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『空の足跡、君の鼓動』  作者: 水前寺鯉太郎


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第6話:残照の季節(とき) ―― 命の最後の一秒まで

残照の季節とき ―― 命の最後の一秒まで

1. 奇跡の余白、そして暗転

 二〇一八年、晩秋。

 オーストラリアから帰国した太陽と亜季を待っていたのは、信じられないほど穏やかな日々だった。

 医学的な数値が改善したわけではない。けれど、赤い大地で「重力を脱ぎ捨てた」あの経験が、亜季の身体に不思議な「なぎ」をもたらしていた。

 亜季は再び、那覇の病院のいつもの病室に戻った。けれど、以前のように天井の染みを見つめて絶望することはもうなかった。彼女の枕元には、太陽が撮った「ウルルの朝焼け」の写真が飾られ、窓から差し込む沖縄の柔らかな光を反射していた。

「……ねえ、太陽くん。あの赤い砂の匂い、まだ鼻の奥に残ってる気がするよ」

 帰国してからの約一ヶ月、太陽は毎日病室に通った。

 二人は、まるで時間が無限にあるかのように、とりとめのない話をした。学校の誰が誰を好きだとか、次に体調が良くなったら今度は雪を見に行こうだとか。太陽は、自分が撮りためた写真のコンタクトシート(一覧)を亜季に見せ、彼女と一緒に「最高の一枚」を選ぶ時間を何よりも大切にした。

 それは、嵐の前の、あまりにも美しく静かな「余白」の時間だった。

 しかし、その日はとりわけ穏やかな午後だった。

 太陽は、亜季に頼まれていた新しい写真集を抱えて、病院の廊下を歩いていた。窓の外では、少し早めの寒緋桜が、狂い咲きのように数輪だけ花を咲かせていた。

「亜季、持ってきたよ。欲しがってた……」

 病室のドアを開けた瞬間、太陽の指先から、真新しい写真集が滑り落ちた。

 床に叩きつけられた乾いた音が、静まり返った部屋に響く。

 ベッドの上にいたのは、先ほどまで笑い合っていたはずの亜季ではなかった。

 彼女はシーツをかきむしり、全身を弓なりに反らせて、喘いでいた。

「……カハッ、……あ、……ぁ……っ」

 肺から空気を搾り出そうとする、悲鳴にも似た喘鳴ぜんめい。開かれた瞳は焦点を結ばず、ただ虚空を彷徨っている。酸素マスクの淵からは、どろりとした赤黒い血が溢れ出し、白いシーツを無惨に汚していた。

「亜季!! 亜季、しっかりしろ!!」

 太陽は叫び、ナースコールを連打した。

 瞬く間に、病室は喧騒に包まれた。駆けつけた医師たちの怒号、心電図の警告音、そして亜季を運び出すストレッチャーの車輪が立てる、あの嫌な金属音。

「眞栄田くん、下がって! ここからは立ち入り禁止だ!」

 松本さんに肩を強く押され、太陽は廊下へと弾き飛ばされた。

 閉ざされたドアの向こう側で、愛する人の命が、凄まじい速度で削り取られていく。

2. 魔法の正体

 集中治療室(ICU)の廊下は、死の匂いがした。

 太陽は、冷たいベンチに座り、血の気が引いた自分の手を見つめていた。一ヶ月の穏やかな日々。あれは、神様が最後にくれた「お別れの時間」だったのか。

「……眞栄田くん」

 どれほどの時間が経っただろうか。手術着のまま、疲れ切った顔の主治医が出てきた。

「……容体は?」

 太陽の声は、自分でも驚くほどかすれていた。

「……脳への転移に伴う、急性の出血だ。一命は取り留めた。だが……」

 医師は言葉を濁し、視線を床に落とした。

「意識が戻るかどうかは、分からない。仮に戻ったとしても、言葉を話したり、こちらを認識したりすることは、難しいかもしれない」

 夜中、誰もいないロビーで立ち尽くす太陽に、松本さんがコーヒーを差し出した。

「……あの子ね、分かってたのよ。自分がもう長く持たないって」

「……え?」

「オーストラリアから帰ってきた日、私に言ったの。『松本さん、私、もうすぐ電池が切れると思う。だから、太陽くんには内緒で、最後まで笑っていられる魔法をかけて』って」

 太陽は、コーヒーのカップを握りしめた。熱いはずなのに、感覚がなかった。

「……魔法?」

「ええ。痛み止めの量を限界まで増やして、無理にでも意識をはっきりさせてたのよ。あの一ヶ月、あの子はずっと、身体を焼かれるような痛みに耐えてたはず。眞栄田くん、あなたに、最高の思い出を残すためにね」

 太陽は、堪えきれずに嗚咽を漏らした。

 自分は、彼女を支えているつもりだった。けれど、本当は逆だった。

 死の淵に立たされた彼女が、残される自分を思い、最後の力を振り絞って「穏やかな時間」を演じてくれていたのだ。

3. 【現在:落日の中の目覚め】

 ふと、視界が暗くなっていることに気づいた。

 那覇の実家。開け放たれた窓からは、夕闇を運ぶ潮風が吹き込み、カーテンを重たげに揺らしている。

「……気がついたら、日が沈んでたか」

 膝の上で、海が小さな寝息を立てている。

 重い。

 かつてオーストラリアで抱き上げた、空気のように軽かった亜季の身体とは違う、生命力に満ちた五歳の「重み」。その重力が、太陽の心を「今」という時間へと繋ぎ止めている。

「海、もう夕方だぞ。長く喋りすぎたな……」

 太陽は、海の柔らかい髪をそっと撫でた。

 アルバムは、もう最後の一ページを残すのみとなっていた。

 

 第6話で語られた、あの日の激しい雨。

 意識の戻らない亜季の枕元で、太陽が何を決断し、彼女がどうやって「本当の空」へ跳んでいったのか。

 そして、なぜ今の自分が、カメラマンという夢を捨てずにいられるのか。

「パパ……?」

 海が薄目を開け、寝ぼけ眼で太陽を見上げた。

「……お姉さん、魔法が解けちゃったの?」

 太陽は、赤く染まった空を見つめながら、静かに答えた。

「……いいや。魔法は、今も続いてるんだよ。海、最後に……お姉さんが見せてくれた、本当の奇跡の話をしてあげよう」

 太陽は、最後の一ページに手をかけた。

 そこには、写真さえ撮ることができなかった、けれど、太陽の網膜に一生焼き付いている「光」の記録があった。

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