第1話:潮風のアーカイブ
「死は終わりではなく、誰かの記憶の中で生き続けるエネルギーになる」
「※本作には医学的な描写が含まれますが、あくまで物語上の演出であり、実在の症例、治療法、医療機関を推奨・否定するものではありません。専門的な判断については必ず医師の診察を仰いでください。」
第1話:潮風のアーカイブ
1. 帰郷、熱に浮かされて
那覇空港の自動ドアが開いた瞬間、ねっとりとした熱気が全身を包み込んだ。
肌にまとわりつく湿度は、東京のコンクリートが放つ不快な乾燥した熱とは明らかに違う。潮の香りと、熟れた果実が地面で腐ったような甘い匂い、そしてどこか懐かしい乾いた土の匂い。
眞栄田太陽は、重いキャリーケースを引く手を一度止め、眩しすぎる午後の光に目を細めた。サングラス越しでも、沖縄の太陽は容赦なく網膜を焼いてくる。
二〇二六年、夏。
二十六歳になった太陽にとって、沖縄はもはや「温かい故郷」ではなかった。それは、記憶の底に重石をつけて沈め、二度と浮き上がらないように放置してきた場所に近かった。
実家へと向かうモノレールの窓から見える景色は、記憶のパッチワークのように少しずつ塗り替えられている。かつての空き地には無機質なチェーン店が並び、米軍基地のフェンス沿いには新しい商業ビルが建ち並んでいた。けれど、遠くに見える東シナ海の、吸い込まれるようなコバルトブルーだけは、記憶の中にあるものと残酷なほど一致していた。その青を見るたびに、胸の奥を鋭利なナイフで撫でられるような痛みが走る。
「……ただいま」
実家のリビングに足を踏み入れると、しんと静まり返った空気が返ってきた。両親は共働きで、この時間はまだ戻らない。仏壇に供えられた線香の残り香が、鼻腔をかすめて過去の記憶を揺さぶる。
太陽は自分の部屋に向かう階段を一段上るごとに、足元から冷たい過去が這い上がってくるような錯覚を覚えた。
大学進学を機にこの島を逃げるように離れ、東京のIT企業でシステムエンジニアとして忙殺される日々を送ってきた。数字と締め切り、青白いモニターの光。その無機質な世界の中で、太陽は「感じること」を意図的に放棄してきた。喜怒哀楽を最小限に抑え、機械の一部として機能する。そうしなければ、この島に置いてきた「喪失」の重みに耐えきれず、自分という存在が壊れてしまうことを知っていたからだ。
2. 博物館の封印を解く
自室のドアを開けると、そこは時間が止まった博物館のようだった。
壁に貼られた色褪せた洋画のポスター、棚に並んだ受験時代の参考書、そして埃を被った一眼レフカメラのバッグ。太陽はそれらから目を背けるようにして、クローゼットの隅に置かれた、一箱の段ボールの前に膝をついた。
今回の帰省の目的は、荷物の整理だった。結婚して新しい家庭を築き、親となる。その「真っ当な人生」の続きを歩むためには、過去の遺物を処分しなければならない。
ガムテープを剥がすと、一番上に一冊の青い布張りのアルバムが鎮座していた。
表紙には砂が少しだけついていて、それを払うと指先にザラりとした感触が残る。それは、あの夏の競技場の砂の感触と全く同じだった。
意を決してページをめくる。
そこには、まばゆいばかりの「青」が閉じ込められていた。
高校二年生。
放課後の競技場。
西日に照らされたオレンジ色のトラックを背景に、一人の少女が宙を舞っている。
山本亜季。
彼女が背面跳びでバーを越える瞬間。
重力という鎖を引きちぎり、一瞬だけ「空に住む住人」になったような、その美しくも儚いシルエット。太陽は、その一瞬を切り取るために、何万回もシャッターを切った。
「……亜季」
名前を呼ぶと、肺の奥が焼けるように熱くなった。
アルバムの中に閉じ込められた彼女は、今も十七歳のまま、太陽に向かって悪戯っぽく笑いかけている。彼女の足元に、かつて自分が愛用していた陸上競技用のスパイクが転がっているのが見えた。
あの夏、僕たちは世界のすべてを知っているような顔をして、ただ高く、空だけを見上げていた。地面に落ちる瞬間の恐怖など、微塵も感じていなかった。
3. 海の問いかけ
アルバムをめくる指が震え、心臓の鼓動が耳の奥で早鐘を打つ。不意に視界が歪みそうになり、太陽はたまらずにぎゅっと目を閉じた。
閉じたまぶたの裏には、今も鮮明な残像がある。
砂場を蹴る音。跳躍の瞬間の静寂。しなるバーの銀色。
「……パパ?」
背後から届いた小さな声に、太陽は肩を跳ねさせた。
ゆっくりと目を開けると、開け放たれたドアの隙間から、五歳になる息子の海が顔を覗かせていた。海は、太陽のその強張った表情を不思議そうに見つめ、トコトコと部屋の中に入ってきた。
「パパ、泣いてるの? どこか痛いの?」
「……いや。少し、埃が目に入っただけだよ。大丈夫だ」
太陽は慌てて指先で目尻を拭い、海を安心させるように口角を上げた。
海は太陽の膝の横にちょこんと座り込んだ。子供特有の、陽だまりのような甘い匂い。その匂いが、太陽を辛うじて「現在」へと繋ぎ止める。
「それ、だあれ? パパの、お友達?」
海が指差したのは、セピア色に変わり始めた写真の中の少女だった。
タンクトップのユニフォームを着て、首からタオルを下げ、カメラに向かって眩しそうにピースサインを作る亜季。その隣で、まだ何の色もついていない真っさらな顔をした高校時代の太陽が、照れくさそうに笑っている。
太陽は一瞬、言葉に詰まった。
息子の母親ではない女性。かつて自分の魂の半分を預けていた女性のことを、どう伝えればいいのか。
けれど、海の真っ直ぐな瞳に見つめられていると、嘘をつくことは彼女を二度殺すような気がした。彼女が生きていた証を、自分の都合で塗りつぶしてはいけない。
「……そうだよ。パパの、とっても大切だったお友達。……ううん、恋人だった人だよ。パパが、世界で一番最初に大好きになった人」
「こいびと? ママじゃないの?」
「ママに出会う、ずっとずっと前のお話だよ。……この人は、山本亜季さんっていうんだ」
太陽はアルバムを膝に乗せ、海の小さな頭を撫でた。
外では蝉の声が一段と激しく降り注いでいる。あの頃と同じ、逃げ場のない、全てを焼き尽くすような夏の音。
「海、お話してほしい? パパがまだ、今の海よりもずっと大きくて、でも今よりずっと子供だった頃のこと」
「うん! ききたい! そのおねえさん、何してる人なの?」
海は目を輝かせ、パパの次の言葉を待つように膝を正した。
太陽は覚悟を決めるように深く息を吸い込み、記憶の深淵、十年前の青い夏へと意識を沈めていった。
4. 記憶の融解、あの夏の始まり
「……始まりは、この島がもっとずっと静かだった頃の、ある夏の日のことだったんだ」
太陽の声が、かつての少年のものに戻っていく。
語り始める言葉とともに、部屋の景色がゆっくりと熱を持って溶け、色彩を変えていく。
東京での無機質な生活も、今の父親としての自分も、遠い夢のように霧散していく。
目の前に広がるのは、ひび割れたアスファルトの熱気。
潮騒の音と、放課後のチャイムの余韻。
そして、オレンジ色のトラックの上に立つ、一人の少女。
「パパの高校にはね、空に一番近い場所へ跳ぼうとしている、不思議な女の子がいたんだよ。彼女はね、重力なんてないみたいに、ふわっと宙に浮かぶんだ。まるで、最初から空の住人だったみたいに」
太陽の意識は、二〇一六年の六月へと遡る。
写真部だった太陽が、部室の窓から偶然見かけた、一回の跳躍。
それが、彼の「世界の中心」が動き出した瞬間だった。
アルバムのページをめくる手が、止まった。
そこに写る亜季は、今にも写真から飛び出し、太陽の腕を掴んで「また写真を消したの?」と笑いかけてきそうだった。
太陽は、海の手を握りしめた。その温もりが、冷え切った過去の記憶をゆっくりと溶かしていく。
「……パパが彼女に出会って、そして彼女が空に帰るまでの、短くて、長いお話をしようか」
窓の外では、沖縄の真夏の空がどこまでも高く、蒼く広がっていた。
あの日と全く同じ空の下で、太陽は、封印していた愛の言葉を一つずつ、解き放ち始めた。




