始まりと対峙する決意
もう、どうしようもない。
何もかもを奪われたアルアは、静かにうつむいていた。抵抗する気力も、脱出する気すらも湧いてこない。このまま死んでもいいとすら、思っていた。
何も救えない。
誰もが恨んでいる。
あんなに頑張ったのに、あんなに抗ったのに……。
アルアは、唇が震えた。溢れてくる涙は、何を意味しているのか。わかっているのに、認めることができなかった。
「情けないな」
悔しさに押しつぶされそうになっていたその時だった。アルアは思わず顔を上げて、隣に顔を向ける。するとそこには、今まで静かに眠っていたギルバートがアルアを睨みつけていた。
「お前……」
「貴殿がそれほど弱いとは、思ってなかったぞ?」
「………うるさい。私も人間だ」
「口答えする元気はあるか」
ギルバートは静かに身体を起こす。そして、そのままゆっくりと立ち上がった。
千切れて落ちていく縄。アルアはその思いもしない光景に、目を見開いてしまった。
「お前、いつから――」
「ついさっきだ。もう出てきていいぞ」
ひょっこりと、椅子の後ろから少女が出てきた。まだあどけなさが残る顔に身体。リディアと同じ歳と思える少女を見て、アルアは開いた口が塞げなかった。
「平気、だよね? 大丈夫よね?」
「ああ。だが警戒はしておけ」
一体いつから、どのようにして――
疑問が頭のなかで駆け巡る。しかし、それよりも口から出てきたのは考えてもいない言葉だった。
「頼む。私も、解放してくれ」
すがれるものなら何でもすがる。
どんなに情けなくても、嘲笑われても、カッコ悪くても。
「頼む。頼むから」
死んでもいい。
娘を助けられるなら、命を捧げてもいい。そのためになら、どんな目にあってもいい。
それが、アルアの思考を支配していた。しかし、ギルバートは見透かしたように言葉を口にした。
「ダメだ」
思わず顔を上げてしまう。目に入ってきたギルバートは、ゆっくりと近づいて肩を叩いた。
「今のままでは、ダメだ。もし、お前が死ねばあの子はどうなる?」
ギルバートは何もかも知っているかのように、問いかけてきた。
アルアはすぐには答えられなかった。言っている意味すらもすぐには理解できないでいた。
「あの子は、何を頼りに生きていく?」
だが、少しずつ少しずつ、その問いかけの意味を知っていく。
「お前を失ってしまったら、あの子は悲しむだけじゃ済まないぞ?」
ギルバートの問いかけ。それがアルアの覚悟を変えていく。
わからなかった。リディアが助かった後のことなど。
気づかなかった。残されたリディアの想いなんてものなど。
「お前は死んではならない。伝えなければならないことも、たくさんあるはずだ。だから、そんな覚悟を持つな」
アルアは、力が抜けた。
人を思いやる。それは何も、今あるものを全て捧げるだけではない。
共に生きて、共に笑って。
共に泣いて、時には怒って。
何が嫌いで、何が好きなのか。
そんな当たり前のことを教えていくことが、大切なのだ。
「私は、戦争で知ることができなかった。お前も似たような境遇かもしれない。だが、あの子は違うだろう?」
忘れていたかもしれない。
いつも傍にいたから、見落としていたかもしれない。
だけど、奪われたからこそ、気づくことができた。
生きる意味とは何なのか。リディアとはどういう存在なのか。
そして、当たり前なことを教え伝えるとは何なのかを。
「親の責務を果たせ。死ぬことを考えるな。それを約束するなら、自由にしよう」
アルアは、ゆっくりと頷いた。
静かに、少女に目配せをするギルバート。その合図を待っていたかのように、少女は頷いた。
「ちょっと痛いけど、我慢して」
縛っていた縄に手を当てる少女。静かに何かを口ずさんだ後、少しだけ鋭い痛みが走った。
だが、その一瞬が過ぎ去ると拘束されていた手が自由となる。
「まだ動かないで」
そういって、少女は縛られていた親指を解放してくれた。
手の拘束が解かれ、自由となったアルア。そのまま立ち上がり、強い眼差しでギルバートを見つめた。
「私は娘を奪い返しに行く。お前はどうする?」
「奴が施した魔法を解除する。おそらく、そうしないと王も民も戻ってこないだろう」
「戻ってこない? まさか、捕まっているのか?」
「ああ、そうだ。命も握られている。全く、魔法とは厄介なものでもあるな」
ギルバートは静かに背を向ける。大きな背中はどこか疲れており、だけど力強さを感じることができた。
「すまなかった。奴の正体を見抜けなかった私のミスだ」
だが、とギルバートは言葉を紡ぐ。
それは、アルアの背中を押す力強いものだった。
「どうにかする。それが上に立った私の責務だ」
ギルバートは強い。強いゆえに、恐れる。
一体何を恐れるのかわからない。しかし、アルアはそんなこと知らなくても良かった。
「しっかりケジメをつけてこい」
今は、やるべきことがある。
だからこそ、アルアはギルバートの背中を押した。
「お前も、向き合ってこい」
ギルバートはそういって、微笑んだ。
前を向くアルアとギルバート。
二人は振り返ることなく、それぞれの戦場へ赴いていく。




