回顧 三、
短いですが、サラッとどうぞ。
放課後の職員室は人気もまばらだった。
部活動が盛んな学園なので、顧問として精力的に活動する教員も多くいる。完全下校まで余裕のある放課後の職員室は、閑散としてまったりとした空気が流れていたものだった。
コーヒーが焦げた香ばしい匂いと紙とインクのにおいが染みついている職員室が、朝葉は嫌いではない。嫌いではないが、ドキドキする。何も悪いことをしてないはずなのに、なんだか悪いことをした気分になる。
換気のためか解放されていた出入口を、ノックもなしに通った森雪は、くるりと職員室を見渡し、ぴたりと視線を止めてそちらに向かう。
わけもわからず手を引かれてとことこついていった朝葉は、奥まった一角に教頭と、学年主任と、担任がコーヒー片手に談笑しているのが見えてハッと身が固まるのがわかった。ちょっとまって。
「先生」
声をかけられた教員三名は振り返る。そりゃそう。その呼びかけでは全員振り向く。内心白目をむきながら突っ込む朝葉。ぼんやりここまでついてきてしまったけど、連れてこられた意味を分かっていないので。
はつ、と瞬いた教頭が森雪を見、つながれている手を見、ぽけらとされるがままの朝葉を見。
「森雪君、楽しそうなことをしてますね。水山さんも。どういたしました?」
口元に手を添えて上品に笑む教頭だが、入学間もない一生徒の名前を把握しているという。
進学校の教頭先生ってみんなこんな風なのか……と朝葉の頭の中で熱い風評が渦巻く隣で、森雪はつないだ手の反対に持った朝葉の解きかけのプリント束を先生方に差し出した。
「こいつ、本当に最初っからやり直した方がいいよ」
謎のセリフと一緒に。担任と学年主任は面食らい、教頭はプリントを受け取り目を細めてパラ見し、ふぅん、と鼻でうなづいた。
「それは君の判断?」
「何がわかってないのかもわかってない状態なんだ。新しい知識より、わからないを探った方が早い」
教頭から流されたプリントに目を通す担任と学年主任は思案気に眉根を寄せて、森雪の言葉を沈思する。
教師三人、視線で会話し、ひとつうなづき、代表して教頭が口を開いた。
「よろしい。ならば、君が面倒を見なさい」
「は?」
「そこまで水山さんをよくご覧になっているのなら、君が適任でしょう。サポートして差し上げては?」
「なん、」
「君ならあの部屋の使い方も心得たものですし。私共もね、お話ししていたのですよ。どうしたら水山さんが不自由なく勉学についてこられるようになるか」
「ウッ……」
にこー! と太陽があたりを照らすような笑顔で立て板に水のごとく流れる教頭の言葉に、眉をひそめ口を挟めない森雪。教師に真正面から「勉強ついてけてないよね?」と問われ言葉に詰まる朝葉。
「期間はまず二週間にしましょう。ちょうど期末テストの準備期間に入る直前だ。そこで中間報告ということで」
「……やるとは、」
「おや? 君が、わざわざ、私共に、お知らせに来て下さったのに?」
「…………二週間は短くない?」
「最初から諦めるんじゃありませんよ。それとも、そこまでで形にならなければ投げ出すおつもりで?」
森雪はたっぷり十秒黙考し、大きく息をついた。
「僕がやります」
あきらめのにじんだ若い声に、教頭はにっこり笑い、担任と学年主任は困ったように追従した。
「というわけだから」
「うん?」
目の前のまあるい頭が考え込むたびに右に左に揺れるのを、腕をつながれたまま一歩後ろでぽけっと眺めていた朝葉は、とっさにその言葉を理解できなかった。ちゃんと話を聞きなさい。
「僕がおまえの勉強見るから」
「うんん???」
頭の上をポンポン飛び交う会話が自分を指してのものだと、ここにきてようやく気が付き。
裁可は下ったという雰囲気に、朝葉はそっと空気を読んで唇をしまった。
「それでどうして森雪君が教えてくれることになる?」
再び、第四閲覧室。
引きずられるまま職員室に行って帰ってきた教室は、そろそろ夕方の気配を宿している。
四階分の階段をのぼっている間にようやく思考が追い付いた。
つまるところ、この同級生は自分に勉強を教えてくれるらしい。先生公認で。なんでぇ?
「………………僕が君を見つけてしまったから?」
まあるい頭をかしげる森雪の眉間にはうっすらしわが寄っていて、それだけでもう朝葉も申し訳ない気分になってしまう。
「あの親切で私を押し付けられるの、かわいそうが過ぎないです?」
「それは、まぁ、そう」
「私にとっちゃ、そりゃぁありがたい話だけど、断ってくれていいんだよ? 私バカだし、絶対時間とるし、森雪君に迷惑かけられない……」
「それは教頭に負けたみたいで嫌」
「負けず嫌いか」
あの数分に何があったというのか。森雪と教頭先生に教師生徒の枠を超えた雰囲気を感じたのだけど、他の教師は違和がないようなのが不思議だった。でも微妙に突っ込んでほしくなさそうなので、朝葉は流すことにした。正味それどころではないので。
「先にくちばし突っ込んだのは僕だし、乗り掛かった舟だ。水山さんさえよければとりあえず、まぁ、やってみよう」
人様のご厚意に乗っかっている以上、朝葉に拒否権なんてないのである。