1-24-2 私は誰なのだろう
何日、何週間、何か月。どれ程の間を夢現で過ごしたのか分からない。はっきりとした記憶がないので、長い間をうつらうつらとしていたとしか言えない。
ドラマ等のお約束では「知らない天井だ」と思うのだろうが、目が覚めた時に思った事は、なぜ私はベッドで寝ているのだろう、なぜこんなにも身体が重いのだろうだった。そんな事を覚えている。
どんな状態だったのかと聞かれれば、酷く寝惚けているのに似た状態、何かを考え様としても意識に靄がかかっていて、理路整然と物事を考えられず、そして身体は思う様に動かせないと言えば分かってもらえるだろうか。
何かを誰かとやり取りしていた様な、何か叫び声をあげていた様な記憶もあるけれど、それが夢の記憶なのか、本当の記憶なのかは分からない。
時間の感覚が無くなっているので、今の状態になって1週間なのか、それとも2・3日なのかは分からない。はっきりと言える事は、今の私は以前より意識が明瞭で、少しだけ身体も動かせる様に成っている。だから私は前よりは体の状態が良くなっているのだと思う。
私がベッドに横たわっている理由は明確に理解している。私は非常に間の悪い時に、居てはいけない場所に居た。
ARISの施設に、何処かの馬鹿がしかけた爆破テロに巻き込まれた。ARISに恨みを抱くのは自由だが、巻き込まれたこちらからすれば堪ったものじゃない。
余りの痛みに朦朧とした意識の中で、周囲を地面に横たわりながら見つめていた。私をこんな目に遭わせたテロリスト達を心の中で罵りつつ、恐らく死ぬのだろうと達観していた。薄れゆく意識の中、残された家族の将来が不安だった。そんな事を覚えている。
とにもかくにも、私は運が良かったのだろう。私は迅速な医療措置を受け、生きている。先ずは治療が間に合った事、それに感謝するべきなのだろう。
だが私は絶賛困惑中だ。意識が朦朧となる程の激痛だった。それなりに重症だった筈だ。麻酔が効いているのだとしても、微かな痛みすらないのはおかしい。確かに少し違和感を覚えるものの、身体を自由に動かせるのは何故だ?
目の前にかざした腕には、包帯のひとつどころか、絆創膏のひとつも貼られていない。そんな事はどうでも良い。問題は目に見えている腕の皮膚、その張りや艶は何だ?どう見ても、少し前までの初老の老いた腕ではない。遥か昔の、若かりし頃の腕にしか見えない。
恐らく私は、重度の火傷も負ったのだろう。そのため、医療タンクで皮膚再生の処置されたに違いない。そうでなければ、ここまで若々しい腕に成る訳がない。
皮膚再生の処置までをしたとなると、相当に長い期間、恐らくは月単位で医療タンクに入れられていた筈だ。長期の看護ともなれば、何時も病室に家族が居る訳もない。目が覚めた時に傍に居なくとも、それは当たり前だろう。
そう思いたいだけなのは、分かっている。現実逃避をしている事も、薄々気づいている。私は現実を認めたくないだけなのだろう。冷静に考えれば、この場所は変だ。人の気配を感じない。人が居れば出すであろう雑音が聞こえない。
聴力に障害を負ったのかとも思ったが、そうでもない。微かに空調や何かの作動する音は聞こえる。だから、聴力に問題は無い。実際に乗った事がある訳ではないが、ひとりで宇宙船に乗っている様な感じだ。
ほどなくして、病室に看護ロボットが入室してきた。普通目が覚めたらやって来る看護師や医者は何処にいるのだろう。此処は全自動病院か何かなのだろうか。助かっておいて言う事ではないかもしれないが、定年間近の老い先が短い初老の私は助かって良かったのだろうか。
全自動病院か何かともなれば、相応の費用がかかる筈だ。私が入院して目が覚めるまで何日が経過したのだろう。長期入院でなければ良いが、入院費で家族に心労で迷惑をかけたに違いない。後は、せめて身体が不自由ではない事を祈るばかりだ。これで退院後も迷惑をかけるとなれば、目も当てられない。
分かっている。全自動病院であったとしても、人気が無いのが異様だというのは分かっている。
ある程度の身体の状態は寝ている状態でも確認は出来ていたが、上半身を起こせる様になり更に確認が出来る様になった。それが良かったのか悪かったのかは、何とも言い難い。冷静さを保てているので、まだ大丈夫な筈だ。
正直に言えば、少しばかり動揺している。いや、本当は未だかつて経験した事が無い程に動揺している。これは昏睡中の夢の中に居るのではない。私は起きている。完璧ではないにしても、自分の状況を把握している。その筈だ。
自分で自分にそうとでも言い聞かせていなければ、喚き散らしたい衝動を抑え込めない。でも本当は、今のこの状況が夢だと思いたいし、切にそう思っている。
どんな風に思い込もうとしても、現実は厳しい。動揺を抑え込む事が出来ないが、半狂乱にはなっていない。余りの事に冷静にならざるを得なかった結果だとしても、そして誰も見ていないとしても醜態を晒さなかっただけマシと思いたい。
今の私は貫頭衣タイプのワンピースの様な患者衣を着用している。ズボンは着用していない。意識不明の患者の下の世話などを考えれば、そのこと自体は不思議ではないし、ありえる結論だろう。でも、そんな些末な事はどうでも良い。
眼鏡をかけずとも周囲が明瞭に見える。これは医療タンクで治療された副次効果だと思えば可笑しくもない。若々しい肌については、恐らくは重度の火傷の治療の結果と思えば、不思議な事ではない。私が動揺する理由、その問題の根源は、脚の付け根の違和感と、同じく違和感を覚えて見下ろした胸元だ。
初老の私にとって、脚の付け根は過去の栄光であり、そしてその栄光の遺物ではあったが、消滅はしていなかった。爆発事故で吹き飛ばされた可能性は否めないが、麻酔が効いていたとしても覚える筈だろう違和感がない。
そもそも、医療タンクに入れられていたならば、意図的に忘れ去れれていない限りは、その部分も再生処置がなされている筈だ。
脚の付け根の問題もなかなかに重大ではあるが、この見下ろした胸元も結構な精神的な衝撃を与えてくれている。自分の不摂生が主な理由ではあるが、加齢に伴い筋肉が落ちた貧相な胸。それが私の胸の筈だ。
その筈なのに、見下ろした先には、立派な胸の谷間が見える。これが硬い筋肉が付いた事による谷間ならば、未だ喜ばしい。しかしどう見ても、この谷間は組成の大部分を脂肪か、または柔らかい筋肉で占めた物で成り立っている。
胸元を広げ中を覗いた視覚情報と、貫頭衣の中に手を入れて触って確認した触覚情報、鏡が無いので確認は出来ていないが、顔を触った触覚情報から総合的に判断すると、私は初老の男性から正反対の性別に、それも大分と若くなっている。
あり得ないだろう?!医療事故か?!いや、助かったのだからその部分の対価と考えれば文句を言う筋合いもないのか?いや、それとこれとは別だろう。騒ぐまではないが、取り乱していると、看護ロボットと目が合った様な気がした。
看護ロボットと目が合ったような気がしたのは、気のせいではなかったのだろう。恐らくは鎮静剤を投与され、眠らされたのだろう。寝ている間に、私は別の部屋に移動させられていた。移動させれれたとはいえ、先程の部屋と大差はない。差があるのは大きな窓があり、その窓の向こうに小さな地球と月の平原が見える。
成る程、爆発事故に巻き込んでしまったARISからの謝罪の形なのだろう。月面の高度医療施設に入れてくれたのだろう。どうりで家族が傍に居ない訳だ。流石に月面の病院施設に通うのは無理だ。
爽快な目覚めと相まって、窓から見える景色に見惚れていたけど、そろそろシャワーでも浴びよう。着替えは自分の部屋にあるけれど、ここからだとシャワー室の向こうか。まぁ誰も居ない。シャワーを浴びた後に裸で移動しても、問題ない。
性別が変わってしまったのに、よく平気でシャワーを浴びられる?裸で移動して恥ずかしくないのか?子供じゃあるいまいし。妻子持ちなのだから、異性の身体を知らない訳じゃない。流石に若い異性の他人が目の前で裸なら焦るけれど、自分の身体なのだから、焦る必要もない。
それに今更悩んでも仕方がない。成ってしまったものは、成ってしまったのだから。あの爆発事件で生きているだけで儲けものと思わないと。
シャワーの後で、均整の取れた無毛の若い女性の身体を見て性的興奮を覚えるかと思ったけれど、何の感情も覚えなかった。単にシャワー後に自分の身体に不備がないかチェックしている。そんな感覚しか覚えなかった。
鏡に映った身体を捻りながら、スキンケアを忘れずにしなければと思っている自分が居た。そして裸で自分の部屋に着替えを取りに行く時に気付いた。なぜ私は、この場所のレイアウトや設備の内容を知っているのだろう?なぜこの場所の設備を使えるのだろう?なぜ駐機場にある宇宙船の操縦方法を知っているのだろう?なぜスキンケアなんて知っているのだ?私は何をされたのだ?
疑問を覚えながらも、全身のスキンケアを行い、下着も服も当然の様に着用した自分に苦笑いしながらも、私は食堂に移動した。悩んでいようとも空腹には勝てないからだ。人は空腹だと碌な事を考えない。これは私の持論だ。だからまずは腹ごしらえ。悩んだり、疑問の解消はその後だ。
お腹が膨れると人は幸福感に包まれ、そして余裕が出てくる。そんな私はこの施設にもデータベースがある事を思い出した。思い出したというよりは、記憶を埋め込まれているのだろう。誰が何のために私に記憶を埋め込んだのか、それを知るためにもデータベースの調査を最優先に行うべきだろう。
シャワーを浴びようと考えた時、その時には既に私は気づいていたのだと思う。この施設の事や設備の使い方を知っている自分に違和感を覚えない自分が変だと気づき、最悪の想定を無意識に心の奥底に仕舞い込み、破局に備えていたのだろう。そうでなければ、もっと酷く動揺した筈だ。
心の奥底で、私は気づいてしまったのだろう。家族がここに居ない理由。自分以外に誰もここに居ない理由。マシナーではなくロボットしか居ない理由。地球から離れた月面に居る理由。シャワーの後、全身鏡で自分の容姿と身体を見た時に、私はあの事件に巻き込まれた私ではないのかもしれないと。
私は、誰なのだろう。




