26.破られたページ
よろしくお願いします。
日記帳には、王妃の恨みがただひたすら殴り書かれていた。
オリバーへの恨み。国王への恨み。自分を見下す貴族への恨み。自分を褒め称えない国民への恨み。自分をここまで貶めた精霊樹への恨み。
読み進めれば読み進めるほどに、気分が悪くなる。陰湿で独りよがりで醜悪で寂しい恨みが、嫌ってほど書き連ねられていた……。
日記を読み終えた二人は、立っているのがやっとだ。それこそ、王城と離宮を全速力で何往復もしたように疲れた。それ以上に精神的なダメージの方が大きい。ヘドロの様な絶対に近づきたくないねっとりとした何かが、身体中にまとわりついて離れない。そんな不快で仕方がない何かが、心にも絡みついている感じだ。
「とりあえず、ネイビル様にも見てもらおう」
どちらがそう言ったのか、分からない。
情報の共有の他に、不快感も共有してもらおうという思いがあったのは、お互いに口には出していない。
無表情に日記を受け取ったネイビルは、二人の前で高速で日記を読み進めている。
王妃には毎日日記を書く習慣はなく、恨みや怒りが我慢できない時に書くことで発散していた。『選定の儀』から離宮に押し込まれる前までのことが書かれているが、日付は飛び飛びだ。一冊だからすぐに読み終えそうだけど、内容は全てドロドロで重い……。
オリバーがパタンと日記を閉じ、執務机から二人が待つソファーに歩いてくる。いつも通りの無表情の中に疲れを感じ、二人は勝手に仲間意識を高めていた。もちろんネイビルはそんなことに気づくはずもなく、二人と向かいのソファーにどさりと腰を落とした。
「オリバー様の暗殺を計画したとして、王妃や国王を裁くことはできる内容だ。だが、精霊樹との誓約違反については何も書いていないな」
淡々としたネイビルの感想に、エシルは「うーん」と唸った。
「そうなんですよね……。暗殺計画に関しては、オランジーヌ家は既にこの程度の内容は証拠ごと掴んでいる。そこまで大騒ぎする秘密の日記ではないんですよね……」
エシルの言葉に、ソフィアもうなずく。
「アイリーンは日記を使って、王家を脅迫するつもりだと言っていました。そのような脅迫うけたとしても、オランジーヌ家が返り討ちにします」
となると一回目で国王は、オランジーヌ家に相談しなかったことになる。勝手に一人で抱え込み、勝手に教会の脅迫に屈してしまった。きちんと泣きつけば助けてもらえたのにと考えて、エシルは目を見開いた。
「この日記を教会が手にしたとして、国王を脅迫したとします。国王が宰相に泣きついたら、オランジーヌ家は助けますか?」
ソフィアだけでなく、ネイビルの表情も渋い。
「精霊樹が言葉も与えず花も咲かせないとなった時、父は真っ先に王妃の誓約違反を疑ったそうです。それくらい、最初から国王夫妻を見限っています」
「国王が自分の罪を認めたら、公爵は喜んでオリバー様を王に据えただろうな」
あっさりと冷たく切り捨てる二人の態度からも分かる。
国王は教会からの脅迫を、オランジーヌ公爵に相談できない。相談したら最期。王族暗殺を計画した罪で死刑だ。従者である王妃は死刑にはできないが、離宮にいるより自由を奪われて幽閉される。
それが分かっているから一回目は単独で動いて、教会にいいように利用されたのだ。
机の上に置かれた日記をエシルか開いた。
最初のページには、『選定の儀』で他の従者候補を罵った言葉が並んでいる。その後に自分が従者に選ばれた喜びと、自分を見下した人間を権力で潰せる喜びが書かれていた。
その後の二ページが破り取られている。
「この破り取られた後から急に、『オリバーを殺さなくちゃ』って言葉が出てくる……」
「破られたページに何が書いてあったのか気になるところですね。従者になった直後から、王妃がオリバー様を殺そうとしていた理由が書いてあったのかもしれない」
ネイビルが破られた跡を指でなぞった。
「このページに何が書かれていたのか、気になるな」
「破られたページの前後関係からみて、従者に選ばれた直後のはずです。誓約に関わる内容の可能性が高いです」
ソフィアも悔しそうに唇を噛んだ。
ちぎられたページの残骸には、文字の欠片が残っている。破られたページが白紙ではなかったことの証だ。
アイリーンの話だと、一回目は破られたページは見つかっていない。
書いた本人以外は誰も知らない重大な事実が、今回も埋もれてしまう。
そんな焦燥感が、部屋に重苦しい沈黙を作り出す。
ネイビルもソフィアも悔しそうに日記を睨みつける中、エシルはうつむいている。腰まである黒髪で覆われ、何を見ているのか分からない。
カタカタという音が、執務室の沈黙を破る。
音の発信元は、エシルだ。
何も言わずにレターケースの蓋をいじり始めたエシルに、ネイビルとソフィアは驚く。
蓋は様々な色や模様の木が寄せ集められてできている。エシルはそれを、ずらしたり戻したりしている。
遊んでいる? 割には真剣な表情だ。何が始まったのか分からない二人も、咎めることができない。
「あ、開いた!」
エシルがそう言うと同時に、レターケースの蓋だったものが箱に様変わりした。
レターケースの蓋だったはずなのに、様々な木が寄せ集められ模様になっていた薄い板の部分がスライドして開いたのだ。
それだけでもネイビルとソフィアは、目を見開いて声を失った。
だが、それだけではなかった。スライドした板の下には薄い隙間があり、白い紙らしきものが見えている。隙間に入っている日記帳の切れ端と思われる紙に、三人の目は釘付けだ。
エシルが開けたのは、秘密箱だ。子供の頃にダンスールから、よく似たものをもらったことがあった。
子供受けしない茶色の地味な色合いの箱に、もらった時点ではエシルは興味がなかった。興味がないどころか、腹を立てていたくらいだ。
ダンスールは箱の中にプレゼントを入れたと言うのに、箱のふたが全く開かないからだ。引っ張っても押してみても、びくともしない。ついにエシルが涙目になると、ダンスールが種明かしをしてくれた。
「いいですか? この寄木細工の部分を決められた手順で動かすのです。そうすると蓋が開きます。秘密箱というんですよ」
それから暫くの間、エシルは飽きることなく秘密箱を開け続けた。それはもう、ダンスールが呆れるほどに……。
その記憶が功を奏して、とんでもないものが出てきたのだ。何が役に立つか分からない。
秘密箱に入っていた二枚の白い紙が、テーブルに置かれる。
紙一杯にびっちりと書かれた文字は、王妃の筆跡と同じだ。何より破り取られた形状が、日記のそれとピッタリと合った。
視線は紙に釘付けなのに、三人の誰も手を伸ばすことができない。すぐにでも読みたいのに、躊躇ってしまう。
この紙に書かれた内容がもたらす衝撃を、予感しているせいだ。
ネイビルが二枚の紙を横に並べると、三人は立ち上がって紙を見下ろした。
3人の目が、破り取られた紙に書かれた文字を追う。
「……あの王妃、いかれているとは思っていたが……ここまでとは……」
「完全に誓約に反してます。しかも、初回からだなんて……」
「精霊樹が怒るのも無理のないことです」
予想通り三人の顔を青ざめさせた、王妃の告白。
それは、もう、自分勝手極まりない内容だった。エシルだって、唸り声しか上げられない。
一年間の『選定の儀』を終えて従者となった王妃に、精霊樹が伝えた最初の言葉。それが、裏切りと決別の始まりだった。
『次の王は、第二王子であるオリバーだ』
精霊樹の言葉は、従者となった喜びをごっそり削ぎ落すものだった。
第一王子の十歳年下であるオリバーは、当時まだ九歳。その時すでに十七歳であった王妃では、婚約者に選ばれるはずがない。
このままでは自分は王太子妃にも王妃にもなれない。それどころか、近くにはオリバーの妃を決める『選定の儀』が始まる。自分は、従者でもなくなってしまう。
自分のことしか頭になかった王妃は、愚かにも精霊樹の言葉を握りつぶした……。
エシルもソフィアも、破り取られた紙からというか、ネイビルから一歩引いていた。
精霊樹の守護者であるネイビルの怒りは、側に立っているだけで窒息しそうなほど恐ろしい。
普段の強面なんて、なんてことないただの無表情だったのだ。爆発しそうな怒りを抑えるために歯を食いしばるネイビルの凶悪さを前にしたら、そうとしか思えない。
命より大切な精霊樹がこけにされたのに、罰するべき相手はもういない。行き場のない怒りを内に秘めるしかないのは、辛い。
「自分が王妃になるために、従者でい続けるためだけに、精霊樹を裏切った。そこにはもう、信頼関係も主従関係も何もない」
怒りを抑えて限りなく重低音になった声で、ネイビルはそう吐き捨てた。
「護られる側が裏切ったのです。精霊樹が決めたこの国を統べる者を、自分の都合で変えた。精霊樹にとっては、従者だけでなく国も見捨てるほどの怒りだったでしょう」
こんな一大事に気づかず止めることができなかったのは、オランジーヌ家の失態だ。そう自身を責めるソフィアは、握り締めたドレスの裾を破れんばかりに引っ張っている。
精霊樹を切り倒しこの国を奪おうとした隣国を倒したのは、王家と二大公爵家だと建国史はある。その褒美として精霊樹から国を治める栄誉を与えられた王家と二大公爵家は、協力して精霊樹と共に国を守っている。そう書かれている。
だが、実際はどうだろう?
王家が国を滅ぼしかける。二大公爵家はその尻拭いに走る。
これが正しいのではないか?
ソフィアだって、二大公爵家と王家は信頼関係で結ばれているのではない。二大公爵家は王家を見張るためにある。と言っていた。
「ずっと疑問だったのですが、王家って意味あります?」
二人の視線を集めてしまったけど、エシルはどうしたって納得できない。国王という存在があるからこそ、国がおかしくなっていく気さえする。
「いないたいけな国民に罪をなすりつけた上に、こうやって国を滅ぼしかけている。諸悪の根源としか言いようがないですよね? 王妃と同じで、自分のことしか考えていない。国にとってはお荷物です!」
一番の被害者に言われてしまえば、二人には返す言葉がない。
エシルはソフィアを見た。
「三家で力を合わせて国を治めているのではなく、二大公爵家は王家を監視しているんですよね。そこまでして王家にこだわる意味は何ですか?」
ネイビルとソフィアは渋い顔で、チラチラとお互いを見ている。
二人とエシルでは身分も違うし、置かれた立場も全く違う。こうやって一緒に話をしている状況がおかしい。そんなことは分かっているのに、疎外感を感じてしまう。そう考えてしまう自分に、エシルは驚いていた。
こんな気持ちは初めてで、トゲトゲしてしまう自分が嫌で、エシルは窓を開けて外を眺めた。
視界の先に少しだが、精霊樹が見える。それだけでは、エシルの気持ちは落ち着かない。
「エシル」
ネイビルの声は届いている。
二人を見るのが嫌で、精霊樹を見ていたい気持ちが強い。だが、相手は二大公爵家の当主だ。無視をするわけにはいかない。
渋々振り向くと、アイスブルーの瞳がエシルを待ち構えていた。
いつになく気合いの入った冷たく厳めしい顔が、緊張しているのだと気づくのにエシルは数秒かかった。
「この国の暗部に関わる話だ。聞く気はあるか?」
「今までも随分、そんな話をしていたと思いますが?」
つい突っかかるような態度をとってしまう自分に、エシルが一番驚いている。
大きく息を一つ吐いたネイビルは、冷静さを取り戻すように息を吸い込んだ。
「今からする話は、王家と二大公爵家しか知らない秘密だ。話を聞けば、愛し子以上に国に縛られるかもしれない。エシルは、どうしたい?」
前髪で隠れた瞳の奥まで、ネイビルにのぞき込まれる。
一回目のエシルなら、絶対にお断りだ。ダンスールが関わらないことに時間を割くなんて、バカバカしい。国のことなんて、心底どうでもいい。そう考えたはずだ。
今のエシルは?
国には縛られたくない。でも、このまま何もなかったことにも、できない……。
ネイビルやソフィアやオリバーやアイリーン。少なからず関わってきた人たちがいる。その人たちとの関係を、なかったことにはしたくない。
エシルが厚く長い前髪を左右に分けると、赤錆色の目が出てくる。その目で真っ直ぐにネイビルを見返したエシルは、「話を、聞きます」とはっきり主張した。
読んでいただき、ありがとうございました。