第5話:赤い大地の洗礼 ―― 重力を脱ぎ捨て
第5話:赤い大地の洗礼 ―― 重力を脱ぎ捨てる日
1. 高度一万メートルの静寂
二〇一八年、十月。那覇からシドニー、そしてオーストラリアの内陸部へと向かう小型機の中で、眞栄田太陽は一度も深く眠ることができなかった。
エンジンの低いうなりが鼓膜を揺らす中、太陽の全神経は、隣の座席で微睡む亜季へと注がれていた。彼女の胸が規則正しく上下しているか、その呼吸が不意に途絶えてしまわないか。太陽は暗い機内で何度も彼女の顔を覗き込み、生きている証を確かめ続けた。
機内の気圧変化は、亜季の脆くなった肺を確実に蝕んでいた。彼女は時折、胸をかきむしるような激しい咳を漏らした。太陽が慌てて「水を飲むか? 酸素は足りてるか?」と尋ねるたびに、彼女は青白い指で窓の外を指さし、力なく、けれど幸せそうに笑うのだった。
「……見て、太陽くん。星が、下にあるよ」
亜季が指さしたのは、真っ暗な大地にポツポツと灯る、街の光ではなかった。それは、空と地上の境界線が完全に消失し、自分たちが宇宙のただ中を浮遊しているかのような、完璧な静寂の世界だった。地上ではあれほど残酷に彼女を縛り付けていた「病」という名の重力が、この高度一万メートルでは少しだけ緩んでいるように見えた。彼女の瞳には、かつての競技場でバーを見据えていた時と同じ、一点の曇りもない透明な光が宿っていた。
2. 赤い砂と、乾いた風
翌日、二人が降り立ったのは、オーストラリアのほぼ中央に位置する小さな空港だった。
タラップを下りた瞬間、沖縄の湿った熱気とは対極にある、骨まで焼き尽くすような「乾燥」が二人を襲った。喉を刺すような熱い風と、地平線まで続く鮮血のような赤い土。
「……すごい。本当に、真っ赤だ」
亜季は太陽の肩を借り、震える足でゆっくりと地面に降り立った。
彼女の顔色は、那覇空港を出発した時よりもさらに透明度を増し、まるで光が透けてしまいそうだった。リハビリで鍛えたはずの脚は、生まれたての小鹿のようにガクガクと震えていたが、彼女は差し出された車椅子を毅然と拒んだ。自分の靴で、この太古の大地を踏みしめること。それが彼女にとっての、生きてここへ来たという証明だった。
「……あ、痛くない。太陽くん、重くないよ」
彼女はそう言って、一歩、また一歩と赤い砂の上を歩き出した。
もちろん、病が癒えたわけではない。ただ、あまりに広大で、あまりに乾いたこの大地が、彼女の身体から溢れ出す「痛み」さえも瞬時に吸い込み、蒸発させているかのようだった。
ロッジへと向かうタクシーの窓から、地平線の彼方にその巨大な影が現れた。
ウルル(エアーズロック)。
傾き始めた太陽を浴びて、それは血のような赤色に染まっていた。地球の臍。神様が置き忘れた心臓。
「……あそこへ、行きたい。あの一番、空に近いところへ」
亜季のその願いは、もはや「目標」ではなく、彼女の魂が還る場所を見つけた「確信」のように響いた。
3. 星降る夜の対話
その夜、ロッジのテラスで二人は並んで夜空を見上げた。
人工の光が一切ない砂漠の夜は、文字通り「降るような星空」だった。天の川がくっきりと白銀の帯を描き、南十字星が宝石のように胸元を飾る。
亜季は、太陽が持ってきた厚手のジャケットに身を包み、小さな声で話し始めた。
「……ねえ、太陽くん。私ね、ここに来て本当によかった。病院にいた時は、天井の染みしか見えなくて、自分がどんどん地面に埋まっていく気がしてた。でも、ここは違う。空がこんなに広くて、地面がこんなに温かい」
彼女は、自分の細い手を夜空にかざした。
「私、今なら、バーなんてなくても跳べる気がするよ。もっと高く、星まで届くくらい」
太陽は何も言わず、彼女の手を握りしめた。彼女の手は相変わらず冷たかったが、その指先は確かにドクドクと、命の拍動を伝えてきた。
自分は、彼女を救うことはできなかった。けれど、彼女が人生の最後に見る景色を、あの無機質な白い天井から、この「無限の青と赤」に塗り替えることだけはできた。それは、残酷な運命に対する、太陽なりの精一杯の抵抗だった。
4. 静かなる崩壊
しかし、夜が深まるにつれ、現実は再び牙を剥いた。
沖縄からここへ辿り着くまでに、亜季は全神経を使い果たしていたのだ。那覇空港で見せたあの奇跡のような立ち姿は、余命という名の蝋燭を根本から一気に燃やし尽くした結果得られた、最後の一瞬の閃光に過ぎなかった。
深夜、亜季は激しい悪寒に襲われた。
「……はぁ、……っ、太陽……くん」
ベッドに横たわる彼女の呼吸は、まるで砂漠の砂を肺に直接吸い込んでいるかのように、乾き、喘いでいた。太陽は震える手で、松本看護師から預かった緊急用の解熱剤と鎮痛剤を取り出した。
氷のように冷たくなった亜季の手を握る。かつてあれほどしなやかに空を舞っていた指先は、今や皮膚が透け、骨の節々が痛々しく浮き出ている。
「……ごめん、ね。……せっかく、来たのに。太陽くんに、迷惑ばっかり……」
「謝るな。今は、明日まで体力を残すことだけ考えろ。ウルルは逃げない。明日、一番綺麗な朝陽を一緒に見るんだろ」
太陽の声は、自分でも驚くほど低く、震えていた。彼女の容態は、もはや「小康状態」などという言葉で飾れるものではなかった。刻一刻と、彼女を縛り付ける死の引力が、その強度を増していく。内臓を蝕む病魔が、彼女の最後の体力を削り取り、地面へと引き摺り下ろそうとしていた。
5. 生きていることの証明
午前二時。亜季の熱はさらに上がった。意識が混濁し、彼女はうわ言のように「あ……、あと、三センチ……」と呟いた。それは、彼女が練習で何度も落としたバーの高さのことだろうか。あるいは、彼女の魂が空に届くまでに必要な、最後の距離のことだろうか。
太陽は、冷たいタオルで彼女の額を拭い続けた。
ここから一番近い病院まで、どれほどの距離がある? 救急車を呼ぶべきか? いや、彼女はそれを望んでいるのか? 葛藤する太陽の手を、亜季が不意に、驚くほど強く握り返した。
「……太陽、くん。……撮って」
「え……?」
「今。……この、格好悪い私を。……生きてる、私を」
太陽は息を呑んだ。「今の私は撮らないで」――そう言って、カメラを拒み続けてきた彼女が、死の淵で初めて自分を写せと言ったのだ。
「……嫌だ。俺は、笑ってる君を撮りたい。明日、ウルルの前で……」
「……今が、一番……生きてる。……痛いのも、苦しいのも、……私が、ここにいるって、ことだから。……お願い、太陽くん。……証拠を、残して」
太陽は、震える手でカメラを構えた。ファインダー越しに見る亜季は、酷く痩せこけ、死の影に覆われていた。けれど、その瞳だけは、暗闇の中で激しく、美しく燃えていた。
カシャ。
シャッター音が、静寂なロッジに響いた。
それは、本物を撮りたかった少年が、初めて「死」という剥き出しの真実を切り取り、受け入れた瞬間だった。
6. 暁の覚悟
夜明け前。
亜季の呼吸が、奇跡的に穏やかになった。薬が効いたのか、あるいはこの大地が彼女に最後の慈悲を与えたのか。彼女は薄く目を開け、窓の外の白み始めた空を見た。
「……行こう。太陽くん」
その声には、もう迷いはなかった。
太陽は、彼女を厚手の毛布で包み込み、ゆっくりと抱き上げた。
彼女の重さは、もはや十七歳の少女のものではなかった。まるで、空気を抱いているかのように軽い。それは、彼女の魂がすでに肉体という「重り」から解き放たれ始めていることを意味していた。
レンタカーを走らせ、ウルルの麓、サンライズ・ビューポイントへと向かう。車の振動が彼女の身体に障らないよう、太陽は極限まで慎重にハンドルを握った。助手席の亜季は窓を開け、太古の風を全身で浴びていた。
7. 【現在:親子の対話】
「……パパ、お姉さん、大丈夫だったの?」
現代の沖縄。実家の部屋で、海が太陽のシャツをぎゅっと掴んで聞いた。太陽は、海の小さな頭を胸に抱き寄せた。
「大丈夫だよ、海。……ここからは、お姉さんの時間なんだ。誰も、病気も、神様だって、お姉さんの邪魔はできないんだよ」
太陽は、アルバムの次のページをめくった。
そこには、朝陽を浴びて燃え上がるようなオレンジ色に輝くウルルと、その前に立つ、一人の少女のシルエットが写っていた。
彼女の命の灯火が、文字通り「爆発」するように輝いた、最後の一日の始まりだった。




