1-16-3 灰色の世界
私だって昔は普通だった。好きで沈着冷静と言われる様になったのではない。少しだけ人見知りが強い、人が嫌いだけれど寂しがりやの普通の人だった。
世の中は大なり小なり嘘で彩られている。互いに相手の小さな嘘に気付かないまま、お互いの小さな嘘を積み重なねて社会を成り立せている。
何時の頃からだろう、人の眼の奥の光で相手の感情が読み取れる様になっていた。人の感情が読み取れれば便利だと思うかもしれない。実際は不幸でしかない。
人が自分に向けた顔には出さない心の中の害意、私を利用するための嘘。知りたくも無いのに、それがが分かってしまう。社会性を保つための人間関係を壊さないために、それに気づいた素振りを見せてはいけない。
私にとって、人が言う平穏な世界は、人の眼を見てはいけない恐ろしい場所でしかない。眼を見て話さなければ、嘘をつかれても分からない。害意を向けられても、気づかずに済む。
残念な事に、人と話すためには人の顔を見ない訳にはいかない。顔を見るという事は、相手の表情や眼を見てしまうことになる。だから相手の顔や眼を見ないで済ませる事は不可能に近い。
人の顔や眼を見る事が怖くて出来なくなった私は、顔や眼を見ている振りをする事にした。どうしても相手を見て話さないといけないときは、意識的に眉間の少し下あたりを見て話した。
そうしておけば、人は眼を見て話してくれていると勝手に誤認してくれる。無視されたとも思われない。失礼にもならない。だから下手な軋轢も生じない。
弊害が出ない訳がない。やっていることは意識的に目を逸らしているのと同じ。目を見ないと言う事は顔を見ないのと同じ。顔を見れない私は、声の抑揚と身体全体の動きで他人を識別する様になった。
人の顔も覚えられない記憶力の弱い人。そう思われても、それで良かった。笑顔で言われる嘘、向けれた害意。それに耐え、何食わぬ顔で過ごすより良いから。
人が怖い私も思春期になると、恋をしようとした。そう、恋をしたではなくて、恋をしようとした。結論を先に言えば、結果は惨憺たるものになった。
思春期の普通の男女の様な初々しい恋に憧れたのではなく、恋をすれば、自分が普通だと証明できると信じていた私は、恋を手に入れようとした。
人は怖い人ばかりじゃないと信じたかった私は、信じられる人を手に入れようとした。その考え自体がの大間違いなのだけど、異性に対する愛情が友人達より希薄な事に焦っていた私は、視野狭窄に陥っていたのだと思う。
まともに考えれば、そんな風に焦って見つけた、又は此方に近づいて来る異性なんて、碌なもんじゃない。何とも愚かな行動、何とも脆弱な精神だと言われても反論も出来ない。けれど、当時の私は必死だった。人が言っている所謂、人並みになろうと必死だった。
結局の所、私は自分自身でその後の私の恋に対する歪んだ感情を、異性と友人関係を越えた付き合いをする事、それに恐怖を覚える様になったきっかけを作ってしまった。他の人には些細な事なのかもしれないが、私には衝撃的だったのだ。
「そういう事ね……、何が……愛が重いだよ……」
人の営みに関係なく、季節は移ろう。梅雨寸前の薄曇りとくれば、暑さと湿気で堪ったものではない筈なのに、今日は何とも過ごし易い日か。
一瞬前まで、こんな日も悪くないなと、ゴールデンウイークからこちら、色々あって沈み込んだ気持ちの日が続いていたけれど、少し上向きな気持ちでいた。
薄暗い廊下から、覗いた生徒会室。少し開いた扉の隙間から見える、窓から差し込む薄日に照らされた部屋の中。その中に信じたくなかった現実があった。私の友人と元恋人が、抱き合い、キスをしていた。何の気なしに生徒会室を覗いた事で、私の気持ちは再び地の底に堕とされた。
「どした?帰るよ?生徒会室に何か用事?」
私の肩越しに生徒会室の中を覗き見ながら、幼馴染が私の二の腕を掴む。
「……ん。いや別に何も用事は無いよ。ドアが少し空いているから誰か居るのかなと思っただけ」
「……ふーん。ま、帰ろう。今日こそ駄菓子屋アイスじゃんけんに勝って、奢らせてやるわぁ!」
背中に添えられた手が、妙に温かく優しく感じる。帰宅を促す幼馴染の手が、妙に大きくて力強く感じる。
「ふふん。勝てるものなら勝ってみるがよいわ、この4連敗のルーザーめ」
流石、小学校1年生からの腐れ縁。私が塞ぎ込みがちになった理由に気づいている。多分、幼馴染は、私の顔が強張っているのに気付いている。その理由を見せつけられたのだと知ったのに、それに触れない。生徒会室の中の光景が、私の異変の理由だと確信したのに何も言わない。
「み・見てろ!今日こそ、目にもの見せてくれるわぁ!」
多分、今の私は泣きだしそうな顔をしている。でも幼馴染はその事に触れない。ああ、そんなに優しくされたら、怒りに任せて生徒会室の中に殴りこめないし、泣くことも出来ない。笑顔を作るしかないじゃない。
今より少し前、私の世界は喜びに満ちていた。高校に入って早々、同じ高校に進学した中学で知り合った人と付き合い始めた。友人達には内緒の付き合いだけれど、私はやっと人並みなれたと、光り輝く春の中で喜びに溢れていた。
「別れよう。あなたの愛が重すぎる。耐えられない」
ゴールデンウィーク明けの電話で、世界は輝きを失った。余りの急転直下。相手の言葉が理解出来なかった。誰にも知られていなかった私の幸せは、誰にも知られずにひっそりと終わった。
愛が重いって何?デートだって映画に一回行っただけ。手だって指先が触れる程度が限界で、手を繋いでさえいないのに愛が重いとは何?
それとも、指先が触れる程度のスキンシップだけだったことが余りにお子様過ぎると愛想を尽かされたのだろうか?
「どーんっと昇った地獄の太陽」
太陽は毎日昇り、日は進む。何がどうあれ学校には行かなければならない。学校に行けば元恋人と鉢合わせる事もある。顔を見かける事もある。
その度に、心臓を鷲掴みされる様な苦しい気持ちになったけど、未練がましいと自分を叱咤して感情を抑え込んだ。
笑顔を無理やり作り、挨拶もした。自分が悪かったのだから仕方ないのだと自分を責め続け、相手は悪くないと、振られたにも関わらず相手を庇っていた。
「だからゴールデンウィーク中に会いたがらなかったのかぁ……」
偶然に覗いてしまった生徒会室の中で、元恋人と高校で知り合った友人が抱き合い、キスしている光景を見たことで、自分の行動が何とも愚かな独り相撲だったと気づかされた。いつからなのかは分からない。けれど、恐らく私と付き合い始めて直ぐ、もしかして付き合う頃には既に、元恋人は二股をかけていたのだろう。
「キスした時の唇って柔らかいんだよ」
ゴールデンウィークの寸前だったろうか、友人達とお昼を食べていた時、元恋人とキスをしていた件の友人に、いきなりデレた発言をされて凄く驚かされたっけ。あの時、友人をデレデレにしていたキスの相手が私の元恋人、当時は私の恋人だったと思っていた人とは思いも浮かばなかった。
自惚れではないけれど、私の容姿は平均よりは上だと思っている。けれど上には上が居る。生徒会室の中で、元恋人とキスをしていた友人は私より容姿が良い。現実はなんて厳しいのだろう。
人は愛情よりも見目麗しい異性にいとも簡単に靡き、裏切る。キスが性欲の一部と言うのなら、性欲が愛情より勝るのが人と言う存在だと思い知った。
元恋人は、笑顔で私に嘘をついていた。別れる前も後も、私の行動を見て嘲笑っていた。これぐらい乗り越えないでどうするのか?という人も居る。私は運が悪かっただけなのだろう。けれど私は、その事実に耐えられなかった。
人は恐ろしい生き物だと心に刻んだその日から、何時も無邪気に笑っていた私から笑顔が消えた。異性であろうと気軽に話せていた私は、少しだけ異性に身構える様になった。
幸か不幸か、周囲の人達は遅れていた思春期が来たのだと思っていてくれたのか、以前と少し変わってしまった私の態度をおかしいと思う友人達は少なかった。
何も知らない友人が、元恋人との惚気話をする度に、相槌の声が震えない様にするのが大変だった。相槌をうつ顔が引きつらない様にするのが大変だった。皆と一緒にお昼を食べる時間が、少しだけ辛い時間になった。
元恋人の顔が見えると自分でも分かるほどに笑顔が消えた。どんなに騒がしい休み時間の廊下でさえ、音が消えた。陽光が差し込む廊下や教室、思春期のさなかの光り輝く世界はそこには無く。私の世界は、灰色で音の無い世界になった。
涙を流していないからと言って、哀しくない訳じゃない。笑顔を浮かべているからと言って、楽しい訳じゃない。私の心の奥底は、誰にもばれていない。家族にもばれていない。だから、友人達にはばれていないと思っていた。
でも幼馴染に、最近少し元気が無いけれど大丈夫?と聞かれた時に、幼馴染にばれているなら、家族にもばれている。家族は何も言わないだけだと知った。
本当は人が怖くて仕方なかった。異性が怖くて仕方がなかった。でもこれ以上、幼馴染や、何も言わないけれど心配している家族を心配させたくなかった。
本当は私は気が弱い。人が怖い。だけれどそんな贅沢は言える状況じゃない。私は少し前の自分、小柄で大人しめなのに、実は気の強い子を再び演じる事にした。時折り心配そうに私を見る人達を誤魔化すために笑顔を作る様になった。
どんなに辛くても笑顔を浮かべていれば大抵の人は誤魔化せる。本当は人が怖くて会話が拙くなっても、強気でそんな風な話し方だと誤解してくれる。高校1年生の終わり、私は演じたくも無い人生の演劇を始めた。
「なんとまぁ……丈夫なコンテナだこと」
「綺麗に屋根をぶち抜いてますなぁ……」
「で、あれはどうします?」
「どうするも何も、警告して、警告に応じなかったら大殺戮パーティ?」
結局の所、私達は最上階までえっちらおっちら上る羽目になった。上り切った私達の目の前には、屋根というか屋上を綺麗にぶち抜いて最上階に鎮座しているコンテナと、私達の到着にも目もくれず、コンテナを開けようとしている有象無象。
本当に!本当に!本当に!何て糞みたいな場所だよ!此処は!
やれば良いんだろう!やれば!ああ!殺してやるよ!全部、綺麗に殺してやるよ!死神らしく行動してやるよ!
知人は言う、装甲服を脱いだ直後の私の目は別人だと。いつもの微笑みを浮かべた優しい目をした私ではないと言う。冷酷無常の死神の様な目だと言う。
当たり前じゃない。私は微笑みと言う装甲で自分を守っているんだから。
死神になっているのも仕方ないないじゃないか。こんな場所、死神にでもならなければ居てられないのだから。
コンテナの中が食料だと信じて疑わない有象無象が警告に耳を貸す訳が無く、楽しい殺戮パーティが開催された結果、新人はダウンした。
「駄目だこりゃ」
「もういいから、吐き尽くすまで、吐かせてあげて」
そりゃ、血走った目の老若男女が襲い掛かってくるわ、私達に反撃されて吹き飛ばされていくわとなれば、一般人に毛が生えた様な新人は吐くよ。
しかし新人よ、あんた器用だねぇ。フェイスプレートを上げてるとは言え、綺麗に吐くねぇ。特技だねこれは。
「で、中身はどう?」




