第7話:重力のない場所へ ―― 最後の助走
第7話:重力のない場所へ ―― 最後の助走
1. 鳴り響く命の秒読み
ICU(集中治療室)の空気は、不自然なほどに無機質で、冷たかった。
無数のチューブに繋がれ、人工呼吸器がシュコー、シュコーと一定のリズムで空気を送り込む。その機械音だけが、山本亜季という少女がまだこの世界に踏みとどまっていることを証明していた。
彼女の枕元には、二人の男女が立ち尽くしていた。
亜季の両親だ。父親は、かつて娘の試合を最前列で見守っていた時の面影はなく、肩を落とし、ただ娘の動かない手を見つめている。母親は、すでに枯れ果てたはずの涙をまた一筋流し、亜季の髪を何度も、何度もなぞっていた。
「……亜季、もう頑張らなくていいのよ。もう、どこへでも行っていいの」
母親の震える声が、電子音の鳴り響く部屋に溶けていく。
その言葉は、絶望ではなく、あまりに長い間「病」という重力と戦い続けてきた娘への、せめてもの慈悲のようだった。太陽はドアの隙間から、その光景をただ見ていることしかできなかった。家族という、自分が入ることを許されない聖域。そこには、血の繋がった者たちにしか分からない、深く、重い「諦め」と「愛」が同居していた。
2. 父親の独白
数時間後、廊下のベンチで座り込んでいた太陽の隣に、亜季の父親が腰を下ろした。
かつて、亜季が走り高跳びを始めたばかりの頃、厳しくも温かく指導していたという彼の大きな手は、今や力なく膝の上で震えている。
「……眞栄田くん。君には、感謝しているんだ」
不意にかけられた言葉に、太陽は顔を上げた。
「……いえ、僕は何も。彼女を、こんなに遠くまで連れ回して……」
「違うよ。……あの子が、最後の一ヶ月、あんなに幸せそうに笑っていたのは、君のおかげだ。……僕たちが『もうダメだ』と目を逸らしていた時、君だけが、あの子を『病人』じゃなく『一人の女の子』として見てくれた」
父親は、潤んだ瞳で天井を見上げた。
「……あの子、小さい頃から負けず嫌いでね。一度決めたら、誰が何を言っても聞かない。走り高跳びを選んだのも、『空に触ってみたいから』なんて笑って。……君とオーストラリアに行ったことも、あの子にとっては、人生で最高のジャンプだったんだろうな」
太陽は、胸の奥が締め付けられるのを感じた。
自分が彼女に与えたと思っていたものは、実は彼女が、命を賭して自分に遺してくれた「光」だった。彼女は最期まで、自分の意志で空を跳ぼうとしていたのだ。
3. 最後の許可
深夜。両親が一度着替えのために自宅へ戻り、病室には太陽と意識の戻らない亜季だけが残された。
松本看護師が、静かに部屋に入ってきた。彼女は亜季のバイタルを確認すると、太陽に向かって小さく頷いた。
「……眞栄田くん。彼女の両親から、伝言を預かっているわ」
「……伝言?」
「『最後は、太陽くんと二人きりにしてあげてほしい』って。……あの子が一番見せたがっていたのは、あなたなんですって」
松本さんはそう言うと、手際よく、亜季を繋いでいたいくつかのモニターの音量を絞った。
「……いい、太陽くん。これから起こることは、奇跡なんかじゃない。あの子が、あなたに伝えたかった『答え』よ。しっかり見てあげなさい」
太陽は、亜季の枕元に歩み寄った。
眠っているような彼女の顔。あの日、ウルルの前で見せた、あの神々しいまでの微笑みはどこにもない。けれど、太陽には聞こえる気がした。彼女の魂が、最後のバーを越えようとして、一歩、一歩、助走のステップを踏む音が。
4. 1m75cmの向こう側
太陽は、震える手でカメラを取り出した。
レンズを通さず、自分の瞳に焼き付けなければならないことは分かっていた。けれど、カメラマンを夢見た自分にとって、これが彼女への、最初で最後の「告白」だった。
突然、心電図の波形が乱れ始めた。
アラームが鳴る。けれど、太陽は動かなかった。松本さんも、ただ静かに壁際で見守っている。
亜季の指先が、微かに動いた。
彼女のまぶたが、ゆっくりと、本当にゆっくりと開かれた。
そこには、昏睡状態にあるはずの人間の瞳とは思えない、強烈な、そして慈愛に満ちた「青」があった。
「……たい、……よ……」
声にはなっていなかった。ただ、唇が動いただけだ。
けれど、太陽には確かに聞こえた。
――ありがとう。
――私、もう跳べるよ。
次の瞬間、彼女の瞳から光が消えた。
モニターの線が水平になり、単調な電子音が部屋に響き渡る。
山本亜季。享年十七歳。
彼女は、生涯一度も越えられなかった1m75cmのバーを、今、この瞬間に越えていった。
重力のない場所へ。
悲しみも、痛みもない、どこまでも高く、蒼い空へ。
5. 【現在:落日と誓い】
「……それで、お姉さんは、お星様になったの?」
那覇の実家。
海の問いかけに、太陽は窓の外を見つめた。空には一番星が輝き始めている。
「そうだね。……でも、お星様になっただけじゃないよ。彼女は、今もパパの中に、そして、海の名前に……こうして、生きているんだ」
太陽は、海の小さな手を握り、立ち上がった。
アルバムを閉じ、埃を払う。
そこにあったのは、過去への執着ではなく、未来への約束だった。
「海、明日はあの岬へ行こう。……パパが、お姉さんと約束した場所へ。海に、見せたい景色があるんだ」
太陽の顔には、もう迷いはなかった。
悲しみは消えない。けれど、その悲しみを抱えたまま、自分もまた、次のバーを越えなければならない。
彼女が命をかけて教えてくれた、この世界の美しさを、今度は自分が息子に、そして写真を通して世界に伝えていくために。
沖縄の夜風が、潮の香りを運んでくる。
それは、あの日と変わらない、けれど新しく始まる「夏」の匂いだった。




