最終回:1m75cmの向こう側 ―― 始まりの朝
最終回:1m75cmの向こう側 ―― 始まりの朝
1. ブルーアワーの出発
午前五時。沖縄の空が、深い紺色から淡い紫へと溶け始める「ブルーアワー」。
太陽は、まだ眠たげな海を優しく起こし、昨日磨き上げた原付のシートに乗せた。
「パパ、まだお月さまがいるよ」
「ああ、お月さまもお見送りしてくれてるんだ。さあ、行こう。お姉さんと約束した場所へ」
エンジンが再び目を覚まし、親子を乗せて走り出す。街灯が一つ、また一つと消えていく中、二人は潮風に逆らって北へと向かった。
十年前、この背中に感じていたのは、消え入りそうなほど儚い少女の体温だった。今は、小さな、けれど力強い海の腕が太陽の腰をぎゅっと抱きしめている。
重力。
それはかつて、亜季を地面に縛り付け、太陽の心を絶望の底に沈めた呪いのような言葉だった。けれど今、太陽が感じているのは、自分をこの世界に繋ぎ止めてくれる「温かな重み」だった。
2. 岬の再会
たどり着いたのは、あの断崖絶壁の岬だった。
十年前、亜季が車椅子から立ち上がり、自分の足で一歩を踏み出した場所。太陽は原付を停め、海の手を引いて岬の先端へと歩いた。
そこには、あの時と変わらない、荒々しくも美しい東シナ海が広がっていた。波が岩に砕け、白い飛沫が宙を舞う。太陽は、ポケットから色褪せたメジャーを取り出した。
「海、見ててごらん」
太陽は地面から空に向かって、メジャーを伸ばした。
1m75cm。
かつて亜季が、そして太陽が、決して越えることができないと思っていた壁。
「海、この高さがね、お姉さんが人生をかけて跳ぼうとした空の高さだよ。パパにとっても、ずっと越えられない壁だった」
海は不思議そうに、宙に浮かぶメジャーの先端を見上げ、それから太陽の顔を見た。
「パパ、このさきに何があるの?」
「……それが、今から見えるはずだよ」
3. 奇跡の瞬間
その時、地平線の彼方が、爆発するように黄金色に輝き始めた。
夜の帳が完全に剥がれ落ち、太陽の光が海面を一筋の道のように貫く。光が岬の先端に届いた瞬間、不思議なことが起こった。
強烈な逆光の中で、太陽の瞳に、あの日見た「1m75cmの景色」が重なった。
空中で美しく弧を描き、重力を脱ぎ捨てて笑う亜季の横顔。
けれど、その幻影はすぐに消え、代わりに目の前には、朝陽を浴びてキラキラと輝く海がいた。
「パパ! おひさま、すごい! お空が笑ってるみたい!」
海が両手を広げ、岬の先端でぴょんぴょんと跳ねた。
その瞬間、太陽は悟った。
亜季が本当に跳び越えたかったのは、金属のバーではない。
「いつか終わる命」という絶望を越えて、誰かの中に「希望」という光を残すこと。
彼女は、完璧に跳び越えていたのだ。
十年の時を超えて、今、パパの隣で笑う「海」という名の命の中に、彼女のジャンプは着地していた。
4. 最高の一枚
太陽は、迷わずにカメラを構えた。
これまでは、失った過去を追いかけるためにレンズを覗いていた。けれど今は違う。今、この目の前にある「光」を、未来へ届けるために。
「海、そのまま、空に向かって跳んでごらん!」
海が、一生懸命に地面を蹴った。
小さな身体がふわりと宙に浮く。
朝陽を背負い、シルエットになった息子が、1m75cmの境界線を軽やかに越えていく。
――カシャ。
シャッターを切った瞬間、太陽の心から、長く重い鎖が解け落ちる音がした。
それは、悲しみとの決別ではなく、悲しみと共に生きていくための「光の記録」だった。
5. 最後のメッセージ
太陽は、カメラを下ろし、海を高く抱き上げた。
「パパ、おねえさん、見えた?」
「ああ。見えたよ。最高に綺麗なジャンプだった」
太陽は空に向かって、心の中で静かに呟いた。
(亜季。俺、ようやく撮れたよ。君が言っていた『世界に溢れてる光』。……見ててくれ、俺、これからもこの光を追いかけていくから)
風が吹き抜け、亜季の笑い声が聞こえた気がした。
『ありがとう、私の専属カメラマンさん』。
6. エピローグ:光の射す方へ
数時間後。実家に戻った二人は、おばあちゃん(太陽の母)が作った温かい朝食を囲んでいた。
太陽の隣には、さっき撮影したばかりの、デジタルの液晶画面に映る「海と朝陽」の写真。
「太陽、いい顔になったね」
母の言葉に、太陽は照れくさそうに笑った。
「母さん、俺、やっぱり東京に戻って、もう一度やり直すよ。今度は、自分の撮りたいものを撮るために」
海が、卵焼きを頬張りながら元気よく言った。
「ぼくもパパについていく! お写真、いっしょに撮るもんね!」
食卓には、かつての重苦しい沈黙はもうなかった。
亜季が遺した手紙は、太陽の胸のポケットで、今も温かい。
【現在:アルバムの最後の一ページ】
那覇の家での長い一日は終わり、太陽と海は再び日常へと戻っていく。
最後に太陽がアルバムに差し込んだのは、岬で撮った海の写真。
その横には、走り書きでこう記されていた。
> 「1m75cm。そこは終わりではなく、本当の空が始まる場所だった。」
>
太陽が部屋の電気を消すと、窓の外には満天の星空が広がっていた。
かつて亜季と見た、あのオーストラリアの星空と同じように。
人は、重力に縛られて生きている。
けれど、誰かを想う心だけは、どんな高さのバーも、どんなに遠い未来も、軽やかに跳び越えていくことができる。
眞栄田太陽のカメラは、明日もまた、新しい光を捉えるだろう。
山本亜季という少女が愛した、この眩しい世界を記録するために。
結びに代えて
全9話にわたる、太陽と亜季、そして海の物語にお付き合いいただきありがとうございました。
この物語が、あなたにとっても「重力を超える光」の一つになれば幸いです。




