈なだけだ。

まるで面白くもない試合を、スコア係だからという理由だけで、ただ適当に眺める。向こうのコートでは、また高垣がゴールを決めたのが見えた。こっちの観客たちが沸く。

「ちょっとー。遠藤さん、ちゃんとこっちの試合見てるー?」

「え?」突然、隣から声がして振り向いた。

吉野と、その取り巻きの女子たちだった。さっきまでネットの近くにいたのに、いつの間に隣に来ていたんだ。

「え? じゃなくてさ、今、点入ったんだけど」

言葉の意味を理解できないでいると、吉野はすぐに続けた。「向こうじゃなくて、こっちの試合の話」

見れば、片方のチームが手を取り合ってはしゃいでいた。

「あ、ごめん」慌てて、スコアボードを二つめくる。

「ちゃんとこっちの試合に集中してよねー。高垣くんのことばっか見てないでさ」

「……は?」思わず、低く沈んだ声が出た。

私が? 高垣を? 冗談じゃない。私にとってそれは、あまりにもひどい侮辱だ。

「誰があんなやつのことなんか。自分だってさっきまで男子の試合見て騒いでたくせに、偉そうなこと言わないでよ」

「偉そうなのは遠藤さんの方じゃない? スコア係なのにちゃんと試合を見ていないのを、せっかく私が注意してあげたっていうのに」

そのあまりに恩着せがましい言い方に、続く言葉が出なかった。

吉野由香はムカつく女だ。改めてそれを認識した。

吉野は一年の時から他の派手な女子とグループを作って、その中のリーダーとして君臨していた。クラスで何かを決めるときは、必ず吉野の意見が押し通さられたし、何をするにもクラスの中心にいた。クラスの目立つ男子グループとも仲がいいし、その中で一番かっこいい男子と付き合っていたこともある。今は地元の高校生と付き合っているなんて噂もあるけれど、本当のところは分からない。

この小さな田舎の世界で女王として君臨する彼女が、私は嫌いだった。

吉野とは一年の時も同じクラスだったけれど、ほとんど会話を交わしたことがない。もう一つの小学校から上がってきた吉野を、入学してすぐの最初の挨拶で一目見た時から、自分とは合わない人種だと感じていた。吉野だって、きっと同じことを私に思ったはずだ。お互いにお互いを気にくわないと思っていることも、お互いに分かっている。

吉野から小さな嫌がらせを受けたことは、今までにも何度かある。そのどれもが、今回みたいにくだらないものだ。

彼女はいつも、自分が優位に立てる場所を探している。今回だってきっと、点数が入ったことを見逃していた私を目ざとくも見つけて、ここぞとばかりに近づいて来たのだろう。優位に立った彼女は、すぐにつけあがって偉そうな態度をとる。

これ以上付き合うのも、バカバカしかった。

「どうもありがとうございました」

私はつっけんどんに言い放ち、意識を目の前の試合に向ける。隣からは「ちっ」と、舌打ちが聞こえた。

「ホント、可愛くないやつ」

あなたの何十倍も可愛いので、と、さすがに頭の中で吐き捨てるに留める。ブスの僻みは、本当に怖い。

興味が失せたのか、吉野は仲間を引き連れてどこかに去っていく。ほうっ、と息を吐くと、なんだか疲れがどっと出た。この世の中は疲れることばかりで、本当に嫌になる。

ピッ、とまた笛の音。向こうのコートでは、また高垣がゴールを決めていた。悔しそうにする三嶋と、無邪気に喜ぶ高垣の顔が見えた。

その笑顔に、

「あいつ、あんな風に笑えんじゃん」

無意識に、つぶやいていた。

体育の授業が終わり、その後も退屈な授業に耐え忍ぶようにして過ごすと、どうにか放課後の時間になった。大西が「さようなら」と挨拶をし終えるのと同時、大きく伸びをした。この後はどうしようかな、と考えながら持って帰る荷物の整理をする。

今日の宿題を思い返し、数学の参考書を持って帰るべきか悩んでいると、すぐ近くから聞きたくないやつの声が聞こえてきた。高垣が、クラスの男子と話している。

高垣の声は低く、相手の男子の声はまだ高い。すぐ隣で話されるその声は、いやでも耳に届いた。

「なあ、この後空いてる?」と、高い声だ。

「この後?」高垣が聞き返す。

「ああ、今から三嶋たちとバスケすんの。今日、バド部が筋トレだから、コート半分使えるらしいんだよね。授業の続きといこうぜ」

「三嶋とか、自分の部活はいいのかよ」高垣は笑った後、すまなそうな声で言った。「でも悪い、今日はこの後家の手伝いしなきゃいけないんだ」

「まじかー。まあ、しょうがない」

高垣はまた「ごめんな」と謝ると、相手の男子も「適当に代わり探すから気にすんなって」と去って行った。私も支度を終えて席を立った。

本当に、聞きたくもない話を聞いてしまった。

体育の授業中、あんなに楽しそうにしていたのに、それよりも家のことの方が大事なのかよ。

いったいどんな思考になれば、そんな結論が出せるのか。一回頭を開いて、その中身がどうなっているのかを見てみたい。

ふと、高垣の顔を見ようとした。気づかれないように小さく振り向こうとした時、何かが肩のあたりにドンっと当たった。思わずよろけて、何があったのかと呆然とする。前を見ると、吉野がその取り巻きと一緒に、ニヤニヤと意地悪い笑みを浮かべてこっちを見ていた。

吉野が、後ろから私の肩にぶつかってきたのだと分かった。

「ごめーん」と言いつつ、手をひらひらさせながら吉野は教室の外へ去っていく。私は呆然と見送ることしかできないで、その姿が見えなくなってから、怒りが込み上げた。

今日の体育の時の仕返しだろう。そっちから仕掛けてきたくせに、何を根に持っているんだ。とっさに言い返せなかったことが悔やまれて、余計に腹の虫が収まらない。

本当にもう、くだらなすぎて嫌になる。


ムカつくことがあると、私はあの穴に助けを求める。

部活に行かなければ、放課後の時間になってもまだ辺りは明るい。日が沈むまでのわずかな間だけでも、ただぼうっとそれを眺める。無心になってそれを眺めていると、今日のことが思い出された。

私の肩にぶつかって、満足そうに笑う吉野。

バスケの試合の中で、普段は見せないような笑顔を浮かべる高垣。

そして、それほど楽しんでいたはずのバスケの試合の続きを、家の手伝いなんていう理由で断る高垣の声。

その時の顔は見ていないけど、どうせいつものようにヘラヘラとした表情を浮かべていたに決まっている。真っ黒な穴を見ながらそんなことを考えていると、また苛立ちが込み上げてきた。今日の穴は、前に見た時よりも少し大きかった。

もういい加減に冬が近づいていた。一人でじっと座っていると、少し肌寒い。まだ時間は早いけど、もう戻ろうか。そんな風に考えた時だった。

――突然大きな音が聞こえた。

ドン! と、低く沈み込むように響く音だった。なんだろう? と思っていると、またそれが、ドン! ドン! と続く。山の中にいて、初めて聞く音だった。音の場所は、たぶんそれほど遠くない。いよいよ気になって、立ち上がる。音の方を目指して歩き出した。

歩いている間もその音は鳴り続け、おかげで、音の鳴っている場所まで迷うことはなかった。しばらく進んでいると、音と音の間に人の声のようなものが挟まっていることに気づく。何と言っているかは聞き取れないけれど、短い言葉を繰り返し叫んでいる。

そして、その言葉の響きは、負の感情で満ちていた。

いったい誰が何をしているのだろう。少し怖く思いながらも、好奇心に引きずられて、恐る恐る進んでいく。

音がもう近い。緊張しながらも、木と木の間を抜けていくと――。

その時、ついに音の主の姿が見えた。

その人物は、一本の木の幹を、ただひたすら何度も蹴り続けていた。その人物は右足で木を蹴り続けながら、「くそ! くそ!」と、怒りをそのまま吐き出したような言葉を叫んでいる。木の表面は、もうボロボロに抉れていて、いったいどれほどの力を込めて、どれほどの間蹴り続けてきたのかをうかがわせる。

私は、その人物の顔を見て絶句した。怒りに顔を歪めて、ひたすらに木を蹴り続けているのは、その行為が誰よりも似合わない男――高垣稔だった。

立ち尽くしていると、私の気配に気づいた高垣が、ハッとこちらを振り向いた。高垣は木を蹴る足を止め、バツが悪そうに目を逸らした。

しばらく気まずい沈黙が流れ、私はどうにか言葉を絞り出した。

「何、してるの……?」

「木、蹴ってた」と、それは初めて聞く声だった。普段の穏やかな声からは想像もできないような、平坦で、冷たい響きを持つ声だった。

「そんなの、見てたら分かるよ。どうしてそんなことしてたの?」

「……遠藤はさ」少しの間があってから、また冷たい声が続いた。「俺のことを、親の言うことに従順なつまらないやつだと思ってるだろ」

――どきりとした。バレていたなんて、思いもしていなかった。

「間違いじゃないよ。俺は、親とか教師とか、そういう大人の言いなりで、優等生を演じてきたから……でも。俺は遠藤が思ってるほど綺麗な人間じゃない」

ドン! と、高垣は再び目の前の木を蹴った。

「いい息子だとか、優等生を演じるのは、代償がいるんだよ。こうして定期的に発散しないと、すぐに耐えられなくなる」

私は、何も言えなかった。今まで見てきた高垣が全部偽物みたいに思えてきて、まるで初対面の人を前にしているみたいな気分になった。

「悪い、驚かせたよな。普通、こんなところ見たらビビるよな」

ずっと、つまらないやつだと思っていた。何の疑問も持たずに大人の言うことに従順になって、自分というものがまるでない。

でも違った。高垣の中には確かに自分というものがあって、それを無理やり力ずくで押さえ込んでいただけのことだったんだ。

今、目の前にいるこの高垣なら……

思わず、私は訊いていた。

「ねえ、高垣はこの先の方に行ったことある?」

「……いや」突然の質問を訝しく思ったのか、少し間を置いてから答えた。

「ちょっと見せたいものがあるの。ついてきてよ」

私は、高垣の返事も待たずに、来た道を引き返すように歩き出した。今ここにいる高垣のことを試してみたかった。

今まで、こいつの思考なんて絶対に理解できないと思っていた。私の見てきた高垣稔は、自分のことなんてどうでもいいかのように、大人たちに決められたままに生きていくやつだった。けれど、今私の目の前にいる高垣稔は、私が知っている人物とは、大きく離れている。どちらが本物なのか、確かめたかった。

もしもあれを見ることができるのなら、ここにいる高垣稔が本物だ。

高垣は突然のことに戸惑いつつも、速足になって私を追いかけてきていた。

ここからその場所は、そう離れていない。少し歩けば、すぐにそこへたどり着く。根元の腐った巨木の横を抜け、開けた場所に出る。それはさっきまでと変わらない様子で、私たちのことを出迎えた。もっとも、高垣の目にどう映っているかは分からないけど。

すぐ後ろから、感嘆の声が漏れるのを聞いた。

「なんだ、これ」落ち着いているが、興奮が抑えられないような声だった。

隣に来た高垣の顔を見る。息を飲むようにして、呆然とそれを見つめていた。

高垣にも、やはり見えたのだ。

「すごいでしょ。私も、ちょっと前に見つけたの」

「これ、穴だよな?」恐る恐るといった様子で、その穴に近づいていく。その穴を覗いた。「底がまるで見えない」

期待通りの反応に、私は思わず得意げになる。

「これね、見える人にしか見えないの。そして、見える人の中でも、大きさはまちまち。その大きさも、見に行くたびに変わるんだ」

「……は?」訳がわからないといった顔で、高垣は私の方を振り向いた。

「意味わかんないこと言ってるように聞こえるかもしれないけど、本当だよ。この穴は、そういう不思議なものなの」

「まあ、普通じゃないのは、見てればなんとなく分かるけどさ……」

「また今度見に来れば、嫌でも分かるよ。今、高垣にはどれくらいの大きさに見えてるか知らないけど、次に来た時には、絶対にそれとは違う大きさになってるから」

高垣はまた、じっとそれを見つめていた。何を考えているか、分からない目をしていた。黙っていると、不意に「うん」とうなずいた。

「信じるよ。遠藤が言うなら、きっとその通りなんだろうな」

「なにそれ。私だから信じるの?」

「ああ。遠藤って、そういう意味のない嘘とかつかなさそうだし」

高垣の中で私はどんな印象を持たれているのか気になったけれど、今は訊かないでおく。なんとなく、知るのが怖かった。

「さっき、見える人にしか見えないって言ってたけど、何か条件でもあるのか?」

高垣が訊いた。どうやら、本当に受け入れたらしい。

「私も詳しくは分かんない。けど、今日の高垣に会うまでは、高垣には絶対に見えないだろうって思ってた」

「分かるような分からないようなって感じだな」苦笑しながら言った。

笑いながらも、高垣の目は、ずっとそれへ向いていた。見入っていることに気づいて、私は黙った。初めてこれを見たら、まず圧倒されて、そして、絶対に引き込まれる。高垣は、じっとそれを見ている。

やがて、「なんか怖いな」と言った。

「けど、怖いだけじゃない。なんか、すげー引き込まれる」

「うん、すごく分かる。保奈美も同じようなこと言ってた」

「保奈美って、隣のクラスの安川さん?」

「うん。保奈美にも見えてたみたい」

「そっか。他にも誰か見えるやつはいるのか?」

「分かんない。けど、そんなにいないんじゃない? この前の山入りに日にここを歩いたんだけど、誰も見えてないみたいだったし。それに、保奈美も何人か友達に見せたらしいんだけど、みんな見えなかったんだって」

「へえ」

見えるのは、私たち一部の子供だけ。私たちは特別なんだという優越感はあったが、だけどやっぱり、不安もあった。これを見ていると、心が落ち着かなくなる。胸の奥の方で、何かドロドロとした濁流のようなものが流れているのを感じるのだ。ただの真っ黒な穴だけど、何か良くないものがこの穴の底で渦巻いているのではないか。そんな感覚がしていた。

もしも、この穴の中に落ちてしまったら……

私はそれが、たまらなく怖かった。

「いつからなの?」私は、ふと気になって訊いた。

「何が?」

「木、蹴るようになったの」

「ああ、今年の夏くらいからかな。そのぐらいに父親の腰が悪くなって、他にも、だんだん受験も意識しなきゃになって、いろいろと耐えられなくなったんだ。それで、気づいたら蹴ってた」

「ふうん、全然そんな風に見えなかった」

夏からということは、私はその変化を教室で見ていたはずだ。けれど、そんな風に変わった様子は少しもなかった。

「誰にもバレたくなかったからな。弱ってることなんて、察されたくなかったし……ま、今こうして全部バレちゃったけどさ」

「……ごめん」

「いいよ。普通、あれだけデカイ音立ててれば気づかれるよな。それに、誰かに見つけられて、逆にすっきりした気持ちもあるし」

そう言って高垣は、少しだけつかえが取れたような顔をした。そんな顔を見るのも、初めてのことだった。

私がずっと嫌ってきた高垣はいなかった。私が嫌ってきたのは、高垣自身が作った、偽物の高垣だった。

もちろん、その事実は簡単には受け入れられないし、気に食わないのは相変わらずだ。だけど、ほんの少し見直した。

「ねえ」なんてこともないように、私はつぶやいた。

「ん?」

「最近、私と保奈美で一緒にこの穴のこと調べてるんだけどさ……高垣もさ、見えるんだし、仲間にならない?」

「……いいのか?」なぜか、高垣はあからさまに驚いた。

「いいんじゃない? 見えるんだから」

「けど、おまえ、俺のこと嫌いじゃん」

高垣はそうあっけらかんと言って笑った。

そんなことまでバレていたのか。つまらないやつだと思っていたことも、それで嫌っていたことも、全部。全部見透かされているみたいに思えて、急に恥ずかしくなった。そんな風に恥をかかせた高垣のことが、急にムカついてきた。

「やっぱ、仲間に誘ったの取り消していい?」

「悪い悪い。俺としても、この穴が何なのかは気になるし、仲間に入れてくれたら助かる」

「次ふざけたこと言ったら、今度こそ外すからね」

「ああ、注意するよ」

本当に不思議なものだ、と思った。つい三十分前までは、こいつにだけは絶対に見えないと思っていたはずなのに、どういうわけか、今こうしてその高垣が仲間に加わった。

なんでこんなことになったんだろう? と考えて、すぐにやめた。どうしてか、こんなことになったのだ。


「そういえばさ、新しく見える人見つかったよ」

高垣と山の中で出会った次の日の放課後、私は保奈美の家に来ていた。

カーペットの上に横になって、保奈美から借りたマンガを読んでいた私は、ふと昨日のことを思い出して切り出していた。

「え、うそ⁉︎ 誰?」

「うちのクラスのやつなんだけどさ……あ!」何気なく顔を上げたその時、部屋の本棚に置かれたマンガの中に、気になるタイトルを見つけた。思わず、勢いよく上体を起こした。

「これ! 今ドラマやってるやつ!」

「もしかして、興味ある?」

「うん。ずっと原作読みたいなぁって思ってたんだけど……もししばらく読み返す予定とかなかったら……」

「いいよ。全然貸すよ」

「ありがとう。ホント、いいの揃えてるよね」

「まあね。近くに全然本屋ないし、揃えるの大変なんだから」

冗談めかす保奈美に、もう一度「ありがとう」と告げた時、部屋の外からピアノの音聞こえてきた。聞こえてくるのはこの家の中からだ。

「誰かピアノ弾くの?」

「弟がね。実は私も昔は弾いてたんだけど、全然上手くならないからやめちゃった」

「そうだったんだ。初耳かも」

楽器のことはよく分からないけど、今聞こえているピアノの音にミスをしたような感じはない。たぶん、上手いのだろう。

「さとちゃんと仲良くなる直前くらいまでは続けてたんだけどね。弟のほうが後から始めたのに、あいつなんでもできるから、私なんてすぐに抜かれちゃった」

自虐的に笑いながらのその言葉に、どう返したものかと困っていると、保奈美はまたマンガの話に戻した。

しばらく話を続けていると、だんだん夕食の準備を始めた気配がして、私は保奈美の部屋を後にした。もちろん、話したマンガを借りるのは忘れなかった。

――あ。

その帰り道で思い出した。高垣が仲間に入ることは、結局うやむやになったままだ。

まあいいや。

一人増えるっていうことは伝えたし、実際に山に行く時までのお楽しみにしよう。


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