第4話:重力を振り切る翼
第4話:重力を振り切る翼
1. 廊下という名の「助走距離」
外出許可から一ヶ月。岬での「奇跡」を境に、亜季の病状は不思議な平穏を見せていた。しかし、それは決して「治癒」を意味するものではない。ただ、彼女の強い意志が、崩れゆく身体をギリギリのところで繋ぎ止めているに過ぎなかった。
病院の廊下。そこは今の彼女にとって、かつての競技場のトラックよりも過酷な場所だった。
「……あと、三メートル。……いけるよ、亜季」
太陽は、亜季の数歩先で、いつでも抱きとめられるように両手を広げながら声をかける。
亜季は、点滴スタンドを支えにしながら、一歩、また一歩と足を前に出す。サマードレスから覗く脚は、もう「アスリート」のそれではない。皮膚の下に骨の形が浮き出し、筋肉は見る影もなく削げ落ちている。一歩踏み出すたびに、彼女の膝は小刻みに震え、額からは大粒の汗が滴り落ちた。
「……はぁ……はぁ……、太陽、くん。……今、私……格好悪い、よね」
「格好悪くない。君は今、人生で一番高いバーに向かって助走してるんだ。顔を上げろ、亜季」
太陽の言葉に、亜季は薄い唇を噛み締め、顔を上げた。
リハビリは過酷だった。一日の大半をベッドの上で、天井の染みを見上げて過ごす生活に戻れば、少しは楽だったかもしれない。けれど、彼女はそれを拒んだ。オーストラリアの大地を、自分の足で踏みしめたい。その執念だけが、彼女を動かしていた。
松本看護師は、廊下の陰からその様子をじっと見守っていた。
時折、亜季が力尽きて膝をつきそうになると、松本さんは駆け寄りたい衝動を抑えるように、ナース服のポケットの中で拳を握りしめた。
「……あの二人、本当にバカね」
松本さんの呟きは、これ以上ないほどの親愛と、そして深い悲しみに満ちていた。
2. 那覇空港、見えない「重力」
そして迎えた、出発の日。
那覇空港のロビーは、観光客や帰省客の喧騒に満ちていた。色とりどりのかりゆしウェアを着た人々、お土産の袋を抱えた家族連れ。その日常の風景の中で、太陽と亜季だけが、どこか異質な、張り詰めた空気を纏っていた。
亜季は、松本さんが用意してくれた車椅子に座っていた。
リハビリで歩けるようになったとはいえ、空港の広いロビーを移動する体力は残っていない。彼女は、首に巻いたストールで、時折漏れる苦しげな咳を隠していた。
「……亜季、大丈夫か? 顔色が……」
太陽が車椅子を押す手を止め、彼女の顔を覗き込んだ。
亜季の肌は、数日前よりもさらに透き通るような白さを通り越し、土気色に近い青白さに変わっていた。松本さんが引いてくれたピンク色のリップも、今の彼女の顔色を隠すにはあまりに無力だった。
「……大丈夫。……ちょっと、人が多すぎて……酔っちゃっただけ」
彼女の声は、羽毛が地面に落ちる音よりも微かだった。
彼女の指先が、車椅子の肘掛けを白くなるまで握りしめている。それは、押し寄せる貧血と、身体の奥底から這い上がってくる「重力」の重みに耐えるための必死の抵抗だった。
太陽は、自分の心臓が凍りつくような感覚を覚えた。
このまま、彼女を飛行機に乗せていいのか。今ここで引き返せば、彼女の命は数週間、あるいは数ヶ月延びるかもしれない。自分は、彼女の希望を叶えるという名目で、彼女を死へと急がせているのではないか。
太陽の迷いを察したのか、亜季は震える手で、太陽のシャツの裾を掴んだ。
「……戻らないよ、太陽くん。……私、あそこ(病室)には、もう戻りたくない。……空の上なら、身体が……軽くなる気がするの」
彼女の瞳には、死への恐怖を塗りつぶすほどの、純粋な渇望が宿っていた。
太陽は、自分の唇を血が滲むほど噛み締め、再び車椅子を押し出した。
3. 出国審査の壁
出国審査の長い列。
空調の効いた室内のはずなのに、太陽の背中には冷たい汗が伝わっていた。
亜季の状態は、一刻を争うように見えた。彼女の呼吸は浅くなり、まぶたが時折重そうに閉じられる。太陽は彼女の耳元で、何度も「亜季、起きてろ」「もう少しだ」と囁き続けた。
ようやく自分たちの番が来たとき、審査官の男性が不審そうに亜季の顔を覗き込んだ。
「……山本さん、体調はよろしいですか?」
その問いに、太陽の心臓が止まりそうになる。ここで「ノー」と言われれば、すべては終わる。
その時だった。
亜季が、奇跡のような力で背筋を伸ばし、審査官に向かって真っ直ぐに微笑んだのだ。
「……はい。ずっと夢だった旅行なんです。……楽しみすぎて、昨日寝られなかっただけですから」
その笑顔は、かつて競技場でバーを越える直前に見せていた、あの強気で美しい亜季のものだった。
審査官は一瞬呆気に取られた後、小さく微笑んでパスポートにスタンプを押した。
「……お気をつけて。良い旅を」
ゲートを通り抜けた瞬間、亜季は糸が切れたように太陽の肩に崩れ落ちた。
「……やったね、太陽くん。……私、勝ったよ」
「ああ……。勝ったな、亜季。最高のジャンプだった」
太陽は、ぐったりとした彼女の身体を抱き寄せた。
彼女の体温は驚くほど低く、けれどその鼓動は、確かに「生」の証を刻んでいた。
搭乗口へと向かう窓の外、滑走路の向こうには、どこまでも続く蒼い海と、彼らを待つ巨大な翼が見えた。
これから向かうのは、高度一万メートルの空。
そこでは、地上のどんな重力も、彼らを縛り付けることはできないはずだった。
【現在:実家の部屋にて】
語り終えると、現在の太陽は、海の手をそっと自分の胸に当てた。
「パパ、お姉さん、大丈夫だったの? お顔、真っ白になっちゃったんでしょ?」
海の不安そうな声に、太陽は優しく首を振った。
「大丈夫だったよ。……お姉さんはね、世界で一番強い人だったんだ。どんなに身体が重くても、心だけは誰よりも高く跳んでたんだよ」
太陽は、アルバムの隅にある一枚の写真を指差した。
それは、飛行機の狭い座席で、窓の外に広がる雲海を見つめる亜季の横顔。
その瞳には、空港での苦しみが嘘だったかのような、澄み渡った希望の光が宿っていた。




