星に恋して 1
星と恋して 1
―――芸能人に恋するなんて、あのころの私は考えたこともなかった―――
リーホンほど過保護で甘い恋人はいないと思う。
付き合い始めて半年、今の私は甘やかされ過ぎて、彼なしでは生きられない人間になってしまったのではないかと、自分で心配するほどだ。
そんな彼がなぜか反対した、今回の大学の友達との台湾旅行。
出発前は一緒に旅行に行く約束をした友達の手前、頑なに台湾に行くと言い張ったけど、今はリーホンに会いたくて早く日本へ帰りたかった。
たった三日間離れていただけなのに・・・
旅行の最終日の今日、帰国のため荷物をスーツケースに詰めているとき、つけっ放しにしていたテレビからリーホンの声が聞こえた。 会いたいと強く想っていたから幻聴? 驚いてテレビの前に行くと、笑顔で清涼飲料水を持ったリーホンが映っていた。
どうして? 訳が分からないままコマーシャルが終わった。
一瞬見間違いかもと思おうとしたけど、自分の恋人の顔や声を間違うはずがない。
震える手でスマートフォンから、賀力宏を検索する。
そのヒット数の多さを見て、息が止まりそうになった。
ファンの人が運営しているリーホンのサイトがいくつもあり、you tubeでは彼のMVから今見たコマーシャルまで、いろいろなものがアップされていた。
信じたくないけど、彼はアジアで有名な歌手だった。
日本では腕時計の宣伝をしているとも書かれていた。
一緒に出かけたとき、他人に見られていると感じたのは、思い違いじゃなかったんだ。
伊達メガネの意味も今なら分かる。
どうして話してくれなかったの?
私とは日本にいる間だけの関係だから?
台湾から日本語を習得するために来日したっていう話も、嘘だったの?
恋人だと思っていたのに、愛されているって信じていたのに・・・
半年前
大学の授業のあとのバイトも終わり、やっと帰り着いたマンションを見上げる。
急に転勤になったお兄ちゃん夫婦のこのマンションに、留守番として住みはじめて3か月が過ぎた。
ファミリー向けのマンションでセキュリティーもしっかりしているから、一人暮らしでも怖いと思ったことはない。
いつものようにオートロックのエントランスのドアを暗証番号で開け、エレベーターのボタンを押して到着を待っていると、誰かが斜め後ろに来た。
そっと後ろを振り返る。
げっ、隣の部屋の男の人だ。
背の高い私が並んでも彼の方が高いから、身長は180センチ以上あるだろう長身な男の人で、そんな彼から醸し出されている俺に構うな的オーラのせいか、私はこの隣人が苦手だった。
でもご近所だし、当たり障りのないよう挨拶する。
「こんばんは」
するといつものように、この隣人は尊大にうなずくだけで・・・
声ぐらい出るでしょと何度思ったことか。
エレベーターで見かけるときは、たいてい白いシャツにジーンズといったカジュアルな格好をしている隣人は、バランスの取れた体格のおかげで、そんなシンプルな服装でも腹立たしいほどおしゃれに見えた。
黒縁のメガネのせいで素顔はわからないけど、男の人にしては綺麗な輪郭をしていると思う。
エレベーターが来たので先に乗り込む。
この隣人、一緒に乗るときにはいつも私を先に乗せ、先に降ろしてくれる。
無愛想だけど、そういうところは紳士的かも。
エレベーターを降りたらすぐに部屋のドアを開けられるよう、エレベーターの中で鍵を探す。
だけどバッグの中、どこを探しても見当たらない。
どうして?
ああっ、バイト先のロッカーに鍵を入れたポーチを忘れてきたんだ。
今から戻ったら終電に間に合わない。
不味い、不味過ぎる。 どうしょう・・・今日は野宿か?
ふと、ひとつ家に入る方法を思いつく。
ベランダの窓の鍵はかけていないから、隣の部屋からならベランダ伝いに入れる。
しかしそれにはこの苦手な隣人の協力が必要だ。
横目で彼を見る。
やっぱり俺に構うなオーラ全開で、この人に助けを求めるぐらいなら、野宿の方がましかもと思ってしまうけど、思い切って彼の部屋の前で勇気を出して声をかけた。
「あのう・・・」
「なに?」
睨みつけるように返事をされたけど、鍵がないことを説明し、ベランダ伝いに自分の部屋へ行かせて欲しいとお願いしてみる。
「ここ十階だよ」
初めのうちは黙って聞いていた隣人が呆れたように言った。
「大体、窓を開けて出かけるなんて、不用心過ぎないか」
「窓は閉めています! 鍵をかけていないだけ」
「同じだろう」
素っ気なく言われ、思わず睨みつけてしまう。
「僕が行く」
「えっ?」
「女の子にそんな危険なことをさせるわけにはいかないだろ」
止める間もなく自分の家の鍵を開けベランダへ行く隣人を、他人の家ということで遠慮がちに追いかけると、彼はベランダを仕切る壁の前で立ち止まっていた。
「これを壊せばいいんじゃないか?」
彼が指差した壁を見る。
「そうだ! この壁、火災のときに避難できるよう、破れるように作ってあるんだ。でも壊したら修理代がかかるから、やっぱり手すりを伝って・・・」
「金より安全だろう」
傲慢な言い方に言い返そうとしたとき、彼の携帯が鳴りだした。
発信先を確かめると、私に「待っていてくれ」と言って部屋に戻って行ったけど、窓が開いたままなので声は聞こえてきた。
彼は英語でしゃべっていた。 それも流暢に・・・
この隣人は謎めいている。
ひとりでファミリー向けのマンションに住みながら、働いている様子はないし、今はネイティブのように英語を話してるし・・・
戻ってきた隣人に思わず「英語上手すぎ」とつぶやくと、「ABCなんだから当たり前だろ」と嫌そうに返事をされた。
「abc?」
「American born Chinese.」
なにそれ・・・?
私が理解できていないことが分かった彼は、もう一度日本語で言ってくれた。
「アメリカで生まれた中国人ってこと」
「中国人だったんですか!! 私、ずっと日本人だと・・・日本語上手だから」
これって失礼な言い方かもと口ごもる私に隣人は、その笑顔は反則だと叫びたくなるぐらいかっこよく爽やかに微笑みながら、右手を手を出してきた。
「くすっ、ハー・リーホン(賀力宏)だ」
手を差し出しているのは握手をするってことよね?
思わず右手をパンツで拭いて、握手をした。
さりげなくこんなことができるのは、やっぱり日本人じゃないからだと変に納得する。
「玖珂瞳です」
「で、瞳ちゃん、僕が電話中何をしていたのかな?」
「この壁を破ろうと思ったんですけど、なかなか破れなくて。 これじゃあ火事のとき逃げ遅れますよ」
うんざりとして、壁を見る。
「そんなことは男のやることだ」
そう言って賀さんが蹴ると、壁が紙のように簡単に破れた。
・・・そして私たちの間にあった心の壁もなくなった。