3.最期に見たもの
流血の表現があります。
本日2話投稿します。1話目です。
明日が『選定の儀』の最終日だから、城内が慌ただしく、落ち着かない。誰もが焦っていて、歩くペースが少し早くなっていた。
そんな人たちを横目で見ていたエシルは、いつも通り精霊樹との対面を終えた。いつもだったらさっさと背中を向けて帰っていくところなのに、精霊樹を見上げるのもこれが最後だと思うと、さすがに感慨深くてその場にとどまってしまう。
精霊樹との対話は、従者候補に課せられた唯一の日課だ。エシルも一年間毎日欠かすことなく、この場所で精霊樹を見上げてきた。
対話と言っても、一人と一本が向き合っているだけだ。それだけなのに、これが最後だと思うとホッとしたような、明日からの暗い日々が恐ろしいような複雑な気持ちが押し寄せてきた。
『選定の儀』を終えたら、要らない愛し子であるエシルは辺境の地に押し込められる。夢も希望も光もない場所だ。
そこでの暮らしは、この一年と何も変わらない。口を開くことなく静かに、理不尽を受け入れるだけだ。そうすれば、大切な人は守られる。エシルはそう信じていた……。
エシルを救ってくれた使用であり、恩人であるダンスールの平穏な幸せ。それがエシルのたった一つの願いだ。それが叶うなら、あとは何もいらない。
今日もダンスールの幸せを祈って精霊樹に別れを告げた時、エシルの中に一つの疑問が生まれた。
エシルが我慢していれば、ダンスールに平穏は訪れるのだろうか?
その疑問は、白い布にぼたりと落ちた黒い染みのようにエシルの中に広がっていく。
次々と湧き出てくる新たな不安に耐えられず身体は悲鳴を上げているのに、全く止まる気配がない。
国王はちゃんと約束を守ってくれるのか? 国王が約束を守らなければ、どうなる……?
エシルが生きている限り、ダンスールはエシルに縛られるのではないか?
実はエシルの存在が、ダンスールにとって不要だったのではないか?
エシルさえいなくなれば、ダンスールは解放される。それが本当の平穏ではないか?
この不安は、エシルが目を逸らし続けた現実ではないのか?
今更気づいても、遅すぎる!
突きつけられた現実に、エシルは愕然とした。
今まで自分がしてきたことが、ただの自己満足だったと思うと、申し訳なさよりも自分の愚かさに腹が立った。
そんな時だ。
身体がつんのめる程の衝撃と同時に、背中が燃えるように熱くなった。
背後からのしかかる、人の体重が重い。そう思っていたら、急に背中が軽くなった。でも背中は熱いし、何だか胸も熱い。そして、痛い。痛くて痛くて苦しい。空気を求めて呼吸が荒くなる。
何があった?
ふと下を向けば、灰色のワンピースが真ん中から黒く染まり始めていた。何だ? と思って胸を押さえれば、ぬるりと指の間から生暖かいものが溢れていた。
これがワンピースを汚したのかと手のひらを見ると、両手が真っ赤に染まっていた。
レイピアのような細い剣が、背中からエシル胸を貫いていた。
視線の先にある剣先から、真っ赤な血が滴っているのが見える。足元があっという間に血だまりになると、そこからあふれた血が一本の線となって、精霊樹の根元にある碧い泉を毒した。
美しく澄んだ碧い泉が、自分の赤い血で穢されていく。
泉に伸びる血を止めようと手を伸ばすも、エシルの身体はピクリとも動かない。動かないのに崩れ落ちることはできて、重い身体がぐしゃりと地面に沈んだ。
気づけば息苦しくて、空気が身体に入ってこない。必死に口を開いたつもりだったけど、それができていたのかも分からない。
なのに、胸が焼けるように熱くて、苦しくて、痛い。
息は吸えないのに、口から血を吐いた。口中に血の味がして、『最後くらいは、ダンスールの作った料理の味で締めたかったな』と場違いなことを思った。
感じたのは、痛みや苦しみだけではない。
「これで、やっと終われる。ダンスールを解放できる」
そう安堵してしまった自分への後ろめたさや、生きたいと思う気持ちが欠片もないことに笑いがこみ上げた。誰だか知らないけど、殺してくれてありがとう。とさえ思ってしまった。
視界がかすみ、何も感じなくなった身体に緑の深く濃い匂いがした。真っ黒な闇の中に落ちていくのが心地よく感じられた。
数十分前の自分の死が、エシルの脳に鮮明によみがえった。この短期間で自分の死を二度確認するなんて、一体どんな罰なんだと思う……。
エシルが倒れた場所から精霊樹の根元に湧く泉を視線で辿っても、赤い血が流れた様子は一切ない。何度見ても、いくら見ても、泉は碧く穢れを知らないままだ。
背中から胸へと突き抜けた剣の切っ先や、血を吸い込んで黒ずんで重くなったグレーのワンピースもない。エシルが今着ているのは、真っ白な生地に若草色の刺繍が施された装束だ。
多くの女性にとっては憧れであるこの白装束は、勝手に作ることも着ることも許されない。従者候補だけが、『選定の儀』で着ることを許される。
胸に置いた手が、いつの間にかかきむしるように白装束を握り締めていたことにも。滑らかな絹が皺だらけになっていることにも、エシルは気づいていない。
生々しい自分の死を、恐怖を、後悔を、安堵を、エシルが捏造して繰り返し自分に見せているとは考えられない。
これは、現実だ。
一度死んだエシルは、一年前に戻ったらしい……。やっぱりこれは、死に戻りだ。
どうして死に戻ったのだろうか?
こう言ったらなんだが、エシルは死を受け入れていた。死に戻ってやり直したいなんて、微塵も思っていなかった。
望んでいないのだから、誰かが勝手に死に戻らせたことになる。
当たり前だが、人間にそんなことはできない。時を操作するなんて、そんな神業を使えるのは、この世界で唯一の存在だけだ。
エシルが顔を上げて前を見ると、大きな雲が切れ朝日が再び精霊樹に降り注いでいた。
朝日でさえ、精霊樹の許しがなければ照らすことが許されない。そう思えるほどに、精霊樹の存在感は大きい。
岩肌のようにごつごつとして成人男性が四・五人隠れられそうな幹。縦横無尽に空に向かって張り出した枝。全てを覆い尽くすように無数に広がる緑色の小さな葉。その力強い全てが、一つ一つ意志を持っているかのようだ。
精霊樹はただの木ではない。ノーラフィットヤー国に数多いるとされる精霊の象徴であり、世界の理といわれ畏怖の象徴でもある。
そんな特別な存在だからこそ、国の守護者である精霊樹の従者を選ぶために『選定の儀』が開かれるのだ。
読んでいただき、ありがとうございました。




