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47.毒

よろしくお願いします。

 急にお茶を淹れることになったアイリーンは、冷静に立っているように見えたが、内心ではイザベラの強引さに動揺していた。

 顔には出ないが、服の下は汗でぐっしょりだ。


 自分よりもアイリーンが目立つことが許せないマリアベルは、そんなことはお構いなしだ。今日の主役は自分なのだ。その座だけは、絶対に譲らない! と周りなんて見えていない。


「教会の孤児に、お茶の作法が分かるはずがありません。ここは私が……」


 マリアベルがそう言いかけたところで、クスクスという笑い声が一人二人からどんどん広がっていく。明らかにマリアベルをバカにしたものだ。

 マリアベルが居心地の悪そうに周りを睨みつけると、真っ先に笑った隣国の外交官の妻が「あらあら」と扇で口元を押さて首を横に倒した。


「子供同然の礼儀作法の貴方に、お茶の淹れ方が分かるとは思えませんわ」

 一人がそう言うと、待ってましたとばかりに次々と後に続く。

「あの立ち振る舞いで、よく人前に立てましたわね」

「会話も空っぽですし……」

「二人共、もうこれ以上は恥をさらすべきではない」

「オリバー殿に任せて、さっさと身を引くべきだな」


 一つ一つは小声なのに、面白いくらいに響く。

 プライドだけは無駄に高いマリアベルには許しがたいことだ。


「私は、精霊樹の従者なのよ! 精霊樹を使って貴方の国をほろ――」


 王太子が慌てて口を押さえたが、今更黙らせたって遅い。マリアベルが何を言おうとしたかなんて、分からない者はいない。


 癇癪を起こして暴れるマリアベルと、怒りと恐怖でうつむいた顔を上げられない王太子。

 そんな二人に会場中から向けられる視線は、これ以上ないほど鋭く研ぎ澄まされていて痛い。

 さすがのオリバーも打つ手がなく、天を仰いだ……。


 圧倒的な非難と憤怒の沈黙を破ったのは、グリードだ。

 散歩でも楽しむようにゆったりと歩いて向かう先は、憎悪の対象となった二人だ。


「ありもしない張りぼての力を振りかざし、他国を脅迫するとは。精霊樹の従者とやらは、随分と傲慢で分別がないのだな」


 うつむいたままの王太子が、消え入りそうな声で応戦する。


「……『精霊に護られし国』である我が国において、精霊樹の従者は最も尊き存在です」

「婚約者であった他国の王女を、ゴミ同然に追い出すほどだからな」


 グリードは笑った。

 地を這うように低く恐ろしい笑い声は、空気がざわりと揺れ、黒い靄が見えた気がした。

 グリードの全てに恐怖した王太子は硬直し、マリアベルを抑え込む手が緩んでしまった。


「王女が何だというのよ! 従者である私に敵うわけがないでしょう! 追い出されて当然よ!」


 人を人と思わぬ婚約破棄は、ノーラフィットヤー国の評判を下げた大事件だ。それを最悪の形で掘り返したマリアベルに、王太子は殺意を覚えた。


 十歳で絶望を経験させられ、やっと手に入れた従者を娶れる王の座が消えていく。再び訪れた絶望の端に映ったのは、オリバーだった。


 グリードは目の前の二人を無視して、後ろに立つ目立たない細身の男を見た。

 控えめだが一目で高級と分かる服を着た男には、この場にいる誰もが借りがある。それだけの大商人であるこの男が後見人だから、周辺の国はノーラフィットヤー国との関係を続けている。

 グリードは低い声で「チャービス子爵」と男の名を呼んだ。


「お前の娘は随分と下賤だな」


 当然マリアベルは言い返そうとしたが、父親に叱責してもらう方が効果的だと考えた。いつものように甘えた顔を父親に向け……、固まった。


 まるで汚物でも見るかのように、見下ろされていたのだ。マリアベルの視線に気づいた子爵は、何の興味もない顔で視線を逸らした。それにはマリアベルでさえ「おとう、さま……?」と困惑している。


「『精霊の愛し子』になると、人は変わります。自分は何者でもないのに、勝手に何かを成し遂げた気持ちになるのでしょうな。人の痛みなんて知ろうともしない、傲慢で薄汚い人間になり下がるのですよ」

「……お父様……、何を言って……?」

「お前は王妃と同じで、権力に寄生する害虫だ」と吐き捨てた子爵の顔は、マリアベルが始めて見る顔だった。

 自分の娘を見下し、恨み、憎んでいる。

「何が『精霊の愛し子』だ! 何が『精霊樹の従者』だ! 欲に囚われた汚らわしい俗物が!」


 子爵の目に映っているのが、マリアベル()なのか王妃なのかは分からない。ただ、日々王妃のようになっていく娘が憎くて仕方がなかった。

 自分にそのことを教えてくれたのは、誰だっただろうか? 子爵の頭に浮かんだ疑問は、すぐにどうでもよくなった。


「この国は、その俗物によって生かされているのだから、不思議だよな」とグリードは独り言のように呟いた。

「王の伴侶は血筋でも能力でもなく、国を腐らせる俗物であることが望まれる。こんなお披露目会一つ仕切れない者が未来の王なのだから、ぴったりか」


 びくりと震えた王太子に目を向けることなく、グリードは藍色の瞳をアイリーンに向けた。そして、冷たく微笑んだ……。


「光の精霊の愛し子は、精霊樹の力を受け継いでいるのだろう? お茶にも特別な力があるのなら、飲んでみたい」


 ドースノット国の王太子から言われれば、アイリーンは引き受けないわけにはいかない。それが予定通り決められている破滅への道だとしても……。


 イザベラに押し出されたアイリーンは、一度だけエシルを見た。まるで処刑台に連れていかれるような、悲しく冷たい真っ暗な目だった。

 だからエシルは、強く強く、自分が持てる限りの力を出して強くうなずいた。

 何があっても大丈夫。私は絶対にアイリーンを信じている! という気持ちをこめて。


 お茶を淹れるのは使用人の仕事で、貴族は令嬢であってもお茶など淹れない国もある。しかし、ノーラフィットヤー国では、紅茶を淹れることは貴族令嬢の作法の一つとされている。

 アイリーンも随分と練習をさせられたのだろう。彼女の繊細な美しさと相まった所作を、招待客も息を呑んで見つめている。

 人形のように表情を失っていてもアイリーンは美しい。だが、その美しさは悲しすぎる。


 白地に精霊樹をモチーフにした緑の葉が描かれたティーカップに、アイリーンが紅茶を注いでいく。美しい深紅色は、金色に輝いているようにも見える。

 全てのカップに紅茶を注ぐと、アイリーンはティーポットをそっと置いた。いつの間にか集まっていた使用人たちが、冷めないうちにと各テーブルに運んでいく。もちろんエシルとソフィアがいるテーブルにも。


 誰を見ているのでも、どこを見ているのでもない顔で、アイリーンはぽそりと呟いたのは、そんな時だ。


「解毒剤のない猛毒を、ノーラフィットヤー国の誰かが手に入れたとか……」


 カップに伸ばしかけていた手が止まると、疑いの目が紅茶に向かう。そして、その目はそのままアイリーンへと向けられた。


「……ど、どうしたのかしら? アイリーンは……」


 妖艶な顔を歪ませたイザベラも予想外の事態らしく、その顔は一気に十歳ほど老け込んでしまった。

そのイザベラがアイリーンではなく、なぜかエシルたちの方へ近づいてくる。


「あぁ、そうね、そうなのね!」混乱状態のイザベラはそう叫び、紫色の目を血走らせている。

 何か打開策を思いついたようで、真っ赤な舌が口からのぞいた。


「アイリーンは『邪悪な闇の精霊の愛し子』に脅されているのね! 光の精霊の愛し子である貴方は、何度もこの女に殺されかけているんだもの。恐れるのも、無理がないわ!」


 イザベラの打開策は、単純だ。

 ソフィアが口にした毒に関わることは、全てエシルのせいにする。アイリーンをエシルに脅された悲劇のヒロインにする。


 今までだって息をするようにエシルを貶めてきたイザベラには簡単な仕事だ。

 いつもと違うのは、エシルに対する激しい悪意の中に狂気が見えることだ。

 今まで隠していたのか急にわいたのかは分からない。ただ、エシルまで近寄ってくる足取りも、エシルに向かって伸ばされた手も、その全てが凍り付くほどの恐怖だ。


 震えることもできないエシルの目の前で、イザベラは勢いよくティーカップを掴んだ。

 カップから溢れた紅茶が、シャンパンゴ―ルドのテーブルクロスで跳ねた。広がっていく茶色い染みを見ている間もなく、白いカップがエシルの目の前に突き出された。


 何が始まったのか分からないのはエシルだけではない。隣にいるソフィアも会場全体も、イザベラの狂気にのみ込まれている。


「毒を手に入れたのは、貴方でしょう? それでアイリーンを殺す気なのね! なのに、アイリーンを罪に陥れようとして、あんなことを言わせたのね!」


 怒りで震えるイザベラの手によって、カップの中の紅茶が波打っている。


「黙っていないで、何か言いなさい! いつもアイリーンに暴言を吐き、呪いの言葉をまき散らしているのは知っているのよ!」


 イザベラの言うことに、エシルは心当たりがない。だが、この場にいるほとんどの人が、イザベラの言い分を信じるだろう。

 エシルは国を滅ぼす『邪悪な闇の精霊の愛し子』なのだから……。


「どうしてアイリーンが淹れた紅茶を飲まないの? わざと拒否することで、アイリーンが毒を盛ったと思わせるつもりね!」


 そう叫ばれて、エシルはやっと理解できた。今のこの状況は、自分に紅茶を飲ませるためだと……。

 ここまでしてエシルに紅茶を飲ませる理由なんて一つだ。だが、信じたくない。アイリーンが自分に毒を盛ったなんて……。信じられるはずがない!


「アイリーンは毒を盛ったりしません! 貴方の言葉がアイリーンを貶めているのです!」


 この言葉を待っていたように、イザベラは両口角を引き上げた。


「だったら、この紅茶を飲めるわね?」

「えっ?」

「アイリーンを貶めていないと言うのなら、自らそれを証明するべきでしょう? ほら、飲みなさい」


 グイグイとティーカップを押し付けられる。これでは紅茶を飲む前に、顔から浴びてしまいそうだ。テーブルクロスのように、服が茶色く染まっても困る。エシルはイザベラからティーカップを受け取った。


 アイリーンが、また自分を殺すはずがない。

 アイリーンを疑うことは、アイリーンに対する裏切りだ。私はアイリーンを信じている!

 エシルはそう意気込んで、紅茶を飲み干そうとした。


 息をのんだソフィアが手を伸ばすより早く、アイリーンの手が飛んできた。


「ダメッ!」


 アイリーンよってはたき落されたティーカップはエシルの肩に当たると、緑の草が覆う地面で一回転した。エシルの白装束は茶色く染まり、テーブルクロスのシミなんて騒ぎではない。でも、今は、そんなことは問題ではない。


 エシルは、ただ呆然と、アイリーンを見上げていた。

 青ざめ、震え、絶望した瞳からぽろぽろと涙をこぼしているアイリーンを……。


 声もなく泣くアイリーンの髪を引っ張って、イザベラらが「お前! やっぱり裏切っていたな!」と叫んだ。

「裏切りって何? お前たちは孤児を恐怖で洗脳して、自分たちの都合よく使いまわしていた! 恩があるのは、そっちでしょう!」


 洗脳は教会のイメージを著しく落とす。

 慌てたイザベラは周囲を見回すと、非難の視線が自分に向けられていることに気づいた。


 エシルさえ殺せれば、混乱に乗じてグリードが助けてくれる。イザベラはそう考えていた。

 グリードたちにとってもエシルは邪魔な存在だった。それに教会は、グリードの復讐に協力した。その見返りとしては、小さなことだ。そんな甘い期待は、夜の闇のように冷たい藍色の目を見れば、消え去った。


 空に向かって振り上げた右手は、アイリーンの頬をとらえることなく捻り上げられた。イザベラはそのまま放り投げられると、地面に転がった。

 土の匂いを嗅ぐなんて、いつ以来だろうか? お仕置きとして、真冬の草原に放り出されて以来かもしれない。


 イザベラは自分がシスターだなんて、思ったことはない。孤児の中から這い上がることを許された自分は、特別な存在なのだ。ずっとそう思ってきた。そう思わされて生きてきた。

 だからこそ、富も地位も手にできる。そう思ってきたのだ。


 イザベラが連行された後、アイリーンも精霊樹の庭から連れ出された。

 その際にエシルともソフィアとも、一度も目を合わせることはなかった……。


読んでいただき、ありがとうございました。

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