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50.奇跡

よろしくお願いします。

 あの日。エシルは、かつての自分のように真っ赤な血に染まり死にゆくソフィアを目にした。

 駆け寄って掴んだ手は冷たく、命が消えゆくことにエシルは絶望した。


 会場は大混乱だ。

 当たり前だ。王太子が剣で叔父を刺そうとした。それだけでも大ニュースなのに、それを庇ったソフィアが刺された。白装束が真っ赤に染まり、崩れ落ちたまま動かない。

 緑が豊かで清廉な穏やかな場所が、一瞬で赤黒く染まった地獄と化した。


 そんな光景を目にした人たちが、冷静でいられるわけがない。

 叫ぶ者、逃げ出そうとする者、罵る者、泣き崩れる者、立ち尽くす者。それぞれが自分の感情だけでいっぱいいっぱいだ。

 だから、他の者のことなど、気にしている暇などなかったのだ。


 目の前の惨状に目もくれず、チャービス子爵が泉に近づいても、誰も止めなかった。それどころか、目にも入っていなかった。

 エシル以外は……。


 ソフィアから流れていく血が、自分の時と同じように碧い泉に流れていく。それを見ているしかできないエシルは、泉の横に立った子爵に気づいた。


 ショックのあまり虚ろになったエシルの目は、恍惚の笑みをたたえた子爵を映した。右手には茶色い小瓶を持ち、ガラスの蓋を今、開けようとしている。

 阿鼻叫喚の中だと言うのに、エシルにはきゅぽんというその音がはっきりと聞こえてきた。


「何をする気ですか?」エシルがそう言うと、子爵は驚くこともなく「手に入れた毒を、精霊樹に捧げるんですよ」と事もなげだ。

 そして、エシルが次の言葉を発する間もなく、透明な液体を泉に注いだ……。


「ははは。これで、この国も終わりだ! 精霊樹に頼り、精霊樹なしでは何もできない国が、精霊樹が朽ちる恐怖に怯えればいい!」


 狂ったように子爵は笑っている……。


 ぼんやりする頭でエシルは、テンセイシャ村から盗まれた毒が使われたのだと気づいた。

 するとすぐに、風もないのに精霊樹が断末魔のようにザっと揺れた。


 一年半以上毎日見ていた緑の葉が、みるみるうちに茶色く変色していく。そうかと思えば、はらはらと地面に枯れ葉が落ちた。落ちた葉はすぐに黒く濁り、染みのように広がり大地を汚す。

 力強く天を突き上げていた太い幹が、バリンッバリンッと音を鳴らしてひび割れていく。緑の絨毯のように地面を覆っていた草花も、茶色く枯れ始めると、落ち葉のように黒くなり地面を侵していく。


 全てが黒く塗りつぶされていく……。


 自分のせいで罪人のように連れていかれたアイリーン。真っ赤な血に染まるソフィア。後悔と恐怖を消し去るように、エシルの心も黒く塗りつぶしてしまいたい。


「エシル!」


 ずぶずぶと黒く沈みかけたエシルは、ネイビルの声で正気を取り戻した。

 

 ソフィアを助けられるのは精霊樹しかいない。お願いだから、死に戻らせて! アイリーンのことも必ず助ける! 全てが終わったら、みんなが一番好きな物を全部作って、みんなで笑ってご飯を食べたい! こんな風に別れるなんて嫌だ!


 エシルは泉に向かって走った。碧く美しかった泉は、真っ黒に濁っている。悪臭放つその泉に、エシルは解毒剤を振りかけた。


 それで精霊樹が救えるのかは分からない。でも、エシルが持っているものは、解毒剤しかない。後は祈るだけだ。


「お願いだから、ソフィア様を助けて! 大地を元に戻して!」


 そう叫んだエシルは、黒くぬめる腐った大地に両手をついて願った。

 自分の手が熱いと気づくと、手を置いた周りの地面が白く光り始めた。エシルが「何だ?」と思う暇もなく、光は一瞬で広がった。

 泉が碧い色を取り戻すと、黒くぬめった大地を緑の草が覆った。精霊樹の割れていた幹が剥がれ落ち、新しく現れた樹皮に覆われていく。


 人々が異変に気付いた頃には、手や地面だけではなくエシルの全身も光り輝いていた。


 朽木となったはず精霊樹に、瞬く間に光り輝く緑色の葉が生い茂る。

 その光景に誰もが声を出すこともできずに、ただただ見入っていた。


 すると、精霊樹に白い花が咲いた。

 魔獣討伐の際も、手折る枝にだけしか花は咲かない。その花が、精霊樹を覆い尽くすように咲いている。まるで真っ白な雪が積もったようだ。


 あまりの美しさに見とれていたが、花が咲いていたのはほんの数分のことだった。白い花弁は風に乗り、精霊樹の庭から舞い散ってしまった。


 何が起きたのかと、誰もが呆然としていた。

 地獄の様相は消え、精霊樹の庭には清廉な空気が戻っていた。

 何事もなかったように日常が帰ってきたように見えるが、ソフィアは白装束を真っ赤に染めたまま動かない。


 ソフィアを見つめるエシルの前に、ひらひらと白い花びらが舞い降りてきた。エシルがその花びらを両手で受け止めたのは、ただの条件反射だ。

 その花びらは、エシルの両手の中でぽうっと温かな光を灯した。


 エシルに何か確信があったわけではない。ただそうしようと思っただけだ。

 ソフィアに駆け寄ったエシルは、冷たくなったその手に光る白い花びらを握らせた。


 ソフィアの手が白く光ると、その光は全身にいきわたる。

 真っ赤に染まっていた白装束が真っ白になると、冷たかったソフィアの身体に体温が戻ってきた。

 お腹の傷は、何事もなかったように消えいく。


 精霊樹の森から舞い散った白い花びらは、国中の瘴気や魔獣に降り注いだ。精霊樹の森での出来事と同じように、瘴気に侵された土地は浄化され、魔獣も消えた。


 それが『邪悪な闇の精霊の愛し子』と呼ばれた『救世主』が起こした奇跡だと、国中に広がったのはあっという間だった。



「エシルさんの起こした奇跡は、周りに与えた影響が大きすぎたんだと思う」

「……あれが自分のしたことだとは、今でも思えない。だから、そう言われても……」


 眉を下げて口を引き結んだエシルに、アイリーンは「精霊に護られし国」と意味ありげに呟いた。


「何度も耳にしたことがある言葉だけど、実際に目で見れた衝撃は大きいよね。あの日、エシルさんが起こした奇跡を目にした人々は、ノーラフィットヤ―国を敵に回そうなんて思えなくなった」


 未来の王と精霊樹の従者候補のお披露目会で、ノーラフィットヤー国は大失態を犯した。本来であれば、周辺諸国から舐められ見捨てられたはずだ。だが、エシルの起こした奇跡は、そんな空気を弾き飛ばした。


「国内も同じだよ。教会に傾きかけていた心が、精霊樹に戻った。だからじゃないかな?」

「だから?」

「だから、オリバーは、二大公爵家を切ることにしたんだと思う。背に腹は代えられないってやつ?」


 国を恐怖に陥れていた瘴気と魔獣が消え去った。それも精霊樹の花によってだ。昔と変わらない精霊樹に護られた日々が戻ると確信した人々は救世主を支持した。その伴侶には、オリバーをと望んだ。


 国民の支持が戻る前は、国をまとめ上げるのには二大公爵家の力が必要だった。だが、救世主が手に入るなら、オリバーにとって二大公爵家はかえって足かせになった。


 自分たちの生活を壊した国王一家が失脚した。国民は国が新しくなることを望んだ。

 エシルという、奇跡を起こした新しい従者。

 オリバーという、精霊樹が指名した新しい国王。

 過去の象徴である二大公爵家は、国民には国王一家と同じように映る。今まで通りに残せば、国民が不満を募らせることにつながる。


 人が権力の座にしがみつくためには、誰かを貶めるのが一番手っ取り早くて簡単だ。エシルはそれを、よく知っている。


「自分たちが私にしてきたことを忘れるのは勝手だけど、同じことを私に強要するのは……随分と都合がよすぎると思う」


 この国の人々はエシルに何をした?

 教会や王家の扇動であったとしても、笑って受け流せるほどエシルはできた人間ではない。

 この国に対して、エシルは思い入れも恩も何一つないのだ。それなのに自分の未来を捨てて国のために尽くせとは、相変わらず随分とエシルをバカにしている。


 従者になんかなりたくないけど、なれば……アイリーンを助けられるのだろうか? 二大公爵家に以前の力を与えることができるだろうか?

 そんな考えが頭をよぎり、エシルは慌てて頭を振った。


「……オリバーと結婚して従者になれば、私たちを救えるとかバカなこと考えたよね?」

「……一瞬考えたけど、これはダメなやつだってすぐに分かった。アイリーンも誰もそんなこと望んでないって」


 エシルの独りよがりのせいで、アイリーンはこんな目にあっている。

 いい加減目を覚ませと、心の頬を張り、エシルは自分に言い聞かせる。


 アイリーンは「ふぅん……」と言って、冷めた目でエシルを見下ろした。

 身体を縮こまらせているエシルを責めたいわけではないが、いつまでも思い込みで動かれてはエシル自身も破滅する。

 自分たちは、そういう状況に追い込まれた。アイリーンはそう確信している。


「自分の起こした奇跡で、災厄の種から国を救った。私はもう役目を果たしたから、後は三人を救うだけ。そのためなら自分が犠牲になってもいい。またそんな風に思い込んでいるなら、学習能力がなさすぎるよ。悲劇のヒロインを気取るのは、もう終わりにして!」


 アイリーンにここまで厳しく指摘させているのは、自分だ。ここまで言われて、やっと分かった。

 だが、落ち込んでいる場合ではない。

 城内で自由に動けるのはエシルだけだ。悲劇のヒロインではなく、冒険譚の英雄のように攻めなくては!


「まだ何も終わってないよ」


 アイリーンの言葉は、妙にしっくりと納得できた。


「……前に進んだように見えて、むしろ状況は悪くなっている」そう答えたエシルに、アイリーンはうなずいた。


 無能だった国王と王太子が失脚した。精霊樹が花を咲かせ、瘴気と魔獣が消えた。それは喜ばしいことだが、それだけで国は滅びから免れたと言えるのだろうか?

 国王が変わっただけで、国自体が変わったと言えるのだろうか?


 この国が崩壊の道を辿ったのは、王が愚かだったからなのか? 従者が欲深かったからなのか? 精霊樹から見限られたからなのか?

 本当に、それだけなのか? 別に理由はないのか!


「災厄の種を持っているのがチャービス子爵なのか、確認する必要があるね」

「子爵は貴族牢でしょう? エシルさんが単身で離宮に来ていることもあり得ないけど、もっと警備が厳しい場所に忍び込むのは無理だよ」

「それは何とかなりそうだから、任せて!」


 どんと胸を叩いたエシルを見て、アイリーンは心配で胃が痛くなった……。


読んでいただき、ありがとうございました。

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