回顧 六、
夏休みの思い出。
気づくきっかけはたくさんあったのだ。
ぴかぴかの新入生のはずなのに、妙に学校に詳しくて。
一部の教師に丁寧に対等に扱われ、それを受け入れているように見えて。
勉強に不自由してないのに、目立ちたくないとでもいうようにテスト順位は真ん中をキープしていて。
たまに彼の存在を忘れてる同級生がいたり、かと思えば人の輪に交じって笑ってたり。
購買で入手困難な数量限定のパンをシレッと食べてることもあれば、生徒は買えない教員メニューを食堂で堂々食べてたり。
些細で小さな違和感は、ほかにもまあいろいろ。
でも、そのどれをも朝葉はスルーしてきた。
聞いてほしくなさそうだなとか、みんな流しているからそういうもんかとか、これは口にしない方がいいやつとか、相手を慮っての気遣いもあった。が、一番の理由は、朝葉にそこまでの余力がなかったので。
なんか変だな? を突き詰めるには、好奇心という心の余裕と時間がいる。当時の朝葉には到底作りだせない余裕だった。
後々、勉強に関係ない雑談も交わせるころには、もう森雪の存在は『そういうもの』として認識されていた。朝葉の悪癖『流されやすい』が仕事をして、些細な違和感は感じても流してしまっていた。
ここで何かしらをぶっ込んで、森雪と疎遠になって、成人式の一夜を明かさなければ、三途の川原で立ち往生するはめにはならなかったのだろうか。意味のない自問自答がよぎっては通り過ぎていく。
学生時代、森雪の手助けがなければ早々に留年か退学になっていただろうし、成人式のあれは、飲み慣れない酒に呑まれて楽観的になってしまった朝葉の自業自得でもある。
起こってしまったことは変えられない。死んでしまった朝葉が生き返らないように。
行為をするしないの選択権は朝葉にもあった。だから、自らが選んだ行動の結果を、嫌な感情で終わらせたくない。
それだけではなかったと、思い出したので。
○ ○ ○
始まった中一の夏休み。
朝葉は『基礎を鍛える』という森雪の本気を見た。
基礎学習(小学校のドリル)、一学期の復習、夏休みの宿題。同時並行でまんべんなくこなし、特に夏休みの宿題は新学期の一週間前にはすべて終わっているという、小学生の頃の朝葉がきいたらウソだ! と天に向かって吠えること間違いなしの余裕進行だった。
授業がない夏休み中に一日の時間配分を整えることも挑戦した。自宅での学習時間と内容のリズムも体が覚えて、余裕をもって机に向かう朝葉の姿に感動した父親が泣き出すという一幕があったりした。朝葉は大変複雑な思いが湧いた。
全生徒所属が原則の部活動で、名ばかり幽霊部員と化していたテニス部に初めて顔を出すことができ、先輩同輩から「よかったねぇ」とこねくりまわされる場面もあった。
女子硬式テニス部は、ひと昔前と違いのんびりゆるやかが活動方針で、部員も穏やかな人が多かった。入学からこっちの思いつめようを心配され、気分転換になるならいつでもおいでねと温かく迎えられ、見守られていたのだなぁとじんわりホンワカ胸を温めた。
なお、初めて同輩同性の友人ができて涙ぐむなどもした。脱、ぼっち。万歳。朝葉の部内での立ち位置は、ここでも手のかかる末っ子である。
なかなかスパルタな森雪の学習指導だったが、ただただ勉強だけに没頭するだけではなかった。
森雪は休憩時間に積極的に体を動かすことを推奨した。
ただ動かすのではない。暗記と絡めたり、校内を散歩をしながら教科書内容の復習や、雑談をするだけのこともあった。ここで森雪との会話はだいぶん気安くなった。
校舎の階段と廊下を盛大に使った英単語スペルチェックグリコは、夏期講習に参加していた各学年生徒が休み時間にぞろぞろ加わって、朝葉はここで学年を問わない知り合いができたりもした。
講習がはかばかしくないゾンビのような三年生に、高校進学の際のからくりを聞き「話が違う」と心の中で母に叫んだりするなどした。脳裏の母は高らかにブイサインを掲げていた。一生勝てない。
学期中より在学生と関わりながら、朝葉は手ごたえを感じた。
小学校の勉強の基礎の基礎からやり直し、コツコツ積み上げ、生活を整え、カタツムリの行進ながら成果が出始めた。なにより、何がわからないのかもわからない状態だった朝葉に根気よく付き合ってくれ、見守ってくれる森雪の存在は、彼女が思う以上に精神的な安定をもたらした。
もともと楽観的な気のある朝葉である。精神が落ち着けば余裕も出る。そのため、一学期中涙に暮れて暗い顔をしていたのが嘘のように、夏のお日様のようなぺかぺかの状態で休暇を過ごすことができた。本来の姿を取り戻すことができたともいう。
それもこれも森雪のおかげだなぁと、あのとき第四閲覧室をのぞいてくれた彼に感謝の念が湧くのは当然のことだった。
ヒグラシが聞こえ始めた夏休み終了間際。仕上げと復習を兼ねた一学期中間期末テストのやり直しの答え合わせをしてくれている森雪の手は止まらない。夏休みに入る前に比べて、丸が多いような気がしないでもない。
朝葉がドキドキしながら待てをしていると、赤ペンが止まる。暗算も早い森雪はさらさらと各教科の点数を書きこんで、深々息を吐いた。朝葉の緊張はピークに達した。
「おめでとう。中間期末、全教科赤点越えだよ」
詰めていた息を吐き切るようなため息がもれた。返された答案を見れば、最低点は四十点台で、最高点は驚きの七十点台だった。最初のテストで一桁だったことを思えば、大躍進である。
「ケアレスミスも計算ミスも格段に減ったね。問題文をよく読んで何を求められているのか察するのもできてきている。まぁこのテスト問題三回目だから、そろそろ結果は出るかと思っていたけど」
よく頑張ったね。
吐いた息を吸うときに変なところに入ったのだろう。朝葉の喉から嗚咽が漏れる。
今回のテストはちょっと違ったのだ。なにせ初回、徒手で暴漢に挑むような気持ちでかかり大ダメージを受けた問題が、今回の解答ははっきり理解が追い付いたので。
わからない問題はわからなかったが、問題を見て『何がわからないのかわからない』から『何がわからないのかわかる』ようになったのは、朝葉にとって目の前にかかっていた分厚いカーテンが開けていく心地だった。そしてそれは点数という形で成果となって表れた。
悲しい涙ではなかった。達成感とも違う。これからもこの学園でやっていけるかもしれないという希望が持てた安堵が大きい。家族の心配に報いることができそうな安堵。自分が捨てたものではないという安堵。森雪に結果を返せた安堵。二学期からの授業に対する一抹の不安。
諸々がぐわっと高ぶっての涙はポロリポロリと落ちてすぐに乾いた。
「森雪君、この夏休み、本当にありがとうございました。ほぼ毎日来てくれて、ほんとにほんとに助かった……」
「おまえも暑い中よく毎日通ったよ」
「おかげさまでぇ、へへへ」
「新学期はまた放課後だけになるけど、せっかく掴んだ勉強のペースとリズムを乱さないように」
「へぇ?」
森雪のねぎらいに締まりのない笑みを浮かべた朝葉は、淡々と続いた言葉に疑問符を浮かべた。
「しんがっき? これで終わりでなく?」
「そう。まさか水山さん、これで勉強ついていけるなんておめでたい頭で考えていたわけじゃないでしょう?」
考えてた。お気楽に二学期からの自分は最強! なんて思ってた。
うろ~と視線をさまよわせる朝葉に呆れたようなため息を吐き、森雪はあのね、と向き直る。
「前にも言ったけど、蓄積と、定着と、習熟。あと加えるなら継続が大事なんだよ。ほんの二、三カ月で習慣が身につくと思う? 継続できる?」
「できませんおもいません……」
「一年生が終わるまでは、最低でも面倒見る気でいたよ。その覚悟でおまえの勉強見るって決めてたから」
決めてたらしい。思っていた以上に重く責任感を持ってつきあってくれていたらしい森雪に、朝葉は己の浅薄さと楽観をちょっぴり恥じた。そこまで考えてなかったので。
「だからまぁ、二学期もよろしく」
ひと夏を朝葉の勉強に付き合ってくれた彼は、そう続けて静かに笑った。
実際、二学期から本格的に進行が早くなった授業にふたたびあっという間に置いてきぼりにされた朝葉は、またしてもえぐえぐ泣きながら森雪に助けを求めることになり。
学年が変わりクラスが変わり高校に上がっても、卒業して学園を巣立つまで、結局この関係は変わらなかった。
次の更新は12月25日を予定しています。