1-13-4-24 masquerade 冥界の扉
「ばいばーい」
リハビリ期間が終了し、軍に復帰する筈だった沙羅が、傷病除隊を選び私の傍に居る事を決めてからだろうか、沙羅が変わり始めた。
少しずつ微笑みを浮かべる時間が増え、それに伴い、少し抜けた状態、ポンコツ護衛の沙羅さんになってしまう割合も増えた。だけど私は、それが嬉しい。
来た頃の彼女であれば、今みたいに、近づいてきた小さな子にしゃがみ込んだ姿で相手をして、しゃがみ込んだ姿のままバイバイと言いながら手を振り返さない。
例え小さな子供であろうと、許可なく近づこうとする者は一切の感情を見せずに排除しただろう。少しずつ変わっていく彼女を見られるのが、私は嬉しい。
「想像以上に、凄いと言うか、綺麗と言うか……」
この大水槽を時間を気にせず思う存分に鑑賞できるからと、彼女が乗り気だったこのイベント参加だけど、参加して良かった。
百聞は一見に如かずと良く言うけれど、まさにそれ。店舗フロアがある5階までの吹き抜けの一部を利用した大水槽は圧巻だった。たかが大水槽だろうと思っていたけれど、うん、こりゃ凄いわ。そりゃ入れ替え制にもなる。
これが些細な幸せと言うものなのだろうな。私は喜怒哀楽を表す彼女を見つめるのが好きだ。彼女は今、少し緊張した顔だったメイン会場の時と異なり、目を見開いて目の前の大水槽を楽しそうに見ている。そんな彼女を傍で見つめる事が出来るのが嬉しい。
ただ、近頃の彼女は、少し前のコンサートの後からだろうか、人目の少ない所で、愁いを帯びた笑みを浮かべたり、少し哀しそうな目をしている事が増えた。見られているのに気づくと、直ぐに微笑みを浮かべた表情に変える。そんな彼女が心配でならない。
何が理由で彼女がそんな顔をするのか、その理由を私は知らない。理由を知りたくないと言えば、嘘になる。しかし、それを聞き出す勇気はない。
彼女の経歴から想像すると、ARIS時代に何かあったのだろうとは想像は出来る。そうであれば余計に聞き出すべきじゃないとも思う。誰にだって傷口は在る。それを無理矢理にこじ開ける様な事はすべきじゃない。
何時か彼女が、理由を教えてくれるまで待つつもりだ。待ち続ける時間は一生分あるから問題はない。正直、こんな風に考えることで現実逃避しているのは分かっている。それが何なのかを彼女から無理に聞き出すと、彼女が去ってしまいそうで聞き出せていないだけだ。
彼女を理由を教えてくれるまでは、この楽しいと思う一瞬を心に刻みながら待ち続ける。勇気の無い私に出来る事はこれくらいしかない。
「寝てる子を抱っこして、暖かそうだなって思って」
最近、自分でも分かる程に家族連れの人達を目で追う様になっている。小さな子供が居たり、姉妹と思われる人達を見てしまう。馬鹿な事をしている自覚はある。
バイバイした子とお母さん、その弟かな、妹かな、赤ちゃんを抱っこしたお父さんを、知らず知らずのうちに見つめていたのかな。彼に、どうかしたのかと聞かれてしまった。
決して少し前のコンサートで、私だと、彼女達のお姉ちゃんだと気づいていない妹達と、期せずして話してしまったからじゃない。妹達を自ら見捨てておきながら、身勝手にも彼女達を心配して、情緒不安定になっている訳じゃない。彼女達にもう一度会いたいなんて、欠片も思ってない。
私は自分勝手な人間、自分だけでも生き延び様と妹達を見捨てた冷酷非情な人間。だから、心なんて折れる訳がない、弱くなる訳もない。
妹達の事を思い出すと、少し胸が、心が痛いだけ。コンサート会場で話した妹達の姿が、彼女達の笑顔が時々頭に浮かんでしまい、ほんの少し辛いだけ。
いけない、こんな楽しい場所なのに、彼に心配させてしまってどうする。頑張れ私、気をしっかり持たないと。
「湯たんぽじゃないんだから……」
多分、無意識なのだろう、沙羅は自分の行動に気づいていない。少し前から彼女は、子連れの家族を目で追う事が多くなった。うむ、なんだ、私はそこまで無責任な人間じゃない。未だ彼女からは何も言われていないが、もしかして子供が出来たのだろうか。そうでなくても、そろそろ子供が出来てしまう前に、ちゃんと籍だけも入れて置かないと駄目だな。
ただな沙羅……抱いている子供はな、暖かいを通り越して暑いんだ。甥っ子や、姪っ子を何人も抱っこしてきた私が言うんだ、嘘じゃない、本当だ。だから良く見てみろ。子供を抱っこしている人達の服装は、総じて薄着だろ?人間の発熱量ってのは、例え子供であっても凄いんだ。仮にあの人達を赤外線カメラを通してみたら、真っ赤だと思うぞ。
「知って!…ないよ!知らなかったぁ、そう、なんだぁ!」
危ない、危ない。もう少しで、妹達を抱っこした事があるから知ってるって言いそうになった。今の私は、保安省第20局第9課の沙羅じゃない。船団専門の保安省第3局を傷病除隊準備中の天涯孤独の沙羅なのだから気を付けないと。
私の傷病除隊の手続きは完了していない。普通なら短期間で終わるけれど、私の場合はそうはいかない。申請したからといって、直ぐに除隊出来ない。そりゃそうだよね。こんな歩く危険物、血塗れの死神を直ぐに世に放つ訳がない。傷病除隊の手続きが長いので、私が特殊だと知られないか、それが最近の心配事。
正直に言えば、彼に嘘をつき通すのが辛い。彼に何もかも、洗いざらい話したい。でも、そんな事は出来ない。もし言ってしまえば、後悔するだろう。駄目、確実に後悔する。だから、言っては駄目。
私の過去を彼が知れば、この細やかな幸せは、瞬く間に消え去る。現実が残酷なのは、身を以って知っている。だから私は、私の過去を墓場まで持っていく。
「もう……、何で此方ばかり見るの?前をちゃんと見て。笑顔は、お客さんたちに振り撒かないと駄目でしょう」
護衛兼恋人ではなく、恋人として彼女が私の横に居るのが嬉しくて、ついつい彼女を見つめてしまう。そんな事をしていれば、今夜のTV等で、どの様に伝えられるかは想像に難くない。
横に居てくれる人がいる。只それだけの事が、これ程までに幸せに感じられるとは思いもしなかった。ああ、これが恋で頭の中がピンク色というやつか。まぁ、それも悪くないな。とは言え、昔の私が今日の私を見たら驚きの余り、心臓発作を起こすか、息をする事を忘れて窒息死するかもしれないな。
ところで、報道関係の人達は、彼女の薬指に私が送った指輪、蒼のコントラストが特徴的なSomething Blueがあることに気付くだろうか。
「お手数をお掛け致します」
最近の大型施設の何割かには、無駄の極みと揶揄されつつも、緊急事態時の前線活動拠点であり、武装保管庫が設置されている。
このホテルにも特別保安ルームと言う名前が付けられ、現役か特別予備役登録者の生体認証でしか入れない設備が設置されている。有難いのか否か、何とも言い難いけれど、生存率が上がるのだから有難いと思うべきなのだろう。
私に言わせれば、この施設を使う状況というのは、本当に異常事態であって前線拠点の有無なんて関係ない状況になっていると思う。
そして私は今、彼を伴い、このホテルでは、特別保安ルームと言われている、その緊急時の前線拠点に移動しようとしている。移動するはめになった理由は簡単。ホテルのお外、沿道で騒いでいた輩のせい。何が武力を放棄して系外種族と共存しましょうなんだか。
彼等が騒いでくれたお陰で、何時もは免除されている施設チェックを行う事になった。ま、不幸中の幸いは道連れが居る事。幸運にも、このホテルの水槽イベントに妹達と来ていた中尉が居るらしい。いやぁ本当に良かった。私達だけじゃなくて、他の人達もこの迷惑に巻き込まれていると思うと少しだけ気が晴れる。
地下の商業施設の下にある職員施設、更にその下にある複数階の駐車場、そしてその下にある機械室の下に特別保安ルームが在る。地下奥深くに在るその場所は、冥界に降りて行く様で、古巣に戻る様で、本当は来たくなかった。
行き交う人々のざわめき、寄り添いながら歩く恋人たち、話しながら歩く人達の姿。普通の人達にとっては、ありふれた日常の光景。ほんの少し前の私も当惑を覚えた弛緩した雰囲気が漂うごく普通の市井。そんな光の世界から切り離されそうで、何か悪い事が起こりそうで、保安ルームに降りて来たくなかった。
此処の保安ルームの作りが悪いのかもしれない。保安ルームがあるフロアに入るための1次ゲート、保安ルームに入る前の準備フロアに入る2次ゲート、そして特別保安ルームに入る3次ゲート。
私達を案内してきたホテルの保安要員の人達とは1次ゲートの前でお別れ。1次ゲートは私達だけで通り過ぎなければならない。白一色のフロアなのも相まって、保安要員の人達に1次ゲートまで護送されてきた様に感じてしまったからなのか、入ってしまえば世界から切り離される様に思えて、入るのが嫌で仕方がない。
これが虫の知らせというもので、何か悪い事が起きるのじゃないかと、変なことばかりが頭を過る。
あなた達からすれば、何てくだらない事で悩でいるのだろうと言いたくなる気持ちは分かる。けれど、私は未だに不安が拭えない。薬指の指輪を見る度に、私ごときが幸せになって良いのかと不安を強く覚える、情緒不安定になる。
指輪を貰った翌週、彼に生体認証を埋め込んでもらっておいて何を今さらと言われるかもしれないけれど、一寸した事で過去の事を彼に知られたのではないかと不安に駆られ、胸が苦しくなる。彼の目を覗き込んでしまう。
生きたい、光の下で生きていたい。普通の人として生き直したい。光の世界の下で掴んだ幸せを失いたくない。そんな事が頭に浮かび、涙が出そうになる。
「認証確認」
気持ちは嫌であっても、システムはそれを考慮してくれない。淡々と認証確認は実行され、彼と共に特別保安ルームへの入室が許可された。
認証と共に表示されたデータを見ると、既に中尉は帯同者の妹さん達と共に入室している。彼も親族には生体認証を埋め込ませているみたいね。緊急事態に私達の認証を持っているか否かが生死の分かれ目になるから、誰が何と文句を言おうと大事なことだと思う。
そういえば、妹達にも埋め込ませていたっけ。ああ……でも妹達は医官になったから、今は親族枠じゃなくて、個人として認証されているんだっけ。
ねぇ貴女達、幸せになってるよね。危ない所には近づいていないよね。危険な事に巻き込まれていないよね。お姉ちゃん、貴女達を直ぐに助けに行けないんだから、安全な場所に居るんだよ。




