表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

夕方

作者: カズモリ

夕方の景色が嫌いだ。

 理由はわかっている。

 たぶん、それは、母が出ていった日のことを思い出すからだと思う。

 その時の出来事は、十五年経った今でも、はっきりと覚えている。

 疲れた顔をして、でもどことなく昂揚しているような顔で「美晴、ママ、買い物に行ってくる」と言った。

 買い物には似つかわしくない大きくて、真っ赤なスーツケースを側に置いており、指には見たこともない大きなダイヤが3つ並んでいる指輪がはめられていて、違和感を覚えている。

 嘘だよね? 本当はどこに行くの? と問いたかった。けれど、触れてはいけない雰囲気を纏っており、私は口をつぐみ、代わりにお気に入りの犬のぬいぐるみを抱えて「行ってらっしゃい」とぎこちない笑いを浮かべていたと思う。

 開けられた玄関の先には、紫色とオレンジが入り混じった空が垣間見えた。いつも見る夕焼けはきれいだとか、思っていたけれど、その時はただ、不穏でしかなかった。

オレンジを紫から黒色に染めていくそのコントラストが、これから起こる私の未来を予測する暗示のようで、たまらなく気味が悪かった。

 扉が閉められた瞬間、私の光は完全になくなった。ガラガラとスーツケースを転がす音が遠のいていき、ぬいぐるみをきつく抱きしめると、何日か前に洗濯した柔軟剤の匂いが鼻をくすぐった。

 そして、その会話を最後に母は帰ってこなかった。


 2日後、出張から帰宅した父が私を見つけるまで、私はどうやって生き延びたのか記憶にないが、冷蔵庫をあさって、トマトやキュウリを食べたり、買い置きしておいたパンを食べ、水道から水を飲んでいたらしい。

 本格的な夏になる前だったから、脱水にはならずに済んだのが救いだったらしいが、垢と汗にまみれ、それなりに臭ったらしい。

 夕方の空と、母が持っていた真っ赤なスーツケースを見ると、捨てられた日のあの光景が、勝手にフラッシュバックされる。

私は今でも母に囚われているのだ。


 大人になった私は看護師として勤務する傍ら、同じ病院の精神科のカウンセリングを月に一度受けに行っている。

 子供の頃の話を少しずつ思い出して、告げていく。

例えば、テーマパークに行って、風船をねだると、母はダメだ、と言ったけれど、父が母をなだめて買ってくれた。けれど、何かの拍子に風船を離してしまい、空に上がっていく風船を見ていると「やっぱり、この子は」とがっかりした母の声音がきこえてきたこと。

 何度やっても覚えられない平仮名に「はあ」と落胆をにじませた溜息、会話が一方通行だったから、そのうち母は私に「ふーん」しか返さなくなった。

 愛情を感じたときもあった。毎日食事の準備はしてくれていたし、洗濯物もかけてくれた。風呂にも入ったし、歯磨きの仕上げ磨きもしていた。

 私は、母にとって、育てにくい存在だった、だから捨てられたのだと理解する度に、かさぶたを自らひん剥いて、他人に傷を見せる度に心がすり減っていく。育てにくいから、捨てられても仕方がない存在。

これに何の価値があるのだろうか。

 もう二度と会うことのない人間に、今もなお、振り回されている。カウンセリングにも嫌気がさして、それでもやめられずにいる。

 病棟に戻り、担当患者のカルテを確認しようとナースステーションに戻ると、看護師長から声をかけられた。

「午後に他院から転院してくる十歳の男の子の肝腫瘍の切除があるから、後で声かけてくれる?」

「はい」

 そんなに気を付けないといけない患者なのだろうか。

 カルテを開きながら、担当患者に投薬指示が出ていないかを確認していると、目を疑う出来事が起きた。

 どうして?

「なぜ、鈴木琢磨くんが、退院なんですか? この退院指示って、どういうことですか?」

 カルテを閉じることなく、立ち去ろうとする師長に詰め寄る。

「あ……、わかった。今話そう」

 誰もいないロッカー室に場所を移し、興奮する私をなだめるように、彼女はソファに腰掛けるよう促した。

 最も、そんな行為で落ち着けるわけがない。

「琢磨くんはICUに転科予定だったのに、どうしてですか?」

 鈴木琢磨くんは小児がんの手術で先週手術を行ったのだが、手術後目を覚ましていない。

「琢磨くんは意識が戻りそうにないので、ご家族と相談して他院に転院となりました。それで、そのベッドを松島議員のご子息が使用します」

「あなたがそうさせたの?」

「違います」

「都合がよすぎます」

「意識が戻る見込みがない患者の転院は良くある話でしょう?」

「議員の子供が入院してくるから、望み薄な子供を追い出すなんて、卑怯じゃないですか」

 師長は、話にならない、という雰囲気を醸し出して息を吐く。

「あなたはもう少し冷静になるべきだわ」

「私が母に捨てられた過去と今回のことは関係ないです」

 触れてほしくないところを土足で踏み入れられて、今日はくたくただった。だから、つい反抗的な態度をとってしまった。

 人の為になる仕事がしたいと願い、この仕事に就いた。けれど、こういう社会的に立場が強いものに迎合する機会を時折見ると、この仕事って何なのだろうか、と思う。

 どうすることもできないのに、力もないのに、ただ落としどころのない気持ちが宙をさまよう。

私は控室を後にして、業務に戻ることにした。あと数日で退院する琢磨くんのお世話を笑顔でしたい。せめてそれだけはやり遂げたい。

 琢磨くんの病室に行くと、ぬいぐるみやトミカでいっぱいだったベッドは片づけられ、キャラクターのポスターははがされていた。

 そして、琢磨くんもいない。

「琢磨くんはすでに退院したの?」

 師長の声が後ろから聞こえてきた。

「いつですか?」

「あなたが、上に行っているとき」

「カルテには記載が退院指示だけでした」

「まだ、書いてなかったの」

 ワザとだろう。

 一番口うるさく反抗しそうな私が席を外している間に、敢えてそうしたのだ。

 琢磨くんのいた病室はカラフルから白色の壁ばかりが目に入る。外界とつながる1つしかない窓には、青空と新緑の葉が良く見えた。


 琢磨くんの代わりにきた子は『松島玲央』くん、10歳。

「今日からお世話になります。よろしくお願いします」

いいところのお坊ちゃん、と言った風情で、挨拶もできて敬語も使って、実に礼儀正しい。

 玲央くんのご両親は入院手続きに来ておらず、お手伝いさんが対応していた。

 お手伝いさんはナースステーションに挨拶をすると、テキパキと荷物を広げ、棚にパジャマを詰め、麦茶を冷蔵庫に閉まっていく。

「坊ちゃま、澪はお暇しますが、奥様が来るまでおひとりで大丈夫でしょうか?」

「澪さん、心配しすぎだよ。前の病院だった一人でいられましたから、大丈夫ですよ」

 色白の肌に、入院生活で浮腫んだ顔。少しだけ歯を見せて作り笑いをしている。

 澪さんが病室を後にすると、作り笑いをやめて、新しい病室をキョロキョロと見渡している姿が少し空いた扉から見えた。

検温確認があるので、軽くノックをした後、私が入ると、玲央くんはキョロキョロするのをやめて、あの作り笑いを張り付けている。

 慣れた手つきで自ら腕をめくり、血圧を取らせてくれた。

「僕の前にここにいた子は、どんな子でしたか?」

「え?」

「転院するとき、この病院には空きがないって言っていたのに、2日後には入れたから」

 体温計を胸ポケットから、玲央くんに渡す。触れた指先が少し冷たかった。

「どうだったかな」

「はぐらかさないで」

 私は首を横に振る。

「意識がなかったから」

 玲央くんは体温計をわきの下に入れて、窓の向こうを見つめた。

「死んじゃったの?」

「違う」

 ピピピと音が鳴り、体温計を取り出し、私に手渡した。

「なら、悪いことをしたな。僕が入ったから、追い出された」

 体温をノートにメモし、胸ポケットに体温計を戻す。玲央くんの症状を探ろうにも、彼の横顔しか見れなかった。

「いつもそうなんですよ。お父さんもお母さんも【僕のため】と言って、周りが言えていないんです。でも、少し考えればわかるのに」

「過保護にされるのは嫌?」

 玲央くんは首を振る。

「わからない。でも、僕がいなかったら、助かるかもしれない人を、蹴落として、今の自分がいるのは……辛いです」

 玲央くんは天井を見上げて「はあ」と涙がこぼれないように、息を吐いた。

「くんのせいじゃないよ」

 そう言って、この場を離れる。私だって、同じことを思ったのだから、玲央くんを慰めるのは違うような気がしていたたまれなかった。

ナースステーションに戻り、先ほどの記録をカルテに打ちこんでいると、「すみません」と声が聞こえたので、キョロキョロと周囲を見渡すが、どうやら、今は私しかいないらしい。

 仕方ない、応対するか、と席を立ち、声をかけられた先を見ると、ブランドもののネックレスに大きなダイヤのイヤリングをしている女性がいた。

 見慣れない顔と風貌に玲央くんの母だろう、と察しがついた。

「お仕事中にすみません。松島玲央の病室はどこかご存じですか?」

 病院に来るには分不相応の姿をしているご婦人だから、最近見てなんかいない。なのに、なぜか、どこかで聞いたことがあるような気がする。

「わたし、玲央くんの担当看護師ですので、ご案内します」

「ありがとう」

 その笑った顔も、見覚えがあるような気がして、でも記憶を深く探るようなことはしたくない。触れてはいけないような、そんな気分がある。

 ナースステーションから出ると、ご婦人は左手には大きなダイヤが3つ施されたリングの上に、ゴールドのリングが重ねられており、その手はブランド物のハンドバックと有名パティシエのロゴマークのついた紙袋を握っていた。

 あ。

 声、表情、そして指輪。そうか……。

 ご婦人と歩いている玲央くんの病室に向かう廊下が、とても長く感じたのは、私の旨の銅鑼が警告音のようにうるさくなっていたからだと思う。

「玲央、大丈夫だった?」

「ママ、うん」

 玲央くんは安心したのか、今までのようなぎこちない笑顔ではない。

 ご婦人はテーブルにハンドバックと紙袋を置き、玲央くんを抱きしめた。愛しているように、宝物のように、いつもしている動作のように、ごく自然に。

 ご婦人は思い出したように、玲央くんから離れると、テーブルの上に置いた紙袋を、指輪のついた右手でつかむと、私の前に差し出した。

「つまらないものですが、皆さんで、どうぞ」

 幸せそうな表情。いや、子供が死にかけているのだ。幸せなはずはない。

 けれど、あの時より、幸せそうだ。

「ありがとうございます」

 作り笑いをした。

 今は、隠してくれていたあの犬のぬいぐるみは、ない。

 忘れることなんてできない。あの夕日を反射したダイヤの指輪。お父さんの給料じゃ絶対に買うことができないあの指輪は、ずっとずっと、覚えている。

 ご婦人から紙袋を受け取ると、彼女は満足したようだった。

「あの、お名前は?」

「美晴。久野美晴です、お母さん」

 目の前の女は目を見開き、固まった。

 1パーセントくらいは、違うのではないか、と思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。

 彼女の後ろにあるこの部屋の唯一の窓は、オレンジから紫、そして漆黒へと色を変えようとしている。


 ああ、やっぱり、夕方は嫌いだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ