1-24-7 大気圏
未だ撃墜されていない。緩い角度と低速度降下の過去のシミュレーションでは、高度100kmの大気圏より更に上の軌道で彼等に撃墜されていた。
彼等に疑われない急角度と高速度の突入が正解なのは分かるけれど、大気圏へ突入を始めたばかりで、こんなにも軋み音が聞こえるものなのだろうか。
本格的に大気圏への突入が始まると、軋み音と振動が先程よりも酷くなってきた。これから十数分は無防備に近い状態になる。撃墜されるのが先か、分解寸前で着水出来るのが先か。頼むから着水までは平穏無事にいって欲しい。
現状の降下軌道ならば、日本地域、九州地方南方海上300kmへの落下予定だ。幸いな事に居住地域への落下は無い模様。撃墜される危険性が少し減った。
後はどのタイミングで、降下中にシステムの一部を復旧出来た様に装えるか。自由落下から減速出来るか。如何に違和感を覚えられない様にそれを行えるか。未だ薄氷を踏状態から抜け出せた訳じゃない。
輸送船は海に浮かぶことは想定していない。あくまでも一時的な浮力で浮いているだけだ。そして波の圧力というのは馬鹿にできない。無茶な着水で船体の破損個所が増加していく。破損個所の増加に伴い浸水も増加する。輸送船は早々に水没するだろう。破滅が刻々と近づいてくる。
私は、その破滅が待ち遠しい。輸送船は水没し、乗組員も行方不明になってしまう。何と、素晴らしい。これ程までに、自然に行方不明と成れる状況はない。後もう少しで大気圏を抜け中層に到達できる。あと少しで地球に還れる。
「ロックオン警報、ロックオン警報」
何で?!何でバレた?!何が悪かった?!安全規定解除、進入角度を大角度に変更。リアクタ戦闘出力。推力上昇。パワーダイブ速度増加。シールド出力増加。畜生!間に合え!
「回避。回避。上方軌道への遷移を推奨。上方軌道への遷移を推奨」
回避したくても、回避できないっ!大気圏突入を始めたばかり。ここで上の軌道へ遷移したら、二度と地球に還れない。このまま大気圏突入を継続するしかない。
「シールド出力低下。危険域。シールド出力低下。危険域」
リアクタ安全装置解除。リアクタ緊急出力。間に合えっ!
「被弾。被弾。中央プロック気密破壊。隔壁閉鎖できません。船殻崩壊します」
畜生!どこで間違えた?!何処で!?
「シミュレーション終了。本船は、高層大気中層到達前に撃墜されました」
駄目だ、この方法では地球に還れない。もう一つの方法で行うしかない。今はまだ彼等にこの隠れ家は見つけられていない。でも何時かは彼等に見つかる。明日かもしれないし、明後日かもしれない。もう扉の直ぐ傍に居るかもしれない……恐怖が私を忘れるなと心の奥底で鎌首をもたげる。
私には、地上に降りた私をサポートしてくれる組織も仲間も居ない。地上に降りたあとの生活基盤をどうやって確保するのかは重要な問題になる。
私は機械種ではない、確かに私は人としては在り得ない治癒力を持ち、加齢防止処置により(じゅみょう)の概念が無く、生命活動維持のための食物摂取の必要頻度や、老廃物の分泌や排泄は人より何十倍も少ない。
少しばかり人としての範疇から外れているが、心までその範疇からは外れてはいないし、精神面でもケアを考えれば、人と同じ頻度で食物は摂取したいし、例えば着替えや入浴も行いたい。だから生活基盤が必要になる。
降下後の生活基盤確保のためにも物質転換装置を搭載した揚陸艇があれば、その問題は解決する。しかし、輸送船に揚陸艇を積載し降下するのは諦めるしかない。
揚陸艇を積載した輸送船で降下するのは無理があり過ぎる。揚陸艇を持ち込むためには、どうしても輸送船が分解しない様に浅い突入降下角度になるし、降下速度も遅い。そうなれば地上までの降下時間は長くなる。その結果が、何度シミュレーションをしても途中で撃墜される結果になる。
揚陸艇が無ければ、何か拠点を確保する必要がある。現実的なのは宿泊施設に泊まる事だ。但しその場合でも彼等に見つからない様に同じ場所での長期間の連泊は出来ない。短期間で移り泊まる事になるだろう。
問題は宿泊施設に泊まるためには、宿泊費、要するにお金が必要になる。現金として持つにしても、電子マネーに課金するにしても、あの糞野郎が残した隠し口座からお金を引き出す必要がある。
口座を使えばARISに見つけられる可能性は大きいけれど、お金は必要。出金したら、速やかにATMから移動する。そうするしか方法がない。
そんな面倒やリスクを避けるために最低限の装備で野宿すれば良いだろうという考えは捨てるべきだ。悲しいかな、今の私の見た目は10代後半から20代そこそこの少女。そんな人間が、野宿していれば目立つ。
それに如何に治安の良い日本とは言え、野宿は、飢えた狼達が跋扈する森で昼寝をするより危険だ。見つかるリスク云々以前の問題だ。
別の方法もある、私を造り出したあいつの伝言を信じればという前提条件が付くけれど。彼等にばれていない隠れ家が、首都圏の近郊に在るという。例え記憶捜査されたとしても、隠れ家が彼等にばれることは無いと言う
私の事に関する記録を消去しただけではなく、私に関する記憶を消した複写記憶で、記憶の上書き転写をしたと言う。例え捕縛され、記憶捜査されても、そもそも記憶に無いのでばれない。流石マッドサイエンティスト、やる事が無茶苦茶だ。
ご丁寧にその事を手書きで紙に書いて月の牢獄に残していた。親切な奴だと少しは感謝してやるべきなのか、底意地の悪い奴だと罵倒すべきなのか。判断に悩む。
隠れ家が安全か否かを別として、隠れ家の使用を前提にすれば、物質転換装置を搭載した揚陸艇は不必要。私の目的は何だと自分に問いてみれば、私は地球に還りたいだけ。確かに最初の頃は、あいつをこの手で始末する事だけを考えていた。
でも、それも最初の頃だけの話。時間が経つにつれ私を月の牢獄に閉じ込めたあいつへの復讐心は薄れ、望郷の念が強まる。あいつの事なんて、どうでも良い。
月から地球への移動を短時間で済ませる必要がある。時間が掛かれば掛かる程、誰何され、撃墜される危険性が高まる。もしもの事を考えれば輸送船よりも機動性の高い揚陸艇、それも強襲型揚陸艇が良い。普通の揚陸艇では駄目だ。
強襲揚陸艇で何が何でも大気圏まで到達し、大気圏突入。途中で強襲揚陸艇から分離して、最低限の装備だけで強襲降着ポッドでの降下。これに賭けよう。
熾烈な対空射撃を擦り抜ける強襲降下は、降下時間が短ければ、短い程。減速から降着までの時間が短ければ短い程、生存確率は上昇する。
降下手段は大きく分けて輸送船、揚陸艇、強襲降下ポッド、軌道降下猟兵の様に装甲服だけで降下の4種類。降下時間は輸送船が一番長く、次に揚陸艇、そして強襲ポッドと降下猟兵はほぼ同じ。被弾率はこの順で小さくなる。
強襲ポッドと降下猟兵の違いは、強襲ポッドの方が対弾性が強く、全行程を目を閉じていても降下できる。降下猟兵は行程の一部を目視しないといけない。高所恐怖症の人間には無理、というか降下猟兵は頭がおかしい。
強襲ポッドと降下猟兵の降下は、高高度降下低高度開傘(HALO:High Altitude Low Opening)を行う。その高高度が軌道高度であり、減速限界低高度まで自由降下ではなく動力降下するのが、落下傘降下でのHALOと違う所。
降下猟兵の減速高度は、落下傘降下の低高度開傘高度と同程度だが、強襲降下ポッドは3・4階建ての集合住宅程度の高さで急減速して降着する。その為に、重力制御やシールドが必須。というか無ければ身が持たない。
もし重力制御が無ければ、降下中は降下加速度を感じるし、盛大に振動する。急減速を行えば、急減速加速度に強襲ポッドの構造は耐えられず自壊し、搭乗者は自身の自重に負けて潰れ死ぬ。
シールドがなければ、少しの被弾で致命的な損傷になる。重力制御とシールドを使わない強襲降下は、自殺行為と言って良い。
重力制御とシールドの使用は、不利な部分もある。重力制御を用いれば、僅かであっても重力変動を探知される危険性がある。強いシールドを張れば、何かを跳ね返えした時のエネルギー変位を探知される可能性が上がる。
隠密性を重視すれば不利益があり、生存性を考えれば利点がある。重力制御とシールドは、諸刃の剣。使い方ひとつで、どちらにも転ぶ。
私は今、撃墜に怯えながら、身動きの取れないポッドの中で激しい振動と轟音に耐え、無限の長さに思える自由降下に耐えている。
強襲降下ポッドに乗っているのに、私は動力降下をしていない。強襲降下ポッドを載せていた強襲揚陸艇の大小の破片と供に地表に向けて落下している。
降下回廊に入る大気圏突入時にフラットスピンが生じ、強襲揚陸艇は空中分解。北海道北西部の海上に向けて燃える大小の破片となり、私の強襲ポッドと共に落下している。
私は未だ生きている。このまま無事に降りれる。大丈夫、何も起きない。彼等は私を見つけていない。大丈夫、このまま還れる。




