英雄はただ静かに
不気味に軋めく音。ロキを覗き込んでいるそれは、蜘蛛のように蠢いていた。
怪しい輝きを放つ瞳に、外装が剥がれ落ちている頬。それはまるで、骨が剥き出しになっているかのような感覚に陥ってしまう。
『タ、タタ、タス――』
そのバケモノは何かを叫んでいた。だが、ロキはそんなものを聞いている余裕がない。
「〈豪炎の蕾よ〉〈大きく花開け〉――ヒートフラワー!」
すぐ目の前で炎が炸裂する。
自分の安全など考えている暇はなかった。攻撃をしなければ、やられる。そう感じさせるほど恐ろしいバケモノだ。
爆発と共に転がっていくロキ。勢いがなくなった後、少しだけ身体に痛みを覚えつつも起き上がろうとする。しかし、思うように立ち上がることができない。
「くっ」
右の後ろ足に鈍い痛みを覚え、目を向けてみる。するとそこは、異様に赤く染まっていた。見た限り血ではない。だが、そこから想像以上の痛みをロキは感じていた。
「不便だなっ」
顔が痛みで歪む。しかし、そんな感覚に付き合っている時間はない。
『ヒ、ヒド、ヒド、イ』
『コノ、コノ、コノッ』
『タタ、タス、タスケ』
蜘蛛と表現できるバケモノは、何かを叫んでいた。何事もなくそれぞれが叫んでいた。
思わず苦々しい顔をしてしまうロキ。そのあまりの頑丈さに、ただただ笑うしかなかった。
『カラ、カラダ、カラダ』
『ホシ、ホシイィィ』
『イヤダ、イヤダ、イヤダ!』
それぞれの声が叫ぶ。途端にそれぞれの腕が身体から勢いよく外れた。
赤い光をまとい、ゆらりと漂う。静かに、ロキの様子を伺っていた。
『『『カラダ、ホシイ』』』
声がそろう。直後、空間を漂っていた腕がロキに目掛けて飛びかかった。
ロキは咄嗟に避けようとする。しかし、痛みが行動の邪魔をした。
「チィッ」
若干の遅れ。それは大きな命取りとなる。
わかっていながらも、ロキはやってしまった。
「〈静かなる大気〉〈我が鎧となれ〉」
間に合え、と心が叫ぶ。しかし、魔法の名を口にする前に、一本の腕がロキの身体を抑えつけた。
大きな音が響き、砂煙が舞う。突き抜けた衝撃は、一瞬だけロキの意識を刈り取っていた。
「うっ」
身体中に痛みが走る。もうどこが痛いのか、わからないほど強烈だった。
ロキは起き上がろうとする。しかし、そんなロキに一本、二本、と腕が突き刺さっていった。
『アァ、アァ、アァ!』
『カラダ、カラダ、カラダ!』
『オレノ、オレノカラダ!』
声が競い合うように叫んでいた。
ゆっくりと持ち上げられていくロキ。その胸にある魔石に、一つの左手がかかる。
『『『オマエハ、イラナイ』』』
容赦ない言葉が浴びせられた。直後に大きな力が魔石に加わる。
弱り、意識を失いかけていたロキ。しかし、その圧力によって豹変する。
「あぁあああぁぁアアアァァァ――」
大きく見開かれた目と、絶叫を発する口。駆け巡る感じたことがない痛みに、ロキは苦しむしかなかった。
『シネ』
『シネ!』
『シンデシマエ!』
バケモノはただロキの身体を求める。ロキはどうすることもできず、ただ叫んだ。
本当の死。何もかもがなくなると感じさせる激痛。ロキはそれに、心が震えた。
「〈荒れ狂う雷〉〈奔り閃け〉――ボルトライズ」
恐怖と諦めが心を支配する寸前、聞き覚えがある声が耳に入った。
その呼吸に合わない力強い詠唱は、ロキの目の前で雷が炸裂する。
『アァ!?』
『グガァ!?』
『ガガガァ!?』
ロキをも巻き込む魔法。大したダメージがないそれは、明らかに失敗と言えた。
しかし、その失敗が幸運を引き寄せる。
『メ、メッ!』
『ミエナイ、ミエナイ!』
『イタイ、イタイッ!』
失敗したことによって起きた強力な光。あまりにも強力な輝きは、バケモノの目を狂わせる。
ロキは、何が起きたかわからないまま弱々しく顔を上げた。その数秒後、何かがバケモノの頭にぶつかった。
『アガガガ』
『イタイイタイイタイ』
『ヤダヤダヤダ』
バケモノが叫ぶ中、ロキは石ころが飛んできた方向に顔をやった。そこにはしっかりとおめかしをしたリディアの姿がある。
「離せ。ロキを離せ!」
リディアは怒ったように叫んでいた。しかし、それは命取りだ。
『イタイノ、ヤダ!』
『アイツ、イヤダ!』
『コロス、コロス!』
リディアの叫びを頼りに、バケモノが動き出す。しかし、リディアは怯むことなく睨みつけて立っていた。
「くそ、が!」
このままでは――
そんな思いが、ロキの中に溢れていく。蘇ってくる嫌な思い出。それにリディアの姿が重なった。
「〈問いかけし物語〉〈答えなき答えよ〉」
それは、すがるような気持ちで行った詠唱だった。
発動しないとわかりきっている。しかし、それでもやるしかなかった。
「〈永遠なる探求は我が道を作る〉〈運命など口にするな〉」
あんな思いをしないためにも。
もう二度と見ないためにも。
「〈見つからなければ作り出せ〉〈我が問いかけに生まれいでよ〉」
ロキは、その禁じられた答えを導き出す。
「〈さすれば求めしものは見つからん〉――アカシック・アンサー!」
静かに、青く輝く光がロキに集まっていく。その光は、ロキが求める答えを示した。
『ガガ?』
形作られていく青く輝く人の腕。ロキはそれを使い、バケモノの手首を握りしめた。
焼けるような音が響き渡る。バケモノがそのあり得ない現象に、大きく目を見開いていた。
「貴様の相手は、我輩だ」
力を込め、一気に手首を握り潰す。するとバケモノは、大きな悲鳴を上げた。
『イダァァ!』
叫び声と共に、バケモノはロキを放り投げた。
ゆっくりと落ちていく身体。それを見たリディアは、ロキを受け止めようと走る。
ロキはその懸命な姿を見て、少しだけ嬉しそうに笑った。
「ロキ!」
気がつけばロキは、リディアの腕の中にいた。よく見ると、かわいらしいドレスが砂や泥で汚れてしまっている。
「しっかりして、ロキ!」
「ドレス、台無しだな」
リディアは少しだけ安心したかのように、小さく息を吐き出していた。その表情はどこか力が抜けたようにも見える。
『オノ、オノレ!』
『カラダ、カラダァァ!』
『コロ、コロォォォォォ!』
だが、安心している暇はない。バケモノは再び腕を分離させたのだ。
リディアは叫んでいるバケモノに、つい睨みつけてしまう。バケモノはそんな顔が気に入らないのか、物色することなく飛びかからせた。
リディアはロキを抱えて駆ける。腕は容赦することなく、リディアの胸を貫こうとしていた。
「我輩、を、置いて、いけ」
「ヤダ」
「奴の狙い、は……」
「ヤダって言ってる!」
その怒りが篭った叫びに、ロキは思わず目を大きくした。
しかし、攻撃は収まらない。リディアの命を狙い、腕は四方八方から飛んでくる。そのためか、かわいらしいドレスが破け、切り傷が身体中にできていく。
「リディア――」
「絶対にヤダ!」
「リディア!」
「まだ、感想を言ってない!」
リディアは頑なに拒んだ。ロキが困ってしまうほど、懸命だった。
だが、そんなケンカをしている暇はない。
「きゃあ!」
何かに足を取られてしまうリディア。痛みを堪え、起き上がろうとするが身体が引きずられてしまう。
目を向けると、リディアの足を一つの右腕が絡み取っていた。
『ニ、ニガサ、ナイ!』
『ツカ、ツカ、ツカ!』
『ツカマエタ!』
腕が、一気にリディアへと降り掛かった。
それは刹那と言えるほど、短い時間。僅かなその間では、詠唱を口にすることすらもできなかった。
だが、そんな僅かな時間の中に懐かしいものが目に入ってくる。それは、あまりにも恐ろしい笑顔だった。
「全く、困ったものですね」
降り掛かってきた腕。その全てが弾き返されていた。
ロキはその声を知っている。あまりにも勇ましく、恐ろしいそれを。
ロキはその柔らかい微笑みを知っている。あまりにも優しく、震えてしまうようなそれを。
輝く一本の剣。どこにでもある支給品を手にしたその姿は、あの時のまま。
ただあの時と違うのは、紳士と表現できるような礼装をしていることだ。
「いつもあなたに会うと、こんなことばかりですね」
魔法に魅せられたあの時と同じ笑顔。
そんな優しい顔をした男が、リディアの隣に立っていた。
「ベネイス――」
ベネイスは呆れたように首を振った。ゆっくりとバケモノから視線を外し、ロキに「あとでこってりと説教をしましょう」と言い放つ。
ロキは、そんなベネイスを見て、安心した。
『ナ、ナ!』
『ナンダ、オマエ!』
『ジャマ、ジャマ、スルナ!』
怒りのまま叫ぶバケモノ。弾かれた腕を、一斉にベネイスへと襲いかからせようとした。
だが、ロキは知っている。あの僅かな時間があれば、ベネイスはどうにかしてしまうことを。
『アァ?』
その弾かれた五本の腕は、全てが同時に破裂した。
『アァ?』
リディアの足を捕らえた腕も、突然破裂する。
バケモノはそれに、ただ目を丸くしていた。
「ああ、忘れていました」
ベネイスはゆっくりとバケモノに振り返り、優しく笑う。そして、手にしていた剣をゆっくりと収めつつ、とある言葉を告げた。
「チェックメイト」
バケモノの身体に、一つの小さな亀裂が入っていく。それは徐々に、全身へと回っていった。
ベネイスはそんなバケモノを眺めながら、剣を完全に収める。すると、その小さな音と合わせるように、バケモノの身体は破裂した。
「…………」
リディアは呆けていた。
ロキは少しウンザリとしていた。
そんな二人の反応を見ることなく、ベネイスは落ちた三つ魔石に目を向ける。
「一つ足りないか」
少し顔を曇らせながら、ベネイスは呟いていた。
「まあ、よしとしましょう」
ロキに振り返るベネイス。その懐かしい微笑みを見て、ロキは安堵する。
だからなのか、そのまま意識を失ってしまった。




