回顧 一、
おもいかえしてみれば、酒宴の片隅で一人酒を愉しむ彼に話しかける人は自分以外居なかった。
家族が不安になるほど流されやすい子。
水山朝葉は、自分が処女を散らした日のことを覚えている。年は二十歳、成人式のその日だった。
まあ浮かれた話で、成人式の後の同窓会で、ハメを外した結果である。流されたともいう。
あいにく酒は残るが記憶は飛ばないタチで、だから、一から十まで全部覚えていた。控えめに言って頭を抱えた。
実際には、二日酔いの吐き気とめまいと、全身の痛みと気怠さと、羞恥心とほんの少しの後悔と後ろめたさとうらめしさに体も心もめった刺しにされて、事後の形跡の残りまくるベッドの上で奇声をあげながらのたうち回った。凍える寒さの冬の朝。一人暮らしの自分以外誰もいない部屋。つまりはそういうことである。
それはいいとして、相手は中高の同窓生で、知らぬ仲ではなかった。なかったものだから、まあ、困った。
お相手の名を森雪蒼也という。中学の一年時と、高校の二年時に同級生だった。
さらりと癖のない黒い髪の、どこにでもいそうな男の子だった。中肉中背で、周囲に埋もれそうな容姿をしていた。おとなしやかで物静かそうに見えて、年相応にはしゃいでクラスメイトの男子と馬鹿笑いしている姿もまま見かけた。
十人中五人は普通じゃない? と答え、残り五人はよく知らないと答えるような、とても一夜のアバンチュール()をするタイプとは思えない、そんな平凡な男の子だったと朝葉は記憶している。人は見かけによらない。
特別彼と仲が良かったわけではない。学生時代、プライベートな時間を共にしたことはないし、学校以外で顔を合わせたこともない。六年も同じ学び舎にいて、そのうち二年は同級だったので、会えばあいさつも会話もする。その程度。
その程度の仲だったのだけど、彼のことは卒業後もフルネームで覚えていた。
というのも、彼には中高の学生生活で、度々世話になっていたから。
特別仲良くないのに世話になったという、朝葉の一見矛盾した認識は、『面倒をかけた』という申し訳なさが下地にある。なにせ、彼は賢かったので。朝葉よりずぅっと、賢くて、面倒見がとにかくよかったので。
中高六年間、朝葉は森雪に勉強の面倒を見てもらっていたのだ。彼がいなければ、進級もままならなかったほどに。
お世話になった教師を恩師と呼ぶなら、彼はまさしく『恩人』だった。人間じゃなかったみたいだけど。
朝葉が自分の学力レベルでは厳しい私立の中高一貫校に通うことになったのは、ひとえに家族の願いだった。
都心にしては緑豊かなその学園を、「中高一貫なら高校受験がないし楽よ」と母親におすすめされた。
いささか考え足らずだった小学生の朝葉はこの時、進路に悩まなくていいならお得だな、なんて軽い気持ちで中学受験の渦中に身を投じた。
よくよく考えずとも高校受験より大学受験のほうが単純に難しいし、「ここならいいよ」と一校だけ提示された一貫校に大学は併設されてない。受験してまで入る学校なのだから、当然のこと入学試験はある。受験すると決めてからすぐさまほうり込まれた塾で知ったことだが、志望校はなかなか狭き門だった。
ダメならだめでいいや、地元に通お、と受験するのが一校だけなのをよいことに舐めくさった朝葉にカツを入れ続けたのは受験を教唆した母親で、中途半端を許さなかった。家庭内最高権力者は母である。一度承諾した朝葉に、拒否権はなかった。
そもそも母親が朝葉に中学受験を勧めたのは、小学校中学年ごろから垣間見えはじめた、朝葉の流されやすさにあった。
例えば。
朝葉の家では、遊びに行くにも習い事に行くにも、必ず一度学校から帰宅するというルールがあった。行先と帰宅予定時間を告げる、もしく書き置きしてから出かけるという、親子間では真っ当なしつけであり言いつけであった。
しかし朝葉は、下校途中に誘われればそのままに遊びに出て、夕飯時に帰るということもざらなありさま。誘われるままその場で決めて、行き先を告げないで出かけることも多かったし、テレビに夢中になって宿題を忘れることも、明日の準備を怠ることも日常茶飯事。ゲームに集中して言われていたお手伝いをすっぽかすなんていうこともしょっちゅうだった。
してはいけないと言われていたことでも、周囲がしていたら一緒になってしてしまう。
人に誘われれば、よくよく考えないままついていってしまう。
楽しいことがあると、しなければならないことや決まりやルールがポーンと頭からすっ飛んでってしまう。
こんなにふらふら流されやすくて、悪い人に付け込まれないだろうか。
そのうちこの子は、とんでもない痛い目を見るんじゃないか。
それまで割と大らかな子育てをしていた母は、不安になった。
お兄ちゃんお姉ちゃんはこんなことなかったのに……末っ子だからと放置しすぎたツケがここに来たのかしらん、でもでも長女も長男も、ちょっとしっかり過ぎるくらいなもので、朝葉が子どもらしすぎる? でもお母さん、朝葉みんなしてるからってそのうち万引きでもやっちゃいそう……姉ちゃんの危惧に同意云々云々……。朝葉の悪癖は、家族全員の頭を悩ませた。
そうして末っ子抜きの家族会議が踊り狂って行き着いた末が、中学受験だった。
中学校は学区も広がり、まさに玉石混交の無法地帯になる。地元中学の素行は近年、悲しいことに芳しい話を聞かない。そんなところに流されやすい朝葉をやったら、どうなるかなんて火を見るよりも明らか。
芝蘭の化ともいうけれど、水は低い方に流れる。ならば、環境をまず整えてやらなければ。
母を筆頭に、家族はがんばってリサーチした。
結果ピックアップされたのが、のちに母校となる中高一貫校。
課外活動が盛んで、朝葉の好きそうな楽し気な年中行事がたくさんあって、でも成績下降にはめちゃくちゃ厳しく指導。中高一貫を謳いながら、高校進学時には在学生にも受験生と同等の試験があり、結果が伴わなければ進学できないという、忖度なし贔屓一切なしの校風。文ありきの文武両道。とてもよい。
赤点とったら部活はおろか年中行事の参加不可。生徒が楽しくワイワイやってるのを横目にマンツーマン補習。とてもよい。楽しいこと好きの流されやすい朝葉にはとても効く。通学距離も学費も許容範囲。
ほかに選択肢があると、流されやすい朝葉はどこでもいいか、となってしまう。それはよくない。ここがなければ後はないと思わせなければ。ならば志望校は一校のみ。意外とあの子は負けん気があるから、これだけやったからにはと思わせられればシメタもの。厳しい塾にほうり込んでみよう。泣いてもわめいてもさぼろうとしても、ほうり込めば周囲に感化される。
流されやすいその性質を利用してまんまと誘導され、受験戦争に身を投じ。
そんなこんな、朝葉は無事、中高一貫のその学園へ入学を果たすことができたのだ。アリガタイ母の愛、家族の愛のタマモノである。
なんとかこうとかどうにか無事入学できて、朝葉はおののいた。
校風からわかっていたことだが、生徒は勉強も遊びも全力で! といった気質の者が多く、あわせて授業進度もレベルも高い。周囲は勉強の仕方をわかっている秀才ばかりで、ちょっとつまづけばあっという間に置いていかれる。塾でひいこらいってた付け焼刃の勉学では追いつけない。なにせ地力が違う。
すぐさま始まった授業にアップアップしていたらあっという間に一回目の定期テストで、そこでさらに打ちのめされる。これまで取ったことのない数字が並び、当然のことながら赤点だった。最下位から二番目。最下位は全教科解答欄をずらして記述してしまったというドジっ子で、それがなければ上位だったというから実質最下位。
あんまりにもあんまりな成績だったので、すぐさま親へ連絡が入り速攻バレるというありがたくない顛末。
帰宅して行われた重苦しいお説教の中、それでも、家族は「そこで頑張りなさい」と退学転校を許さなかった。
朝葉は小学生のころ、そこまで学業面に不安を覚えたことはなかった。
多少間違いやうっかりミスも多かったが理解力はそこそこあったし、クラス内での立ち位置もやればそれなりにできる子だった。五段階評価で五はなくても二以下はない成績。
性格はアホかもしれないけど、馬鹿ではないと自分では思っていた。本当に馬鹿なら、あのド厳しい塾に通い受験戦争を潜り抜けなかっただろうから。でもそれは、この学園という環境で学ぶなら、最低限出来てなければならないレベルだったのだ。あそこでヒィヒィ言ってる自分には、この環境はつまり過ぎたるもので。
身の丈に合わない、やべぇところに来ちまったな……。
中学一年。絶望するには早すぎる初夏だった。
芝蘭の化……良い友人と交流すると良い影響を受けるみたいな意味。
ここまではお見せできるかな、というキリの良いところまで。