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「結局来てしまった……」
火曜日二十二時前。私はROビルの前に立っていた。
三十階建てのビルで、ROホールディングスは十五階以上に入っている。
私は日曜日にブライダル事業部での勤務を終えて、初めてのQC出勤日だ。
結局QC課が何をするのかまったくわからないし、あの日以来、善さんから連絡もない。だけど、人事部から手続きの案内も届き、配属されたことは間違いない。問い合わせするより出向いたほうが早いだろうな、とやってきたわけだ。
「結局職があるのはありがたいんだよなあ」
情けない一言をこぼして、私はビルに入った。
先週は酔っ払っていて気づいていなかったけれど、二十二時でも人の気配は多く、一緒にエレベーターに乗り込んだ社員も疲れた顔をしていた。
どの部署も残業は当たり前なんだな……。もちろんブライダル事業部も例外ではない。特に繁忙期は終電に間に合わないことも多々あった。
残業中の夜食はありがたいよね……。
先日善さんが出してくれたスープを思い出す。
残業中はコンビニで買ってきたものでお腹を満たしていたので、あたたかいものが食べられるなら最高だ。この夜食サービスはけっこう賑わっているのかもしれない。料理はまったくできないけど本当に働けるのかな。
不安を抱えながら社食の扉を開いて、拍子抜けした。
食堂はがらんとしていて、誰もいない。
「もしかして、からかわれた?」
「なにが?」
「ひっ……」
気づけば隣に善さんがいて、先日と同じく緑色のエプロンをつけていた。
「び、びっくりしましたよ!」
「ちょうど扉の鍵あけてたところだったから。……にしても、固い恰好だね」
私のリクルートスーツを見て、善さんはあきれた表情になる。ブライダルプランナーは制服が支給されていたから、これしかスーツを持っていなかった。
「そんな固い恰好だと相談もしにくい。次回からは私服でいいよ」
自分の説明不足を棚に上げて、善さんは眉を寄せる。
「すみません」
「夜食の準備してくるわ。お客さんが来るかはわからないけど」
「えっ、来ないこともあるんですか。夜食サービス、ありがたいのに」
「別にここは夜食屋じゃないから。悩み解決食堂だよ」
善さんはさらりと言うとキッチンに向かっていく。
『悩み解決』と言われると気軽に来られないかもしれない。社内の悩みは打ち明けづらいし、そもそも忙しくて後回しになってしまう。
でも、お客さんが来なかったら私の仕事はない?
そもそも何の仕事をするのか、いまだにわからないよ……!
「あの、私って火曜日しか仕事――」
ないんですか、と聞こうとしたところで。
「すみません。メールを見てきたんですけど……」
食堂の入り口に一人の女性が立っていた。きまずそうにこちらを見ている。
「善さんお客さんです!」
気合いを入れて叫ぶと「案内してー」と気楽な声が返ってきた。
「では、こちらにどうぞ」
どこの席を案内してもいいだろうと、キッチンに近い席に女性を案内する。
戸惑うように食堂を見回しながら女性は席に着いた。切り揃えたショートボブに、意志の強そうな顔立ちの美人。野暮ったい私と違い、スーツも持ち物も洗練された印象がある。都会的で仕事ができそうな雰囲気だ。
「お待たせしましたー」
善さんがトレイをテーブルに置き、お椀を三つ並べる。
「これは……」
女性は目の前に置かれたカップをじっと見ている。
「これ? 参鶏湯」
「善さん、彼女はそういうこと聞いてるんじゃないと思いますよ」
悩み相談にやってきて、参鶏湯を出されるとは誰も思わない。
「これはコーヒーみたいなもんですよ。食べながら話してください。リラックスできるから」
善さんはお椀の隣にステンレスのスプーンを置く。
女性は逡巡し、ポケットから名刺入れを取り出した。
「食べる前にこちらを。私はEC事業部・マーケティング部の志藤杏樹といいます」
本社ビルで働いていない私はほとんどの社員を知らないし、事業内容も詳しくない。自分のありったけの本社知識を思い出してみると――EC事業部はいくつかの通販サイトを運営していたはずだ。ファッション、食品・ギフト、ライフスタイル用品、不動産などを取り扱っていたと思う。
「はじめまして。俺はQC課の有馬善。こっちは――」
「丸岡幸といいます」
「俺の助手です。では、食べてください」
「……いただきます」
志藤さんは戸惑いつつも一口食べ、口元を押さえて「おいしい」と頬を緩めた。
「本格的なやつは作れないから、手羽元で作った参鶏湯モドキですけどね」
参鶏湯は韓国料理屋で一度食べたことがある。鶏のお腹に野菜やもち米などを詰めて煮込む料理だったと思う。白く濁ったスープからは、にんにくと薬膳の香りが立ち上がり、お腹が早く食べてと急かしてくる。
善さんは〝モドキ〟と言うけれど、お肉はほろほろでにんにくとショウガが効いていておいしい。志藤さんも次々口に運んでいく。
「おいしいです。今日も夕飯食べ損なったのでありがたいです」
「残業多いんですか」
「はい。……ただ今回の悩みは業務についてではないんです。ここではどんな悩みでも、ということだったので」
「そうですね。単なる業務の内容なら直属の上司に相談するのが一番でしょうし」
業務の内容ではない。でも、社内の悩みを解決すると言っていた。それならどんなことを相談するんだろうと疑問が浮かぶ。
「恥ずかしながら、プライベートに関係することで」
志藤さんは苦笑いをこぼしながら、スプーンを置いた。
「……実は私の元カレのことなんです。彼もROで働いていて」
「ストーカーになった、とかですか?」
私の思いつきの質問に、志藤さんは柔らかく笑う。
「彼はそんなことするタイプじゃないです。でも、少し近いかも。彼の今の彼女に嫌がらせをされているんです」
志藤さんが話す内容はこうだった。
志藤杏樹さん、二十九歳。志藤さんは同じEC事業部・営業部の中谷優吾さんと三年間付き合っていたが、半年前に破局。同期で、新卒の時から同じEC事業部ということもあり、今も仕事上の付き合いや同期の集まりなどで頻繁に顔を合わせる。
「元々友人だったので、今も仕事上や同期として親しくはしています」
ということは、円満に別れたということか。
別れてから友人関係に戻れる人もいるんだなあ。私は彼氏と別れるとそのまま縁が切れるタイプだからあまり想像がつかない。そもそも彼氏は学生時代からいないけど。
「一ヵ月前から嫌がらせが始まりました」
最初は本当に簡単な嫌がらせだった。共有フォルダにいれていた志藤さんのデータファイルが削除されていたり、席にゴミが置かれているなど。
「それが優吾の彼女の仕業なんて思ってなかったんですよ。細かなことなので、違和感を感じながら気にしないようにしていたんです。でも、この嫌がらせに優吾が関係しているかもしれないと思うことが続きました」
営業とマーケは一緒に案件に携わることも多い。その日も志藤さんは中谷さんと打ち合わせをしていた。チームリーダーである二人きりで打ち合わせをしたのだという。
「私が自席に戻ってきたら、これが」
志藤さんは手帳から一枚の付箋を取り出した。薄ピンクのどこにでもある付箋で『復縁を迫るな』と書いてある。筆跡でばれないようにしているのか、定規でも当てたかのように角ばった文字だった。
「ちょうど案件が進んでいる時だったので、何度か打ち合わせをすることがありました。そのたびにこういったものが」
「それはまた律儀だなぁ」
スープをすすりながら善さんが目を細めた。
「ある日知らないアカウントからSNSのフォローをされたんです」
そう言って志藤さんは自分のスマホを開くと、画像投稿SNSのとあるアカウントを見せてくれた。アカウント名は『♡』で、フォローは志藤さんだけ。何枚か画像が投稿されている。
「――これは、中谷さんですか?」
男性の寝顔の写真で、生活感のある部屋が背景にうつっている。
「顔は見えないですけど、これは優吾の部屋なので間違いないかと」
画像には「優吾は私のものなんだよ」「だいすき」「誰にも渡したくない」「ずっと私の優吾でいて」「過去なんて消えちゃえばいいのに」という文章も添えられている。
「えぇ……。すごい執着してるんですね」
「優吾の彼女だとアピールするために、わざわざアカウントを作ってフォローしてきたんでしょうね」
「ひー……」
本当にこういうねちねちした人がいるんだ……! 思わず顔をしかめてしまう。
「放っておこうかな、とも思ったんですけど……」
志藤さんはプリントアウトした紙を机の上に置いた。メール画面をコピーしたもので『志藤杏樹は人のものを取るのをやめろ』と書いてある。
「サイトの問い合わせフォームにこの文章が何通も届いたそうで……。CS部から言われてびっくりしました。会社まで巻き込んでくると私の評価にも繋がります」
善さんも眉を寄せて紙を眺めているけど、たぶん私も同じ表情だ。
なんて陰険なんだ!
「CS部や上司に誰かからいやがらせを受けていることは伝えて理解してもらえたのですが、誰が犯人なのか――誰が優吾の新しい彼女なのかわからないんです」
「今の彼女を公にしていないんですか?」
善さんの質問に志藤さんはうなずいた。
「私と別れてから半年しか経っていないのもあるので、隠しているのかもしれません」
「そういえば、私の先輩も社内恋愛してたんですけど、絶対誰か教えてくれなかったなあ。あ、でも志藤さんと付き合ってたことを今カノは知ってるんですよね?」
「私たちは隠してなかったんです。というか、同期で飲んでるときにバレてしまったんですよね」
「あー。その場にいる人ならわかる空気ってありますもんねぇ」
私の元先輩は本社の人と付き合っていたから、まったくわからなかったけど。近くにいる人なら気づくことも多いんだろうな。
「優吾は彼女がいる自体を隠していたんですが、ひと月前の同期飲みで、まわりから詰められてばれちゃったんです。嘘つけないタイプなんですよね。もしかして社内?って聞かれたときも気まずそうにうなずいていました」
志藤さんは思い出すように目を細めた。
「どんな子か言っていましたか?」
「まったく。それ以上は答えないようにして、必死に話を変えていました」
「じゃあ新しい彼女の手がかりはないのかぁ」
「いえ、EC事業部の優吾と同じチームの子だと思うんです。社内スケジュールに登録していない簡単なミーティングでも付箋が残っていたので」
私のつぶやきを志藤さんは否定した。
「私の中では二人に絞ってます。でも確定が得られないまま、誰かに相談できません。優吾に言うことで二人の関係が気まずくなるのも申し訳なくて。でもこのままエスカレートすれば業務の妨げになるんじゃないか、と悩んでいたところに、こちらのメールがきて、ご相談させていただくことにしました」
志藤さんの言葉に善さんは満足げにうなずいた。
「有効な我々の使い方ですね」
「それでは、お願いできるということでしょうか」
志藤さんはパッと顔を輝かせ、私もこの食堂の意味を少しだけ理解した。
社内の問題だけど、上司や人事では解決できないような悩みを救うところなんだ。でも……。
「どうやって解決するんですか?」
疑問が口から漏れると、善さんは片方の口角をわずかに上げた。
「マルが潜入するんだよ」
「潜入?」
「その場にいる人ならわかる空気ってありますもんねぇ、って言ったよね」
言ったけど……⁉
私だけでなく、志藤さんも目を丸くしている。
「まぁ俺たちに任せてください。二週間ほどいただければ、この悩み解決できますよ」
私の心配に反して、善さんは余裕たっぷりな表情で微笑んだ。
「ところで、おかわりしませんか? まだたくさんあるんですよ」




