神様の涙
彼女が転校してきたのは、小学五年生の頃だった。パッと華やぐような笑顔が印象的な女の子で、流行に聡く、話題も豊富であっという間にクラスに馴染んだ。
偶然にも帰り道が僕と同じ方向ということもあって、登下校をともにすることも自然に多くなっていった。
彼女はとにかく話をするのが好きで、こっちの反応なんて気にもせずに色んなジャンルの話をしてくれた。僕にとっても興味深い話であったり、むしろ女子同士でした方がいいような話だったり、学校に着くまで、あるいは分かれ道に着くまで。一人での登下校が多かった僕にとって、それはとても刺激的であり心安らぐ時間になっていった。
……正直な話をすると、話の内容よりもそれに合わせて変化する彼女の豊かな表情の方が、僕には興味深いものだったのだけど。
とにもかくにも、そんな二人だけの時間の中で、彼女はふと憂いの顔を見せるようになった。クラスの誰にも見せない顔を、それまでただの一度も見せることのなかった顔を、僕にだけは見せてくれるようになった。
それはあるいは悲しみであるような。あるいは怒りであるような。あるいは失望。
他の女子達にはないその妙に大人びた雰囲気が、不謹慎ではあるけれど、彼女が見せてくれるたくさんの表情の中で一番好きだった。
そしてきっと、それを自覚した時にはもう、僕は彼女に恋をしていたんだと思う。
そんなある日のこと。
クラスメイト達が突然彼女を囲んだ。
いや、正確には僕と彼女の間に壁を作った、というべきか。
その場にいる、彼女を除く全員が僕を睨みつけていた。その痛いほど鋭い視線に込められたのは、僕を彼女に近づけさせまいとするあからさまな敵意だった。
まるで状況が飲み込めなかったけど、申し訳なさげに俯く彼女の顔が壁の隙間から見えた時、理解した。
大勢から向けられる僕に対する感情――嫉妬だ。
人気者の彼女だ。連中にとってはそれは、自覚はなくともお気に入りのおもちゃ同然だっただろう。それが僕に半ば独占された状態となってしまえばもう、怒髪も天を衝くというもの。
なんとまあ実にくだらない、子供じみた感情であろうか。子供だから当たり前、と言えばそうなのだけど、それにしたって。
もちろん僕は彼女を独占しているつもりなどない。彼らが勝手にそう思い込んでいるだけだ。
ただ、当時の僕は取っ組み合いの喧嘩もまともにしたことがなく、多勢に一人で立ち向かう勇気もなかった。結局、それ以来僕は彼女に近づくことは出来なくなったし、彼女も僕を避けるようになっていった。
クラスメイトに囲まれ、無理に笑顔を浮かべる彼女が辛そうで痛々しくて、とても見てはいられなかったけど。 でもそれ以上に、彼女のためになにも出来ない自分の無力さが腹立たしく、悔しかった――――。
大切な人を守れない自分に対する不甲斐なさと、無自覚の悪意を持つクラスメイト達への怒りを抱えたまま、僕の小学校生活は幕を閉じた。
中学はかつてのクラスメイト達のいない、少し離れた学校に進学した。もちろんそこには彼女もいない。
彼女は元々学区内の公立中学に進学する予定だったのだ。僕が私立に変更したと言っても、じゃあわたしも、とは行かないだろう。もちろん個人的にはそうして欲しかったところだけど、彼女にそんな勇気はない。それは分かっていたことだし、仕方のないことだ。
…………決して僕は屈したわけじゃない。逃げたわけじゃない。
子どもなりに考えた。
強くなりたい、と。
じゃあ強さとはなにか。
肉体的な強さ?
それとも精神的な強さ?
そう。守りたいものを守れる強さだ。
それを確実に、手っ取り早く手に入れる方法はなにか。その手段は。
考えに考えて、僕は武道を始めることにした。 都合のいいことに、家から自転車で通える距離に空手道場があった。グローブ着用の上で顔面殴打を認めた「現代空手」だとか「グローブ空手」と呼ばれる流派だ。まだまだマイナーな流派ではあるけど、調べた限りでは割と実戦的な指導をしているようだった。
スポーツだってろくにしたことのない、そんな僕からの突然の「おねだり」に両親も相当戸惑ったようだけど、懇願の末に僕は真っ白な道着を身にまとうことになった。
必死で。夢中で。がむしゃら。
強くなりたい。
強くなりたい。
強くなりたい。
強くなりたい。
ただその一念を以て、道場で汗を流す日々を重ねていく。
思春期と青春時代のほとんどを武道に捧げた結果、高校一年で少年段位を取得。二年、三年と全日本大会で上位入賞を果たすほど強くなっていた。
気付いた時には、自分がなんのために強くなろうとしていたのか、その理由さえ忘れていた。
いや、忘れたわけじゃない。強くなろうと決めたきっかけなんてもうどうでも良くなっていて、ただ強さだけを求めるようになっていた。 言ってみれば、手段が目的に変わってしまったわけだ。自分でも驚くほど単純だった。
◇
――驚くべき奇跡が起きる。
高校卒業後、大学への進学に合わせて親元を離れた僕は、唐突に彼女と再会した。
たまたま同じ大学に進学していた二人は、たまたま同じキャンパスでばったりと顔を合わせる。 はっきりと驚きを顔に浮かべる彼女。もちろん僕も驚いた。
だって、また出会えるなんて思っていなかったから。
高校時代からの親友だという女の子と一緒にいた彼女は、とてもキレイになっていた。あの頃の可憐さをそのままに、ありとあらゆる部分に磨きがかかっていた。 凛とした佇まいに怜悧さを兼ね備えた、無駄のない美しさ。少なくとも僕にとっては、微塵の隙もない美しさだった。
それは、武道に打ち込むうちいつの間にか失われていた想いを再燃させるに、充分な衝撃。
でもそれ以上に衝撃を受けたのは彼女の方だったようで。
当然だろう。これでもかと鍛錬を重ねた僕の体は、小学生当時からは想像できないほど、服の上からでも分かるくらいに分厚く、筋肉質になっていたのだから。
ともかく、この再会をきっかけに、僕らの交流もまた――再開する。
初めて彼女と肉体関係を持ったのは、再会からおよそ一ヶ月後のこと。
それまでも何度か二人でデートなんかをしていたのだけど、その日初めて僕の部屋に招待することになった。コンビニで買った菓子をつまみながらのんびりと映画を見ているうち、なんとなく、そんな雰囲気になっていて。
僕の方からキスをした。
とても緊張したし、なによりも怖かった。拒まれるのではないかという不安。でも彼女は唇を震わせながら僕を受け入れてくれた。潤い濡れた瞳で、僕の想いを抱きとめてくれた。
それが僕の初体験となったわけだが、彼女にとってもそうだったようで。辛そうな顔をしながらも健気に応えてくれる彼女がたまらなく愛おしくて、思わずカメラで撮影してしまった。
最初は嫌がった彼女も、「二人の大切な記念に」と言うと、恥ずかしがりながらもカメラに向かって笑ってくれた。
こんな形で始まった僕らの交際はこれ以上なく順調に進んだ……はずだったのだけど。
交際が始まってから二ヶ月ほど経った頃だろうか。僕の前に二人の男が現れた。はっきりと見覚えのある顔。
まだ僕と彼女が付き合い始める前、よく彼女やその親友と一緒にいた連中だ。以前に彼女に関係を聞いたところ、大学で知り合った同じ学部の友人だと言っていた。僕としても彼女の友人とはぜひ仲良くしたいところだったのに。
なんて悲しいことだろう。
二人の僕を見る目は、あからさまな悪意と敵意に満ちていた。僕がわずかにでも隙を見せれば、その瞬間に迷いなく首筋に噛み付いてきそうな――攻撃的な目。
それを受けとめてはっきりと思い出す。
そうか。そうか。こいつらも同じなのか。
かつて、くだらない嫉妬で僕と彼女を引き離したあの連中と、こいつらは同じなのか。
二人は僕に言う。
彼女と縁を切れ。彼女から手を引け。彼女に二度と近づくな、と。
僕の背中に電気がほとばしり、心臓が激しく鼓動する。
喜び、だった。崇高な願いの果てに得た、守りたいものを守れる強さ。それを振るうにふさわしいのは今まさにこの時だと、そう確信できたことが嬉しかった。
あの頃のままの僕であれば、相手が二人というだけでもう泣き寝入りするしかなかっただろう。暴力に屈するしかなかっただろう。でも違う。今の僕には力がある。多少の数の差などものともしない力がある。
…………気付けば、二人は僕の足元に跪いていた。
たやすい。僕が少しばかり動いただけでこの有様か。一応、一応はこいつらは彼女の友人だ。あまり大きな怪我は負わせないように配慮したつもりだったのだけど、それでなおこの無様。
力ない声で許しを請う二人を見下ろし、僕は実に晴れ晴れしい心持ちだった。
守れたんだ。今度こそ僕は、ちゃんと彼女を守れたんだ。
本当に、この上ないくらいに最高の気分だった。
君の友人達との間にこんなことがあったよ、と正直に彼女に話した。後で知ることになれば、優しい彼女のことだ。必要以上に心配するに違いなかったから。何も心配はいらないことを知ってもらうために、あえて隠さずに話すことにした。
分かってはいたけど、彼女はなんて友達思いなんだろう。
友人のしたことをまるで自分の罪であるかのように、泣きながら、震えながら僕に謝ってきた。ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も何度も。
僕はもう彼らのことはなんとも思っていない。むしろ、彼らが心を改めるなら良き友人として交流を持ってもいいと思っているくらいだ。
だから彼女が謝る必要なんてなにもない。
気にしなくてもいいよ。そう言って抱き寄せた震える肩は、とてもか弱かった。
ずっと君の傍にいるから。君を守り続けるから。口には出さなかったけど、そんなことを心に念じながら腕に力を込めると、その想いが彼女に伝わったのだろうか。身を強ばらせながらも、遠慮がちに僕に体重を預けてきた。
二人だけの時間が、二人の間にだけ流れる。互いの心が緩やかに溶け合っていくような、濃密な静寂。
きっとこれが幸せというものなんだろう。何物にも代えがたい、至福のひと時。
あぁ、もし許されるのならば。
この瞬間が永遠に続けばいいのに。
◇
一通のメールが届いたのは、雨の降る日のことだった。
助けて。
ただ、一言だけ。
送り主は他の誰でもない、彼女だった。
一寸、そのわずか一言の意味が理解できなかった。遅れて動揺。息が出来なくなるくらいに呼吸が乱れる。
助けて? なにを、なにを助ければいい。なにを助けろと言っている。それは彼女だ。それ以外にない。彼女を助けるんだ。彼女が僕に助けてと言っているのだから、僕が彼女を助けなければ。考えろ。彼女の身になにがあった。彼女はどこにいる。どこでなにをしている。何故助けを求めている。
まずは電話だ。彼女に電話をするんだ。
……。
…………。
………………。
出ない。どうして出ない。違う。出ないんじゃない。出られないんだ。僕からの電話に出られない状況下に今、彼女は置かれている。じゃあどうしてメールを送れた。電話に出られない中でどうしてメールを。分からない。でもとにかく彼女を助けなければ。彼女を守らなければ。
どこだ。どこに行けばいい。どこに行けば彼女はいる。
考えて考えて考えて考えて、僕ははたと思い付く。
そうだ。GPSだ。彼女が僕にメールを打ってきた以上、彼女がちゃんと携帯を持っていることは間違いない。なら、GPSでその居場所を突き止められる。
早速、携帯のGPS機能で彼女を探す。
通信を待つ時間があまりにももどかしい。焦っても仕方がないと分かっていても、心が逸る。
まるで静止してしまったかのようなわずかな時間の後、画面に彼女の位置が指し示された。
確認すると同時に、僕の体は猪の突進を思わせる勢いで部屋を飛び出していた。
外は雨。でも傘なんて手に取る余裕はない。
そんなことよりもとにかく、彼女の元へ急がなければ――――。
その場所は、人の気配がない場所だった。なんの施設なのかすぐには判別出来ない廃墟と思しき建物が敷地内に鎮座している。朝から降りしきる雨のせいもあるだろうけど、淀んだ空気がひどく陰鬱だ。
心中では急ぎながらも、慎重な足取りで彼女を探す。
程なく、廃墟の裏口の、その軒下に彼女の姿を見つけた。
無事だった。
一目でそれが確認できた。
彼女は怯えた目で僕を見ていた。無言のまま、僕に助けてと訴えかけている。彼女が親友と称した女に両腕を掴まれた姿で。
どうしてお前が彼女をこんな目に遭わせている。彼女はお前を本当に大切な友人として見ていたのに。そのお前がどうして、彼女を傷つける。彼女を裏切る。お前も僕達を引き裂こうというのか……あの連中のように。
女が悪意に濁った目で睨みつけてくる。歯牙にもかけない。
彼女を救うべく、足を一歩踏み出した時、背後からぴちゃりと音がした。
振り返る。
視界に人影と煌きがよぎる――ナイフだ。
とっさにそれを右手で払い受け、左の拳を人影の顔面に叩きこむ。加減なしの一撃に、鼻がひしゃげる感触が返ってくる。
耳障りな呻き声とともに人影が崩れ落ち、手にしていたナイフがぬかるみに落ちた。
彼女の友人だった。僕と彼女を引き離そうとし、僕に打ちのめされ、僕に許された、あの男だった。
こいつ、今、僕を殺そうと……待て。こいつがいるということは――――もう一人っ。
勘、だった。
体を左に倒した瞬間、右腕に鋭い痛みが走った。
隠れて隙を伺っていたらしい男のナイフが上腕を掠めていた。
男が腕を引く前にその手首を左手で掴み、右肘をお見舞いする。
固い感触。歯の一本でも折れたか。 攻撃ばかりで防御のことを考えないからそうなる。
しかし、さすがの僕も肝が冷えた。刃物を持った相手との私闘はいくらなんでも初めてだったのだから。でも、身構えるより先に襲ってくれたおかげで、体が即座に反応してくれた。もし刃物を持った二人と正面から対峙していたら、必要以上の警戒心が生まれて体が固くなってしまったかもしれない。
が、たとえそうであったとしても、きっと僕は負けなかっただろう。なにせ僕には、彼女を守るという強い意思と使命があるのだから。
切られた右手から血が滴り落ちる。そのたびに傷がずくずくと鈍く痛むけど、気にはならない。それよりも、まずは彼女だ。
彼女の方へ振り返ろうとするも、それは遮られた。男達が力なく立ち上がったからだ。僕を行かせまいと、ナイフを握りしめて。
鼻を砕かれ、歯を折られ、激痛に顔を歪めながらそれでもなお立ち上がるか。こいつらのこの執念は一体どこから来る。何故そこまでして僕らの邪魔をする。
まあいい。いいだろう。だったらとことんやってやる。いい加減「お前ら」にはうんざりだ。死んだ方がマシだと思えるくらいに、徹底的に痛めつけ――――っ。
ど、と。
なにかがぶつかる衝撃とともに、冷たくて甘いなにかが、僕の体を突き抜けた。
……。
…………。
彼女の泣き叫ぶ声が聞こえる。
首だけを動かして、彼女を見る。
女に羽交い絞めにされながら、それでもなお僕の元へ駆け寄ろうとする彼女の手は、赤く染まっていた。
アレは、きっと僕の血だ。倒れた僕に触れた時に付いてしまったんだろう。馬鹿だな。そんな暇があるなら、早く逃げればいいのに……また捕まってるじゃないか。
待っててくれ。すぐに助けるから。君を裏切ったその女から、僕らを傷つけた男達から、君を助けるから。
起き上がろうと、体に力を入れる。
耐えがたい激痛とともに、僕の背中に空いたいくつもの穴から血がこぼれ出すのが分かった。
力が入らない。起き上がれない。声すらも、出ない。
鼻が歪んだ男が、前歯のない男が、僕の傍らに立つ。
見下げるような目で、蔑むような目で、憐れむような目で、僕を見る。
鼻の歪んだ男が僕の両脇を、前歯のない男が僕の両足を、それぞれ持ち上げる。
抵抗する力すらなく、僕はなすがままにどこかへ運ばれていく。
彼女の姿が、彼女の声が、降り止まない雨に霞んでいく。
どうしてこうなったのか。
僕はただ彼女とずっと一緒にいたかっただけなのに。
彼女をずっと守っていたかっただけなのに。
どうして周囲の人間達は、そんなささやかな望みすら許してくれないのだろう。
僕が一体なにをしたというのか。
彼女が一体なにをしたというのか。
ただ彼女との未来を望んだだけなのに。
ただ彼女との未来を願っただけなのに。
それすら叶えられないほどの罪を、僕と彼女はどこかで犯したというのか。
悔しくて、悲しくて、虚しくて、溢れ出る涙。ひたる間もなく、その余韻を雨がたやすく流し落としていく。
体がふわりと浮き上がる感覚の直後、背中に強い衝撃が走った。
もう薄らぎ始めた視界の両端に、黒ずんだ土の壁。 その上に立って僕を見下ろす男達。
そうか。僕はここに埋められるのか。きっとこれはこいつらが事前に用意していた穴だろう。
彼女の携帯を使って僕をここへ呼び出し、殺した上で死体を隠すために。
殺害場所をここに選んだのは目撃者が現れるのを避けるため。雨の日を選んだのは多分……足跡と血痕を消すため。
わざわざ現場に彼女を連れてきたのは僕の気を逸らせるため、か。
なんて用意周到で、計画的。
僕の負けだ。もう諦めた。
冷たいはずの雨粒が、妙に温かくて優しく感じる。
あぁ。もしかしてこの雨は、悲劇に翻弄され続けた僕らを哀れむ、神様の涙なのかもしれない。
僕らの運命を悟っていた神様が、僕らのために泣いてくれているのかもしれない。
僕らを救いはしてくれなくとも、僕らのために泣いてはくれるのか。
まったく、優しいのか冷たいのか。神様という奴はよく分からない。
まあいいか。
神様。本当にいるのなら……神様。
どうか、次に生まれた時こそは、彼女の傍にいさせてくれますように。