40.王太子の別の顔
よろしくお願いします。
むわっとした熱気をはらんだ風が、ひんやりと過ごしやすいものに変わり長袖が定着しかけていた。そんな爽やかな秋の始まりの中だというのに、エシルは氷の張った湖に投げ込まれたような気分にされていた。
それはアイリーンも同じだった。穏やかな陽の光が降り注ぐ手入れの行き届いた庭園で、ブルリと身体を震わせている。
「……えっと、それって、王太子が十歳の時よね? 子供特有の妄想では……ないね……」
ソフィアの冷たい視線が、エシルの言葉を否定した。それでもエシルは信じられない。
「でも……、十歳の王太子が、二十歳のガレイット公爵を……? 無理があるよね? そもそも王太子は剣術なんて全くダメでしょう?」
オリバーは剣の腕も立つ。そんな大人を相手に、重い物なんて持ったことない子供が? 不意打ちだって、闇討ちだって、絶対に成功しない。
「正々堂々と剣で挑めば、そうでしょうね……」
ソフィアはどこか諦めた顔をしている。
一輪だけ咲いた血のように濃い真紅のバラに一瞬目をやったソフィアは、白いティーカップを持ち上げた。
「傷ついた十歳の甥が、自分のために紅茶を淹れてくれた。それを断る人がいますか?」
ソフィアは冷めた紅茶を飲み干した。
「……毒殺……したの? だとしても、どうやって毒を手に入れるの?」
アイリーンの言う通りだ。
王族を相手にできる商人は、厳選されるし、限られている。そんな状況下で、十歳の子供がどうやって毒を手に入れる?
警備が厳重な王太子が、一人でフラフラ平民街に行けるわけもない。百歩譲って行ったとしても、毒薬を扱う薬屋に伝手なんてあるはずがない。
「毒の入手経路は、ずっと不明でした。レオ様は『知らない男にもらった。元気になる薬だと言われた』と言っていたそうです」
「なにそれ? めちゃくちゃ怪しい!」
アイリーンの叫びに、もちろん二人から反論はない。
十三年前だって、国王と王妃以外は全員が、王太子の殺意を嗅ぎ取っていた。いや、二人だって自分可愛さに、見て見ぬ振りをしただけだ。
「特殊な毒ではなかったので、解毒剤で事なきを得ました。それもあって、レオ様は罰を受けませんでした」
「えぇっ! 何も?」
驚きすぎて、アイリーンの声は裏返った。
「『殿下は私をいたわってくれただけだ』と言って、オリバー様はレオ様を庇い続けました」
「はぁっ? 見知らぬ人からもらった薬を人のお茶に入れる? いたわるの意味をオリバーは知らないんじゃないの? どう考えても、王太子の行動はおかしい!」
「オリバー様は、お茶を淹れたのがレオ様だったことも隠し通そうとしていたそうです。被害者が加害者を守るのですから、誰も反対できません」
あんなでも王太子だ。未来の国王だ。国とすれば表沙汰にはしたくない。オリバーの言葉はありがたかっただろう。
でも……、それで終わりにできるはずがない。
「子供だった王太子は許されても、薬を渡した人物は許されないでしょう? とっ捕まえて吐かせれーー」
「その人物を捕まえるどころか、特定することもできなかったそうです。オランジーヌ家の大失態です」
城に入り込んで、王太子に毒を渡す。そんな大胆な犯行をする相手が見つからない?
そんなの何かあるに決まっている! とてつもなく大きな力が蠢いている! 誰にだって分かる!
「相手は恐ろしく冷静で、計画的です。それも、今に繋がる長い長い計画だということも、わたくしたちに巧妙に隠してきました」
「そんな恐ろしい相手に対抗するなら、ガレイット公爵には国にとどまってもらうべきだったのでは?」
王太子との王位継承争いを避けるために国を出た。以前に聞いた話はそうだったが、そんなのはもっと穏便な方法で解決可能だ。王位継承問題より、この相手の方がよっぽど恐ろしい。戦うには、オリバーの力が必要だ。
エシルの胸は疑惑だらけで、ザワザワとした不安が止まらない。
「ねぇ、ガレイット公爵は、どうして国を出たの?」
「レオ様が十歳になり、『従者を娶れない王太子』になったからです。オリバー様が国に残れば、必ずかか『待望論』が出ます。それは、国にとっては厄介な火種です。実際に二人を担ぎ上げる派閥ができ、お互いに命を狙われました」
「それが理由なら、ガレイット公爵が王位継承権を放棄すれば済むよね? 殺される危険があっても戻りたいと思う国から、わざわざ出ていく理由にならない」
ソフィアはため息を吐き、「そうですね。ここまで話しておいて、建前で真実を隠す意味はないですね」と呟いた。
「オリバー様は、レオ様のために国を出たのです」
オリバーが側にいれば、周囲は二人を争わせようとする。兄の時で慣れたオリバーなら無視できるが、王太子はまだ十歳だ。簡単に操られてしまう。
それに失敗したとはいえ一度は、殺意を持ってオリバーに手をかけた。二度目のハードルは低い。甘い言葉に乗せられて、また繰り返すのは明らかだ。
王太子を守りたいからといって、オリバーに殺される気はない。阻止をしていれば、王太子の犯行はいずれ明るみに出る。そうなれば王太子の未来は絶たれる。
子供の頃から骨肉の王位継承争いに巻き込まれていたオリバーだからこそ、周囲に翻弄される甥を助けたかった。
だが、それをストレートに言えば、国王に角が立つ。かといって、「レオンハルトは私に対する殺意がある。私が側にいない方がいいから、国を出ようと思う」なんて言えば、勝手に内乱の火ぶたが切って落とされる。
どうしたものかと思い悩んでいる内に、王太子の様子がいよいよおかしくなってきた。間を空けずに、オリバーを殺すつもりだ。
そんな時に転機を持ってきたのが、当時まだ六歳のソフィアだった。
「あの頃のわたくしは、オランジーヌ家の娘として父に認めて欲しくて必死でした。勝手にスパイの真似事をして叱られるなんて、日常茶飯事でしたわね……」
驚きの告白だ。ソフィアの幼少期が、そんな冒険にとんだものだったとは……。
「スパイ気取りで王城を散策している時に、レオ様が貴族とは違う中年の男と会っているところを目撃しました。レオ様はその胡散臭そうな男に、『もっと確実に殺せる毒を持ってこい』と言っていました」
「それって……」
「わたくしの位置からは、正面のレオ様は確認できましたが、中年の男は後ろ姿と横顔を見ただけでした。ですが、アサス商会に商品を卸していたという男と、特徴は一致します」
もうすでに確認済みとは、二大公爵家は仕事が早い。
王妃の秘密箱も、王太子の毒も、用意したのはテンセイシャ村の男だったのだ。
やっぱりなという気持ちと、どうして? という気持ちが、エシルの中でごちゃごちゃに混ざり合う。
テンセイシャ村の人間は、特殊な能力や記憶がある自分たちの存在が危険なことを知っている。だからこそ、政治や国の中枢には関わらないようにしているのだ。
アサス商会に商品を卸していた男は野心家だった。自分から王太子に近づいたのだろうか? それとも気づかぬうちに誰かに操られていたのだろうか?
「わたくし、エシル様に嘘をついていました」
急に自分に話を振られても、脳内の処理が追い付がないエシルは対応ができず「はぁ」としか言えない。
「レオ様との初対面は、八歳の時のお茶会ではありません。六歳の時に一方的に出会っていました」
「はぁ……」
「八歳のお茶会で、わたくしがレオ様に恋をしたことに嘘はありません。ですが、純粋なものだったかと言えば、そうではなかったかもしれません」
「……はぁ……」
初恋の話が、どうでもいいとは言わない。でも今する話ではない気がする。
「わたくしがしたことは、国を守るために必要なことだったと自負しています。その反面、辛い立場のレオ様を、余計に苦しめてしまった。という罪悪感もありました」
「……罪悪感?」
「レオ様とお茶会で話をして、『わたくしが奪ったこの人の未来を、取り戻してあげたい』そういう感情が湧いてきたのも事実です」
「なるほど!」
恋は理屈ではないと聞いていたが、ソフィアの恋にエシルはどうしても納得ができなかった。罪悪感と聞いて、悩みは一つ解消した。
まぁ、そう重要でも、今解消する必要もなかったが……。
日が沈み始めて、木の影が三人のところまで長く伸びてきていた。秋らしく少し肌寒い。
「初恋の話は置いといて。ソフィア様は、昔のように王太子がオリバーを殺すかもしれないと思っているの?」
「そうならないで欲しいですが……」と呟いたソフィアは、迷いを振り切るように顔を上げた。
「国王になることでしか、レオ様の不安は消えないのです。欲求も満たされないのです。なのに、十三年前より今の方が追い詰められています。当然手にできると思っていた王位が、遠のいています」
冷えた二人の視線を感じたソフィアが、「わたくしだって、分かっています! それも全部、レオ様の自業自得です!」と先手を打つ。
「わたくしは完全に力不足でしたし、フローラの力を持ってしてもレオ様を変えることはできませんでした」そう言ってソフィアは唇を噛んだ。
何でソフィアが反省するのか、エシルは意味が分からない。反省するべき人間は、王太子だ。
「ソフィア様の話を聞かずに耳障りのいい方に逃げたのも、ソフィア様から距離を取ったのも王太子だよ。ソフィア様は何も悪くない」
エシルがそう言っても、ソフィアは頭を横に振るばかりだ。
「あの頃のまま変わらないレオ様は、王位にしがみつくために何をするか……」と消えありそうな声で呟いた。
淡いピンク色の雲が浮かぶ空の下、ソフィアの影がどこまでも伸びていた。
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