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『空の足跡、君の鼓動』  作者: 水前寺鯉太郎


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第8話:空からの手紙 ―― 重力を超える言葉

第8話:空からの手紙 ―― 重力を超える言葉

1. 忘れられた封印、止まったままの時計

 沖縄の夜は、静寂の中にも常に微かな生命のざわめきがある。窓の外からは、湿り気を帯びた潮騒の音と、季節外れの虫の声が、遠い記憶の残響のように聞こえていた。

 眞栄田太陽まえだ たいようは、実家の自室にある古い学習机の前に座っていた。かつて大学受験の参考書を積み上げ、あるいは現像したばかりの写真を何時間も眺めていた、あの頃のままの机だ。

 ふと思い出したように、彼は最下段の、立て付けが悪くなって久しい引き出しに手をかけた。力を込めて引くと、木の擦れる不快な音が静かな部屋に響く。その奥、埃を被った古い箱の中に、それは静かに横たわっていた。

 「……あ、これ……」

 指先に触れたのは、色褪せた水色の封筒だった。

 八年前、山本亜季やまもと あきの葬儀が終わったあと、彼女の両親から手渡されたものだ。「整理していたら、眞栄田くん宛のものが机の奥から出てきたから」と。

 当時の二十歳そこそこの太陽には、その封を切る勇気など微塵もなかった。それを読めば、彼女がこの世界から永遠に失われたことを、その事実を確定させてしまうような気がして。だから彼は、逃げるようにその「最後のかけら」を引き出しの奥底に封印したのだ。

 「パパ、それなあに? お手紙?」

 膝の上で、いつの間にか目を覚ましていたかいが、不思議そうに太陽の顔を覗き込んでいる。子供の瞳は、一点の濁りもなく、今この瞬間の真実だけを捉えている。

 太陽は、喉の奥に詰まった塊を飲み込むようにして、小さく微笑んだ。

 「……ああ。お姉さんが、パパに残してくれた魔法の続きだよ。ずっと、開けるのが怖くて隠していたんだ」

 「まほう? よんで! パパ、海にもきかせて!」

 海が小さな手で太陽の腕を揺らす。その無邪気な催促が、八年間止まっていた太陽の時間を、ゆっくりと動かし始めた。太陽は覚悟を決め、震える指先で封を切った。中からは、折り畳まれた二枚の便箋が現れた。

2. 亜季の声、八年越しの再会

 便箋には、病状が急速に悪化する直前に書かれたのであろう、彼女らしい、少し右上がりの力強い文字が躍っていた。太陽がその最初の一行を読み始めた瞬間、白黒の記憶に鮮やかな色彩が蘇り、耳元で彼女の声が直接響いてくるような錯覚に陥った。

> 『太陽くんへ。

>  この手紙を読んでるってことは、私はもう、1m75cmのバーを越えて、もっと高いところに行っちゃった後かな?

>  勝手に先に行っちゃってごめんね。でも、泣いてない? もし泣いてたら、今すぐその顔をカメラで撮って、自分で見てみなさい。きっと、すごく格好悪い顔をしてるはずだよ。君は、笑ってる人を撮るのが一番上手なんだから、そんな顔しちゃダメ。

>  太陽くん。私ね、本当は怖かった。

>  足が細くなって、地面を踏む感覚がどんどんなくなって、自分が「ハイジャンパーの山本亜季」じゃなくなっていくのが、たまらなく怖かった。病室の天井を見上げていると、自分だけが重力に縛り付けられて、じわじわと地面に沈んでいくような気がしていた。

>  でもね、君がカメラを構えて私を見てくれるときだけは、私はずっと「飛ぶこと」を忘れないでいられた。君のレンズの向こう側で、私は何度でもバーを越えて、空を舞うことができた。

>  君が撮ってくれた写真は、私の身体から病気という重力を消してくれた。

>  君が私の冷たい手を握ってくれた時間は、私の痛みを除けてくれた。

>  

>  だから、太陽くん。君にお願いがあります。

>  私がいない世界でも、君はシャッターを切り続けてください。

>  悲しい景色や、失われていくものばかりじゃなくて、世界に溢れてる「光」を見つけて。

>  私が最後に見た、あのオーストラリアの赤い大地や、沖縄の青い空の色を、君の目を通して誰かに伝えてあげて。

>  それから……いつか、君が誰かを心から愛して、パパになったら。

>  その子に教えてあげてね。

>  「この世界には、重力なんて跳ね返せるくらい、強い愛があるんだよ」って。

>  私、君に出会えて、最高に幸せな助走ができたよ。

>  最後の一歩まで、君が隣にいてくれてよかった。

>  ありがとう、私の専属カメラマンさん。

>  空の向こうで、君が撮る新しい「最高の一枚」を待ってるね。

>  山本亜季より』

>

3. 継承される意志、そして涙の雨

 読み終えたとき、太陽の視界は激しく滲み、文字が波打っていた。

 便箋の上に、八年分の重たい涙が、静かな雨のように落ちた。それは、彼女を失った悲しみだけでなく、彼女が最期まで自分を信じ、未来を託してくれていたことへの、深い感謝と悔恨の混じった涙だった。

 「パパ……? お姉さん、なんて言ってるの? 泣かないで、パパ」

 海が心配そうに、太陽の頬を小さな、温かい掌で包み込む。その体温が、過去の亡霊に囚われかけていた太陽を、「今」へと力強く引き戻す。

 「……大丈夫だよ、海。お姉さんはね、『海くんのことを、よろしくね』って言っているんだよ。それから……『海くんが大きくなったら、一緒に空を見上げて、かっこいい写真を撮ってね』って」

 「……うん! ぼく、お姉さんと約束する! パパより上手にお写真撮るよ!」

 海は力強く頷き、窓の外、雲の切れ間から高く昇った月を見上げた。

 太陽は、引き出しの奥からもう一つ、重厚な金属の塊を取り出した。高校時代、新聞配達のアルバイトをしてようやく手に入れた、古い一眼レフカメラ。亜季が最期までそのレンズの先にいた、思い出と執着の機械だ。

 「海、明日はこのカメラも持っていこう。あの岬で、パパと一緒に写真を撮ろう。お姉さんに届くような、最高の一枚を」

 太陽は、亜季の手紙を丁寧に折りたたみ、胸のポケットにしまった。左胸の鼓動が、手紙を通して彼女の言葉と共鳴しているように感じられた。

 かつて彼女の死は、太陽にとって「重くて動けない絶望」そのものだった。けれど、この手紙を読み終えた今、それは「前へ進むための翼」に変わっていた。

4. 眠れる機械の覚醒 ―― 深夜二時の逃走

 「パパ、おなかすいた!」

 「はは……そうだな。よし、おばあちゃんたちが帰ってくる前に、男二人で何か作ろうか」

 夕食を済ませ、海を風呂に入れ、寝かしつけたあとのことだ。深夜二時、実家は完全な静寂に包まれていた。

 太陽はそっと、海を起こさないようベッドを抜け出し、一階へ下りた。裏手の古びた木造倉庫。鍵はかかっていない。シャッターを静かに持ち上げると、懐かしい油の匂いと埃の匂いが混ざり合った、古い記憶の香りが鼻をくすぐった。

 そこには、青い塗装がところどころ剥げた、一台の原付バイクが眠っていた。

 高校時代、放課後のたびに亜季を後ろに乗せ、島中の道を駆け抜けた相棒だ。

 八年間、実家に帰るたびに目にしていたが、一度も触れようとはしなかった。けれど、父親が時折磨いてくれていたのだろう。月明かりを浴びたボディは、微かに輝きを放っていた。

 「……まだ、動くか?」

 シートの埃を払い、キックペダルに足をかける。

 一度、二度。金属が空回りする冷たい音だけが響く。

 三度目。全体重を乗せて踏み下ろすと、闇を切り裂くように、乾いた二ストロークエンジンの音が爆発した。

 「……生きてる」

 ハンドルを握る手に伝わる、激しい振動。それは、あの夏、背中に感じた亜季の細い腕の重みや、風の中で彼女が叫んでいた笑い声を呼び覚ます、力強い脈動だった。太陽はヘルメットを被り、深夜の那覇へと走り出した。

5. 潮風の記憶 ―― 国道58号線の亡霊

 街灯のオレンジ色の光が、ヘルメットのシールドを次々と流れていく。

 昼間の熱気が嘘のように、夜の風は鋭く、けれど今の太陽にはその冷たさが心地よかった。

 国道58号線を北へ。

 「太陽くん、もっとスピード出して! 空まで飛んじゃいそう!」

 風の音に混じって、後ろから聞こえていたはずの声が蘇る。あの頃、原付の制限速度は、二人にとって「不自由な世界をどこまでも広げるための、魔法の翼」だった。この小さなバイクさえあれば、病気という壁さえも飛び越えて、どこまでも行けるのだと信じていた。

 バックミラーに映る自分の顔は、あの頃よりもずっと、多くのものを失い、そして得てきた大人の顔になっていた。けれど、アクセルを回す指先の感覚だけは、十七歳のあの夏と少しも変わっていない。太陽は、アクセルを僅かに捻り、記憶の速度をさらに上げていった。

6. 月下のビーチ ―― 銀色のアーカイブ

 やがて辿り着いたのは、二人が一番好きだった、観光客には知られていない小さな天然のビーチだった。エンジンを切り、原付を砂浜の手前に停める。

 世界から音が消えた。

 ただ、寄せては返す波の音だけが、太古から続く地球の呼吸のように規則正しく響いている。

 満月に近い月が、東シナ海を銀色に染め上げていた。水平線の彼方まで続く、光の道。かつて亜季が「あの道を真っ直ぐ走れば、きっと月まで行けるよね」と言って、裸足で砂浜を駆けていった場所だ。

 太陽は砂浜に腰を下ろし、胸のポケットから手紙を取り出した。

 月光の下で見る彼女の文字は、昼間よりもさらに青白く、まるで今、空から降ってきたばかりの言葉のように見えた。

 「……亜季。見てるか。俺、またここに来たよ」

 太陽は、手紙の一文字一文字を、噛み締めるように反芻した。

 『悲しい景色じゃなくて、世界に溢れてる光を見つけて』。

 東京での日々、自分はただ「暗闇」の中で、効率と数字だけを追っていた。けれど、こうして潮騒に身を任せ、彼女が遺した言葉に耳を澄ませていると、波打ち際で砕ける名もなき飛沫さえも、何万個もの宝石のように輝いていることに気づく。

 太陽は、首から下げていた一眼レフを構えた。

 ファインダー越しに見る、月夜の海。

 そこには誰もいない。けれど、波打ち際を走る銀色の光の筋の中に、確かに彼女のシルエットが見えた気がした。背面跳びのように、重力から解き放たれて、月に向かって美しく弧を描く、あの十七歳の彼女の姿が。

 ――カシャ。

 静かな夜に、シャッター音が一度だけ響いた。

 それは、過去を悼むための弔砲ではない。これから生きていく世界を、この目に、このレンズに焼き付けていくための、宣誓の音だった。

7. 【現在:黎明の予感】

 実家へと戻る帰り道、東の空が僅かに白み始めていた。

 「アーカイブ」という名の過去の記憶は、もはや太陽を縛り付ける重りではなかった。それは、未来への航路を照らすための、温かい灯火ともしびだった。

 原付を再び倉庫の奥へと戻し、静かに部屋に戻る。

 海は、パパの帰りを待っていたかのように、太陽の枕元に潜り込んで丸まって眠っていた。太陽はその小さな、生命の重みを愛おしそうに抱きしめ、心地よい疲れの中で目を閉じた。

 数時間後には、新しい朝が来る。

 十年の時を超え、ようやく自分自身の重力を振り切った太陽は、確信していた。

 明日の岬で、海と共に迎える夜明けは、人生で最高の一枚になるはずだと。

 1m75cmの向こう側にある、本当の空を、今度は息子に見せるために。


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