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最後の夕暮れ

作者: 有栖川 幽蘭

その日、世界は、終わった。


何の前触れも、予兆もなかった。ただ、静かに、そして唐突に。


七月の午後の、うだるような暑さの中を、私は海岸沿いの松林を歩いていた。永遠に続くかのように思われた蝉時雨が、まるで、天上の誰かが、ふと、その蓄音機のスイッチを切ったかのように、ぷつり、と、一斉に鳴り止んだ。


それが、始まりの合図だった。


初めに、音が死んだ。今まで、私の意識を苛み続けていた、あの圧倒的なまでの生命の騒音が消え失せた後には、耳が痛くなるほどの、絶対的な無音が訪れた。風の音も、波の音も、遠い街のざわめきも、何も聞こえない。世界は、分厚い硝子の内側に、完全に閉じ込められてしまったかのようだった。


次に、光の色が変わった。西の空に傾きかけていた太陽は、その輝きを失い、まるで熟しすぎた果実が腐ってゆくように、病的なまでの、深い紫色と、黄疸のような黄色に、じわり、と滲んでいった。空は、もはや空ではなく、巨大な絵画の、書き割りのように見えた。


私は、松林を抜け、海辺に出た。


海もまた、死んでいた。凪いでいる、というのとは違う。それは、まるで溶かした鉛を、水平線の果てまで流し込んだかのような、重く、光を一切反射しない、平板な面であった。生命の気配が、どこにもない。


私は、その鉛の板と、紫色の空との、くっきりとした境界線を、ただ、呆然と見つめていた。


これが、終末か。


そう思った時、私の心に去来したのは、恐怖でも、絶望でもなかった。不思議なことに、それは、安堵に、極めて近い感情だった。


もう、何も書かなくていいのだ。言葉を、意味を、物語を、必死に紡ぎ出す必要はない。私の内なる空虚さを、これ以上、誰かに向かって叫ぶ必要もない。なぜなら、その言葉を受け取るべき世界の方が、先に、終わってしまったのだから。


すべての闘争は、終わった。すべての苦しみは、その意味を失った。


私は、波打ち際に、何かが打ち上げられているのに気がついた。近づいてみると、それは、子供が遊んでいたであろう、小さな木製の、玩具の船だった。帆は折れ、鮮やかであったろう塗装は、見る影もなく剥げ落ちている。


私は、その小さな難破船の隣に、砂浜の上に、ゆっくりと腰を下ろした。


この、静かで、美しく、そして完全に終わってしまった世界で、最後に残されたものは、この毀れた玩具と、それを眺めている、私という、空っぽの意識だけだった。


私は、この世界の、たった一人の、最後の観客になったのだ。


やがて、病んだ太陽が、鉛の海へと、音もなく沈んでいった。紫色の空は、更にその色を濃くし、やがて、星ひとつない、完全な闇が、すべてを覆い尽くした。


私は、その闇の中で、目を閉じた。


後に、何が来るのか。それは、私には分からない。もしかしたら、もう、何も来ないのかもしれない。


しかし、それで良かった。


私の心は、生まれて初めて、何の波風も立たない、湖面のような、完璧な静けさに満たされていた。

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