鶏の照り焼き(前)
仙台も三月を迎えると少しずつ暖かくなってきた。こうして外を出歩くのも苦痛でなくなってきた。けれど、その代わりに花粉症の人が増えてきた。全員マスクをして鼻を啜っていたり、くしゃみをする。毎年この頃から見かける光景に少しずつだけれども、春が近付いてきたと実感する。
何でも花粉症は森の民であるエルフの血を引く者は発症しないと最近の研究で分かってきた。エルフやハーフエルフは勝ち組というニュースを見ながら僕はいつものように空気の通りがいい鼻を撫でる。僕は別にただの人間だけど普通に元気に生きている。あまり種族とか関係ないような気がする。
――――僕に喧嘩を売ってんなら正直に言ってくんない? 売ってるなら買ってやるよ。
去年はそれを実際に古川君に対して口に出してみて大変なことになった。ボックスティッシュを大事に抱えて目薬も常備している彼に対する配慮に欠けていたせいで大変なことになった。せっかくの爽やかでかっこいい顔が般若みたいになっていたのが印象的だった。今年は早めに病院に行って薬を飲んでいたので、花粉の恐怖に脅かされることもないようだ。
あの時は物理的に何かをされることはなかったけど、一週間口を利いてもらえず僕の家は氷河期に突入した。どうやって春解けの季節を迎えたかはあんまりよく覚えていない。というより、ある日突然古川君が「今日の夕飯何~?」と再び口を開き始めた。一週間ぶりに聞いた古川君の声に壊れたと思っていたCDプレーヤーが復活した時のことをなぜか頭に浮かんだ。
今考えると、そんなに大変ではなかった気がする。元々僕はあまり喋るのが得意でもなかったし、ちょうどいいとすら思った覚えがある。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん! あれなーに?」
僕の横をふわふわ浮かびながらネフィがそう訊いてきた。緑色の瞳が見詰める先にあったのは宝くじ売り場だった。「当たるとお金がもらえるくじを売ってるお店だよ」と答えると、「おかしじゃないの……?」とちょっと悲しそうな顔をされた。ネフィにとってはお金よりお菓子のほうがいいのだろう。そのお金がないとお菓子を買うことも作ることもできないけど、まだ小さな子に現実を見せる必要はない。
僕はもう小さくないので宝くじを買ってみることにした。古川君が「あんなギャンブルごとに金を使うなんてどうかしてますよ」と言うので僕もそうなのかなと避けていたけど、気になっていたのだ。
「お、坊主。こういうもんは学生にはまだ早いぜ」
売り場に近付くと先に買っていたおじさんにそう言われた。ハーフエルフは寿命が少しだけ長い分、成長も緩やかだったりする。これでももう二十三歳なのだけれど、いまだに身長が伸びない。僕の体にはもう少し頑張ってもらいたい。
おじさんの言葉にネフィが頬を膨らませる。
「お兄ちゃんはもうおとなだもん。こどもあつかいダメー!」
「うおっ。何だ、この嬢ちゃん。羽もねぇのに浮いてやがる……」
「あ、あの、この子はホムンクルスです」
驚いているおじさんにそう説明する。普通空を飛んだり宙に浮かんだりできるのは羽がある鳥乙女か昆虫族ぐらいなのである。錬金術で作られた人造人間が飛べるのは、生まれつき超能力が使えるから。だからいつもこうして浮かんでいる。歩くよりこうしているほうが楽しいらしい。
「マジか。おらぁホムンクルスなんて生では初めて見たわ。めんこいんだなぁ」
宮城県にはそんなに錬金術師がいないから仕方ない話だった。東京ならたくさんいるから普通にホムンクルスを連れて歩く人も多い。
「ありがと、おじちゃん!」
「お兄さんって呼びやがれ」
「えー?」
おじさんとネフィが話している間にくじを買うことにする。初めてだから簡単ですぐに当たりが分かるスクラッチを三枚。好きな番号を黒塗りしてやるタイプはよくやり方が分からないからやめることにした。
「何でもいいから硬貨でその銀色のところを削ってみてください。同じ絵柄が三つ並べば当たりですよ」
「あ、ありがとうございます」
これどうするんだろうと、スクラッチを見て固まっていた僕に店員の人が教えてくれた。おじさんが「他に客もいないことだし、ここでやっちまえ」と言ってきたので、財布から十円を取り出した。すると、おじさんが首を横に振った。
「ダメだな、坊主。五円はねぇのか?」
「ありますけど……五円のほうが削りがいいんですか?」
「そうじゃねぇけどよ、十円よか演技がいいだろ。お金とご縁がありますようにってこった」
「はぁ」
それじゃあ、と五円で削ってみる。ネフィとおじさんが「がんばれ、がんばれ」と応援している。五円の縁で銀色の部分を削ってみると、案外簡単に剥がれて行った。
「おっ、七が出てきたな!」
「ななってすごいの?」
「一位だからな。揃えりゃ何十万だぞ」
「おかしいっぱいかえる?」
「そりゃ買える!」
「お兄ちゃん、ふぁいとー!」
「ん……あ~~~ダメだったか……」
「あ、おはなみっつあるよ!」
「おお!」
当たった。
花の絵が縦に三つ並んでいる。ネフィが嬉しそうに飛び回って、おじさんも「こういうもんは当たりそうで中々当たらねぇんだけどな」と自分のことのように喜んでいる。
これでいくらもらえるのかと、賞金欄に視線を移す。
「………………」
千円だった。でも、たとえ百円単位でも使った金額より得られる金額が多いなら、それは勝利だとギャンブル好きなお客さんが言っていた。たから勝ちなんだろうと思うと、やっぱり嬉しかった。
おじさんと別れてスーパーに行く。夕飯のおかずを買いにきたのを忘れそうになっていた。
「こちら新発売のデザートなんです。いかがですか?」
「あ、はい」
店員の人に試食をもらって食べてみる。この時期にぴったりな苺のババロアだ。淡いピンク色のババロアにかけられている深紅色のソースも苺味だ。ババロアそのものはどちらかと言うと甘みのほうが強く酸味はほとんどなく苺というよりは苺ミルク感が強い。
けれど、赤いソースは逆に酸味が強く甘さは控えめだ。ほんのりとした甘みとさっぱりとした甘酸っぱさ。二つの苺の味が楽しめるのがいいと思う。
春はいっぱい苺を食べると決めている僕にとっては見逃せない商品だ。ネフィも「おいしー!」と喜んでいるので、買うことにする。
「今日は照焼きにしようかな。ネフィもそれでいい?」
「うん!」
鶏肉が安かったからそれを今晩のメインにすることにして、青果コーナーに向かう。すると、ネフィが僕の肩を叩いてねだってきた。
「あのね、あの赤いのもたべてみたい!」
「えっ、あれ?」
「うん、あれ」
果物コーナーをさっきから見ていたから苺が食べたいのかなと思っていたら、ドラゴンフルーツだった。籠の中に売れ残っているのが一つだけある。ピンクと赤の中間みたいな不思議な色をしていて、何というか……何て表現すればいいんだろうか。
南国の果物らしいけど、変な形をしている。茗荷を巨大化させて好き勝手成長させた成れの果てみたいだ。この見た目で異世界産じゃないんだから世界って不思議だなぁと思う。
「林檎とかじゃダメ?」
「どらごんのふるーつだよ! たべたらお兄ちゃんつよくなれるかも」
そういうドーピング的な食べ物じゃない。だけど、どんな味か興味はある。同じ大きさの林檎やオレンジに値段もちょっとだけ高いけど、せっかくスクラッチで儲かったんだからとドラゴンフルーツを取りに行こうとする。
けれど、それより先に他のお客さんに最後の一つを取られてしまった。
「あ……」
「あー」
「ご、ごめんネフィ……」
「ううん、ほかのにしよ!」
「ごめん……」
何だか申し訳ない気持ちになっていると、突然後ろから肩を叩かれた。
「ヒッ」
「そんなに驚かなくてもいいじゃんか」
驚いて振り向けば古川君がいた。