第2話:ファインダー越しの重力
第2話:ファインダー越しの重力
結局、二つ目の焼きそばパンは袋に戻した。
喉が渇ききって、飲み込むことすらままならなかった。いや、それ以上に、さっき目の前で繰り広げられた「跳躍」があまりに鮮烈すぎて、日常の食事という行為が酷く味気ないものに感じられたのだ。
太陽はカメラをバッグに放り込むと、逃げるように屋上を後にした。
だが、階段を下りる足は、無意識に教室ではなく、グラウンドへと向かっていた。
一階の昇降口を出ると、熱気がアスファルトを突き抜けて足裏に伝わってくる。
セミの声が、耳の奥を掻きむしるように騒がしい。
十数メートル先、高跳びのマットがある砂場付近で、彼女――山本亜季は、スポーツボトルから水を飲んでいた。首筋を伝う水滴が、陽光を反射してダイヤモンドのように光る。
「……あ」
彼女が太陽に気づいた。
逃げようとしたが、もう遅かった。彼女はタオルで口元を拭うと、屈託のない笑顔で手を振ってきた。
「おーい、屋上の写真部くん!」
周囲にいた他の部員たちが、一斉に太陽を振り返る。太陽は肩をすくめ、仕方なく砂場の縁まで歩み寄った。近くで見ると、彼女の肌は小麦色に焼け、健康的な生命力に満ち溢れている。さっきまで宙を舞っていた人物と同じだとは信じられないほど、そこには確かな「質量」があった。
「……眞栄田、太陽。写真部」
「知ってるよ、有名だもん。いっつも屋上で、撮っては消して、撮っては消して……何だっけ? 『執念のデリーター』だっけ?」
「変なあだ名をつけるな」
太陽は不機嫌そうに顔を背けた。
亜季は「あはは!」と声を上げて笑うと、マットの端に腰を下ろし、隣をポンポンと叩いた。
「今の、撮ったんでしょ? 見せてよ」
「……消したよ」
「えっ、また? なんで? 今の、自分でも結構いい感じだったんだけどな」
亜季が心底残念そうに眉を八の字にする。太陽は足元の砂を無意識に靴先でいじりながら、ボソリと呟いた。
「……撮れなかったんだ。シャッターを切るのが、怖かった」
「怖かった?」
「君があまりに……重力がないみたいに跳ぶから。それを四角いフレームの中に閉じ込めてしまったら、何かが死んでしまう気がしたんだ。写真なんて、結局は嘘だ。本物の君の跳躍は、カメラの中には入らない」
一瞬、沈黙が流れた。
セミの声だけが、二人を包み込む。
馬鹿なことを言った、と太陽は後悔した。こんな理屈っぽい話、体育会系の彼女に伝わるはずがない。
だが、亜季は笑わなかった。
彼女は自分の細い脚を見つめ、少しだけ真剣な表情で言った。
「……嬉しいな。そんなふうに言ってくれた人、初めて」
「……え?」
「みんな、『凄かったね』とか『惜しかったね』とは言うけど……私の『自由』を見てくれたのは、眞栄田くんが初めてだよ」
彼女は立ち上がり、高くそびえるバーを見上げた。
「私ね、跳んでる時だけ、自分が誰でもなくなる気がするの。山本亜季でも、陸上部員でもなくて、ただの『風』になれる気がする。……でもね、いつか必ず地面に落ちる。重力からは、誰も逃げられないから」
彼女の横顔に、一瞬だけ翳りが差したのを太陽は見逃さなかった。
それは、後に彼女を襲う運命を予感させるような、儚い翳り。
「ねえ、眞栄田くん。約束して」
「約束?」
「いつか、私が本当に重力を忘れるくらい、最高のジャンプをした時……その時は、迷わずシャッターを切って。嘘でもいい、偽物でもいい。私が確かにそこにいたって、君のカメラで証明してほしいの」
太陽は、自分の胸の鼓動が早くなるのを感じた。
「本物」しか撮りたくなかった少年が、初めて「誰かのためにシャッターを切りたい」と思った瞬間だった。
「……わかった。君が一番高い場所へ行くまで、俺は消さずに待ってる」
それが、二人の始まりだった。
沖縄の、暑くて、青くて、どこまでも残酷な夏が、本格的に動き出した日。
語り終えると、部屋の中を吹き抜ける風が、少しだけ涼しくなったような気がした。
太陽は、アルバムの隅に残った小さな砂の粒を、愛おしむように指先で撫でた。
「……それが、パパと亜季さんの最初の約束。パパはね、その日から一度も『消去ボタン』を押せなくなったんだ」
海は、膝の上で組んでいた小さな手を解き、不思議そうに太陽の顔を覗き込んだ。
「パパ、いまはもう、お写真は消さないの?」
「そうだね。今はもう、失敗した写真も、ちょっとピンボケした写真も、全部が大事な宝物だって分かるから。……でも、それに気づくのに、パパはすごく長い時間がかかっちゃったんだ」
太陽の脳裏には、その後、何千枚、何万枚と撮り溜めた亜季の姿が浮かんでは消える。
笑っている顔。練習で泥だらけになった膝。アイスを欲張ってこぼした放課後。そして、少しずつ、少しずつ、顔色の悪くなっていく彼女の横顔。
海は、アルバムの中の亜季をもう一度見つめ、ぽつりと呟いた。
「亜季さん……空、さわれたのかな」
その純粋な問いかけに、太陽は胸の奥を細い針で刺されたような痛みを覚えた。
「……触れたと思うよ。誰よりも近くまで。でもね、海。空に近づきすぎると、神様がヤキモチを焼いちゃうのかもしれない」
太陽は視線を窓の外へ向けた。
そこには、あの夏と変わらない、抜けるような沖縄の青空が広がっている。けれど、その空の下に彼女はもういない。
「パパ」
「ん?」
「続き、お話しして。亜季さんは、どうなったの? お空に行っちゃったの?」
海の声は少しだけ不安げに揺れていた。子供ながらに、この物語の先に待っている「影」を察したのかもしれない。
太陽は海を抱き寄せ、その温もりを確かめるように力を込めた。
「……続きは、また明日にお話ししようか。今日はもう、おじいちゃんたちが帰ってくる時間だ」
太陽はそう言ってアルバムを閉じようとしたが、最後に一枚、ページの間に挟まっていた小さなメモ用紙が滑り落ちた。
そこには、震えるような筆跡で数字だけが記されていた。
『1m75cm』
それは彼女が生涯、公式戦で一度も超えることができなかった自己ベストの高さであり、太陽が今もなお、背負い続けている「重力」の正体だった。
「パパ?」
「……なんでもないよ。さあ、下に降りよう。美味しいサーターアンダギーがあるかもしれないぞ」
太陽は立ち上がり、海の手を引いた。
歩き出す太陽の背中に、開け放たれた窓から、どこか遠い競技場の砂の匂いが混じった風が、そっと触れた気がした。




