45.お披露目会前夜③
よろしくお願いします。
ネイビルの執務室にいる屈強な男たちは、エシルの顔を見るなり一気に生気を取り戻した。いや、エシルじゃない。差し入れだ。
ネイビルと宰相の執務室に、エシルは定期的に差し入れをしている。通常はネイビルだったり誰かが取りに来てくれるが、ここ最近は忙しすぎてそこまで手が回らない。差し入れだけが楽しみだという彼らのために、エシルとソフィアが運搬役をしている。
「エシル様! 今日は何ですか?」
「今日は栗のモンブランです。皆さん、お疲れですね。私がお茶を淹れますよ」
「いえいえいえ! 我々は隣の部屋で休憩させていただきます! エシル様はゆっくりしていって下さい」
山積みだった資料や床に積み重なった本を脇に追いやり、ソファーまでの道が作られた。窓が開けられ、煮詰まった空気が消えた頃には、エシルはネイビルと向かい合ってソファーに座っていた。
「あれ? 私、差し入れを置いたら帰るつもりだったのに……」
「少しくらい話し相手になってくれ」
「お忙しいのに、ご迷惑じゃありませんか?」エシルがそう言うと、ネイビルは「迷惑なはずがない」と言って早速モンブランを口に放り込んだ。
「美味い!」と間違いなく表情を緩めているだろうネイビルの前から、次から次へとモンブランが消えていく。
「カボチャも美味いが、俺は栗の方が好きだ」
「……」
いつもは必ず反応してくれるエシルが黙ったままだ。口を引き結んで、何か考え込んでいる。
「明日のことを考えると、不安か?」
近くでネイビルの声がすると思えば、眉を寄せた顔が目の前にきていた。完全に怒っているようにしか見えないが、これは心配している顔だ。
エシルを落ち着かなくさせているのは、明日のことではない。さっきソフィアに言われたことが、気になっていた。
自分の気持ちに鈍いというか、エシルは自分の気持ちと向き合うことを避けている。他人に踏み込むことも苦手で、相手の気持ちを勝手に解釈していることも多い。
そうなったのには、エシルなりに理由もある。
家族から存在を消され、国民から憎まれてきた。自分や相手の感情なんかに振り回されていたら、とっくの昔に壊れるか、憎しみにまみれていた。
自覚はあるのだが、今まで被害を被っていたのはダンスールだけだったので、ここまできてしまった……。
今はソフィアだけではなくネイビルやアイリーンにも迷惑をかけているだろうし、直さないといけない。
それを痛感して頭を悩ませているのだ。
「自分でも分かっているのですが。私は自分の気持ちに鈍い上に、思い込みが激しくて……」
「自分でも分かっていたのか……」
「…………」
三白眼を見開かれて、エシルはちょっとショックだ。ネイビルからは、一体どんなことで呆れられているのだろうか? 聞きたいけれど、絶対に知りたくない……。
「エシルは相手に期待しないからだろう?」
「期待、ですか……?」
期待していたことはあった。
家族と認められようと、必死に努力した。でも、努力ごと踏みにじられ蔑まれた。
期待なんかするから苦しくなる。悲しくなる。惨めになる。だったら、そんな感情は捨てるべきだ。エシルはそうやって乗り越えた。間違ったのだろうか?
「自分だけで解決して、自分を納得させる。それが自分を犠牲にしていても、エシルは我慢するんだ。いや、我慢していることにも気づかない」
「?」
「相手の迷惑にならないことを優先させているんだろうけど、俺は物足りないと思う」
一回目でダンスールを守ろうとするばかりに、自分勝手に暴走した。そういうところが思い込みが激しいと言われるところだと思っていた。
それは、相手に期待しないからなのだろうか? 迷惑をかけないためなのだろうか?
考えたことがなくて、分からない……。
「俺に頼ってくれたのは、一回目と同じ結果にならないよう必死だったからだ。それに、頼ったと言っても、エシルの望みは『ダンスールを助けて欲しい』それだけだった。自分はどうなっても構わなかった」
「……こうやって申し訳ないくらい頼っています。みっともなく弱音も吐いてますし……」
「こんなのは頼ったうちに入らない。俺はエシルにもっと頼って欲しいし、俺に期待して欲しい」
何だこれは? 頼って欲しい? 期待して欲しい? 何が起きている? やっぱり世界は明日で終わるのだろうか?
いつになくネイビルの視線が熱い……。目を見れなくて頬の傷に視線をずらしたエシルは、自分でも嫌になるほど真っ赤だ。
「一回目の私は、ダンスールさえ生きていれば、幸せなってくれれば何もいらなかった。なのに……二回目の私は、欲張りなってしまったと思います」
「ん? どういうことだ? エシルが欲張り? 無欲にしか思えないが?」
「今の私は、ダンスールだけでなく、ソフィア様もアイリーンもネイビル様も大事です。みんなに幸せになって欲しいと思います。それって欲張りです」
「そうなのか?」
「そうです! 昔からダンスールが『二兎を追う者は一兎をも得ず』と言っていました。欲張りすぎると、結局は何も得られないってことです」
ガックリと肩を落とすエシルの頭を、傷だらけの大きな手がポンポンと撫でる。その手も表情も優しくて、エシルはやっぱり安心してしまう。
「エシルは今まで何も欲しがらな過ぎただけだ。ちっとも欲張りじゃない」
「そうでしょうか? 心に揺らぎないものがあるネイビル様と比べたら、私はやっぱり欲張りです」
「えっ! 俺は口に出していたか?」
三白眼を瞬かせたネイビルが、左手で口元を覆った。
「言わなくたって分かります! ネイビル様なら、精霊樹以外ありえませんから!」
エシルの思い込みは、想像以上に激しい。ネイビルだけは、それを理解した……。
冷静な無表情のネイビルは、ホッとしたのかガッカリしたのか分からない顔で一つ息を吐き出した。
「ブールート家当主としては、精霊樹を最優先にするべきだ。だが、俺個人となれば、話は別だ。もっと大事に、大切にしたいものがある」
ネイビルも欲張りだとホッとする半面、ネイビルの表情をそんなにも優しくする大切なものは何なのだろうと気になる。
気になりすぎて、エシルが前を見ると。山脈のように連なっていたモンブランが、皿から消えていた。
「まさか、それはモンブラン?」と口に出しそうになり、エシルはぐっとこらえた。大切なものは、人それぞれだ。エシルが詮索するべきではない。
「この話は、まず、明日を終えてからだな」そう言ったネイビルが、短くなったエシルの黒髪を一房手に取った。撫でるように触れた髪が、頬にかかる。
それがなぜかとても恥ずかしくて、真っ赤になったエシルは慌ててうつむいた。
ここでまた、ソファの言葉を思い出した。
「……頭を撫でたりするのは、家族が十歳以下の子供にする行為だと聞きました! 例外もあるようですが、私が幼いということでしょうか?」
ソフィアの助言通りネイビルに聞いたが、ネイビルは何も言わずにまたエシルの髪に触れた。
「何なんだ!」そうエシルは叫びたい!
勇気を出して言ってみたものの、ものすごく後悔するほど恥ずかしい。体温は上がるし、心臓の音がとんでもない轟音で部屋中に響き渡っている。エシルはもう、息も絶え絶えで倒れそうだ。
「エシルを十歳以下の子供と思ったことはない。この話も、明日を終えてからだな」
それが少し残念に思えて再び前を見上げると、ネイビルもびっくりするくらい真っ赤になっていた。
エシルが部屋に戻るのに、三人の護衛がついていった。本当ならネイビルが行きたいところだが、残った仕事が多すぎる。
本番は明日だ。警備の穴なくエシルを守れるように、できることは一つでも多く準備しておきたい。そう思って執務机に戻ると、扉がノックされた。
隣の部屋に行かせていた部下が戻ってきたと思い、「入れ」と声をかける。だが、開いた扉の前にいたのは、予想外の人物だった。
「アイリーン嬢?」
元々色白だが、今は青白い。何かに怯えているのかと思えば、ネイビルに向かって歩いてくる足取りは力強い。
あっという間に執務机の前に立つと、強い意志のこもった瞳を真っ直ぐに向けてきた。
「確認をしに、来ました」
張りつめた声に、ネイビルは持っていたペンを置いた。
「聞こう」
アイリーンはネイビルとは距離を置いている。それがわざわざ一人で執務室に来た。何かよくないことがあることを表すように、挑むような目を向けられている。
「エシルさんに騙されて、この執務室で二人きりで話をした日を覚えていますか?」
「覚えている」
「ネイビル様は、帰りがけに私を呼び止めて言いましたよね?」
「『エシルを騙し、傷つける気配を見せれば、そうなる前に殺す』」
あの時と同じ言葉を口にしたネイビルの目からは、殺気が漏れている。だがアイリーンは怯むことなく、同じ目をして見返した。
「その言葉は、今もまだ健在ですよね?」
「当然だ」
「エシルさんを殺す命令は、今は私に出ていません」
今は出ていないが、明日は分からない。
明日のお披露目会には教会も出席する。出席者は、幼い頃からアイリーンを洗脳してきたシスターだ。一回目はそのシスターの命令に従って、エシルを殺した。
もちろんエシルを守りたい。殺したくなんてない。でも、何かの拍子に洗脳が戻る可能性だってゼロじゃない。アイリーンはそのことを恐れていた。
「明日……もし……私がまたエシルさんを殺そうとしたら、必ず私を殺してください」
どうしても、これだけは言っておきたかった。
エシルの命を狙う聖騎士は、警備から外れたので離れている。だが、従者候補であるアイリーンは、エシルの近くにいる。その危険性を、きちんと伝えておきたかった。
ネイビルは目を逸らすことなく、しっかりとうなずいた。迷いのない態度に、もう一つ確認したくなる。
「精霊樹よりも、エシルさんを優先してくれますか?」
「当たり前だ」
心の中に燻っていた靄が晴れたアイリーンは、すっきりとした気持ちで執務室を出ることができた。
廊下に並んだ窓の外では、沈む太陽の輝きを押さえつけるように、藍色が空をにじませていた。
アイリーンは暗闇に囚われないように、駆け出すようなスピードで部屋に急いだ。
月も星も雲に隠れ、のっぺりと黒一色で塗りつぶしたような夜だった。
そんな闇の中で、馬車は一定の速度で危なげなく走っている。
夜の闇と同じ真っ暗な馬車の中では、男が二人向き合って座っていた。
三十前後の男は黒いローブで全身を覆っているが、持って生まれた高貴さは消せない。夜のような藍色の目は、暗闇の中に溶けてしまっていた。
向かいにゆったりと座る男は五十前後で、趣味も仕立てもよいウエストコートを着こなしている。品はいいが、どこにでもいるような雰囲気だ。
暗闇の中は無言だが、別に険悪な空気が漂っているわけではない。それなりに信頼関係がありることがうかがえる。その証拠に五十前後の男の声は、馴れ馴れしいわけではないが畏怖も感じられなかった。
「何もわざわざ貴方が出向いてこなくても、この国は勝手に自滅しましたよ?」
「その自滅を、この目で見たいのだ」
「悪趣味ですね……」
「何十年もかけて、その自滅をお膳立てしたお前に言われたくない」
「ふふふ、それは、その通りですね」
王族を嵌め、国を破滅に導いている男とは思えない。嫌味のない素直な笑い声だ。
「お前は本当に底が知れぬな……。自分の娘までも駒として切り捨てる――いや、商品として叩き売るんだから、ゾッとするよ」
男は「あれはもう、娘なんて言える代物じゃないのです」と言おうとして止めた。娘のことは、口にするのも汚らわしいからだ。
男にとって家族は、既に死んだ者たちだけだ。今あるのは、復讐に必要だからあつらえた。やっぱり商品としかいえない。
「貴方だって妹のために、下げたくもない頭を下げた。そうやって周辺の国を取り込み、この国を孤立させた。たった三年でね。その執念深さには、私だってゾッとしますよ」
「精霊樹か何か知らないが、そんなものに頼らないと国を守れないクズ共に妹は傷つけられた。それ以上の報いは受けさせる。必ずな」
馬車内の空気が怒りで震えたが、二人の男にとってそれは心地のいいものだった。怒り、恨み、憎しみ、狂気。その感情だけで生きてきた。
「自滅した後、この国をどうするつもりですか?」
「別に? 壊れた後の玩具など、どうでもいい。お前にやるよ」
「こう見えて、私は生粋の商人でしてね。商品価値のないものは手にしたくありません」
「そうか」
「はい」
馬車の中に沈黙が流れる。
放っておけば勝手に朽ちていってくれるなら問題ないが、下手に息を吹き返されてはたまらない。
彼らの願いは、この国が滅びることなのだ。憎い国王と王太子を廃しても、彼等はノーラフィットヤー国を許さない。邪魔をする芽があるなら、摘み取るだけだ。
「オリバーに出てこられると、困るな……」
「あの方は、不思議な方です。我々の思惑を知っているでしょうに、邪魔をするわけでもなく協力をするわけでもない」
「あいつもこの国の犠牲者だが、そういう素振りは見せないからな」
「私はたまに、あの方に利用されているんじゃないかと不安になりますよ」
同じ気持ちを感じていたローブの男は肩をすくめた。
「あいつに野心なんてないが……。役に立つ男なだけに、邪魔だな」
ローブの男が呟くと、闇が一層濃くなった。
夜が明けて明日が来れば、この国は終わる。そして、永遠の闇に囚われ続けなくてはならない。
静かな暗闇の中を、馬車と馬の蹄の音だけが響いていた……。
読んでいただき、ありがとうございます。