31.視界良好!
よろしくお願いします。
ソフィアは鏡を見つめると、何度も満足げにうなずいた。
「マリー、貴方には臨時のボーナスを出すわ。あの複雑怪奇な状態から、よくここまで完璧にしてくれたわ」
「ありがとうございます。わたくしも、本当にそう思います」
ソフィアとマリー、二人の視線がエシルに突き刺さる。
自分が悪い。
エシルだって分かっているが、髪を切るなんて初めてだったのだ。ここまで上手くいかないとは、思いもしなかった……。
「やらかしたと、自分でも分かっています。鏡に映った自分を思い出すと、まだゾッとしますし……。ここに助けを求めにきて大正解でした。マリーさん、ありがとうございます」
「お気に召していただけたのなら、何よりです」
公爵家の侍女らしく余計なことを言わないマリーが、満足気に微笑んでいるのが鏡越しでも分かる。
一時間前にソフィアの部屋に駆け込んで来たエシルは、髪のどの部分も全てガッタガタで見るも無惨な状態だった。
あの言葉を失う惨状が、今は見事に改善された。
前髪は眉の下で、後ろは顎のラインで切りそろえられた。ストレートだけどぱさぱさだった髪には、香油が塗りこめられて艶々だ。
「とても、お似合いです」ソフィアが鏡越しに微笑むから、エシルも鏡越しに「ありがとうございます」と返した。
令嬢としては随分と短すぎるが、そこにエシルがこだわる理由はない。この髪型に関して何を言われても、うつむくことなく言い返せる。
「三年前に初めてエシル様と合った時から、『その髪何とかならないの』と言いたかったです。何か理由があると思って、必死に我慢してきただけに、感無量です」
目を覆う厚く長い前髪に、腰まで伸びたパサパサの黒髪。誰がどう見ても、陰気だし恐怖を覚える。
ずっと一緒にいたダンスールが何も言わなかったのは、エシルの気持ちを汲んでいたからだ。同郷の者が何か言おうとすれば、必ず止めていた。
「大した理由はないんですよ。私の全てが許せない母親が、特にこの目を嫌っていたんです。物心ついた頃には、こうやって隠すのが定着していたってだけです」
ソフィアもマリーも顔をひきつらせた。
「子供の頃は、目さえ隠せれば話しかけてもらえる。なんて馬鹿なことを思っていました。そんな気持ちはとっくの昔に消えているんですから、その時に切るなりなんなりすればよかったんです」
「でも、エシル様は切らなかった。どうして今になって思いきったのですか?」
聞きたくて聞きたくてどうしようもなかったことを言えて、答えを待つソフィアの目はギラギラとしている。
切らずにいたのは、やっぱりコクタール家に囚われていたからだ。張り合うことを止めてみれば、目も髪の色もとるに足らないことだと分かった。
「目を隠しても隠していなくても。髪が長くても短くても。私を疎ましく思う人は、そう思う。そんなことを私が気にしてやる必要はないってことです!」
「その通りですね。今のエシル様の方が断然素敵です! だから、いいのですが……」
鏡越しにエシルに窺う目を向けたソフィアは、「どうして急に?」と首を傾げた。
昨日の今日だ。確かに急だ。適当に誤魔化した返答では、ソフィアは絶対に納得しない。かといって、アイリーンの話をしていいものなのか……。エシルが悩んでいると、鏡に映るソフィアの眉が悲しそうに下がっていく。
これは、まずい……。
話せる範囲で昨日のことをソフィアに伝えると、眉が元に戻った。いや、今度はピキキと上に上がった。
「髪を切ると踏み出すのに、わたくしではなくアイリーンが背中を押したのが悔しいです」
「背中を……押したのかな? 確かに、考えるきっかけにはなったけど……」
全ては語らず、攻撃的な部分は全て削った。そうすると、こういう話になるのだろうか? ちょっと違う気もする。
しかし、何だろう? ソフィアもアイリーンと張り合おうとしている気がする。
「エシル様のこんなにすっきりとした顔を見られたのが、アイリーンやオリバー様のおかげだなんて……。やっぱり悔しいです」
「……」
アイリーンだけではなく、オリバーにまで嫉妬……?
昨日のアイリーンといい、今日のソフィアといい、何を張り合っているのかエシルには分からない。その気持ちが、鏡に映し出された困惑顔に表れている。その顔を三人で見ているのが何だかまた不思議で、誰も何も言えなくなった。
沈黙を破ってくれたのは、マリーだ。
「エシル様が助けを求めに来たのは、ソフィアお嬢様ですよ?」
マリーの言葉に、むっとして下がっていたソフィアの口角が上がる。
さすがマリー! 淹れてくれる紅茶もいい香りだ。
一口飲んでホッと一息ついたところで、アイリーンの「とりいっている」という言葉が思い出された。胸にもやもやが広がる。
「ソフィア様に、助けを借りすぎよね……」
「わたくしだってエシル様の助けを借りて、ダイエットに励んでおります。お互い様です。何か問題でも?」
「お互い、様……かな? 私の方が頼りすぎじゃない? ソフィア様を利用しているのかも……」
エシルは真剣そのものなのに、ソフィアとマリーは顔を見合わせた。困惑中のソフィアの後ろで、くすくすと笑い出したのはマリーだ。
「最初にエシル様を利用しようと近づいたのは、ソフィアお嬢様ですよ」
「ちょっと、マリー!」驚きすぎて、ほぼ悲鳴だ。
「わたくしはエシル様を利用しようなんて思っていません。お茶会で助けてもらったお礼を言いに行っただけです!」
「でも、エシル様のご飯を横取りして、散々愚痴をこぼして号泣したのですよね。挙句、離宮に通い詰めて自分のために料理までおねだりした」
「……」
「違いましたか?」
「……確かにそうだけど、利用なんてしていないわ! エシル様なら、わたくしを助けてくれると思ったの。わたくしだって、一方的に助けてもらおうとは思っていないわ! エシル様の役に立ちたいと思っている!」
顔を真っ赤にしたソフィアが、鏡台にドンと手をついた。その反動でカップからあふれた紅茶がソーサーにこぼれた。マリーはその紅茶を素早く下げると、「だそうですよ?」とエシルに微笑んだ。
「お嬢様はエシル様に頼って欲しくて、毎日待っているのです」
「マリー!」
ソフィアに睨みつけられても、マリーは笑顔のままだ。「新しいのを、お淹れしますね」と、マリーはしれっとした顔で紅茶を淹れ直してくれた。
困ったのがソフィアだ。気持ちを暴露された羞恥をぶつけたいマリーには相手にしてもらえず、プルプルと震えている。
それを全部、鏡越しに三人で見ている。
「……と、友達って、困った時に頼るものでしょう? わたくしは利用されているなんて思ったことがありません。エシル様はわたくしに利用されていると思っていますか?」
「思ってないです!」
ふんわりと微笑んだソフィアは、「そういうことです」と嬉しそうだ。
友達……。ずっとそう言われていたけれど、友達のいないエシルにはピンときていなかった。が、今やっと理解できた。
仲間ともまた違う、不思議だけど特別な関係だ。
「友達……」エシルは自分が、はにかんでそう呟いたことに気づいていない。
「その友達に相談したいことがあるのでは? アイリーン様のことかしら?」
「どうして、分かるのですか?」エシルは目を見開いたが、ソフィアにはそれもおかしく映る。
「そんなに驚くのがおかしいくらい、エシル様は分かりやすいからです」
ソフィアが笑う後ろで、マリーも笑っている。それだけお見通しなら、聞く方も気楽だ。
「教会について、教えてもらいたいです」
知らぬうちに身体に力が入る。もちろん顔も緊張で強張っていた。
「わたくしが知っていることなら」
そう言ってうなずいたソフィアの顔からも、笑顔は消えていた。
まず、第一前提として、ルーメ教は純粋な宗教団体ではない。ルーメ教が興った経緯や理由は分からないのも、そのせいだ。
ある日突然、『闇の精霊によってこの国は滅ぼされる。それに対抗できるのは光の精霊だけだ。救われたいのなら光の精霊に祈り、全てを捧げろ』と言って現れた。
建国当初の頃は見向きもされなかった。
当然だ。この国には精霊樹がいて、精霊樹が国を護ってくれている。それだけで十分だ。
だが時が経つにつれて、平民の中でルーメ教が広がりだした。
理由は階級制度だ。
ノーラフィットヤー国は戦火から逃げてきた人たちの集まりだ。自国の王侯貴族が欲を出し他国を我が手にするとばっちりを受けてきた人たちが、平和に暮らしたいと精霊王に頼み込んでできた国だ。
本来なら身分制度などなかったのに、突然王が現れた。それに付随して、二大公爵家も誕生してしまった。
初代国王は自分の存在を際立たせるために、身分制度を作った。その上で、精霊樹の加護を受けるには自分が必要だと主張した。従者が王太子と婚姻を結ぶようになったのも、そのためだ。
本来あるはずではなかった身分制度を不満に思う平民は少なくない。その不満につけ込んだのがルーメ教だ。
少しづつ平民を取り込むと、いつの間にか貴族の中にも入り込み、気づけば今のような国を揺るがす大きな存在となった。
「身分制度を不満に思うのは分かるけど、精霊樹は身分なんて関係なく国を護っていますよね? どうして平民はそんなにあっさりと、怪しげなルーメ教に流れたのですか?」
「初代国王の主張だと、王侯貴族だけが精霊樹を利用しているように思えたんです。その後に続いた王も、似たようなものでした」
「なるほど……。国王も、随分と安易に身分制度を作りましたね」
「王なった経緯があれですからね…。国民にも二大公爵家にも、自分の存在を誇示したかったのでしょうね」
王家と二大公爵家。同じくして現れた教会。それは、お互いの光と影として存在しているようだ。
偶然にしては出来すぎていて、何かの意思を感じる……。
「孤児を助け、国のために祈る。教会はこの国の救世主のように言われていますが、実態はアイリーンが言った通りです。教会の幹部は、金儲けしか頭になく、誰も光の精霊なんて崇めていません」
「今まで通り精霊に護られし国として、ノーラフィットヤー国を治める気が教会にはないと聞きました」
「ない。でしょうね」
ソフィアは顔色一つ変えずに断言した。アイリーンの話を聞いた時以上に、エシルは恐怖を感じる。
かつて精霊の国だったノーラフィットヤー国は、精霊樹によって護られている。それが、ノーラフィットヤー国だ。それ以外にはなれないし、それ以外になることなど考えたこともない。
エシルだけではなく、この国で生まれた者に刻まれたその考えが、あっけなくぶっ壊された。
「教会は、ドースノット国と手を組んでいます」
「……ドースノット? 王太子が、婚約破棄をした?」
エシルの眉間に力がこもる。
「どうして、ドースノット国が教会に関わる? 宗教的な関わりではないですよね?」
「フローラ王女が受けた屈辱を、ドースノット国は決して忘れていない」
捨てた側の大義名分は、捨てられた側からすれば勝手な言い訳でしかない。
捨てた側は自分に正当性があると言って忘れてしまったことも、捨てられた側からすれば決して忘れられない卑劣な行為だ。
ノーラフィットヤ―国が、許されるはずがない。
幸いにも慰謝料や他国からの支援で、ドースノット国は持ち直した。王家を脅かす存在である教会に近づき、甘い言葉を吐き続けたのだ。
「ノーラフィットヤー国を手に入れたいのなら、力を貸そう」
「ノーラフィットヤー国を嫌悪しているのは、我が国だけではない。他国の軍も協力してくれる。武力で国を押さえつけてしまえば、二大公爵家だって手も足も出せない」
「『精霊樹が』とつければ何でも許されると思っているノーラフィットヤ―国から、精霊樹も精霊の加護も排除しようではないか」
「全てがまっさらになったところで、貴方たちルーメ教が国を治めればいい。我々も、他の同盟国も協力は惜しまない」
教会は国に思い入れなんてない。
それに、狙ったようにタイミングも良かった。
二大公爵家に邪魔されて、教会は思うように勢力を広げられなくなっていたのだ。そんな時に囁かれた甘い言葉に、教会は飛びついた。
「えぇっ! そんなに簡単に信じます?」
「宗教とは名ばかりの、己の欲に忠実な者の集まりです」
「それにしたって、簡単すぎる……」
「教会にとって、国なんてどうでもいいのです。ドースノットの言いなりに国をかき回して、時が来れば報酬を持って逃げるつもりでしょう。破綻しかけた国なんて、彼らにとって何の旨味もありませんからね」
「……アイリーン様は? 教会の顔にさせられた、アイリーン様はどうなるの?」
「アイリーンは使い捨ての駒です。その場に捨て置かれるなら、まだいい方でしょうね」
淡々と語るソフィアの声から、冗談でも皮肉でもないのが分かる。
「国民に未来を夢見させておいて、教会はお金を持って撤退する……。残されたアイリーンに怒りが向けられるのは必至だよね? それが、いい方だと言うの?」
エシルが非難めいた口調になっても、ソフィアは気にしていない。変わらずに淡々と語るだけだ。
「どこかの変態じじいに売られて屈辱にまみれて生きることは、アイリーンだって選びたくないですよね?」
「変態? じじい? 売られる? 屈辱? 何、それ……? 単語の全てが不快だよ?」
「それが、教会の実態です」
読んでいただき、ありがとうございました。