1-24-12 夜風
どんなに希薄な人間関係であろうとも、田舎に片足を突っ込んだ様な都会の外れであっても、社会生活、人との交友は避けて通れない。望む、望まないにせよ全て避けきることは出来ない。
こんにちは。こんばんわ。そんな声と供に現れる見ず知らずの人達は、十中八九売り込みか、宗教関係の勧誘。
禄でもない目的で訪れる人達。そんな人達に対応するのは時間の無駄でしかないので、その手の人達への対応は、おざなりであったり、適当に済ませる。だから、彼等が何を言っていたのか、記憶にない。
とは言え、そもそも私自身が、ある意味で禄でもない存在。彼等を批判する権利等を持っていない私が、何を偉そうに彼等を批判しているのかと苦笑が浮かぶ。
人型生物兵器を作るために生み出された急速生成クローンのプロトタイプ。自分が生物兵器である事は否定しない。こればかりは逃げようのない事実。どうしようもない。そうであっても、私は自分自身を生物兵器だとは思っていない。
私は生き物だ、機械じゃない。その証拠に、私は食物を摂取しなければ衰弱して死んでしまう。生きるために食物を摂取し、消化し、吸収する。私は、ただ普通に生きている生き物。そうとでも思わなければ、心がもたない。
今の時代では、機械も食物を摂取しエネルギー変換をしている。そう反論されるのは分かっている。今の時代の人が聞けば眉をひそめる、化石の様な時代遅れの考え方なのは理解している。でも私の中では、食物を摂取するのは生物種だけで、機械はその中には含まれていない。
年寄りの愚痴ではないけれど、今の時代は、私には複雑過ぎる。昔は物事が単純だった。生き物と機械の区別は単純明快だった。子供の頃、生き物と言えば、文字通り生物種であり、機械や人工知能は生き物には含まれていなかった。
時が経てば世界も変わる。こればかりは、避け様がない。私が中高年と言われる頃、機械種が船団と共に現れ、機械種も生き物のひとつになった。
困った事に、長い眠りから覚めると、世界は更に複雑で面倒な場所になっていた。多種多様な姿形は当然として、主要成分が蛋白質ではない生物も、当然の様に掃いて捨てるほど地球を訪れる。
正直に言えば、昔の考え方で言えば、私は純然たる生き物ではない。人工物と生物の狭間の異形と言われる存在になる。
幸運と言って良いのだろうか。今の時代の考え方では生き物になる。私は胸を張って、自分は生き物だと言える。今の時代の常識は、私には都合が良い
でも、生き物とは何かと言う、今の時代の常識を心の底から受け入れる事が出来ない。何処まで行っても、私は異形だという考えが頭から離れない。
あと少しだけでも良いから生き延びたい。切望とも言える儚い望み。何とも情けないと言われればそれまでだけれど、私は強い人間じゃない。普通の人間が望む事なんてそんな物。
気づけば、望んだ訳でもない異形と成り、そして未来にも跳ばされていた。昔の時間しか覚えていない私は、時代に取り残された古い人間。
私が知る常識は、今の時代では非常識でしかない。普通に生活するだけでも、一苦労。でも私は、生き延びるために、頑張るしかない。
私は生き物なのか、それとも別の何かなのか。その話しについては、取り合えず置いておこう。人類に属しているのか、そう問われれば人類だと答えられる。但し、原種の人類なのかと問われると、答えに窮してしまう。
少し考えても、加齢防止処置、反応速度の向上、治癒能力の向上等が私に施されている。どれだけ言い繕っても、私は原種に似せて作られた紛い物でしかない。
紛い物だとしても、生きるために食物の摂取が必要となる。困った事に、自炊にせよ、外食にせよ、食物を得るには金銭の対価が必要になる。お金が無ければ何もできず、何も買えず、生き抜くことすら困難になる。世知辛いとはこの事だ。
お金を得るには働くしかない。残念ながら、偽造身分証しかない私は、まともな職業やアルバイトが出来ないし、生活保護を受けることも、ままならない。
犯罪行為、例えば窃盗や強盗でお金を得る事は出来るだろうが、その手は使えない。犯罪行為に手を染めれば、彼等に見つかり易くなるだけだ。
そうなると、残るのは今の容姿を生かした裏の世界か裏の世界に近い仕事になる。そんな仕事となると、考えたくも無いが言葉通りに身体を使った仕事しかなく、薬漬けにされるか、誰かの愛人にされるか。碌な未来はやって来ないだろう。流石に、その様な未来を歩む勇気はない。
まともに働く事ですら、私にはリスクになる。働くという事は社会を構成する一員になるという事だ。要するにそれは、彼等に見つかるリスクを下げるため、可能な限り希薄にしていた人間関係を構築する事を意味する。そして人間関係の構築は、彼等に見つかるリスクの増加に繋がる。しかし糧を得るためには、そのリスクを許容するしかない。
何をしてもリスクから逃れられないし、そもそも明日からの生活すら危うい状態で躊躇している余裕も無い。あいつの隠し口座を生活の糧として使う事にした。
秘匿性はどうした?彼等に見つかる危険性は?もう、そんな事はどうでも良い。地上で、頬を撫でる本物の風を感じられる。それに満足している自分が居る。もう十分だ。そう思っている自分が居る。
形を変えた自殺願望と言われれば、否定しない。無為に生きるのは疲れる。でも自分でそれを止める勇気はない。私はそんなに勇気のある人間じゃない。
お金の心配をせずに、毎日をだらだらと生きるだけ。毎日が日曜日みたい?ゆったりとした時間を過ごせてで羨ましい?
人と繋がりのある人なら、そう思うかもしれない。私の様に人との繋が希薄な者には、遅々として進まない時間の中に閉じ込められているのと同じ。
遅々として進まない日常で、夜空を見上げるのが習慣になった。ああ今日もやっと夜になった。今夜は夜空に綺麗な月が浮かんでいる。今夜は、雲が多くて月が見えない。今夜は、雨で肌寒い。明日の夜は晴れるのだろうか。
あと一日だけ頑張ろう。明日の夜空を見るまで頑張ろう。毎夜そう言い聞かせ、夜空を見上げ続けた。
辛くて、不安に押し潰されそうな日もあった。そんな夜は、恨みを思い出す事で不安を追い出した。せめて、あいつが死んだと信じられる日まで頑張ろう。
因果応報は必ずある。だからあいつには、天罰が必ず下る。そう信じて、だからもう1日だけ頑張ろうと自分に言い聞かせた。
「こんにちは」
何時もの様に夜空を見上げていた時に、柵越しに声を掛けられた。私は怯えも、驚きもしなかった。もうそろそろ来る頃かなと、薄々思っていたから。
普通は、柵越しとは言え、夜に若い女性に、見ず知らずの人が声を掛けたら怯えるか、または驚くだろう。でも私はほっとしていた。
見つけられてほっとした。ドラマ等で良く聞く犯人の台詞。私はそれを理解できる。あの日、何時もの様に夜空を見上げていた時に、彼等が来た。
望む、望まないにせよ来るべき時が来たと、私はそれを静かに受け止めていた。
無為に過ごしていたとは言え、無警戒に過ごしていた訳じゃない。人との関わりを極力避けていたとはいえ、買い物は必要になる。
ネット通販があるじゃないかって?只でさえ、隠し口座を使ってリスクが上がっているのに、更にネット環境を整備してリスクを上げる程の度胸は私にはない。
ネット通販ではなく、対面での買い物であっても、この世界では現金から電子決済が主流になっている。この国は未だに現金決済も主流の様に使えるとは言え、電子決済が優勢なのには変わりがない。だから電子決済は避けて通る事が出来ない。
電子決済を使えば彼等に見つかる確率は跳ね上がる。けれど、今の時代では必要なリスクとして許容するしかない。
対面での買い物をすれば、当然の帰結として顔も覚えられていく。好む好まざるに関係なく、自分の周りに濃淡の差はあれど人間関係が構築されていき、顔見知りから、少し会話をする関係になっていく。
今いる場所は一寸した観光地の様な場所になる。そんな場所に10代半ばから後半の少女が一人で居れば目立つ。良いか悪いは別として、誰かに見つめられ、時には声を掛けられる事もあった。
そんな人達を、街の顔見知りの人の助けを借りてあしらう。自分では避けていた人付き合いに助けられる。そんな生活に細やか幸せを感じながら慣れ始めた或る日、何時もの視線の中に、何か別の思惑の混じった視線を感じた。
何時もの他愛のないお店の人達との雑談の時に、誰かに見られている。少し自意識過剰になっているだけだと思う様にした。
街に出かける途中、何台か後ろの車や、通り過ぎる車に何か違和感を覚える。単なる気のせいだと思う様にした。
街に買い物に出た時に、雑踏の中から此方を覗い見られている。今の時代のファッションから外れた格好なのかもしれない。時代遅れと見られているのかもと思う様にした。
対面に居る彼等を見ながら思い返してみれば、あの時の私は、今の未来に気付いていたのだと思う。自分に言い訳をして、今のこの時が来ることを、心の奥底で準備していただと思う。
意識的に心の隅に追いやっていたけれど、私は彼等に追われている立場。私は、彼等汚点なのだから、何時どこで処分されても不思議ではない。
だからと言って、衆人環視のこの場所で処分される事は無いと思う。いや、処分した後に、テロリストを処分したとされるかもしれない。怖く無いと言えば、嘘になる。死にたくはないと思う。でもどうにもならない事も分かっている。汚れは掃除される。それが、この世界の常識。
今の私の心情を言い表す適切な言葉は何だろう。悟りとか、諦観とか言う物かもしれない。そんな御大層な物ではなくて、ただ諦めているだけかもしれない。
そうてあったとしても、寒々とした月ではなく地球で死ねる。孤独に月で朽ち果てるのではなく、それが敵であっても、誰かに看取られて死ね事ができる。
今まで、この地上で生き延びていたのが奇跡。幸か不幸かで言えば幸せだった。見上げた白く輝く月が、溜息が出る程に綺麗。頬を撫でる夜風が、何とも香しい。
余り苦しみたくないな。私にそれを望む資格が無いのは分かっている。でも、出来得るなら、苦しみを感じる間もなく、ひと思いに処分して欲しい。
本当は未だ生きていたい。門扉までの僅かな距離が、無限の彼方に感じる。門扉を開けようとする手が重い。
生きていたいと思う事が、そんなにも大きな罪だったのだろうか。それとも違法な複製品ごときが、望んではいけない夢なのだろうか。門扉を開けようとする手が震えて、把手を上手く掴めない。
私は、生きたかっただけ。眼が潤んで、景色が歪んでぼやけてしまう。こんなにも、心が弱かっただろうか。容姿に心が引っ張られているのだろうか。
もう少し、陽の下で風の中に居たかった。少しだけ、月夜の夜風の薫りを味わいながら、此処に居る幸せに浸っていたかった。でも、それもあと少しで終わる。
足掻いてもどうにもならない。来るべき時が来た。それだけの事。世の中にとっては、どうでも良いような話し。大丈夫、直ぐに終わる筈。




