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奔流を泳ぐ  作者: 琴羽
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玲美との関係が険悪になってからの私は、教室での立ち位置に迷っていた。

玲美との関係が変わったことをクラスメートに察されないよう、表面上は今まで通りを気取ってみたけれど、どこまで隠せているかは分からない。特に、同じ友達グループの三人には、何かがあったことなど筒抜けになっているだろう。気を使ってか三人は何も言ってこないから、それに甘えて、私も今まで通りを気取り続ける。まるで、今の関係にしがみついているみたいで、惨めだった。

この三人と一緒にいる理由も、時々分からなくなることがあった。この三人だって、玲美と同じだ。玲美とのように直接何があったわけでもないけれど、分かってしまう。みんな、私とは違う。私の願いも、私の悩みも、きっと理解してくれはしない。

けれど、この居場所を捨ててしまうだけの勇気が私にはない。話の合わない友達と、見ている世界の違うクラスメートに囲まれて、ただ耐え忍ぶような日々を過ごす。

早くこんな世界抜け出したい。頭の中にあるのは、ただそれだけだ。

この町は狭い。

この学校という世界は狭い。

そして、私が囚われているこのクラスという世界は、あまりにも狭く、息苦しかった。


クラスでの居心地が悪くなるにつれ、隣のクラスの安川保奈美と過ごすことが増えていた。保奈美は去年のクラスメートで、一番仲の良かった友達だ。クラスが変わってから少し疎遠になっていたが、最近また、昼休みや放課後などの自由な時間では、一緒に過ごすようになった。今のクラスの友達を放っておいて、隣のクラスの子と会うのは、きっとルール違反だけど、保奈美と仲がいいことは今の友達グループの三人にも知られているから、それほど非難の目を向けられていないのが幸いだった。もちろん、三人のことを、最低限おろそかにしないようには気をつけるけれど。

放課後、私は保奈美の家に寄っていた。保奈美の家は学校から近く、ちょうど私の家と学校の間に位置していることもあり、気軽に遊びに寄ることができた。

保奈美の家は新しくて大きい。この辺りの家は敷地ばかりが大きいけど、建物自体は古臭いものが多く、保奈美の家はその中で異彩を放っていた。そんなおしゃれな家に住んでいるのだから、きっと父親が偉い人なのだろう。私は、そこに行くのがいつも楽しみだった。

階段を上がってすぐのところに保奈美の部屋はある。そこの間取りは私の家と同じだけど、実際に部屋のドアを開けると、自分の部屋との違いに愕然とさせられる。部屋は広いし、片付いているし、それでいて、本屋みたいにマンガ本がいっぱいある。本棚に丁寧に並べられたマンガは、少年マンガと少女マンガのどっちもあった。

「さとちゃん、さとちゃん」と、得意げな顔で保奈美が私を呼んだ。

保奈美は、私のことを「さとちゃん」と呼ぶ。「子」の字で終わる名前で呼ばれるのが嫌で、半ば無理やり呼ばせたあだ名だった。

「何?」と訊くと、保奈美はおもむろに立ち上がっては、クローゼットのドアを開けた。

クローゼットから一着の服を取り出すと「じゃーん」と、賑やかな声を出した。保奈美が手にしているのは、もこもことしたファーの付いた冬のコートだ。それを見て、思わず私は前のめりになる。

「うわ、すご! これって、この冬の新作のやつでしょ?」

「そうなの! 結構高いからキツかったけど、お年玉を前借りする気持ちで買っちゃった」

そう語る保奈美の顔は、とても幸せそうだ。いけない感情だと分かってるけど、正直、ちょっと羨ましい。

保奈美と仲良くなった一番のきっかけは、好きな服のブランドが同じだったことだ。去年、クラスの女子数人と遊ぶことになった時、全身をアルマージュで固めた保奈美を見て驚いた。こんな田舎町に、このブランドの良さを分かる人が自分の他にいるとは思っていなくって、すごく感動したのを今でも覚えている。その時から、私たちはお互いに仲間意識を持つようになり、一緒に遊ぶことも多くなった。

保奈美の家はそこそこお金があるのか、よく新しいのを買ってきては、いつもそれを私に見せてくれた。サイズが合えば貸してあげられるのにね、なんて保奈美は言っていた。保奈美は私よりも背が低く、少しふっくらした体型をしていた。顔のニキビは少し目立ったけど、せっかく目が大きいのだから痩せればいいのに、といつも思う。

私は、保奈美が見せびらかすように揺らす冬の新作のコートを見ながら、ボロボロに擦り切れてしまった、買ったばかりのスカートの存在を思い出していた。

「いいなあ。やっぱり、冬のコートってどうしても高いもんね。どこで買ったの? ネット?」

「ううん、店舗だよ。お父さんに車でモールまで連れて行ってもらったんだ。これ、店舗限定らしくって、ネットだと買えないんだよね」

「保奈美の親は理解があって羨ましいな。私の母親なんて、何それって目で見てくるし、母親はこういう服が嫌いだって分かってるから、父親の方だって車なんか絶対に出してくれないよ」

「私だって、弟が行きたがってたから、ついでに乗せてもらっただけだけどね」

わずかに悲しみを帯びた表情で言った。

保奈美には、小学生の弟がいる。詳しい学年は知らないが、今は五年生くらいだったと思う。和明とは、学年が一つ違っていたはずだ。

「それでも十分だよ。私なんて、もし弟が行きたいって言っても、ついて行くこともできないよ。モールに行きたいって言っても、『どこの店に行くの?』なんて聞かれてさ。絶対、『もっと近くにしまむらがあるんだから、そこで十分でしょ』とか言ってくるよ」

「うわ、それ最悪。でもやっぱり、ちょっとロリータっぽいから、ママたちからはあんまり良く思われないんだよね」

「ね。あいつら、ホント分かってないよね」

保奈美とは本当に会話が弾む。共感する先が同じなのだ。

保奈美とは小学校が違う。もちろん、幼稚園だって違う。物心つく前から、当たり前にそばにいて、その流れで友達になった玲美とは違う。保奈美は、私が選んでなった友達だ。同じ趣味を持って、学校以外の話でも共感してくれる、貴重な友達だった。

だから、保奈美になら話してもいいと思った。

保奈美ならきっと、私の願いを受け入れてくれる。

「ねえ」と、少し真面目な声を出してみた。「保奈美はさ、私が東京の高校に行くって言ったら、どう思う?」

もしも保奈美にまで否定をされたら、私はきっと立ち直れない。信じているけど、やっぱり少し緊張した。

「……さとちゃん、東京に行くの?」

「例えばの話ね」

「もちろん、応援するよ。さとちゃんと家が離れちゃうのは寂しいけど」

「……ありがとう」

当たり前のように受け入れてくれたのが、嬉しかった。保奈美ならきっと受け入れてくれる。分かっていたけど、少し安心した。

私の話を理解してくれる。受け止めてくれる。保奈美だけは、他の理解のない田舎者たちとは違う。ただ一人でも、私を理解してくれる人がいるというのは、心強かった。

「でも、さとちゃんが東京に行くなら、せっかくだから、案内してほしいかな。私、池袋行ってみたい!」

「保奈美は相変わらず池袋なんだね」私欲に溢れた保奈美の言葉に、思わず苦笑する。保奈美の池袋好きは相変わらずだ。

「えー、だって池袋は私の憧れなんだよ? さすがに一人で行く勇気はないから、さとちゃんが案内してくれたら嬉しいな」

「もちろん、その時はちゃんと案内するよ」

私がそう言うと、保奈美は「やった」と嬉しそうに笑った。

そう笑っていたかと思ったら、不意に心配するような顔をした。

「東京の話ってさ、最近元気ないことが多かったのと関係あったりするの?」

「元気なさそうに見えた?」

「……うん。正直なところ、ちょっと心配してた」

やっぱり、保奈美はさすがだ。私が落ち込んでいたことも、全部見透かされてしまっていた。私のことを理解してくれている気がして、嬉しかった。

「東京のことは、関係ないわけじゃないよ。でも、別にそれほど落ち込んでないから、心配しなくていいよ」

「ならいいけど。私でよければ、いつでも相談乗るからね」

「……ありがとう」

保奈美の言葉は嬉しかったが、玲美とのことや、クラスのことを相談する気はなかった。保奈美には、そんなしょうもないものとは無縁でいて欲しかった。

「あーあ。やっぱり保奈美と同じクラスが良かったな」

「そうだね。私も、さとちゃんと一緒が良かった。来年は、また一緒になれたらいいね」

「だね。保奈美と一緒なら、卒業までの一年も少しは短く感じられるかも」

「さとちゃんは、早く卒業したいの?」

「合ってるけど、ちょっと違うかな。卒業して、東京の高校に行って、早くこんな町を出ていきたい」

今はただ、もどかしかった。どこに行けるわけでもなく、誰になれるわけでもない。退屈な日々がただひたすらに続く。

こうして保奈美と話をすれば多少の気晴らしにはなるけれど、いつも一緒にいられるわけじゃない。ほとんどの時間は、うるさいクラスメートや、くだらない教師、そして、母や父に囲まれて過ごさなければいけない。

別に、耐えきれないほど辛いわけじゃない。けれど、いつか耐えきれなくなる時がくる。まるで、膨らんだ風船に空気を入れ続けるような毎日が続いた。

この毎日が、ただもどかしかった。


あの日――母と喧嘩をして家を飛び出し、山の中へ逃げ込んだその日から、暇のある時は穴の様子を見に行くのが日課になっていた。それを目にするたび、本当に不思議なものだと思う。その日によって穴の大きさは広がることもあれば、狭まることもある。原理はまるで分からない。

だが、堀岡高校に行きたいという私の願いを母に拒絶されたあの日、あの時に見た穴の大きさが群を抜いて大きかった。真っ暗だった周りの景色とともに、あれは幻であったかのような気がしてくる。

けれど、見に行くたびに大きさを変えるこの真っ黒な穴の存在が、あの日の光景が幻でなかったことを訴えかける。

この穴は、いつも確かにそこにあった。


十一月の中頃、年に一度の最悪の一日がある。

その日はいつも、朝から慌ただしい。私は朝から、ただ憂鬱だった。

『山入りの日』

それは、古くからこの賀茂上町に伝わる風習だと聞かされている。いったい何のためか、この町の住民たちで、山の中を延々練り歩くというふざけた行事だ。昔、山への感謝がどうとか父が語っていた記憶があるが、そんなことを考えながら歩いているのは、一部の年寄りか、山で仕事をしている人かだけだと思う。最近では山への不法投棄が目立つから、それを探しに行くだけの行事になっている気がした。

要するに、古くから続く田舎町特有のくだらないしがらみだ。そんなくだらないものに、私はこれから駆り出されるのだ。近所付き合いを大事にする母は、私がそれに行きたくないと言っても、絶対に許すことをしない。中学二年にもなって町の行事に参加しているやつは、それほど多くない。

母と父と和明と四人で山の入り口のところに立つ。そこは、いつも私があの穴を見に行く時に使う場所と同じだった。そこに今日はたくさんの人が立っている。私たちみたいな親子に、老夫婦、この行事を取り仕切っている、山に慣れた大人の男の人たち。こんなに賑わっているこの場所を見るのは、一年に一度、この日だけだ。

気づけば、母が別の一団に混じって、そこの同年代くらいの女性と話をしている。話している相手の顔に見覚えがあった。母が私に手招きをした。

「この方、山岡くんのお母さん。PTA仲間で一緒なの」

「はあ」なんでわざわざ私が呼ばれたのか、不満をたっぷりと込めた。

「あいさつして」

「……こんにちは」

「息子がお世話になってます」

山岡の母親は、そう言って仰々しく頭を下げた。別に山岡とは仲良くないし、ましてやお世話なんかしていない。そんな風にされると、かえって居心地が悪い。

顔を上げた山岡の母親が、私を見て感心するような声を出した。

「でも、偉いわねえ。里子ちゃんは中学生なのにちゃんと参加して。うちの健二なんて、部活があるからって去年から来てくれないのよ」

「全然偉くなんて。うちはただ部活が暇なだけで」

母は謙遜しているが、喜んでいるのがよく分かる。おたくの里子ちゃんはちゃんと参加して立派ねー、と、そんな言葉を聞きたいがために、私をこの行事に連れ出しているのだ。

本当に、やめてほしい。

やがて母は話を終えると、父と和明のもとに戻る。その時になって、ようやく私も解放された。歩きながら伸びなんかして無言の抗議をしてみたが、母に伝わったかは分からない。二人の元に戻ると、いよいよ山の中へ入る時間のようだった。

重たい気分で、目の前に広がる山を見た。いつもと変わらない鬱蒼とした様子で、来訪者を待ち構えている。

私は、この山の奥にあるものを思って、危機感を覚えていた。この山の中を、ここから奥へと歩いていけば、いつもの穴のある場所へと突き当たる。あの穴を、大人たちなんかに見られたくなかった。

あれを大人たちに見つけられるということは、こっそり引き出しの中にしまった宝物を留守の間に見られるような、そんな理不尽さがある。あの穴が見つかったら、絶対に騒ぎになってしまう。

山入りの日に練り歩くルートは、参加する家族やグループごとに決められている。この行事を取り仕切っている初老の男から山の地図を見せられて、私たちの歩くルートを案内される。山の地図なんて、ざっくりとしていて、細かい場所なんて分からない。それでも、この初老の男が指でなぞった道がどこなのか、なんとなく分かった。

最悪だ、と思った。

そこは、まさに穴があるその付近だった。あの穴がある場所を、私はこれから家族四人で一緒に歩かなければいけないらしい。ただでさえ憂鬱だったのが、一気に最悪の気分だ。

けれど、まさかルートを変えてくれとは言い出せない。理由を訊かれた時、私はそれに答えられない。私の想像と道が違っていることを祈って、私は山の中へと入っていった。

あの穴を見に行く時にいつも私が通る道のりとちょうど同じ道を、今は家族四人で歩いている。和明は一人で勝手に騒ぎながら、あっちに行ったりこっちに行ったりと落ち着きがない。母はそれを、やれやれ、といった表情で見つめている。和明の体力についていける人は、この家族には誰もいない。「他の人にぶつからないようにしてね」と、母の精いっぱいが聞こえる。

「いつのまにか、和明には体力で勝てなくなっちゃったな」寂しさと嬉しさの混ざった声で、父が言った。

「和明の体力が増えてるのと、お父さんの体力が急激に落ちてるからでしょ?」母が返す。

「まあな。父さんだって、昔はよくこの山を走り回ってたんだけどなぁ……」

「この辺りの子供は、みんなこの山で育つからね。本当に、懐かしい」

「でも、もう里子たちの世代じゃあ、遊びといったら家でゲームとかかな?」

いちいち話題を振ってくる父が鬱陶しい。それを面倒に思いつつも、結局言葉を返してしまう自分に、まだまだ甘いな、と思う。

「別にそんなことないよ。私だって、昔はよくこの山には来てたし」

「そっか。そうだよなぁ、里子もこの町の子供なんだもんな」

しみじみと話すその言葉が、癪にさわった。この町の子供、その言い方が気に入らなかった。まるで、この町に生まれたら、この町に染まらなくてはいけないみたいだ。私は、この町になんて染まりたくない。

気づけば、父が隣を並んで歩いていた。何かを言いたげにしているのが分かった。

「……進路のこと、母さんから聞いたぞ」

そんなことだろう、と思っていた。私はもう、言葉を返さない。黙っていると、父が続けた。

「頑張るんだぞ」

その一言だけだった。

それだけ言うと、また父はスススッと離れていき、母の隣へ戻って行った。前を歩く父の背中を見て、可哀想な人だな、と思った。

「あら、あそこにいるのって」

ほら、と急に母が指をさした。指の先を見て、「げ」と声を漏れた。なんであいつがこんなところにいるんだ。思わず目をそらしたけど、今更どうにもならない。

高垣とその両親が、私たちの前をちょうど横切るようにして歩いていた。

「ああ、高垣電気の」

父も、母の指さす先を追って、声を上げた。この辺りの人は、誰もがあの電気屋を知っている。うちの両親も、その例外じゃない。向こうも私たちに気づいたようだった。

「こんにちは」と、向こうの両親も頭を下げ、こっちも頭を下げながら挨拶をおうむ返しした。高垣が自分の両親に、「クラスメート」と、私を紹介している。高垣の父は、頭を下げる時に少しだけ腰を気にするようなそぶりを見せていた。

高垣の社交辞令的な挨拶と、その顔に浮かべる柔和な笑みは完璧だ。嫌味なくらいに、洗練されている。

「高垣さんのところの息子さんは、本当に礼儀正しいですね。よくお店の手伝いをしているのも見かけるし」

感心した風に母が言った。

「いえ、暇な時にちょっと手伝うくらいですよ」高垣は大人みたいな謙遜をする。

「どうにも最近腰が悪くて、何か頼りきりになってしまってるんです」高垣の父が、参ったように言った。

「そうだったんですね。でも、頼りになる跡取りがいていいですねえ」と、私の父。

「はは、本来は私がもう少し現役で頑張らなきゃいけないんですけどねえ。でも、おかげさまで、うちの店ももうしばらくは安泰です」

「いやあ、頼もしいですね。もしそちらのお店に何かあったら、我が家の家電は全滅ですから助かります」

そう言って父が笑うと、それに合わせて他の大人たちも作ったような声で笑う。その中には高垣の声も混ざっていた。

なんでだ、と思った。

なんでそんな風に笑えるのか、私には分からなかった。自分の未来が勝手に他人に語られているのに、どうしてそんな平気な顔をしているんだ。

母が、私の顔を見たのが分かった。この空間の中で不機嫌な顔をしているのは私一人だ。きっとそれが母には許せないのだろう。高垣と比べられているんだろうっていうことは、私だって分かっている。

だけど、違う。おかしいのは私じゃない。

平気な顔をして他人の人生を語る大人たちの方が、よっぽどおかしい。

大人たちに挟まれながら、そのつまらない会話を聞くのは、本当に最悪の気分だ。早くこの場から抜け出したい。こんな行事、さっさと終わって欲しい。

大人たちの笑い声を聞かないようにして耐えていると、ようやく高垣とその家族との会話は終わった。お互いに別れを告げて、それぞれの進行方向へと歩き出す。高垣はまた別れ際に会釈なんてして、最後まで礼儀正しい態度を崩さなかった。

母が何か言いたそうにしている気配がして、何か言われる前に、歩調を緩めて二人の後ろに移った。距離をとると、あきらめたのか母は結局何も言ってこなかった。

母や父を無視して、一人で山の中を散策するのはそう悪い気分ではなかった。

寒過ぎず暑過ぎず、天気だって快晴だ。もう何度も歩いた道のはずなのに、日の出ている時間に歩くと気持ちが良かった。

だが、そんな風に穏やかな気持ちで歩けるのも、少しの間だけだ。

あの場所が、近づいていた。

あと少し進めば、あの穴がある場所へとたどり着く。あれを見たら、この人たちはどんな反応をするだろうか。

驚くだろうか。慌てるだろうか。それとも、怯えるだろうか。少なくとも、私が感じたような心を惹かれる感覚を覚えることはないだろう。

あの感覚は、きっとこの人たちには理解できない。

いよいよだ。先頭を歩く父が、あの穴の目印になっている、根元の腐った巨木のところまでたどり着こうとしている。私だけの秘密を知られる気恥ずかしさと、自慢の洋服をひけらかす時の優越感に似た、不思議な気分だった。

止めようか、と少し迷った。けれど、引き止められるだけの理由が見つからない。悩んでいるうちにも、ついに父はその巨木の脇を抜けて、開けた空間へと足を踏み入れて行く。そして……

――え?

父は、それを無視した。

まるで、そこに何もないかのように。

ありえない。真っ暗な闇に染まった、あれほど異質なものを見て、無視なんてできるはずがない。気づいていないふりをしているのかとも思ったが、そんなことをする理由がない。

母もやがてそこへ行くが、反応はまるで父と変わらない。和明だってそうだ。その反応を見て、私は理解した。

そうか。これは私にしか見えないんだ。

あるいは、向こう側の世界――退屈な世界で生きている人には見えないものなんだ。

「何してるんだ里子、はぐれちゃうぞ」

思わず立ち止まってしまっていた私に、父が呼びかけた。

「今行く」

穴を横目に見ながら、先を歩く両親を追って歩き始めた。

私の気持ちは、この山に入る前よりも、ずいぶんと楽になっていた。この気持ちはたぶん、優越感に似ている。この穴は、私にしか見えない。私だけのものなんだ。そう思うと、自分が少しだけ特別な存在になったみたいで、誇らしかった。

後ろを振り返って、通り過ぎた穴を見た。それは、今も確かにそこにあった。決して幻なんかじゃない。真っ黒な闇に染まったそれは、確かな存在感を放ってそこにある。

この穴はいったい、何の意味を持ち、どうしてそこにあるのだろう。

本当に見えるのは私だけで、他に誰もいないの?

分からないことだらけのその穴を、私は知りたいと思い始めていた。


その次の月曜日の放課後。その日も私は、保奈美と一緒に帰っていた。私には、保奈美にどうしても確認したいことがあった。

学校を出て少し歩くと、すぐに保奈美の家がある。何気ない雑談をしつつ保奈美の家の前の通りまで来ると、辺りにはうちの制服を着た学生はいなくなっていた。ここでなら、誰かに話を聞かれることもないだろう。

私は立ち止まり、保奈美と向き合った。

家族の誰にも見えなかったあの穴。もし、あの穴がこっち側の人間にしか見えないのだとしたら……

私には、一つの確信があった。

「ねえ保奈美、変なこと訊いていい?」

「どうしたの? もちろんいいけど……」

少しだけ緊張をしていた。変な子だって思われたどうしよう、と少し不安が頭をよぎる。けど、保奈美だったら、絶対に大丈夫だ。

「あの山にさ」私は、斜め先に見えるあの山を指差す。「自分にしか見えない、真っ暗な穴があるって言ったら信じる?」

保奈美は、少し考えるそぶりをした。そして、

「さとちゃんも見たことあるの?」

と、半信半疑な顔で言った。

「さとちゃんも、って、もしかして保奈美も見たことあるの? あの、どれだけ深いのかも分からなくて、見る度に大きさの変わる、あの不思議な穴を」

「う、うん……驚いた。まさか私以外にも見える人がいたなんて」

保奈美は本当に驚いた風で、驚きながらも、どこか嬉しそうに見えた。私も、嬉しかった。

「やっぱり、思った通りだ。保奈美ならきっと見えるんじゃないかって思ってたんだ。まさか、もう知ってるとは思わなかったけど」

「私も、さとちゃんが見えるのは納得だな。最初見たときは驚いて、去年同じクラスだった友達に慌てて見せたんだけど、『何もないじゃん』って言われちゃって……その子だけじゃなくて、誰に見せても見えなかった」

「そっか。やっぱりみんな、あれが見えないんだ」

話を聞く限り、穴が見えない人物に共通点はないように思う。大人だけ見えるのかとか、女子だけ見えるのかとか考えて見たけれど、どれもたぶん、正解からは程遠い。

保奈美の話から推測してみたけど、答えは分からない。やっぱり、こっち側の人にだけ見える、という推測が正しいように思えた。

「保奈美はあれ、どう思った?」

「……怖い。なんだか、全部を呑み込んでいっちゃいそうで……だけど、怖いだけじゃない何かがあるような気もする」

「うん、すごく分かる」

保奈美は私よりも怖がっていように思ったが、怖さだけじゃないところは同じだ。胸をざわつかせるあの感覚に、どうしようもなく心を惹かれる。その不思議な感情の正体は分からないけれど、たぶん、それを表す適切な言葉なんてない。

保奈美にもこの穴が見えるなら、言おうと思っていたことがあった。今なら言える、と、それを口にしようとした。

その時、怒号が響いた。

「こらあ! またおまえらか!」茂の声だった。

その声に、私は反射的に隠れ場所を探した。「やばっ」と、かっこ悪いけど、すぐ近くの電柱に隠れた。茂とは、この前怒られた時に逃げ切ったままになっているから、見つかるわけにはいかない。また追いかけっこになる展開だけは、どうしても避けたい。

電柱の隙間から声のした方を見た。どうやら、怒りの矛先は私たちではないようだ。うちの制服を着た二人の男子が、茂と睨み合っていた。私に気づいた様子はないようで安心したけど、顔を見られたらまずい状況に変わりはない。

「そんなに隠れなくても大丈夫だよ。あそこの男子に怒ってるみたい」

「ちょっと顔を見られたくない理由があるの。ね、もうちょっと隠れてていい?」

「まあいいけど……」と、保奈美が返す間にも、茂の怒号は続く。「おまえらは何回言ったら分かるんだ!」

今度はいったい何に対する説教か。いつもキレてばかりいる茂だけど、今日は一段と激しい。それに耐えられなかったのか、ムキになった一人が反論した。

「いっつもいっつもうるせえんだよ。おまえの孫、引きこもりのくせに! 偉そうに説教すんなよ!」

その言葉に、茂は露骨にキレた。遠くからでも、肩が大きく震えているのが分かった。

「なんだと、貴様。少しお灸を据えてやる!」言いながら茂が一歩を踏み出すと同時、二人の男子は走り出した。「待て!」茂は慌てて二人を追う。三人は私たちの方とは反対側に走っていき、その背中はすぐに見えなくなった。

それを見届けて、私は電柱の陰から出た。

「なるほど」面白いものを見た。「茂を挑発するには、ああ言えばいいんだ」

「挑発してどうするの」保奈美が笑った。

「なんか使えそうな気しない? ていうか、茂って孫なんていたんだ」

「うん、私たちと同い年だよ。私、今同じクラス」

「え、うそ。女子? 男子?」

「女子だよ。ええと、大黒舞花ちゃんだったかな」

大黒という姓を聞けばあの老人のことは思いつくはずだし、きっと去年も違うクラスだったのだろう。それにしても、あの茂の孫が引きこもりとは。

「引きこもりってことは、やっぱり学校来てないの?」

「うん、少なくとも私は会ったことないな。誰も話題にもしてないし、たぶん去年も来てなかったんじゃないかな」

こんな田舎にもいたんだ、と思った。なんとなく、そういう問題は都会特有のものだと思っていた。確かに、部屋から出たくなくなる気持ちも分かる。学校に行けばバカなやつらに囲まれて、家にいてもあの茂の子供に当たる親と顔を合わせなければいけないなんて。けど、引きこもりが許されているなんて、ちょっと羨ましい。

「まあいいや」と、話を戻す。

いない人のことなんて、どうでもいい。茂のせいでずいぶんと話が脱線してしまっていた。茂の怒声が聞こえる直前、私が口にしようとしていたことを思い出す。

「ちょっと提案があるんだけどさ……」

「なに?」

「一緒に、あの穴の謎を調べてみない? きっと、まだまだ不思議なことがいっぱいあると思うんだ」

私の提案に保奈美は一瞬驚いて、そして共犯的に笑った。

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