1-13-4-20 masquerade 成功と失敗
身体が資本と言いながら、不規則な生活になりがちな職業。だからこそ羽目を外しすぎず、暴飲暴食や過度な飲酒はしない。定期的な適切な運動と、意識的にオンとオフの時間を切り替え、めりはりのある生活をすごす。
誰にも干渉されない広く静かな家でのストレスフリーなひとり暮らしは、それを成り立たせるひとつの手段。
壁収納を多用したのも相まって、訪れる知人達には、物が余りに無さ過ぎて無味乾燥過ぎるとか、生活感が無さ過ぎて落ち着かない等と評判は良くなかった。
あの頃の私は、知人達の不評の意味が理解できなかった。私が快適に感じるこの広さと静けさが理解されなくても、価値観は人其々なのだから致し方ないこと程度にしか受け止めていなかった。
彼女は3週間では帰って来なかった。統合病院での入院と母船への報告処理の間だけの不在。そう思っていた彼女の入院が、突発的な免疫不全の治療の為に、最低でも3か月の面会謝絶が追加された。
後悔先に立たず。いや自業自得と言うべきだろう。今の私は、知人達の苦言の意味が理解できる。ショートメッセージで連絡は取れるものの、面会謝絶となった初めの1週間が終わろうという頃、知人達が言っていた事の意味を理解した。
私の落ち着ける空間であった家は、家具の少ない部屋は妙に薄ら寒く、同居人の居ない家は静けさが支配ししている。彼女の居ない家は、なんとも無駄に広い。
彼女が横に座っていないソファーは妙に大きい。ひとりで見る映画やドラマは、全く面白くない。心地良い筈の我家は、虚ろな空間が広がる場所になった。
寂しさを紛らわせるために、慣れぬ食事会にも出席してみた。でも、どんなに笑い溢れる食事会も、彼女が傍に居ない寂しさを埋めてくれない。
楽しい場所の筈なのに、心は此処に在らず会話に適当に相槌を打つだけ。彼女が傍に居ない場所は何処も無味乾燥で味気なかった。
撮影中の休憩時間や、現場との移動中に、撮影で知ったこの店やあの店にテイクアウトを買いに行こう。この前言っていたケーキ屋さんが途中にあるらしいから寄っていかないか。そう声を掛けようとして、顔を横に向けても沙羅が居ない。
何かが欠けた寂しさが、日を追うごとに強くなっていった。寂しさを覚えていたのは私だけじゃない。福山マネージャは、スタッフ分の軽食を含めて買い物に行くと、彼女が好きだと言っていた桃のドライフルーツを何度も買ってきてしまい、あの頃の車は桃のドライフルーツの袋だらけだった。
退院が延びた彼女が帰宅した日、玄関先の彼女を見た時に私が感じたのは安堵より不安だった。ここで、彼女を捕まえておかないと、彼女が再び何処かに消え去りそうに思えた。だから、帰宅初日に玄関先で彼女を衝動的に抱きしめ、存在を確かめるという失態を犯した。
とは言え、既にこの時には彼女を恋愛対象の異性として明確に意識をし始めていた。だから純粋に不安の解消で抱きしめたとは言い難い。
一度彼女に触れてしまったお陰で安心感を知ってしまった私は、彼女が何処に居ようと彼女に触れて存在を確認したい。触れたい気持ちは募れど、恋人でもないのに安易に触れる訳にはいかない。
やせ我慢というのは何時か限界を迎える。ある朝、玄関を出た彼女が何処かに消えてしまいそうで、彼女は此処に居ると安堵したかった私は、出かける直前の玄関で彼女を抱きしめた。
彼女に嫌われたり、訴えられても仕方のない行動だったが、彼女は何も言わず優しく抱きしめ返してくれた。ただ残念な事に、そこには恋人同士の感情ではなく、不安で圧し潰されそうになっている兄を心配する妹の様な親愛の情しかなかった。
それからは毎日、彼女が嫌がらない事を良い事に、彼女を愛しているという事を心の奥底に秘めたまま、彼女の存在を肌で感じるために彼女を抱きしめ、触れた。
抱きしめた回数に比例して、彼女を愛しているという気持ちは大きくなる。そして抱きしめた時に私の背中に回された彼女の手、腕の中の彼女の身動ぎに、家族の情とは違う何かが混じっていると思う事も多くなっていた。
自分勝手な妄想も此処まで来ると立派だなと、正直そんな自分に呆れた。自制しろ、こんな妄想は忘れろと何度も自分自身に言い聞かせた。
努力にも関わらず、日を追うごとに妄想は膨れあがる。彼女の吐息が愛する人の腕の中で安心している恋人の吐息に聞え、私を見上げる彼女の瞳が愛する人を見上げる恋人の瞳に見えて私を苦しめる。
あの頃の私達は、同じ痛みと苦しみを味わっていた。見てはいけない、でも見ていたい。触れてはいけない、でも触れていたい。日が経つにつれて、互に相手が感情を抑えているのを感じていた。相手の心が見える様になるにつれて、抱きしめる度に、互いに見つめ合う時間が増えていき、そして抱きしめ合う度に身体を離す迄の時間が増えた。
だけど、何も出来ない、何もしてはいけない。私は護衛される雇用主であり、彼女は私を護衛する雇用者。互いの社会的立場が、ふたりを踏み留まらせていた。
秋の中頃のある日、器から水が零れる様に我慢の限界を超えた私達は、それが必然であるように一線を越え恋人同士になった。但し、自宅内限定で、屋外では仲の良い友人の様に振る舞い、他人は秘密にするという条件が付くが。
秘密にするのは、彼女が体の良い愛人だとばれると困るからではない。世間にこの関係を知られてはいけない。私みたいな者を正式に恋人だなんて世間様に言うべきではない。頑として言い張る彼女に従い、渋々偽りの姿を演じている。
どちらも、又はどちらかが芸能人の恋は、秘めた恋になる。それが宿命とは言え、その関係を世間に知られたくないと言われると、何か破局が予定されている様で、微妙な気分になる。
彼女の気持ちが分からない訳じゃない。彼女の立ち位置は微妙だ。色々あり過ぎて一般人と芸能人の間の言わば半タレントの様になっている。そんな立ち位置の彼女が、私との関係が公になった場合に受けるであろう、猛烈な取材攻勢を恐れる気持ちは分かる。
ただ、私みたいな者がと言った時の彼女の瞳が、遠くを見ていたのが気になっている。彼女が何を見ていたのかは知らないが、敢えてそれを聞き出す気もない。
なに、彼女と過ごす時間なら一生分の時間がある。何時か彼女がそれを教えてくれるまで、気長に待っていようと思う。
「本当に、一揃えだけだからね?」
各々が勝手に動いている家の中とは異なり、私が外出するときは沙羅が護衛として必ず傍に居る。恋人に外での行動を四六時中監視されている様で息が詰まらないかと思うかもしれないが、慣れてしまえばどうという事もない。
問題があるとすれば、彼女の装い。彼女は護衛の時は、基本的に黒一色。インナーに始まり、シャツ、パンツスーツ、今の時期ならハーフコートに手袋全てが黒色。これで悪目立ちしてしない方が可笑しい。
オフの時は流石に目立ちたくないので、近所だけではなくて少し遠出をする時もオフの時は私服にして欲しいと話していた時に気付いた、最近、近所への外出で彼女が羽織っているコートは、袖口を折った私のコートだ。彼女は冬物の私服のアウターを持っていない。
彼女は私が服や貴金属をプレゼントしようとするのを、芸能人に集る女みたいだと言って嫌がる。しかし、そんな事を気にしている場合ではない。渋る彼女を説得し、買い物に連れ出した。
此処には何度もきているけれど、何も言われないし、言いふらされた事もない。私が行くのは男性用のフロアだが、女性用のフロアも同じように言いふらされたりしない場所と思い、この商業施設に連れてきた。
「買いすぎだよ、ねぇ」
一揃いとは言ったが、一着とは約束していない。どれが似合うか分からないから何着もフィッティングさせている途中で気づかれかけたが、ミニスカートはどうだとか言って気を散らせ、服の数に思い至らせず逃げ切った。
店を出て暫くして、お連れ様のですとスタッフ達から私に大量の袋が渡された時に、沙羅は漸く自分が大量の服を受け取るのだということに思い至った。
「ねぇ、聞いてる?何を考えているの、ねぇ」
エレベータの前で彼女に小声で小言を言われるのが嬉しくて楽しい。服が多過ぎる、何でこんなに買ったのと、私の腕を掴み、少し困った顔をしながら小声で抗議する彼女の姿が妙に微笑ましく感じる。
私達を見送るためにエレベータの前まで帯同してきたスタッフ達に、微笑ましい姿として見られているのが照れくさいのだけど、何故か嬉しかった。
このやり取りは別店舗の取材をしていた某局の撮影班に見られていた。沙羅さんラブの妹に、辟易する程に動画を見せられていた女性ADに見られていた。
勘の鋭い人だったのだろう。エレベータの前で、私の腕に触りながら、私の持った大量の服の入った紙袋を指さしながら、顔を近づけて、少し困った顔で小声で私に何か言っている彼女の姿が、プレゼントが多過ぎると、嬉しいけれど困惑し、抗議している恋人の距離感だと気づかれてしまった。
そしてその姿は、TVマンの鏡というべきか、神速でカメラを再起動したカメラマンに、音声は無いものの、明瞭な画像で撮影された。
その日の夜の芸能ニュース枠で放映された後は、大騒ぎだ。そりゃそうだ、少し前に私の恋人ではないかと報道されたものの、妹の様な存在だとされていた護衛の沙羅は、やはり恋人であったと報道されたのだから。
今の段階では疑惑なので、彼女の顔には薄くボカシがかけてあるが、見る人が見れば彼女だと分かる。
報道側には幸運な事に、彼女の映像は直ぐに見つかる。私の映像を探せば彼女が必ず傍に居る。だから、何時もなら入手に手こずる芸能人の恋人の関連映像も直ぐに手に入る。更に、事務所のオープンデッキの姿を撮影された動画もある。お陰でテロップ等よりも、やたらと抜き出し画像の多い報道だった。
この報道を受けても、事務所はそこまで騒ぎになってない。私の報道の結果、残業をしている者達も居ない。こんな世界であっても、一応の仁義というものはある。夕方には遅くとも夜の芸能ニュース枠で放送される連絡が入り、そして事実確認の問い合わせが来ていたので、みんな知っているからだ。
彼女との関係は会社にも内緒にしている。だから会社の人間にはオフの外出時に護衛の彼女が着る私服がないから買いに行ったと説明したが、非難の嵐だった。
曰く、あれだけ親密な姿を見せつけておいて、今更恋人じゃないと否定するとは、私達を馬鹿にしているのか。私達が貴方達の関係に気付いていないと思ったのか。男としてそれは余りに情けないのではないのか等と呆れられた。
畜生、知ってたんなら早く言えよ。どれだけこっちが事務所の中でバレない様にと、気を使っていたと思うんだよ。
社長はやっと女性問題だと喜び、社員達にはやっと表沙汰に出来ますねと祝福された。何故スキャンダルなのに動じないのか、喜ぶのか。うちの事務所は社長も社員も頭がおかしいのだろうか?
まぁ私も人の事をとやかく言える立場ではない。本当の事を言うと、私は撮影されているのに気づいていた。でも、世間に恋人同士であるふたりの関係を知ってもらうため、彼等を制止せず、彼女を彼等から隠そうとしなかった。
残念ながら私の目論見、沙羅との関係を公にする私の計画は、成功とも失敗とも言えない結果に落ち付いた。
絶対に目立ちたくないと言い張る彼女と妥協の結果、仲の良い友人の私が沙羅にサプライズを仕掛けた事にした。
彼女は周囲に私の恋人ということがバレず、目立たずに済む。私は仲の良い友人同士という事を、今以上に世間に刷り込める。その結果、自宅の外で今よりも仲の良い行動を取っても疑問に思われない。
外堀をひとつ埋める事が出来た思えば良い。何時か堂々と彼女と手を繋いで外を歩ける日まで、一歩一歩進むしかない。
「そんな事を言わないで、病院に行きましょう?ね?」
私達の関係を何時公にするべきかで、助手席で福山マネージャが胃の辺りを押さえ唸っている。沙羅、あれは胃痛じゃない。胃の辺りを掴み、唸り声を上げて思考する彼独特の問題解決方法だ。苦しんでいる様に見えるけれど、放っておいても大丈夫。だから胃薬も病院も不要だ。
大体、この妥協を考えたのは彼だ。自業自得と言える。私の味方をせずに彼女の味方をした報いだ。存分に苦しめ。この裏切者め。
分かったよ。怒るなよ沙羅。中村さん行先を私の自宅から病院に変更して下さい。福山マネージャ、彼女に感謝しろ。




