牛タン定食(一)
午前中、メールボックスに届けられた結晶の注文書に目を通していると、古川君から電話がかかってきた。仕事のスケジュール等、とにかく仕事のことがいろいろ記された『ほう』の手帳を家に忘れたから、時間が空いてれば届けにきて欲しいということだった。
「うん。結晶作りは午後からでも十分間に合うから、もう少ししたら行くよ」
『ありがと。いやー、シフト作んなくちゃいけないんだけど、皆の予定とか全部そっちに書いてあったんだよね』
「手帳どこにあるの?」
『僕の机の引出し』
スマホを持ったまま古川君の部屋に入ってみると、壁一面にネフィの写真がところ狭しと貼られていた。桜の木の辺りをふわふわ浮いているネフィ、フリル付きの水着でプールを泳ぐネフィ、焼き芋に齧り付くネフィ、サンタガールの衣装を着ているネフィ。まだ試験管の中にいた頃の写真もある。天井を見上げると、ネフィの寝顔を撮影した写真が何枚も貼られていた。
ここに足を踏み入れるたびに痺れるような気持ち悪さを感じるし、僕以外の人を絶対この部屋に連れてきては行けないと再認識する。誰かお客さんがきたら開かずの間だとか言って誤魔化すしかない。
手帳はどの辺にしまっているのだろうと机周辺を見回していると、古川君の声がスマホから聞こえてきた。
『僕の部屋に今いる?』
「うん」
『机の脇に引出しあると思うんだけど、そこの一番上開けてみて』
言われた通り開けてみると、カラフルな色彩が目に飛び込んでくる。大量の手帳が狭い引き出しの中にびっしり重ねられていた。マーブルチョコを思い出した。
「どれか分からないよ、古川君」
『茶色いの』
「あったよ」
ぱら、と軽くめくってみるとカレンダーのページで日付の下に会議、探索等の単語が書かれている。多分これだ。話してみると『当たり!』と喜んだ声が返ってきたのでよかった。
それにしても、これだけの数の手帳を持っているなんて、この人どれだけ仕事が大好きな人なんだろう。僕はまだ子の時そう思っていたし、そのことも本人に伝えた。すると、『え? 今使ってるのはそれくらいしかないよ』と返ってきた。
『中学生の時からずっと手帳使ってるんだけど、それ捨てないで全部そこに入れてるんだよ。学業用、仕事用、女の子用、ネフィ用って分けてたらその量になってさ』
「女の子用とネフィ用って何?」
『読んでみてもいいよ』
そう言われたので僕は引き出しを閉めて茶色の手帳だけを持ってすぐに部屋を出た。古川君には「着いたらメールするよ」と言って通話を切った。
リビングに行くとネフィはテレビのニュース、それも政治関連を見ていた。一応、アニメも見るけどネフィはどちらかと言うとニュースのほうが見るのが好きだったりする。ネフィにと思ってレンタルショップで借りてきても気が付くと僕や古川君が夢中になっていることが多い。
何せ僕も古川君もドラマよりアニメのほうが見るのが好きだ。高校時代は深夜アニメを観ながら延々とチャットをしていた。今の時代、アニメというものはネットで観れるものだけど極力テレビで観られるアニメはテレビで観ていた。そして、観ながら感動したり悲しんだりしている。アニメを観ている時の僕たちはとても情緒不安定な生き物である。
「ネフィ、古川君の会社に今から忘れ物届けに行くんだけど一緒に行かない?」
「いくー!」
元気よく返事をしたネフィの緑色の瞳がキラキラと輝く。ニュースそっちのけで僕の周りを飛び回っている。
「はやくはやく! はやくいこ!」
「う、うん、ちょっと待っててね。急いで準備するから」
「うん!」
僕の仕事風景はいつも見ているというか、手伝ってくれているわけだけど、古川君は家に仕事を持ち込まない人だ。だから、こういうことがあるとネフィは遊園地とか動物園に行く子供みたいに大はしゃぎする。
子供というのは親の働くところを見たがるものなのだろうか。
今日の天気は晴れでも気温はあまり高くない。雪が降らないだけマシで、仙台は三月下旬になっても突然雪が降るのでまだまだ安心できない季節だ。
大雪が降った時は流水結晶を搭載した除雪車がお湯を出して車道の雪を溶かすけど、歩道の雪は自分たちで始末することが暗黙の了解になっている。
問題はそれを誰がやるかと言う話で、雪を溶かす術はあっても進んで誰もしないなんてことはよくある。流水結晶で歩道の雪をすべて溶かすだけのお湯を出すとなると結晶の消耗が早くなるのだ。なので、そのまま放置されて自然に溶けていくのを待ったりする。
それに、一度自分がやってしまうと次からは義務として近隣住民から任せられるようになってしまう。
僕の近所は大雪が降ると、夜中に誰かが魔法で雪を消している。溶けた水でアスファルトが濡れた形跡もないから、溶かす以外でどうにかしているらしい。
雪が積もった日の深夜三時になると外から謎の老婆の笑い声が聞こえてくるから、多分その人なんだろうけど目的は不明だ。雪を片付けてくれるのは嬉しい反面、老婆ということ以外は何も分からないから不気味である。
一度、その現場を見たいと大雪の夜に外に出ようとしたら、古川君に全力で止められた、彼曰く、「見付かったら最後、小屋に連れ込まれて劣情をぶつけられたあとに氷漬けにされて氷のオブジェにされる。羨ましいからやめて」らしい。
とまあ、季節はそんな冬から春に移り変わろうとしている。けれど、三歩進んで二歩下がるように雪が降ったり吐いた息が白くなるような日もある。五月くらいのぽかぽかした陽気が恋しい。
家を出てから十五分ほど歩くと地下鉄駅が見えてきた。ここの駅は暖かくなると、駅の外壁の裏に燕が巣を作りにくる。今年もくるだろうか。
「お兄ちゃん、でんしゃのらなくてもねふぃがとんであげるよ」
「ヒッ」
ネフィが僕の肩を鷲掴みにした状態でぐんっと上に浮き上がった。僕の足が地面から数十センチほど離れる。ホムンクルスはまだ幼体であってもかなりの腕力の持ち主である。僕を持ったまま飛行することなんて造作もないことだ。
「今日はいいかな……」
「うん、わかった! でも、とびたいときはいつでもいってね。ねふぃがんばるよ」
ただし、心臓が停止するか破裂しそうなスリルは僕には耐えられそうにない。ネフィが空を飛んでいる最中に誤って僕を離してしまったら洒落にならないことになる。