第3話:重力を超える声 ―― 1m75cmの空へ
第3話:重力を超える声 ―― 1m75cmの空へ
1. 天井という名の檻
病室の天井には、小さな染みが一つあった。
山本亜季はその染みの形を、一ミリ単位で記憶していた。
かつて一秒にも満たない滞空時間の中で、何百メートルも先の景色を捉えていた彼女の瞳は、今やわずか二メートル先の無機質なボードをなぞることしかできない。
二〇一八年、春。沖縄の風が湿り気を帯び、生命の息吹が島中に満ちる季節。だが、この白い立方体の部屋だけは、時間が澱んでいた。抗がん剤の副作用は容赦なく彼女の体力を奪い、あんなに高く跳んでいた脚は、今やシーツの重みさえ苦痛に感じるほどに細り果てていた。
「……ねえ、太陽くん。空って、どんな色をしてたっけ」
消え入りそうな声で、亜季が呟く。
眞栄田太陽は、彼女の横でリンゴの皮を剥く手を止めた。窓の外には、抜けるような沖縄の青空が広がっている。けれど、ベッドから動けない彼女にとって、その青はもはや別の惑星の出来事のように遠い。
「……青いよ。君がいつも、触ろうとしていた色だ」
「そう、だよね。……私、もう天井の色しか思い出せないや。ねえ、私の筋肉、どこにいっちゃったのかな。あんなに毎日練習したのに、神様は返してくれないんだね」
彼女が自嘲気味に笑い、ゆっくりと瞳を閉じた。その睫毛が微かに震えるのを見て、太陽は言葉を失う。励ましの言葉は喉に刺さり、吐き出せば彼女を傷つける毒に変わる気がした。
そのとき、部屋のドアが静かに開き、主治医とベテラン看護師の松本さんが入ってきた。
「山本さん。……外出許可を出そうと思う」
その言葉に、太陽の心臓が大きく跳ねた。「外出許可」――それは医学的な回復を意味するものではない。この病棟でその言葉が持つ本当の意味を、太陽は痛いほどに理解していた。それは、病院という「重力の檻」から彼女を解放するための、神様がくれた最後のロスタイムだ。
「……本当? 私、外に行けるの?」
「ああ。一日だけだ。……眞栄田くん、彼女をどこへ連れていきたい?」
主治医の問いに、太陽は迷わなかった。ポケットの中でずっと握りしめていた、あの数字が書かれたメモを思い出す。
「……岬へ。僕たちが、世界の中心だと言っていた、あの場所へ連れていきます」
2. 最後の「仕上げ」
外出当日。病室は朝から、どこか張り詰めた、けれど温かい空気に包まれていた。
太陽がドアをノックすると、中から松本さんが顔を出し、「ちょっと待っててね、今仕上げ中だから」と悪戯っぽく微笑んだ。数分後、招き入れられた部屋の中で、太陽は言葉を失った。
ベッドの縁に腰掛けていたのは、白いパジャマ姿の「患者」ではなかった。淡いサマードレスに身を包んだ、一人の美しい少女だった。
「……亜季?」
「どうかな、変じゃない?」
彼女の頭には、かつて二人で国際通りの雑貨屋で選んだ麦わら帽子が載せられていた。失われた髪を隠すためではない。それは、夏の光を迎えに行くための正装だった。松本さんは亜季の肩にそっと手を置き、鏡を持たせていた。
「見て、太陽くん。松本さんがね、おまじないしてくれたの」
亜季が少し照れくさそうに笑う。その唇には、普段の彼女なら決して選ばないような、柔らかなピンク色のリップが引かれていた。
「女の子が外に出るんですもの。病気なんかに、お洒落する権利まで奪わせちゃダメよ。そうでしょ?」
松本さんは太陽に頷き、亜季の細い手に自分の手を重ねた。
「山本さん、いい? 今日、あなたは『病人』じゃないわ。世界で一番わがままな、普通の女の子になりなさい。行きたいところに行って、好きな人の隣で思いっきり笑うのよ。それが、今のあなたにできる、最高のリハビリなんだから」
「……松本さん。私、怖かった。外に出て、みんなが私を『可哀想な子』として見るのが。でも、この色をつけてもらったら……なんだか、まだ跳べるような気がしてきた」
車椅子を拒み、太陽の腕をしっかりと掴んで立ち上がった亜季。床を踏みしめるその足取りは、ひどく危うかったけれど、その背筋はかつてバーを越える瞬間の誇り高さを取り戻していた。病室を出るとき、太陽は松本さんの瞳がわずかに潤んでいるのを見た。それは諦めではなく、輝きを最後まで燃やそうとする命への、最大級の敬意だった。
3. 潮風とタクシーの沈黙
病院のロータリーには、少し年季の入った黒塗りのタクシーが停まっていた。太陽は、壊れ物を扱うような手つきで、亜季を後部座席へと座らせた。運転手は白髪の混じった物静かな老人だった。彼はバックミラー越しに二人の様子を伺うと、何も聞かずに、ただ静かにアクセルを踏み込んだ。
タクシーが走り出すと、窓の外には、亜季が数ヶ月間失っていた「世界」が流れ込んできた。
「……あ、見て、太陽くん。あそこの弁当屋、まだやってる」
亜季が窓に額を押し当てるようにして外を見つめる。部活帰りに立ち寄った惣菜屋、練習の合間にサボって歩いた並木道。
「ねえ、太陽くん。私がいなくなっても、この街は何も変わらないんだね」
不意に落とされた言葉に、太陽は息を止めた。
「……変わるよ。少なくとも、俺の世界は全部変わる」
「ふふ、大げさだなあ。太陽くんは、ちゃんと大学に行って、かっこいいカメラマンになって、誰かと恋をして……普通に、おじいちゃんになっていくんだよ。それが、私の唯一のわがまま」
亜季は窓から視線を外し、自分の膝の上に置かれた太陽の手を覆った。彼女の手は驚くほど冷たかった。
「……忘れちゃうかな。私が空を跳んでたこと」
「忘れるわけないだろ。君がバーを越える瞬間、世界から重力が消えたんだ。あんな景色、一生に一度しか見られない」
「……嬉しい。……ねえ、あのときね、私、本当は太陽くんのことだけを見てたんだよ。助走を始める前に、一回だけ屋上を見るの。そこに太陽くんがいて、カメラを構えてるのが分かると……なんだか、自分じゃない誰かになれる気がした。君が撮ってくれるから、私はどこまでも高く跳べるんだって」
太陽は、喉の奥が熱くなるのを堪えた。完璧な一枚を求めて苦しんでいたあの時、彼女もまた、自分のファインダーを道標にして空を目指していたのだ。
4. 世界の中心、1m75cmの儀式
タクシーが岬に到着した。太陽は亜季を抱きかかえ、車を降りた。
切り立った断崖絶壁。眼下には怒涛のように押し寄せる東シナ海。かつて二人で自転車を漕いで辿り着いた、彼らにとっての「世界の中心」。
太陽は、車のトランクから自作の銀色の走り高跳びスタンドを取り出した。それを岬の先端、海と空が溶け合う場所に設置する。
「太陽くん……それ……」
「約束だろ。君が一番高い場所へ行くとき、俺が証明するって。……ほら、見てろ」
太陽は震える手でバーを載せた。高さは、一メートル七十五センチ。彼女が生涯一度も超えられなかった、けれど誰よりも愛した高さ。風に煽られ、バーが小さく震える。
「亜季。君は、今からここを越えるんだ」
「……うん。……私、跳ぶよ。太陽くんの目の中に」
その瞬間、強い突風が吹き抜けた。銀色のバーが、風に押されて、ゆっくりと宙に舞い上がった。それはまるで見えない誰かが、そのバーを華麗に飛び越えていったかのような軌道だった。
「……あ」
亜季が空を指差した。彼女の瞳には、重力を振り切り、光の中に溶けていく自分自身の姿が写っていたのかもしれない。太陽は首から下げたカメラを構えた。今度は迷わなかった。
カシャッ。
シャッター音を聞くと同時に、亜季は満足そうに太陽の胸の中に身体を預けた。
「……綺麗に、撮れた?」
「ああ。最高の一枚だ」
「……ありがとう、太陽くん。……私、やっと、空に触れた気がする……」




