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「次、上原理沙!」
体育館の一角に、大西静江の声が響く。彼女のそのくぐもったような低い声は、体育館によく響く。その声はいつも私を不快にさせるが、今はいつにも増して苛立ちを募らせた。やっぱり、待っている時間というのは、どうにも落ち着かない。
上原理沙、出席番号二番。私が呼ばれるのは、次の次だ。上原の順番が終わると、次の榎田雄二が呼ばれた。榎田の髪は五分刈りにされていて、性格もいたって真面目だ。どうせ形ばかりの検査が行われるだけだ。検査を受ける榎田を見て、私は「はあ」と、ため息を一つ落とす。
秋の深い体育館の空気は、ひんやりと冷たい。じっと待っていると、少し肌寒いくらいだ。これからもっと寒って、来月には体育館の中で凍えながら待つことになる。二年目だから、それは経験として分かっている。
その時、榎田がこっちへ帰ってくるのが見えて、
「次、遠藤里子!」
ついにその時が来た。
「頑張って」
隣に立つ、幼馴染でもありクラスメートでもある滝本玲美が私を励ますが、今更頑張れることなんて何もない。それでも、「ありがと」と、返して歩き出す。
私は不機嫌な表情を隠すこともせず、ゆっくりと重い足取りで大西の元へ向かう。今からのことを思うと、あまりにも気が重い。回れ右をして逃げ出したくもなるけれど、できないし、しない。
私の通う、この賀茂上西中学(通称カモ西)では、月に一度、朝の時間に全校集会が開かれる。体育館に全生徒が集められるそれは、校長や生徒会からの長話などを延々と聞かされた後、クラスごとに頭髪検査が行われるという地獄の行事だ。
二年生である私は、もう二十回近くこの頭髪検査を受けて来たことになるが、何も指摘を受けなかった回数など、片手で数えられるほどしかない。特に二年になって担任が大西に変わってからは、すんなり終わったことなど一度だってないはずだ。
大西は口うるさくて、嫌味っぽい。どうせ今日もまた、くだらない指摘を受けるのだろう。
目の前で私を待ち構える大西をキッと睨む。大西はもう、五十近いベテランの教師だ。私に睨まれた程度で、怯むことはない。
いいよ、やってやろうじゃん。
大西の前に立ち、背中を伸ばす。何を言われようと怯むことはしない、と、固い覚悟を決めて対峙した。
私の頭の辺りを見て、大西の顔が呆れたような表情に変わった。
「遠藤さん、ヘアゴムは黒だけって言いませんでした?」
「……前回は、アクセ付きのはダメだって言われただけだと思います」
「その際に、無地の黒に限るとお話ししたはずです。あと、いつもですが、前髪もアウトです。ちゃんと眉毛が出ていないと」
私の前髪は真横にパツンとそろえられていて、眉を隠すように目のすぐ上までかかっている。少し重たいけど、これくらいがちょうどいい。
最近では、眉が思いっきり出るほど前髪を短くしているモデルさんもいるけど、あれは私の好みじゃない。私の髪色と、私の顔には、やっぱり眉が隠れるくらい重い方がいい。短くしたり、逆に長くして横に流してみたりした時期もあったけど、今の長さの、今の形の私が、一番かわいかった。
大西の近くに立つと、香水のキツい臭いが鼻についた。大西は見事に中年太りをしていて、スーツがはち切れそうなほどシワもなく伸びきっている。頬は贅肉の重さに負けて弛んでいるし、主張が強すぎる化粧だってセンスがない。こんなダサいオバさんに、私のセンスをとやかく言われたくなかった。
このセンスゼロの小太りババアめ、と心の中で舌打ちを打つ。
黙っていると、大西は呆れたように息を吐いた。
「今週中には、ちゃんと切って来てください。真っ直ぐに切りそろえるだけなら、また自分でもできますよね?」
「……はい」
つくづく、田舎者は本当に視野が狭い。狭い世界で生きて来た人たちは、自分の中の偏った指標で人を測ろうとする。けれど、こんなオバさんでも一応は教師だ。表向きだけは従わないと。この場は口約束だけでも取り付ければ、どうにでもなる。
はっきりしない私の返事に不満げな表情を浮かべていたが、これ以上言ったところで意味がないと判断したのか、「次!」と、声を出した。解放された私は、クラスの集団の中に、重い足取りで戻っていく。
やっぱり、何度経験してもこの時間は本当に嫌だ。
品定めをするみたいにじろじろと私を観察する、大西のあの目が嫌だ。彼女のそのあまりにもセンスのなさすぎる尺度で、私という人間を測らないで欲しかった。あんなくだらない人間に、私という人間の価値が測られているのだという事実に、吐き気がしそうだ。
この体育館では、二百人近い全校生徒が一堂に集められてひしめいている。まるで私たちを飼い慣らすための檻みたいだ。
その檻の中に、今私もいる。いったい、いつまでこんな檻の中で暮らしていかなければいけないのだろう。
クラスの集団の中で、やけに騒いでいる一団が目に入った。吉野由香と、その取り巻きの女子たちだ。耳障りな笑い声で、バカみたいにはしゃいでいる。担任の大西は今、検査に集中していて注意ができない。その隙を見て騒ぐなんて、やることが姑息だ。彼女たちはきっと、自分たちが檻の中にいることにすら気づいていない。
普段は膝上何十センチっていうレベルで短くしてるスカートも、今はしっかり膝小僧を隠している。普段、吉野が使っているリップが色付きの物だっていうことを、私は知っている。化粧だって、部活のない日はしてきているのを見る。それなのに、頭髪検査のある今日は、みっともないほど無防備だ。有るのか無いのか分からない、薄い眉毛をそのままに晒している。
本当に、いかにも典型的な田舎のギャルって感じだ。そういうテンプレートみたいな人生を、恥ずかしいとは思わないのだろうか。
私たちの暮らす、この賀茂上町は、都心から離れた小さな田舎町だ。辺りには山と畑と、少しの田んぼがあるばかりで、娯楽施設や洒落たお店の一つもない。人口が少ないせいか町の中には高校がなく、中学校も、町内の二つの小学校から集めたこのカモ西の一つだけだ。
カモ西は、全部の学年で二つしかクラスがなくて、それぞれ三十程度の人数だ。クラスメートのほとんどは同じ小学校か、この町のもう一つの小学校から上がってきた者ばかりで、人の移動はほとんどない。そして、彼らの両親もこの町の生まれがほとんどで、すべてがこの町で完結をしている。
この町の人はみんな、その閉ざされた世界の中で生きていた。
だから私には、吉野やその取り巻きの女子の未来が見えた。
きっと彼女たちは、隣の市にあるレベルの低い高校に滑り込み、その後は県内のレベルの低い短大か専門に入る。そこでレベルの低い男と付き合って、卒業後は地元のレベルの低い企業で働きながら、数年後にはレベルの低い地元の男と結婚して、レベルの低い生活を送っていくんだろう。
勉強のできるやつは、大学から東京とか都心に出ていくのだろうけど、彼女たちはきっと、そんな未来は選べない。この狭い世界の中で、自分の人生に何の疑問も抱くことなく、ただつまらない人生を送っていくのだろう。
そんなの死んだ方がマシだ、と私は思う。
「おかえり。どうだった?」集団に戻った私に、玲美が訊いた。
「いつも通りかな。どうせ何か言われるのは分かってたし」
「里子は相変わらずだね」
苦笑する玲美に、「まあね」と返す。
「絶対、あんなやつのいいなりになんてなりたくないから」
その時、ドン、と不意に何かが私の身体を叩いた。振り返ると、やめろよー、と男子達が突き飛ばしあってふざけているのが見えた。思わず冷たい目になったのが、自分でも分かった。
クラスの男子は、みんなダサい。眉毛だってゲジゲジばっかりだし、こんな風に身体が当たっても、謝ることさえしない。きっと、当たったことにだって気づいていない。一部の男子は吉野たちのグループの女子と遊んでいるようだけど、そいつらだって、めいっぱい眉を細くして、やり過ぎなところが逆にダサい。
相変わらずふざけ続ける男子をにらんでいると、つい愚痴がこぼれた。
「ホント、なんでこんなダサいのばっかりなんだろ」
「ぶつかっといて何もないって、ひどいね。大丈夫だった?」
心配してくれるような玲美の言葉に、少しは怒りが溶けていく。
「別に痛くはないけどさ。ただ、ちょっとイラっときた」
「あいつらも、少しは高垣くんを見習ってほしいよね」
軽蔑したような言葉の中に、高垣くん、と言う時だけは、やけに甘い響きを持っていた。間違いなく玲美は、高垣稔に惚れている。
「ホント、玲美は高垣のこと好きだよね」
はっきりとそう口にすると、玲美は少し顔を赤くした。
「だって、高垣くんは他の男子とは違うから。落ち着いてて、大人っぽいし」
たしかに、高垣はうるさい男子ばかりの中でも落ち着いていて、大人びている。成長が早いのか、すでに身長も一七○以上あり、他の男子から頭一つ出ている。なんとなく彼の姿を探すと、すぐに見つかった。クラスメートの男子と、ふざけるでもなく、笑いながら話をしている。優等生を絵に描いたような、毒気のない笑顔だ。
彼はその高い身長のおかげかスポーツも得意で、さらに勉強はクラスでもトップクラス。顔だって悪くない。ムカつくくらいに万能型だ。玲美の他にも、好意を寄せいている女子が何人もいることを知っている。
けれど、私は彼が嫌いだった。
高垣電気――駅近くの、長く伸びる昔ながらの商店街の一角にある小さな電気屋。彼はそこの跡取り息子として産まれ、いずれ彼がその店を継ぐであろうことに、誰一人疑問を持っていない。誰もが、当たり前のようにそうなるものだと思っている。そういう話は、もう何度も耳に入っていた。
この町の商店街の電気屋はその一店だけで、町中の誰もがそこを頼っていることを知っている。店主である高垣の父は温厚で、周囲からの評判もいいのだ、と前に母が話していた。高垣本人が、休日に家の手伝いをしているのを見かけるし、優しい店主とその孝行息子といったところだ。高垣本人もそれにまんざらでもなさそうだし、きっと自分がその店を継ぐ未来に、わずかな疑問も持っていないのだろう。
せっかく持って生まれた才能があるのに、彼はこんな小さな町で生きて、そのまま狭い箱の中で死んでいくのだ。その事実に、少しも疑問を持っていないことが、私にはどうしても許せなかった。
もちろん、玲美にはそんな話はしないけれど。
話をしていたら、ちょうど高垣が頭髪検査に呼ばれ、大西の元へ向かっていった。髪を短く切りそろえ、眉もいじっていない彼は、絶対に検査には引っかからない。シャツだって、制服のスラックスからはみ出しているのを見たことがない。
男子の方が成長が遅いという話はよく聞くけれど、彼らは今後大人になっていけるのだろうか。こんな田舎町を出て行かない限り、彼らはきっとこのままだ。このまま身体ばかり大きくなって、大人と呼ばれる年齢になるだけだ。
東京の男子は、たぶん違う。程よく整えられた眉をして、さりげない程度のワックスで髪を持ち上げ、女子への気遣いだってきっとできる。
この町にいたら、私は前に進めない。狭い箱に閉じ込められた私という花は、きっとつぼみのまま枯れてしまう。
中学二年生、誕生日を迎えた私は、十四歳。中学を卒業するまで、後一年と五ヶ月。高校を卒業するまで、後四年と五ヶ月。
いったい、いつまでこんな狭い箱の中で生きていけばいいのだろう。くだらないクラスメートと、うるさい両親や教師に囲まれて。何者にもなれず、ただ焦りが募るばかりの毎日を、私はいったいあと何日耐えなければいけないのだろう。
この狭い箱にいる限り、死んでいるのと変わりない。
早くこんな狭い箱を飛び出したい。早くこんなつまらない町を飛び出して、広い世界に出て行きたい。
こんなつまらない人たちに囲まれていたら、私までおかしくなってしまいそうだ。
早く、早く――
中学二年生の秋。私の心は常に焦燥で満たされていた。
学校が終わって、自分の部屋でだらだらと過ごす時間は、至福の時間だ。鍵のかかった自分の部屋に閉じこもって、私だけの世界に浸る。それが、一日の疲れをとるための方法だ。
ベッドの上に横になりながら、もう何度目になるかも分からないマンガを読む。東京の高校を舞台にしたそれは、お気に入りのマンガの一つだ。それを読むたびに憧れる。マンガに出てくる学校の校舎は綺麗で、制服だって可愛いし、カッコいい。学校の周りにはいろんなお店があって、厳しい校則だってない。登場人物はみんなオシャレだし、みんな何か夢を持っている。
こんな高校に行きたい。こんな世界に生きたい。読み返すたび、いつもそんなことを思う。
マンガに飽きたら、携帯を使って、動画サイトで好きな女性アイドルの映像を見る。画面の中で歌って踊る彼女は、キラキラと輝いていてすごく眩しい。その華やかさに、彼女は私と同じ現実の中にいるのだという事実を、つい忘れてしまいてしまいそうになる。
画面の向こうで歌う彼女が、すごく遠かった。
私はふと、机の引き出しを開けた。そこにしまわれているのは、一冊の分厚い冊子だ。
『東京都 高校受験案内』
それは、引き出しの中に隠した私の秘密。親にも、教師にも隠した、私だけの秘密――
マンガやドラマや画面の向こうの世界がすごく遠く思えた時、私はいつもそれを取り出す。それを眺めるだけで、私の憧れに近づけるような気がした。
受験案内の冊子を取り出して、その中のとある一ページを開こうとした。
――その時だった。
私だけの世界が、音を立てて崩れた。
夕食を告げる母の声が、私だけの世界をあっけなく破壊した。
夕食の時間になれば、大人しく部屋を出て、最悪な世界へと戻らなくてはいけない。開きかけた受験案内の冊子を引き出しにしまって、おとなしくリビングへと向かった。
十九時半、それが我が家の決められた夕食の時間だ。時間通りに準備された夕食を前にして、私は家族四人で食卓を囲んでいた。真正面には母である美里が、その隣には父の利明が、そして、私の隣には小学六年生の弟、和明が座っている。いつも同じ、決められた席順だ。私は、目の前に座る母の方へ、決して目を向けることをしない。
我が家の食事時には、母の方針でテレビがない。行き場のない私の視線は、いつも手元に向けられる。観たいドラマも、バラエティも、録画でしか観られない。もう何度も文句を言ってはいるものの、母はそれに一向に聞く耳を待とうとしない。 本当に、その頭の硬さが嫌になる。
食べ始めて少しして、和明が「そうだ!」と声を上げた。「今日は誠也と、中学に入ったら、一緒にサッカー部入ろうって約束したんだ!」
四人の食卓で話をするのは、たいてい和明だ。誠也というのは、和明の親友のはずだ。家に遊びにきたところを何度か見かけたことがある。賑やかで、真っ黒に日焼けした男の子だった。
隠すことなく自分のことを話題にできる、和明の気持ちが分からない。学校での出来事なんて、この人たちに話せることはないし、友達の名前だって知られたくもない。ただ、和明が話をしてくれるおかげで、私が話をしなくても気まずくならずに済んでいることは事実だ。私は適当にあいづちを打ちながら、黙々と顎を動かし続ける。
食卓の真ん中に置かれた、野菜炒めへと箸を伸ばす。この中の白菜は隣の家の佐藤さんがくれたものだ、と食事を初めてすぐに母が言っていた。うちの家では、そういうことがよくある。やっていることが、まるで田舎者そのものだ。素人が作った野菜なんて、変な虫がついていそうで気色悪い。
「良かったじゃない。誠也くんと一緒なら力強いね」
母の言葉に、和明が「うん!」と、うなずく。父は、そんな二人の様子を見て、ニコニコと笑っている。私のお茶碗には白米が少しと、お椀には味噌汁がたっぷりと入っている。早くこれを、空にしたい。
「里子は、最近どうなんだ?」
おもむろに、父が訊いた。まともな返答なんて返ってこないと分かっているはずなのに、父はよくこの質問をする。「別に、いつも通りだよ」と、いつもと同じ、テンプレートの返答。いい加減学べよ、私はどうせこれしか返さないんだ。
「そうか。いつも通りが一番だからな」父も決まって、いつもこの言葉を返す。このやり取りに何の意味があるのか、分からない。
そこで、一瞬の間が生まれた。テレビという話題提供のないこの空間で、静かになることは珍しいことじゃない。気にとめることもなく、よそわれた白米と味噌汁を空にすることにただ無心で専念をする。
「里子」
不意に、母が私を呼んだ。何の用だろう、と顔を上げながら「なに?」と返す。母は、やけに真面目な、少し怖いくらいの顔をしていた。
嫌な予感がした。
「今日、滝本さんと話した時に聞いたんだけど、この前学校で、進路希望調査書が配られたんだって? 私、何も聞いていない気がするんだけど」
母のその声は冷たい。滝本さん――玲美の母親と、私の母は仲がいい。どうせ今日も家の前で長話をして、その中で話題の一つとして上がったのだろう。母の口ぶりはまるで、娘が自分に大事な話をしてくれなかった事実よりも、自分の友人を前に、恥をかかされた事実に怒っているみたいだった。余計な話題を切り出した、玲美の母親を恨んだ。
けど、本当に許せないのは、目の前の母だ。私が逃げられない、この夕食の時間を狙って話を切り出すなんて、あまりに意地が悪い。
「今日、話をするつもりだった」
「そういう大事な話は、すぐに話してって言ったと思うけど? 配られたの、今週の頭の方だったんでしょう?」
「タイミングがなかったの! だって、そんな簡単な話じゃないし」
「まあいいけど」
母が、息を吐きながら、呆れたように言った。父と和明は、居場所がなさそうに無言で食事を続けている。小六ながら、和明は空気が良く読める。そういうつまらないところは、父に良く似ていた。
「で、決まってるの? 行きたいところは」
母がそう訊くと、父の視線がこっちへ向いたのが分かった。
「……まだ」
――嘘だ。
行きたいところがないなんて嘘だ。
私には、中学を卒業したら行きたいところがある。
行きたい高校がある。
行きたい世界がある。
ずっと昔から胸に秘めてきた願いが、私にはある。
だけど、それは口にできない。口にしたところで、きっと母は否定をする。バカなことは言わないで、と。たぶん、そんなことを言う。だから、相応しい時が来るまで、私は願いを内に秘めておく。
「まだって……もう二年の秋なのよ?」
「まあまあ」と、呑気な調子で父が割って入る。「大事なことなんだから、ゆっくり決めた方が――」
それを、母はピシャリと一蹴した。
「そうやって、もうずっと待ってきたわ」
父は言葉を失った。この二人の関係は、ずっと変わらない。気が強くはっきりと主張をする母に対して、主張の弱い父は逆らえない。私の目の前に座っているのは、自分勝手な母と、情けない父。その事実を、私は今、突きつけられている。
「で、その進路希望はいつまでに決めなくちゃいけないの?」
母は再び私の方へ向き直す。このまま曖昧に終わらせることは許さない、と、その目が告げていた。
「来週の、火曜」今日は木曜日、期限まではまだ時間がある。
「そう。まだ時間はありそうだから良かったけど、来週までに決められるの?」
「分かんないよ、そんなの」
「分からないって……自分のことでしょう」
苛立ったように、母は声を荒げた。身勝手な彼女のその怒りに、反発を覚える。
あなたがそんなだから、娘さんの進路が決まらないんですよ、と、ドラマやマンガの熱血教師なら、今頃この母に、そんな風に説教をしているだろう。けれど現実はそう上手くできていなくて、私の担任は、もはや熱意を失ったダサいスーツの中年ババアだ。母は、己の過ちに気づくこともない。
なんで私の両親はこんなにも理解がないのだろう。東京の高校に行きたい。ただそれだけの願いを受け入れてさえくれるなら、私はこんなにも隠し事をしなくてもいいはずなのに。一瞬、打ち明けてしまおうかと思って、すぐにやめた。それを告げたら、きっとすべてが壊れてしまう。
母からの非難するような鋭い視線が、私を射抜き続ける。私は、母の視線が嫌いだった。見つめられていると、どうしようもなく、いたたまれなくなる。
胸のあたりが、ギリギリと苦しい。
――何かが、私の中で暴れていた。
何もできずにおろおろとしている父。
居づらそうに、小さくなっている弟。
自分の都合ばかりを振りかざし、怒りという暴力をふるう母。
その全てが、憎らしい。
私の我慢は、もういい加減に限界だった。
「ねえ、なんとか言ったらどうなの?」
苛立つような母の声を消すように、右手に持ったままだった箸をテーブルに叩きつけた。
「……考えてはおく」
そう言って、勢いよく席を立った。お茶碗の中のご飯も、お椀の中の味噌汁も残っているけれど、私の怒りの前にそれは、あまりにも些細な問題だった。三人の視線が、一気に私へと集まった。
「ちょっと、まだ話は――」
「ごちそうさま」
これ以上、話すことなんてあるものか。引き留めようとする母を無視して、食卓に背を向けた。
ズカズカと歩いて自分の部屋へと向かう。階段を登って、二階へ上がる。普通に歩いているはずなのに、床を叩く足の音がやけにうるさい。部屋のドアを開けて中に入る。ドアを閉めると、バタン! と、大きな音がした。鍵をかけ、全てを拒絶した。
明日の朝、顔を合わせた時に、何か言われるだろうか。母と顔を合わせずに済めば一番いいけれど、それが難しいことは分かっていた。そういえば、まだお風呂に入っていない。今からまた下に降りなければいけないのだと思うと鬱になる。
もう、何もかもが嫌になってしまいそうだ。
「最悪……」
つぶやくと、胸の中で、ボウッと何かが燃えた。
全身が熱かった。のぼせるほどの熱を帯びていると自覚する。私の身体の中で、ドロドロと、グチャグチャと、何かが混ざり合って、燃焼している。
思い切り叫べば少しは熱が引きそうな気がしたけど、そんなことはできるわけもない。壁に背をもたれて、そのまま膝から崩れ落ちていく。お尻が地面につくと、そのまま膝を抱え、体育座りみたいな体勢になった。
本当の願いを口にできない私が悔しい。娘である私の気持ちを考えることもせず、ただ自分の都合ばかりを押し付ける母に怒りを覚える。そんな家の中で生きているのだという事実が、ただただ悲しい。
なんだかもう、おかしくなりそうだ。膝を抱える両腕に力を込め、さらに小さく縮こまり、額を膝にくっつけた。
「なんでだよ……」自分のお腹のあたりに向かって、つぶやいた。
秋の夜の気温は、少しだけ肌寒い。膝を抱えた私は、胸の辺りで燃えている何かの、その熱だけを感じていた。
朝、憂鬱を抱えながらもリビングへのドアを開けた私を出迎えたのは、いつもと変わらない表情の母だった。仕事の早い父は、もうすでに食事を終えた後だ。いつ昨日の話の続きをされるのかと怯えていたが、私が食事を終えるまで、結局その話は切り出されなかった。
席を立ち、洗面所へと向かおうとしたその時、タイミングを見計らったように母が口を開いた。
「ねえ」不意な真面目な声に、ビクッと身体が跳ねた。何を言おうとしているのかを察して、逃げ出したくなった。
「今はあまりうるさくは言わないけど、進路のこと、締め切りの前日までにはちゃんと考えておいてね」
朝はお互いに忙しく、言い合っている余裕などない。きっと、それを計算してのタイミングなんだ、と思った。言い返せないのが歯がゆかったが、大人しく「うん」とだけ返して、身支度の続きに移った。
その日の私は、朝のその出来事のせいでひどく憂鬱だった。朝一の憂鬱は尾を引くから嫌になる。お昼休みの時間になれば少しは嫌な気分も忘れるが、午後の授業でまた思い出す。退屈な授業を乗り切ると、ようやく放課後の時間になって、解放された気分になる。玲美に声をかけて帰ろうとした。
席を立ち玲美のところへ向かう途中、担任の大西が私を呼ぶ声がした。
「遠藤さん、ちょっと」
彼女に呼び止められると、毎回ろくなことにならない。放課後に浮かれた私の気持ちは、一瞬にして萎びていった。もう、なんなんだよ、ホント。
どうせ、早く前髪を切れとか、そんな話だろう。立ち止まって、思いきり迷惑そうな顔を作って振り向いた。
「進路のことですけど、親御さんとはお話しできてますか」
前髪のことを言われるのではないか、という私の予測はハズレに終わった。だが、それにも負けず劣らず、嫌な話題には変わりない。今の私は、とびきり嫌そうな顔をしている自信がある。
「まあ、少しは」
「遠藤さん、前回の希望調査の時、全然書けていなかったら心配したんです。今回はちゃんと書けそうですか?」
大西の言葉に、私は何も言えない。あの母ともう一度対峙して、今度はちゃんと説得しなければいけないのだと思うと、気が重くなる。黙ったままの私に焦れたように、大西がさらに追い討ちをかける。
「前回はまだ時期的にも早かったからいいですけど、今回は空欄のままというわけにはいかないんですよ?」
「とりあえず、どうにか書こうとは思います」
私の言葉に、大西は露骨に困ったような顔をした。彼女にとって私は、クラスの問題児なのだろう。大西にしろ、母にしろ、どうして彼女たちはその原因が自分にあるとは考えないのだろうか。こんな理解のない大人に対して、本音なんて語れるはずもないに。彼女たちは私の本当の気持ちに気づくこともなければ、気づこうとさえしない。
大西が、わずかにため息をついたのを私は見逃さなかった。それはまるで、自分には理解できないものを突き放す動作にも見えた。
「高校のこととか、分からないようだったら、なんでも訊いてくれていいですから」
「……はい」怒りを堪えながら、私はうなずいた。
「ちゃんとご両親と話し合って決めるんですよ」
「……はい」
念を押すような大西の言葉に、私は目を逸らしながら応える。今は一刻も早く、この場を去りたかった。玲美が自席で、不安そうにこちらを見ている。
大西は少しの間じっと私の顔を見て、やがて、これ以上話しても仕方ないと判断したのか、「それじゃあ、よろしくお願いしますね」と残して教室を去って言った。
彼女の背中が教室の外に消えていくのを見て、ほうっ、と息を吐いた。胸の中から空気が抜けると、栓を抜いたコーラの瓶みたいに、一気に怒りが湧き上がってきた。本当にあいつは、人の神経を逆撫でる。どうしてそこまで無神経になれるのか、私にはどうしても分からない。
大西が去って行った廊下の方をじっと睨む。が、すぐにバカバカしくなってやめた。玲美がずっと待ってくれている。
私と玲美は家がとても近い。歩いて一、二分ほどの距離で、同年代の友達の中で一番近い。もともと親同士の仲が良く、それが私たちが友達になったきっかけだった。母親同士が話し込んでいる間、私たちが二人で待たされることも多く、とにかく、私たちは物心がつく前から当たり前に一緒にいた。
中学校に入ってからはお互いに交友関係も広がり、部活だって別になった。私は美術部へ、玲美は音楽部へと入った(音楽部とは、吹奏楽部よりも緩く、やりたい音楽を適当にやる部活らしい)。
たしかに二人で一緒にいる時間や遊びに行く回数も減ってはきたが、それでもクラスでは同じ友達のグループに属しているし、今でもほとんどの時間で当たり前のよう行動を共にしている。私の入っている美術部はほとんど決まりのない自由活動で、玲美の音楽部も週に二、三回ほど強制力のない活動があるだけだ。お互いに何もない日は、帰りの挨拶が終わるのと同時に、二人で家に帰ることがほとんどだった。
昨日から続いた大人たちからの嫌がらせの連続にくたびれていた私の心は、玲美と話をしながら歩くだけで、ずいぶんと楽になったように思う。数学の時間に出された宿題だとか、空気を読めていなかったクラスメートの発言とか、そんな何気無い話題を共有するだけで、 胸の奥にあるぐちゃぐちゃした感情がほぐれていく。
この町は、いたるところに怒りのカケラが潜んでいる。家に帰れば鬱陶しい両親がいて、学校に行けば口うるさい教師や、ダサいクラスメートがいる。学校と家の間の道のりだって、例外じゃない。道を作る真っ黒いコンクリートは所々大きくえぐれて、いたるところに凸凹を作っている。季節によっては当たり前みたいにトラクターが公道を走り、騒音を撒き散らしながら道路に渋滞を作る。その一つ一つが、ここがいかに田舎であるかを突きつけて、その度に私は、言葉にし難い怒りに襲われる。隣に玲美がいなければ、きっと私は大声でも上げているだろう。
目の前を羽虫が横切って、反射的に頭を引いた。もう秋も深いというのに、未だに虫が飛んでいるのかと、思わず顔をしかめた。辺りを山に囲まれたこの場所は、非常に虫が多い。おかしな動物だって、時々現れる。夏の下校時間は、いつもカエルの大合唱を聞かされ続ける。田舎が静かだなんていうのは都会の人間が抱く勝手な幻想で、私の暮らすこの町は、あまりにも雑音に溢れている。
「こらあ!」
雑音が、また聞こえた。目の前で、一人の大柄な老人の男が、私たちと同じ中学の制服を着た男子二人を相手に激昂している。大黒茂だ。
茂はこの辺りに古くから住む老人で、些細なことで激怒することで有名になっている。どうやら今回は、挨拶をされなかったのが気に食わなかったようだ。
捕まってしまった哀れな二人の男子中学生は、直立しながら怒声を浴びせられ続けている。かわいそうに。そう思いつつも、私は同じ轍を踏む気は無い。茂が立っている道は、避けて通るのが定石だ。
「回り道しよっか」私が提案すると、玲美は素直にうなずいた。
「そうだね。そうしようか」
「茂のやつ、絶対待ち伏せしてるよね。きっと、怒る相手を探してるんだ」
茂はたぶん、怒りをぶつける相手や怒りを吐き出す口実を探してる。誰かに怒りをぶつけることで発散しているのではないか。そんな風にも思えてしまう。
茂の家は、私や玲美の家と同じ通りの少し離れた場所にある。学校と家とを直線で結んだ途中にあって、毎日往復してそこを歩かなければいけないのは、本当に良い迷惑だった。
「かもね。たぶん怒鳴れる相手なら誰でもいいんだろうね。前にママも茂にキレられたことがあるって言ってたし」
「うそ、茂って大人相手にもキレるんだ」
立場の弱い子供相手ならともかく、大人を相手にもキレるとなれば、いよいよこの怒りは無差別なのだろう。本当に、老人というのはどいつもこいつも怒りっぽくて困る。
「それにしても、最近やけに激しいよね。奥さんが死んじゃって寂しいのかな」
「え、そうなの? 全然知らなかった」
「半月前くらいかな。ママが言ってた。なんか、日常生活で頼りっぱなしだったみたいで、結構辛いんじゃないかって」
「ふうん。だからって、言い訳にもなんないよ。個人的な理由で好き勝手されて、良い迷惑」
吐き捨てる。あんな老人の事情など、知ったことじゃない。たとえ辛い事情があったのだとしても、私にとってはただの頭の狂った迷惑な老人でしかない。
そんな話をしていたら、愚痴っぽい話のスイッチが入った。玲美と話をして少しは落ち着いたつもりだったが、昨日からのストレスの土砂が、まだ胸の中に溜まっていることに気づいた。このストレスをそのままにするなんて、できるはずがなかった。
「ねえ、もう少し話していかない?」
茂を避けるために通った道には、ベンチとブランコだけの小さな公園がある。まだまだ話し足りない私は、その公園を指差した。家に帰れば、またあのうるさい両親が待っている。玲美は「うん、いいよ」とうなずいて、公園のベンチの方へと歩いていく。
「ありがとう」と、愚痴に付き合わせるのだがら、お礼は忘れない。
玲美と並んでベンチに腰をおろした私は、あまりにも殺風景な公園だな、と思った。公園の地面には、白色とも灰色ともつかない細かい砂利が敷かれている。こんなところで転べば肌が擦りむけるだろうし、ボール遊びをすれば、すぐにボールが傷んでしまいそうだ。この公園で誰かが遊んでいるところを、私は見たことがない。
「はあー」わざとらしく大きなため息をついて、伸びをする。「もう最近、災難ばっか。今回はどうにか災難一歩手前で済んだけど」
「頭髪検査と、今日の進路の話?」
「そ。進路の話は家でもされたし。いい加減早く決めなさいって」
「それは災難だったね」ハハハ、と玲美は苦笑する。玲美は頭髪検査には引っかからないし、進路だってもう決まっていたはずだ。少し恨めしげに彼女の顔を見た。
「笑わないでよ。私にとっては死活問題なんだって」
「ごめんごめん。でも、里子は本当に進路決まってないの?」
私には行きたい場所ある。行きたい高校がある。
内に秘めたその願いは、両親にも、教師にも、玲美にだって話していなかった。けれど、別に玲美に対しては隠していたわけじゃない。ただ話をする機会がなかっただけだ。
今が、ちょうどその時だと思った。
本気が伝わるように、真面目な顔を作って、真っ直ぐ遠くの景色を見た。目の前の景色は、鬱蒼とした山の緑で覆われているけれど、その先にあるはずの都会の景色を頭に描いた。
「私ね、東京の高校に行きたい。本当はもう、行きたい高校だって決まってるの」
誰かに話すのは初めてだから、こうして口に出すことも初めてだった。実際に言葉にすると、ずしり、と胸にのしかかる。自分自身に言い聞かせるように、その言葉の一言一句をしっかりと噛み締めた。
私は東京の高校に行く。行きたい高校だって、もう決まっている。
しばらくの間があってから、玲美は応えた。
「……そっか。なんとなく、里子ならそう言うんじゃないかって思ってた」
「バレてた?」
「ううん、本当になんとなくだよ。里子が都会に出たがってるのは、前から知ってたから」
その声には、言葉の通りに驚きの響きはない。予感していたことのように、玲美は落ち着いていた。
「けど、東京の高校ってどんなとこ? 一人暮らしでもする気なの?」
「ううん、私の行きたいところ、学生寮があるの」
以前、こっそり親のパソコンを借りて開いた高校のホームページの内容を思い出す。『規則正しい生活を送りつつ、仲間たちとのかけがえのない友情を育みます』そんなキャッチコピーとともに載っていた、清潔感のある寮の部屋の写真。それを思い出すだけで、いつでも夢に浸っているような気分になれる。
「高校にも寮とかってあったんだ。全然考えたこともなかったな」
「さすがに高校生で一人暮らしは怖いからね。けど、寮があれば私一人でだって東京に行って、暮らしていける」
寮を備えた高校があることを知った時は、まさに光が差し込むような心地だったことを思い出した。大学に進学するその時まで、私はずっとこの狭い世界に囚われたままだと思っていた。だけど、寮のある高校があるなら、大学なんて待たずに東京に行ける。
「その高校がいいと思う理由はあるの?」
「うん。その高校ね、私の好きなアイドルの出身校なんだよね。偏差値も全然高くないから、私でも余裕で行けそうだし」
「好きなアイドルって、天月そらだっけ?」
「そう。そこに通ってる時に、スカウトされてアイドルになったんだって」
ソロでの活動を中心にしている女性アイドル、天月そら。別にアイドルにはそれほど詳しいわけじゃないけれど、彼女だけは例外だった。私は、彼女に憧れている。可愛くて、オシャレで、画面の向こうで見る彼女は、いつも煌びやかに輝いて見えた。そして、彼女は少しだけ私と顔が似ていた。
彼女を最初にテレビで見かけたのは、中学の始めくらいの頃だ。私と似た顔の女の子がテレビの中でキラキラと輝いている。こんなど田舎でくすぶっている私とは違う。その時から、彼女について調べ始め、どんどん惹かれていった。
「すごいよね、高校生でアイドルにスカウトされるなんて」
天月そらは、私にとって人生の道しるべだ。彼女はあの高校に通って、高校二年生の春にスカウトを受けてアイドルになった。
私は、彼女になりたかった。
隣に座る玲美の顔をちらと伺うと、まだ何か言いたげな顔をしているように見えた。これ以上回りくどい質問をされないように先手を打つ。
私は、私の願望の、その核心を告げた。
「私、そこに行って芸能人になるの」
まだ誰にも話していない、新雪みたいにさらさらと輝く、汚れのない願い。大切にとっておいたそれを、今、包みを広げて取り出した。
東京に行って、東京の高校に通って、そして、休日にふらっと遊びに行った先で、芸能界からのスカウトを受ける。私の憧れ、天月そらと同じ道を辿りたい。
玲美は、表情を変えなかった。
「……それは、親には言ったの?」
「まさか。言えるわけないじゃん。あんな理解のない人たちに話したって、どうせ否定されるだけだし」
玲美は何も言わない。表情こそ変わらないが、私が初めて話した野望に驚いているのだろうか。
「だからさ」私はさらに計画の続きを語る。口うるさい母を黙らせるための、とっておきの秘策だ。「次の模試の時に、志望校の欄にこっそりその高校の名前を記入しようと思ってるの。そして、その模試でA判定を取って、結果の紙を親に突きつけてやるんだ」
私は、A判定の記された模試の結果用紙を突きつける時のことを想像する。全国模試の結果でA判定を取れば、私の意思を示すための最大の武器になる。それさえあればきっと、両親も教師も何も言えない。
それこそが、ずっと胸の内に秘めてきた、私の壮大な計画だった。
驚き、感心する玲美の顔が見たくて、隣を向く。たぶん私は、すごいじゃん、と背中を押す言葉を期待していたのだと思う――けれど。
そこにあったのは、冷めた顔をして私を見る玲美の姿だった。
その姿に、背中が一瞬だけぞくっとした。
「やめなよ。そんなこと。いきなり東京の高校なんて、親が困るだけだよ」
予期せぬ冷たい声に、言葉が出なかった。玲美が何を言ったのか、一瞬理解できなかった。いや、理解したくなかった。
「里子のためを思って言うけど、いくらなんでも無謀すぎるよ。いや、無謀っていうか、考えなし」
胸の辺りが、何かにぎゅーっと掴まれたような感じがした。どうして玲美は今、こんなにも冷たい瞳を私に向けているのだろう。誰よりも分かり合っている友人のはずなのに。
何も、何も分からない。
「よく知らないけどさ、寮があるなんて私立でしょ? 東京の私立なんて、うちらの地元の私立より、絶対学費高いよ。それに、よっぽど良い高校なら話は別かもだけど、今のうちからA判定取れるような高校なんて、わざわざ目指す場所じゃないよ」
玲美の口から放たれる冷たく鋭い言葉たちが、私の胸を抉っていく。
それは、世界で一番拒絶されたくない相手からの拒絶だった。そんな言葉、言わないで欲しい。常識ぶった言葉を、偉そうな顔をして語らないで欲しい。私の邪魔をする、狭い世界の住民に成り下がらないで欲しい。
私の両親みたいに、教師みたいに、うるさいクラスメートみたいに、玲美のことも私の中から排除しなくていけなくなる。
次第に、締め付けられていた胸の奥で、何かが熱を持ち始めた。熱を持った塊が、私の中で暴れだす。胃のあたりが、圧迫されるように苦しい。
「やめてよ、そんな風に言わなくたっていいじゃん。私だってちゃんと考えて決めたんだよ? 誰も味方なんてしてくれないんだから、どうしようもないじゃん!」
「私だって里子にこんなこと言いたくないよ。でもさ、里子は言わなきゃ分かんないじゃん」
その言い方に、何かが切れた。
その目を私は知っている。見下すような、軽蔑するような、そんな感情が込められている。目の前の玲美が別人みたいに見えた。ずっと隣にいた友人のはずなのに、こんな玲美の顔を私は知らない。
私が求めていた言葉は、そんな言葉じゃない。誰一人味方のいない私を励ますような、背中を押してくれるような言葉を望んでいたのに。なのに、実際に告げられた言葉は、私の望んだそれからは、あまりにもかけ離れていた。
耳を塞ぎたかった。
「そんなことを言う玲美は見たくないよ」
「私は里子のお母さんをよく知ってるつもりだけど、絶対に反対すると思うよ。だって……ねえ?」
だって、の後を玲美は露骨に濁した。彼女がいったいどんな言葉を続けようとしたのか、正確に予想することは難しいけれど、肯定的な言葉でないことだけは確かだった。
玲美のその言葉に、ふと古い記憶が甦った。数少ない、玲美と言い合いになった時の記憶だ。
それはたぶん、まだ私が小学校の中学年くらいのことだったと思う。
なんで私は里子なんだろ。
母と玲美の母親が玄関先で立ち話をしているのを横目に見ながら、話が終えるのを一緒に待っている玲美に訊いた。
私は、昔から自分の名前が嫌いだった。里子、なんていかにも田舎臭い。「里」の漢字は田舎を思い起こすし、「子」の字も、いかにも適当にとってつけたような感じがする。
突然どうしたの。
何となく。玲美は玲美なのに、私は里子だなんて、不公平だなって。
なにそれ。名前なんだから、何か理由があんじゃないの?
どんな理由でもいいよ。私も、玲美みたいなおしゃれな名前が良かったな。里子って、いかにも田舎者っぽくてやだ。
ちらと、母の顔を睨んだ。この声が聞こえていて欲しい想いと、聞こえていて欲しくない想いがあった。
名前、変えたいよ……
そんなに気にする名前じゃないと思うけどな。そんなこと言ったら、お母さん困っちゃうよ。
私はその時、玲美のその言葉に、すごく驚いた。玲美の口から、そんなつまらない言葉が出てくるなんて、思ってもいなかったから。私はただ、同情をして欲しかった。ただ、そうだね、と言ってくれれば良かったのに。私は、そのセンスのない言葉に激怒をした。
そういうこと言う⁉︎ 、と。
そのあと、どうなったかは思い出せない。けれど、たぶん玲美はすぐに謝ったのだと思う。その後も、今まで通りに仲良くし続け、今日この時まで親友だと思ってきたのだから。
ベンチに並んで座る玲美は、呆れたように、「はあ」と息を吐いた。それは、今日の放課後、大西が見せた反応と、あまりにもよく似ていた。
「決めるのは里子だから、あんまり強くは言わないけどさ、教室では『芸能人になる』なんて、言わないほうがいいよ」
言わないほうがいいよ、じゃない。言わないでくれ、だ。この目をしている人間は、いつも自分の体面しか気にしない。きっと玲美は、自分のそばでこんな恥ずかしいことは口にしないでくれ、と言いたいのだろう。その目を見れば、分かってしまう。
どうしてなのだろう、と思う。こんなのはまるで、つまらない、くだらない大人の言葉と変わらない。どうしてそっち側に行ってしまうのだろう。
いや、違うな、とすぐに思い直す。たぶん、玲美は最初からそっち側にいたんだ。ただ、私がそれに気付いていなかっただけだったんだ。
思えば、私たちは幼いころからずっと一緒にいただけで、別に価値観が合っていたわけではなかったのかもしれない。家が近かったから、親同士の仲が良かったから、そんな理由で側にいて、幼い頃はそれで良かった。けれど、お互いに自我がはっきりと確立した今、私たちはもう昔みたいにはいられない。
このやり取りで、気づかずにいた心の壁が露わになった。ただそれだけことなのだろう。それに気付いた瞬間、胸の中でぐちゃぐちゃと暴れていた熱の塊が静まっていった。代わりに、胸の中を埋めるのは悲しみだ。
今、私は大切な幼なじみであり親友であった彼女と、取り返しのつかないケンカをしたのだ。いや、ケンカなんていう軽い言葉ではたぶん表せない。
きっとこれは、決別だ。
「ねえ、まだ親には話してないんでしょ? だったら、もう一回考え直しなよ」
あるいは、今から私もそっち側に行けば、間に合うのかもしれない。玲美という、大切な友人を失わずに済むのかもしれない。玲美の言葉に、わずか揺れる。
玲美は物心が着く頃からずっと隣にいて、何をするにも必ず一緒だった。それを、私は今手放そうとしているのだ。東京の高校に行くのをやめる、ただ一言それを言うだけで、私は親友を手放さずに済む。
だけど……
だけど、そんなのはもう私じゃない。
「分かったよ。玲美の言いたいことは全部分かった」
私が納得をしたと思ったのか、玲美は少しほっとした表情になった。私は、その顔にはっきりと告げる。
私は絶対に、そっち側になんて行かない。
「だけど、私は諦めるつもりなんてないから。こんな狭い世界で、囚われたみたいに生きていくつもりなんてないから」
告げると、玲美は一瞬驚いたような顔をして、そして、諦めたように目を伏せた。さらに私は続ける。
「私は東京に行く。東京の高校に行って、芸能人になって、もっと広い世界に生きるの」
言い切ると、この小さな公園には静寂が漂った。心臓が跳ねる音だけが、いやにうるさい。言ってしまった後悔と、吐き出せた清々しさで、なんだかもうよく分からない。玲美からの、返事はない。
私は両足に力を込め、ベンチからすっくと立ち上がる。これ以上もう、話すことなんてありはしない。私たちはもう、完全に一線を超えてしまった。ものごころがつく前から、ずっと一緒だったのに。そして、これからもずっと一緒だと、信じて疑っていなかったはずなのに。私はそんな親友を、たった今失った。
それはきっと、もう元には戻らない。
後ろを振り向かず、大きな歩幅で歩き出す。地面を踏むたびに鳴る砂利の音は、足元から聞こえる一つだけだ。
玲美の家も同じ方角だけど、後ろをついてくる気配はなかった。
私が、自分は他の人とは違うのだと信じるのには理由がある。
それは、まだ私が小学校低学年の頃のことだ。父はその当時、勤めている会社の広報課にいて、自社のPRをしているのだと話していた。別に父が会社でどんな仕事をしていようが興味はなかったが、その時、無関心ではいられない話が舞い込んできた。
父の会社では知名度向上のため、地元向けの狭い範囲だが、CMを作ることになり、その話が父の元に降りてきたという。父の勤める会社は、ただの地元の中小企業で、有名人を起用できるだけのお金はない。それでもやはり、視聴者の目は引きたい。そこで白羽の矢が立ったのが、この私だった。
その頃から、私はすでに可愛かった。むしろ、今よりも肌はふっくらとしていたし、あどけなさもあった。もちろん、担当者の娘だからという事情はあっただろうと今では思うが、誰もが私を見ては、子役モデルみたいだ、ともてはやした。そうして、この私を前面に押し出したCMが、放映されることとなった。
それが流れた地元では、ちょっとした有名人となった。近所の人間は私を見かけるたびに、可愛い可愛いと言ってお菓子をくれたりもした。すれ違うたびに視線が向けられ、私を噂する声だっていろんなところから聞こえてきた。
その時の私は、間違いなく特別だった。
もしもあの時のCMが全国区で放送されていたのなら……今でも時々、そんなことを考える。
父の会社は、別に名前の知れた会社ではないと思う。うちの家がボロなのを考えれば、きっとそうだ。だから、それがテレビで流れていたのは、そう長い期間ではなかった。それがテレビに流れなくなると、周りの人間は誰も私を特別視しなくなっていった。
声をかけてくれる回数が少しずつ減っていき、街中で誰かとすれ違っても、振り向かれることもない。小学校高学年に上がった頃には、もう完全に、その他大勢のうちの一人になっていた。
もう誰も、私が特別だった時のことなんて覚えていない。いつもお菓子をくれていた近所のおばあさんも、CMの反響の大きさに鼻を高くしていた父でさえ、誰もが私を、この町の退屈な景色の一部みたいに扱った。
私は背景なんかじゃない。
退屈な風景画の一部なんかじゃない。
容姿には昔から自信があった。両親は嫌いだが、この姿で産んでくれたことだけは感謝をしている。真っ黒でサラサラと流れるような髪は母親譲りで、大きくぱっちりした目は父親譲りだ。化粧はまだまだ勉強中だけど、そんなものに頼らなくても、私は十分可愛かった。
東京には可愛い子がいっぱいいる。そんなことは分かっている。その子たちに勝てるかどうかなんて、そんなことはどうでもよかった。私という花を、日の光の当たらないこんな場所に閉じ込めていてはダメだ。その思いだけが、私を突き動かしていた。
花は、太陽の光を浴びなければ育たない。あまりにも長い間暗い場所にいては、いずれ腐って枯れてしまう。
そんなことだけは、絶対に許されない。