1-13-3B Side Story 8 般若の微笑み
2020/03/14に投稿していたものを並べ替えたものです。
『へくちっ!』
『風邪?』
『いや、ちょっとまだ体が冷えていて。やっぱり朝晩冷え込んできたから、そろそろ、これは潮時かなぁ?』
そういえば、朝晩が冷えてきたかもしれない。
「ふぅ……。やっと潮時になったのかしら?」
10日近く雨が降り続いたからか、雨上がりの湿った空気が肌寒い。雲の合間から漏れる陽の光が、心地よい柔らかな温もりを運んでくる。
暦では秋なのに、雨が降る前は、初夏の様な陽気の残暑が居座っていて暑かった。早く涼しくなってくれないものかと思っていたけど、いざ朝晩に肌寒さを感じる様になると、夏の暑さが懐かしい。人とは、何とも我儘な生き物なのだろう。
でも、この肌寒さも悪くはないかな。この朝晩の寒さで、あの魔物も弱るはず。いくら魔物だからって、寒さには勝てないはず。弱点のない魔物なんて居て堪るもんですか。無敵なんて、映画の中だけで十分よ。
「えっ?!逃げた?一瞬の隙を突かれて、逃げられたですって?」
いち早く、移動手段のある場所に人を送って、あれが移動手段で逃亡するのを防げたのは良かった。だけど、こちらを視認したあれが、いつもの姿とはうって変わって、あそこまで俊敏に逃亡を図るのは予定外だったわね。
本当に、諦めの悪い生き物だこと。けれど、それも無駄な足掻き。警戒網に引っ掛かったあれは、袋の鼠。もう、私達から逃げられはしない。
「目標視認、早い!追尾出来ない!ええいっ!ちょこまかとっ!」
「駄目だ!突破された!目標、第1警戒網を突破!」
「何やってんのぉっ!あんた達わぁっ!」
「早いぞ!第2警戒網も突破される?!」
「ああもうっ!全兵器使用自由!全班に連絡、急いで!」
『全班に告ぐ、全兵器使用自由、全兵器使用自由!』
「目標、第2警戒網も突破?!何処に行った?!何処だ?!」
「何で?!早すぎる!」
『ハルマゲドンモード!全兵器使用自由!』
『ハルマゲドンモード!全兵器使用自由!』
「目標ロスト!目標ロスト!周囲に紛れて分からない!」
「何やってんの!探して!止めるの!止めて!絶対!に!止めて!」
「逃げられましたか?」
「いえ、あれは逃げません。周囲のデブリに紛れて埋伏しているだけです。必ず戻ってきます。あれが、あれを残したまま逃げ去るなんてありえません。大丈夫です。お任せ下さい。必ず確保します」
ふっふっふ……、逃がす訳ないじゃない。逃がすものですか。この私から、逃げられるなんて思わない事ね。
「……何?良いわ。お店を開けて。ええ、開けて。大丈夫、あれは、それを無視して逃げ去るなんてことが出来ない生き物。だから大丈夫、絶対に来ます」
油断も隙もあったもんじゃない。危なかった。あの時、ふとした会話が耳に入っていなかったら、今頃私は、煉獄に居た。まぁ、それも昔の話、過去の話。今の私には関係ないこと。
ふむ。甘い匂いがする?これは少し確認しなければなりませんね。
『バニラビーンズタップリのカスタードのシュークリーム。本日は開店記念で3割引きです~。いかがですかぁ~』
ふぉぉっ?!3割引きですと?これは買わないと。でも買うときに確保されたら本末転倒。でも、周りにこれだけ人が多いなら、大丈夫な筈?
よし!行くぞぉ!買うぞぉ!我、出撃せんっ!
「あのぉ~?個数制限とかありますか?」
「余り大量ですと、流石に困りますが、常識の範囲なら大丈夫ですよ?」
「じゃぁ、5個下さい!いや、出来れば5個と15個別々の包装で合計20個は大丈夫でしょうか?」
「20個ですね。大丈夫です。ところで、お持ちになる時間はどれくらいでしょうか?30分以上お持ちになります?その場合は、保冷剤をお入れしますが?」
「あ、そんなにかからないので保冷剤要らないです!」
うひひひ。シュークリーム。それも限定版!優雅な時間。デコイ用の15個あれば、私用の5個は絶対大丈夫。ふふん。頭良いぞ!私ぃっ!
大体、アルバム宣伝なんだから、私は関係ないのに、なんで私まで着替えなければならないのか?
まぁ、これだけ逃げ回ったから、既に取材は開始されている筈。私の着替えも有耶無耶になっている筈。はぁっはっはっはっはっ!私は天才じゃぁ!誉めるが良いっ!誉めるがよいぞっ!
「では此方は5個、此方は15個、合計20個でお間違いないですね?」
「はい!」
「お会計は、3740円になります」
ふっふっふ。はぁっはっはっはっはっ!我は無敵ぞぉっ!文句封じの武器まで確保した私は、向かうところ敵なしぞぉっ!
「ありがとう、ございました」
さてと、袋を掴ん……。
「「「はい、嶺確保~」」」
はい?!ん?!何で腋に腕を差し込まれつつ、にの腕が掴まれているのでしょうかね?あれぇ?瑠璃と葉月ぃ?何でぇ?
「はい、嶺、そのシュークリームの袋を摩利に渡して」
あれぇ?摩利が般若の笑顔だ?何でぇ?
「さぁ、そのプロテクター付きのライディングファッションから、ミニスカートに着替えようか、嶺」
「じゃ、戻るよぉ~。あ、摩利。香さんに今から戻るって連絡して」
あれぇ?何か引きずられているような?でもって、周りの人が笑っているのは何故ぇ?
『ねぇ?あれCUBEじゃない?』
『だよ!生CUBEだよ。で?両脇を掴まれているのって、嶺じゃない?』
「ほら、嶺、手を振って」
えぇぇ?!無理っ!無理だからっ!
「本当、あんたって、ヘルメット被っているときと、脱いだ時じゃ別人よね」
ひ・人を二重人格みたいに言うなしっ!
「ありがとうねぇ、応援してね。ごめんねぇ、この娘ね、ヘルメット脱ぐと人見知りなもので、許してね?」
なんで私は、アルバム宣伝取材に出ているのでしょうかね?
「はい。少し顔を引き気味にしてもらえますか?はい。そのくらいで」
なんで私は、宣伝用写真を撮られているんでしょうかね?
「良いですよぉ、そのまま」
なんで私は、微笑みを浮かべながら写真を撮られているんでしょうかね?
「はい、ありがとうございました」
はぁ……。やっと終わった。次は絶対にないな
「嶺?次から逃げたらどうなるか分かってるね?」
「え?だって?え?」
「分かったよね?メンバーなんだからね?お仕事なの?わかる?」
「はい……」
摩利?その般若の微笑み怖いんだけど……。
朝晩の冷え込みどころか、日中ですら寒いこの季節。あの魔物も弱り果て、大人しくなると思っていた私が馬鹿だった。
あの魔物は、ああ見えて破天荒だったのを忘れていた私が馬鹿だった。
「嶺?これは何?」
「ん?香さん、これは車というものですが、香さんはご存じない?!」
「そうそう、初めて車を見るの、うちの実家は田舎でねぇ。んなわけあるか~い。バイクから車ぁぁ?」
「いやぁ、寒いじゃないですか。車なら暖かいしねぇ?」
「嶺の車?」
「おや?皆居る。んだよ。私の車、Mazda。帰り乗ってく?」
外車じゃなくて、国産車というのが、この娘らしいと言えば、らしいけど、ああ、胃が痛くなってきた、眩暈もするのは気のせいかしら?
こやつは、これでまた追っかけを撒くのだろうか?そしてまたそれが報道されて……。嗚呼、胃が痛い。




