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奔流を泳ぐ  作者: 琴羽
3/16

次の週の月曜日、その日一日、私は玲美と言葉を交わすことをしなかった。

玲美とは同じ友達グループに所属していて、玲美と険悪になったからといって、いきなりそのグループを離れるわけにはいかない。五人の友達グループの中で私たちは、お互いに避け合って、他のメンバーとばかり話をしていた。当然、全体での会話になれば向き合うこともあるが、交わす言葉はあいづち程度だ。

女子にとって、所属するグループを変えるということは、簡単なことではない。来年度のクラス替えまでこんな日々が続くのかと思うと、気が重くなった。

放課後の時間、先週までであれば、何も考えずに玲美と二人で帰れば、それで良かった。だけど、もう今はそうはいかない。

玲美以外のメンバーはみんな真面目に部活に励んでいて、帰宅時間が合うことはない。このまま大人しく一人で帰ろうかとも思ったが、あまり早く家に帰ると、また面倒な進路の話でもされそうだ。

私の進路希望調査書は相変わらず真っ白なままで、行きたい高校の名前の一文字だって書けていない。否定されると分かっている高校の名前を書く勇気は、まだなかった。

家にも帰れない私の避難所になり得る場所は、一つしかない。私の足は、美術部の活動場所である美術室へと向かっていた。


この学校の美術部に、およそ団体としての機能は存在していない。部員だって各学年に二、三人程度で明確な活動日も決められていない。それぞれが適当に美術室へと訪れて、好き勝手な絵を描いていく。やる気のない私がそこに顔を出すのは、週に一度あるかないかのペースだ。全体で集まることもないから、私は未だに一年生の顔と名前が一致していなかった。

久しぶりとなる美術室のドアを開けると、背の高いイーゼルスタンドと、その前に座る一つの人影が目に入った。その姿に、思わず顔をしかめる。後ろ姿だが、清潔感のある短髪と、すらりとしたシルエットを見間違えるはずがなかった。高垣稔だ。

「よう、珍しいな」高垣は顔だけをこっちに向けた。

どうやら今日は高垣しか来ていないのか、見回してみても他のメンバーの姿はない。

「一人?」

「ああ。一瞬、よっしー先輩がいたけど、すぐどっか行った」

「ふうん」曖昧に返事をして、棚に荷物を置く。

二人きりとは、面倒なことになった。しかも相手は、あの高垣稔だ。今すぐ回れ右をして美術室を後にしたいが、そんなあからさまな真似はできない。大人しく椅子に腰をかけて、美術室に置きっぱなしにしているスケッチブックを手に取る。

私たちは部活が同じでクラスだって二年から同じになったけど、ほとんど会話を交わすことはない。特に話すことがないのも理由の一つだけど、会話になる機会を作らないように私の方が避け続けていたのが大きい。美術室に高垣が来ているか、ドアを開ける前に確認しなかったのは迂闊だった。

ちらと高垣の方を横目に見た。

高垣は絵が得意だ。『家の都合で時間の取れる部活が良かったのと、絵を描くのが好きだからここにしました』入部して最初の挨拶の時、彼はそんなことを話していた。一年の最初の時から彼は身体が大きくて、美術部なんかに入ってきたことを意外に思った記憶がある。だが、実際に彼が筆を走らせているところを見て納得した。彼は本当に絵が上手かった。

高垣の左手にはパレットが置かれ、彼の目の前には絵の具で描かれたカラフルな風景画が、スタンドにかけられて置かれている。私はスケッチブックをパラパラと開いて、描きかけになっている絵があるページを開く。そこ描かれているのは、細い鉛筆で描かれたアニメ調の人物画。背景もなければ、身体さえまともに描かれていない。

美術室は決して広くない。くすんだ白の薄っぺらなカーテンが閉められて、そこから沈みかけの太陽の光が漏れている。それがやけに、この部屋に私たち二人しかいないのだという事実を強調していた。

二人きりでいる気まずさをごまかすため、私は無心で指を動かす。手元からは鉛筆の音、少し離れたところからは筆の音が聞こえてくる。私が動かす鉛筆の先から聞こえてくる音は、高垣が動かす筆の音に比べて、あまりにも貧相に聞こえた。

高垣は勉強もできて、運動もできて、それでいて絵も描ける。それなのに、この町からは出られない。ずるい、と思った。分からないけど、ずるい。

高垣稔はずるい。

いつのまにか私の指の動きは止まり、視線は高垣の背中を向いていた。不意に、高垣がこっちを見た。目が合ってしまった。

「どうかしたのか?」用があると思ったのか、高垣は訊いた。

虚を突かれて慌てる。気づけば、別に知りたくもないことを訊いていた。

「高垣はさ、もう進路の紙書いた?」

「ああ、昨日の夜に書いたよ」

「やっぱり第一志望は一高?」

一高は、県内で一番偏差値が高い。全国的に見れば極端に高いわけではないけど、この辺りのできるヤツは、みんな一高に行く。少し遠いけれど、私たちの住む賀茂上町からも通えない距離じゃない。

「まあ、一応な」高垣は恥ずかしそうに、筆の柄の部分で頭を掻いた。「ちょっと厳しいけど、今の時期はあくまで目標みたいな感じだし」

「美術の高校に行ったりはしないの? 絵、そんなに上手いのに」

「まさか、行けるわけないよ。確かに絵を描くのは好きだけど、あくまで趣味レベルだし。俺は身の丈に合った道に行くよ」

それは、あまりにもあっけない言葉だった。もう、最初から諦めてしまっていて、考えることさえ放棄してしまっているようにも聞こえた。捨ててしまっている。自分自身の可能性とか、自分自身そのものを。高垣は、そういうものに執着がないのだ。

胃の辺りがムカっときた。なんでそんな簡単に捨てられるんだ。

私が彼を嫌う理由を、改めて突きつけられた気分だった。

きっと彼はこれからすごく努力をして、一高に入るための権利を手にするだろう。その後も努力を重ね、順当に一高を卒業し、東京の有名大学に進学する。

そして、それからどうなる?

彼は卒業したら、必ずこの田舎に戻ってくる。そして、実家の高垣電気を継ぐ。つまらないしがらみのせいで、彼の才能も、彼の努力も、すべてが潰される。そんな未来が決まっているのだ。

そんな未来を平気な顔をして容認している彼が、私は心の底から憎らしかった。

「そういう遠藤は、相変わらず白紙のままか?」

前回の進路希望調査の時、大西はクラスメートの前で、私の紙が白紙だったことを責めた。高垣は、しつこくもその時のことを覚えているのだろう。

言葉を返せないでいると、肯定と捉えられたようだった。

「明日までなんだから、急がないとやばいぞ」

きっと高垣の志望校一覧は、偏差値が高くて、家からも通える公立校の名前でびっしりと埋まっているのだろう。だけどそれは、何も書かれていないのと同じだ。その紙には、彼が自身でさえ気づいていない本当の望みや可能性が、綺麗さっぱり排除されている。中身のない、空っぽの進路希望調査書。

私は、机の上に置きっ放しにしている空欄が並ぶその用紙を思い出していた。書きたい名前があるはずなのに、書く勇気がなくて今も空っぽのままのそれ。このまま何も書かなければ、彼と同じになってしまう。それだけは、嫌だ。

私は、こいつと違う。

こんなやつと同じになんて、絶対にならない。

「心配されなくても、私は書くよ。私には、行きたいところがあるんだから」

私はあなたとは違うのだ、と。そんな思いを込めて、私は口にした。私は、私の可能性を潰したりなんかしない。

私は、私の未来を切り開く。

「すげえな、遠藤は」高垣は言った。

やけに感心するようで、少し悲しそうな表情に見えた。

何が? と、訊こうと思った。ちょうどその時、美術室のドアが開いた。

「あれ、里子ちゃんじゃん。めずらしー」

賑やかにそう言って入ってきたのは、よっしー先輩だ。そういえば高垣が、最初はよっしー先輩がいたがどこかに行った、と言っていたのを思い出した。

願っても無い助け舟が来た。よっしー先輩は、美術部員の中で一番美術部員らしくない、ノリの軽い賑やかな人だ。よっしー先輩がいれば、部屋の空気はがらんと変わる。

本来三年生はもう引退しているが、よっしー先輩は今でもよく美術室に顔を出している。果たして受験勉強は大丈夫なのか、と部員の誰もが心配しているが、実際に大丈夫なのかは分からない。

「先輩、今日も描きにきたんですか?」ここぞとばかりに、高垣の方から視線を外して、よっしー先輩の方を向く。

「そだよー。家じゃあロクな画材がないからね」

「いや、勉強しましょうよ」高垣が笑いながらツッコミを入れる。

なんというか、こいつが言うとイヤミだ。それでもよっしー先輩は意に介した様子もなく、「まあね」と笑った。

「さて、それじゃ書きますかー」

よっしー先輩は、私たちの間にある定位置の椅子に座ると、すぐに真剣な顔になって目の前のキャンバスに向き合った。さすがの先輩も、描き始めると静かになる。集中力が切れると突然騒ぎ出すが、描き始めの頃は静かだ。再び部屋には沈黙が漂う。だが、二人きりでないというだけで、さっきまでの気まずさはない。

私は手に持ったスケッチブックに描かれた少女の顔を見る。大きな目と、長い髪。大西から絶対に注意されるような髪型をして、耳にはイヤリングなんか付けて、ランウェイを歩くモデルのように、毅然とした顔をしている。

今日はこれを描き上げよう。今度はちゃんと身体まで描き切るんだ。そう決意をして、鉛筆を握る手に力を込めた。

描き終えたら家に帰ろう。そして、机の上に置いたあの用紙の、一番上の空欄に本物の願いを書いてやるんだ。

覚悟ならもうできた。


部屋の机の椅子に座り、志望校の名前の、その最後の一文字を書き切った私は、達成感から思わず声を上げた。

「よしっ」

机の上に置かれた、四つほどの枠が並ぶA4の用紙の、その一番上の枠の中に書かれた文字を見た。

『私立 堀岡高校 普通科』

それこそが、私の中の絶対の進路。私の憧れである天月そらが卒業した高校であり、輝くような寮があることと、可愛い制服が特徴の、東京の私立高校。それは、私が進むべき道の名前でもある。

書き込んだ高校の名前はその一つだけで、他の枠の中はすべて空っぽだ。絶対怒られるだろうな、と思う。だけど別にそれでいい。理解のない大人に邪魔されようと、絶対に屈したりなんかしない。

私は絶対にそこへいく。逃げ道なんて、ない方がいい。

自分の机の上に置かれた進路希望調査書を見ていると、思わず笑みがこぼれた。この紙っぺらに何の効力もないことは分かっているけど、それでも、この紙が私を東京へと連れて行ってくれるチッケトみたいに思えた。

さあ、これを親や教師に見せなくちゃいけない。

制服を着替えるのも後回しにして、その紙を片手に階段を降りる。母はキッチンに立っていた。恐る恐る、その背中に声をかける。

「お母さん」

呼びかけると、母は食器を拭く手を止めた。拭き途中の食器を手に持ったまま、ゆっくりとこっちへ振り向いた。私が自分から母に声をかけることは少ない。きっともう、私が何の用件で声をかけたのか、その内容を察しているだろう。ゴクン、と一度唾を飲んだ。

「どうしたの」母が食器を流し台に置いた。

「進路の話、しようと思って」

「座って話そうか」

母はリビングのテーブルへと向かい、いつもの席へ腰をかけた。私もそれを見て、いつもの席に座る。自ずと、向き合うような形になった。

少しの間をおいて、私はテーブルに進路希望調査の紙を置いた。ついさっき私が書き込んだばかりの堀岡高校の名前だけが、堂々と自己主張するようにそこにある。

「私、ここに行こうと思う」

反論なんてさせない。行きたいとか、行かせて欲しいとかじゃなく、私は断言をした。

母は、目の前に差し出されたA4の紙を、じっと見つめている。いったい何を考えているのか、その目だけでは判断がつかない。

黙っているのが、逆に怖かった。志望校が一つしか書かれていないことに戸惑っているのか、東京の学校が書かれていることに驚いているのか。母親の反応を、じっと待った。

「これ、私は知らない高校なんだけど、どんな高校なの?」

しまった、と思った。堀岡高校のことを母親に話したことはないし、私立だからどこにある高校なのかも、名前を見ただけでは分からない。

覚悟を決めて、口を開いた。

「……東京の高校なの。寮もあるみたいで、通えそうだったから」

まともに話をするつもりなんてなかったから、つい言葉が弱くなる。私はうつむくような姿勢になりながら、視界の端で母の様子を捉えつつ、また言葉を待った。

母は、すぐには反応を返さなかった。表情のない目で、ただ私の書いた文字を見つめている。何を言われてもいい、と覚悟を決めてきたはずなのに、どうしようもなく緊張していた。

「ねえ」沈黙に押しつぶされそうになった時、ようやく母が口を開いた。「これを私が許すだなんて、本気で考えたの?」

感情を殺したような、冷たい声だった。

母のその冷たい声は、私を萎縮させる。だけど、それに屈したくはなかった。今度はしっかりとした口調で、私の決意を語った。

「もちろん、おとなしく認めてくれるとは思ってないよ。だけど私、決めたから」

そう。私は決めたんだ。たとえどれだけ反対をされても、絶対に負けるものか。

強い意思を込めて母を睨んだ。

「はあ」と、母はため息を吐いた。

「ここがどんな高校かは知らないけど、有名な進学校っていうわけじゃないでしょう?」

進学校だとか、そうじゃないだとか、そんなことはどうでもいいじゃん、と思う。けれど、このタイミングでそんな反発をすることは逆効果だと分かっている。何も言い返せずに黙っていると、母は首を横に振った。

「お願いだから、私をあまり困らせないで」

――また自分のことだ。

母はまた、自分の都合で私の願いを測っている。私は、努めて冷静な声を作った。

「なんでダメなの?」

「だって、ねえ」母は言葉に困るような仕草を見せた。「東京へ行くのは、大学からでいいじゃない」

思わず、身を乗り出して叫んだ。

「それじゃあダメなの! そんなの、耐えらんない……」

「大学からは好きにしていいから。三年だけの我慢だと思って――」

「待てないの! 方法がないなら諦められるけど、私でも通える東京の高校があるのに、我慢なんてできないよ!」

「里子」と、真面目な声で呼びかけて、私の顔を見つめた。「お願い、分かって」

静かな声だったが、有無を言わせない強さがあった。

だから、分かってしまった。どんなに私が説得をしようとしても、きっと母には届かない。

「もっと自分に合ったところがあるでしょう。ほら、篠川高校とか。あそこなら同じ中学の先輩もたくさんいるだろうし、難度的にも少し頑張れば手が届くと思うの」

どうしてそんな具体的な名前が出てくるんだ。こんなの、そこに行けと言われているようなものじゃないか。

篠川高校はこの町からほど近い公立校で、偏差値もそこそこということもあり、確かにうちの中学から進学する人も多かったはずだ。まるで眼中になかったから詳しくは知らないが、ただ、制服がダサかったことだけは、はっきりと覚えていた。

自分の思い通りにさせようとする母の手になんて、絶対に乗ってやるものか。

「興味ないから、そんな高校」

「私はあなたのためを思って言ってるの。私はずっとこの町に住んでるから、あなたよりもずっとこの辺りの高校のことは知っているつもりだから」

「余計なお世話って言ってるの! 私が行く高校は、私が決める」

私の人生が誰かの手によって決められてしまうなんて、それだけは絶対に嫌だ。私の人生に、他の誰かが入り込んでくる余地なんてない。

「別に私は、篠川高校に行けって言ってるわけじゃないの」

「そう言ってるようにしか聞こえないよ! 篠川じゃなくていいなら、じゃあ、ここに行ったっていいよね?」

バンッ! と進路希望調査書の置かれたテーブルを叩き、そこに記された堀岡高校の名前を見つめた。私はここに行くのだと、改めて主張するように目で訴えた。

「それとこれとは話が別でしょう。悪いけど、それは認められないの」

母は頑なな態度で言った。

その態度に、ブチ、と私の中で何かが切れた。こんなの、ふざけている。こんな理不尽なことが許されていいわけがない。

私はもう、耐えられなかった。

「嫌なの! こんな狭い田舎で生きて行くなんて、もううんざりなの‼」

叫びながら、椅子を立った。これ以上話したところで、どうせ何も変わらない。だったらもう、こんな息苦しいところにいる必要はない。

母に背を向け、そのまま玄関へと向かっていた。

「ちょっと里子、どこへ行くの?」

母も、私を追って玄関へ来る。私は靴入れからスニーカーを取り出し、足を入れた。

「別にどこだっていいじゃん」

「いいわけないでしょう。こんな時間に」

「……友達の家に行く」

「こんな時間に? 迷惑よ」

この期に及んで、この人はまだそんなくだらないことを気にしている。何を言われても、止まるつもりはなかった。

「ほっといてよ! どうしようと、別に私の勝手でしょ?」

「……絶対に遅くはならないで」と、観念したような声だった。

これ以上面倒にはしたくなかったから、「分かったよ」と大人しくうなずいて、そして私は家を出た。

友達の家に行くなんて嘘だ。本当は、行く当てなんて何もない。

バタン、と音を立ててドアを閉まった瞬間、胸の中で炎が立ち上った。それを合図に、まるでエンジンがかかったように、私は走り出していた。

こんな田舎町に、私の味方は一人もいない。

理解してくれる人なんて誰もいない。

みんなこの狭い世界に囚われて、何も見ようとしていない。こんなところにいる限り、東京へ出て行かない限り、私の人生は死んでいるのと同じだ。

走る。走る。どこに行く当てもないけれど、ただただ走る。走りながら何かを叫んでいたような気もするけれど、何を叫んでいたのか、自分でもよく分からない。ただ、胸の中で暴れる何かを発散させたかった。

太陽は完全に姿を隠し、月明かりと少しの街灯だけが辺りを照らしている。月が追いかけて来る夜道を、私はひたすらに走った。

なんで私は走っているのだろう、と、そんな声が頭の中で繰り返し響く。その声が、鬱陶しかった。その雑音をかき消したくて、また走った。

――私はどこまで行けるだろう。

このまま走り続けていれば、どこか遠くの世界まで行けるのだろうか。この町を超えて、見たこともない世界までたどり着けるだろうか。

このままどこまでも行きたい気分だった。私のことを知っている人が一人もいない、遠い世界へ……

私の居場所はここじゃないんだ。言葉にならない声を、私は叫んでいた。

やがて、体力のない私はすぐに息切れた。膝に手をついて、乱れた呼吸を整える。酸素を求めて暴れる心臓がうるさい。半ばむせるようにして、酸素を求める。しばらく経ってようやく呼吸が落ち着いてくると、辺りを見渡した。いつの間にか、山の近くまで着ていた。もっと見たこともないような場所に行ってみたかったのに、私の足で行ける範囲なんてたかが知れていた。

ここからどこに行こう。少し考えたところで思った。この前の土曜、茂に追われて逃げ込んだ先で見つけた、あの不思議な穴。あれが見たい。

少し歩くと、すぐに山の入り口まで着いた。目の前に広がる闇に包まれた山に、ゾクっとした。怖い。けど、行きたい。

きっと当たり前の思考があれば、こんな日の落ちた時間に山の中に入っていこうなんて、ありえないと思う。けれどたぶん、今の私は自棄になっていた。

恐怖心を振り払い、山の中へと入っていく。鳥の鳴き声もなく、シン、と静まり返っている。スカートからのぞく足を、ひんやりとした空気が撫でた。

制服のポケットに携帯だけでも入っていたのが幸いだった。携帯のライトを頼りに、奥へ奥へと進んでいく。月明かりもあったが、生い茂る木の葉が邪魔をして、あまり光は差してこない。携帯のライトが届く、わずか先しか見えなかった。

どうしてこんな勇気を出せたのか、自分でも不思議だった。ホラーに対する恐怖は人並みにはあるし、今私が恐怖を感じていることは間違い無いと思う。

怖い。夜の山の中はすごく怖い。こんなところ、今すぐ引き返してしまいたい。

けれどそれ以上に、こんなところで引き返したくないという思いがあった。あの日見た、真っ黒な丸い穴。どうしてかは分からないけれど、私はそれに強く惹かれていた。

強い引力が働いているかのように、私の身体は吸い寄せられていく。そこに行くのはこれで二回目のはずなのに、不思議と迷うことはなかった。

しばらく歩くと、それは私の目の前に現れた。あの日と同じ、漆黒で塗りつぶしたような色で私を出迎える。

けれど、一つだけ、以前とは明らかに様子が異なる部分があった。

――それは、あまりにも巨大だった。

まるで巨大な口のようだ、と思った。近づくものすべてを呑み込むかのように、あんぐり、と開かれた漆黒の口。ぞわり。足元が竦んだ。

何これ、こんなことあり得るの?

この前は直径にしてちょうど一メートルほどの穴だったのに、今は数メートルほどにまで広がっている。前に見たものと別のものかと思ったが、すぐ近くにある根元が腐った大木と異様に開けた空間が目印となり、場所が同じであることを教えてくれている。

広く開けたその空間の中心に鎮座するようなそれから、私は目が離せなかった。

バクン、バクン、と胸の鼓動が高なる。夜の森は深い闇に包まれているが、明かりで照らせば何も見えないということはない。それでもこの巨大な穴の中だけは、どれだけ光で照らそうと、わずかもその闇は払えなかった。

初めてこれを見たのは、二日前のことだった。たった二日のうちに、これほど大きな変貌を遂げたこの穴は、まるで生き物みたいだ。それも、獣とか化け物の類。大口を開けて、周りのものすべてを呑み込もうとしている。

不思議な感覚だった。それを見ていると、どうしてか心がかき乱されていく。私の中にある何かが、再び熱く燃え上がっていくのが分かる。

悔しさとか、やるせなさとか、理不尽さとか、無力感とか。いろんなものがぐちゃぐちゃにかき混ぜられるような感覚だった。

マグマなのか、ヘドロなのか、そのドロドロとした何かが、胸の奥の方でゆるやかな濁流となっている。

そして、その混濁の中から、一つの思いが確かな形を持って浮かび上がった。

――絶対に、折れてたまるか。

たとえ誰に反対をされようと、邪魔をされようと、私は絶対に自分を曲げたりしない。絶対に、誰かの言いなりになんてならない。

なんだか落ち着かないような不思議な気分だったけど、その決意だけは確かなことだ。

私は、絶対に負けない。


その日の夜、進路希望調査書にシャーペンで書いていた堀岡高校の名前を消した。跡が残らないように、決して紙を破かないように。丁寧に、丁寧に消しゴムをこすりつける。

その行為は、決して逃げるためのものじゃない――戦うためだ。

私は再び真っ白になったその紙を持って、一階のリビングへ向かった。

時間は深夜一時。母も父も、もう眠りについていた。本当は私も早く眠りたかったけれど、親が寝静まるこの時間まで起きていなければいけない訳があった。リビングに置かれているプリンターの、コピー機になっている部分に進路希望調査書をセットする。コピーのボタンを押すと、すぐにそれは二枚になった。

プリンターから取り出した二枚の紙を持って、忍び足で自室へと戻る。その途中、最後にもう一度、確実にプリンターの電源が切れていることを目で確認した。プリンターを使っていたことがバレてしまったら、私の計画が勘付かれてしまうかもしれない。

部屋に戻った私は、手にしていた二枚の紙を机に置いた。そこに書く内容は、もう決まっていた。片方には、母が口にしていた篠川高校の名前を、そしてもう片方には堀岡高校の名を、どちらも今度はボールペンで書き記した。

机に置いた二枚の紙を、私はじっと見た。

自分が明日何をするのか、考えると少し怖くなった。だけど、もう覚悟なら決まっている。今更引き返す気なんてない。

『私立 堀岡高校 普通科』と、そう書かれた紙の方だけをカバンにしまって、私はベッドに入った。こっちの紙は、絶対に持って行くのを忘れてはいけない。

明日(正確にはもう今日だけど)、全部を終わらせるんだ。今から意気込んでいてもしょうがないのは分かっているけれど、胸の奥がざわめいて落ち着かない。ベッドに横になりながら、胸の奥がざわめくのを感じつつ、眠りが訪れるのをただ待った。

結局、完全に眠りに落ちたのは、部屋の電気を消してから一時間以上は後になってのことだった。


私は朝の挨拶もなしに、朝食の準備のためにキッチンに立つ母へ、真っ先にそれを突きつけた。

「これなら文句はないでしょ?」と、突きつけたのは、進路希望調査書だ。母のお望みの、篠川高校の名前が記された方の紙だ。じっ、と母は紙に書かれた文字を凝視する。

「本当にいいの?」母は今更、そんなことを言った。

母の顔は、少しだけ不安そうにも見えた。

どうせ私が何を言おうと最後には反対をするくせに、あまりにも都合が良すぎる質問だ。あくまで私の意思でこの高校の名前を書いた事実を作りたいらしい。だが、そんな卑怯な手に屈する私じゃない。

「うん。もう決めたから」

言いながら、母に見えるように、その紙を学校のカバンにしまって見せる。

「……そう」母の表情から、不安の色が溶けていった気がした。あからさまではなかったけれど、安堵しているのが分かった。

「頑張るのよ」と、それはとても優しい声に聞こえた。

無視をするのも気が引けて「うん」とだけ告げる。母のその表情と声色に、一瞬だけ罪悪感を覚えてしまい、そんな自分が嫌になった。いい母親ぶっているその演技に、騙されてはいけない。

話はそこで終わりになった。母は再びキッチンと向き合い、いつもの慌ただしい朝の時間へと変わっていく。拍子抜けするほどにあっさりと、私の戦いは終わった。

私は勝利したのだ。

朝の支度のすべてを終えて家を出ると、思わず笑い出しそうになった。あれだけ悩んでいた進路のことが、あまりにもあっさりと解決してしまった。まだもう一人、大西という敵は残っているが、今の私なら負ける気がしない。

昨日の夜、夜の山の中で覚悟を決めてから、不思議な力にあふれているような気分だった。

通学路を歩きながら、カバンに入れた偽物の進路希望調査の紙のことを思った。

今このカバンの中には進路希望調査書が二枚入っている。母を騙すためだけの、篠川高校の名前が書かれた偽物と、実際に大西に提出するための、堀岡高校の名前が書かれた本命。

母に見せつけるという役割を終えた、偽物の紙はもう必要がない。母を騙すことができたのなら、もうお役御免だ。

部屋に置いておくと母に見られるリスクがあったからそのまま持ってきたが、いつまでも持っていてもしょうがない。こんなもの、ヤギにでも食わせてしまいたい気分だ。いくら田舎なこの町でもさすがにヤギはいないから、学校に着くと、ぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に捨てた。

その日の朝の会の時間に、進路希望調査書は、全員まとめて提出することになった。後ろの席の男子から回ってきた紙の束の、その一番上に自分のものを伏せて乗せた。もちろん、それに書かれているのは、堀岡高校の名前だ。前の席の女子に回す時、自分がほくそ笑んでいることに気づいて、慌てて表情をただした。

全員分のそれを受け取った大西は、その場でパラパラと中身を確認しただけで、特にその内容に言及することは無かった。家に忘れてきました、なんて言って謝る男子に小言を言っただけで、その場は解散となった。

勝負の時間は、放課後になってからだった。

帰りの挨拶が終わると、大西が「ちょっと」と呼び止めた。

――来た、と思った。

「なんですか?」と、何でもない風を装って呼びかけに応える。

「希望進路は、ちゃんとご両親とも話し合ったんですか?」疑うような声だ。この放課後の時間までに私の志望校を確認し、その名前を調べたのだろう。

「はい、もちろんです」そう答えても、猜疑的なその表情は変わらない。もちろん、その反応は想定通りだ。

「ご両親は、納得されていたんですか?」

「はい。今朝紙を見せたら、『頑張るのよ』って言ってくれました」

大西の表情が、少し変わった。

完全に信じ切ってはいないようだが、嘘だと断定している風ではなさそうだ。当然嘘などついていないのだから、私の態度を見れば、疑いが晴れるのは当然だ。逆に、うまくいきすぎて笑いを抑えることの方が辛いくらいだ。

「……分かりました。まあ、あなたにとっては、これくらいの高校の方がいいのかもしれませんね」

言い方に少しカチンときたが、ここで事を荒立てても仕方ない。こんなレベルの低いおばさん相手にキレるのもバカバカしい。

「それじゃあ、さようなら」

もう話は終わったと告げるように、私は身を翻す。少しして、後ろからは「ええ、さようなら」と聞こえてきた。

親も、教師も、完全に手玉にとってやった。教室を後にしながら、その事実を噛みしめる。廊下に出たら、少しくらい笑みがこぼれたっていいだろう。周りの人から、変な子だと思われたってどうでもいい。

今はとても気分が良かった。


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