2.『選定の儀』が始まる?
本日二話目の投稿です。
勝手に目が開いたことに、エシルは発狂しそうなほど驚いた。
発狂しなかったことも、絶叫しなかったことも、褒めて欲しい。そう言いたいが、絶叫に関しては喉が枯れ果てていて声が出なかっただけだ。
とにかく、エシルはどうしようもなく混乱していた。まともな思考はどこかに置き忘れてしまった。
ついさっき、目の前が真っ黒な闇に染まった――、はず。だった? あれは、夢? いや、あんなにリアルな夢があってたまるか! そう叫びそうになるのを、エシルはぐっとこらえた。そして、冷汗が背中を伝うほど不思議に思う。
踏ん張った体に、力が入る……。これは、おかしい……。どう考えても、絶対におかしい。
だって、つい数秒前までのエシルは、自分の思う通り動かすことなんて叶わなかった。苦しむことさえ奪われ、強制的に終わりを告げられたはずだ。
怖くてギュッと閉じた目をそっと開くと、自分の足元が映し出される。見慣れた小花が咲いた緑の大地だ。
常に優しい色の草花と柔らかな日差しが溢れるこの場所は、エシルの視界が闇に染まった時にいたのと同じ場所。
混乱しながら顔を上げると、分厚く長い前髪の下にある赤錆色の目が、眩いばかりの黄金色の朝日に攻撃された。脳内まで朝日が侵入してきて、目をつぶっても視界が黄金色に輝いている。
自分に何が起きているのか、エシルには全く見当がつかない。
いったん落ち着こうと、深呼吸ができてしまったエシルは思う。
数分前に間違いなく死んだのに……。これでは、生きているみたいだ。と……。
おかしすぎて、エシルは開き直ることにした。
ここは死後の世界だ、きっと。と……。
眩しくて何も見えないけど、闇よりも光にあふれていることが正義なのは知っている。だから、いいことが起きるはずだと、エシルは自分に言い聞かせた。
強烈な光に目が馴染んでくると、目の前の光景もぼんやりと見えてくる……。
圧倒的に視界を埋め尽くす緑と茶色の景色は、見慣れすぎていて怖い。
視界に入りきらない一本で森のような大樹が、黄金色の朝日を浴びてキラキラと輝いていた。生い茂る葉の間からこぼれてくる光が、根元にある碧い泉まで金色に染めている。
その雄大かつ荘厳な景色が、「お帰り」とエシルへ物騒に微笑みかける……。
見慣れた構図。
見慣れた景色。
そんな慣れ親しんだ景色を呆然と眺めるエシルに、「一年前に全く同じ光景を見たな」というありえない感想が浮かんだ。
その瞬間に身体中の血液がザっと地面に吸い取られたような感覚がして、寒さと共に得体の知れない不安が足元から這い上がってきた。
エシルは、この景色をもう見たくはなかった。
死後の世界は、縁を切りたい過去とそう簡単に切れてくれないのだろうか? そう思うと腹が立つ。
だって、エシルは罪人ではない。罪をなすりつけられた挙句に、殺されたのだ。なのに、どうして、死んだ後も過去が追いかけてくる?
諦めたから? でも、他に何ができた? 何の力もないエシルに、何ができたというのだ?
殺されるまでの一年、エシルは我慢に我慢を重ねた。いや、そんな簡単なものではない。自分を殺し続けた。
いくら大切な人を守るためとはいえ、我慢にも限界がある。ましてや我慢の先に待っているのは、絶望しか残っていないのだったら、なおさらだ。
それなのに、エシルを責めるのか? 死んでもなお、この場所にとどめるのか?
目の前の状況を受け入れられないエシルに、誰かの声が聞こえてきた。
いや、誰かの声ではない。誰の声か分かる。死んだ後でまで、絶対に聞きたくない奴の声だ。
視覚だけではなく聴覚まで取り戻してしまったことで、エシルの脳内が活性化された。ぐずぐず悩んでいないで、目の前を受け入れろ。と言わんばかりに、頭の中に情報が溢れてくる。
精霊樹の棲み処ともいえるこの聖域に入ることが許されているのは、従者と従者候補とブールート家当主だけだ。精霊樹を守護する立場の聖騎士はもちろん国王でさえ、入ることは許されない。
許された者だって、精霊樹と向き合う時は必ず一対一。自分の声以外が聞こえてくるなんて、ありえない。
だが、唯一例外がある。
『選定の儀』だ。
『選定の儀』の初日と最終日だけは、見守り人として、聖域に人が入ることが許される。
エシルの直近の記憶は、『選定の儀』最終日の前日だ。
色々ありすぎて分からないけど、とても信じられる話ではないけど、今日は『選定の儀』最終日なのかもしれない。
何がどうしてどうなったのかは分からないけど、エシルは死なずに昨日を乗り切ったのかもしれない。
残念だが、ここは死後の世界ではないらしい……。
もっと情報を集めようと前を向けば、声の主である王太子がおこがましくも精霊樹の前に立っている。
王家の象徴といわれる灰色の瞳と灰色の髪を持った王太子は、ひょろりと細長い優男だ。全体に色素が薄く、身体も薄い。いつも着ている装飾がひらひらと派手な服は似合うが、ごつい軍服は全く似合わない。
ごつい白の軍服……。白地に金色の刺繍がけばけばしい軍服は、王家の特別な正装で着る機会は限られている。
これを着るのは、『選定の儀』の中でも公式の行事だけだ。
ということは、やっぱり今は『選定の儀』の最終日なのか……?
エシルには、昨日を無事に終えた自分が想像できない。
早鐘を打つ心臓を落ち着けるため一度深呼吸をして、よくよく周りを見てみる。
大きく張り出した精霊樹の枝の下には、国王や大臣が左右十人ほど並んで立っている。ということは、やっぱり今は最終日なのだろう……。
エシルが何となく感じる既視感や違和感から目を逸らしていると、王太子が一歩二歩三歩と前に出てきた。
「精霊樹が従者候補を選んでから少し時間が経ってしまったが、国のために必要な時間だった。今日のこの『選定の儀』から、ノーラフィットヤー国が新たに始まることを、レオンハルト・ノーラフィットヤーが宣言する!」
『選定の儀』が、始まる、だと?
エシルの頭の中は真っ白になった。
王太子の精一杯に張った声も、言葉も、一度聞いたことがあったからだ。どこで聞いたって、一年前の『選定の儀』初日で聞いた。
今はエシルにとって、二回目の『選定の儀』の初日らしい……。
「ここに集まっているのは、このノーラフィットヤー国を私たち王家を支える重要な人物たちだ。『選定の儀』の始まりを共に盛り上げていってほしい」
あまりの衝撃に全てが押し流され、空っぽになったエシルに沸々と怒りがわいてくる。
一度目の『選定の儀』でエシルは、王太子と国王に裏切られた。いや、裏切りだと思うこと自体が間違っている。
元々約束も何もなく、王家から一方的に突きつけられた脅しだった。それを律義に守りさえすれば、大切な人を救えると信じたエシルが愚かな世間知らずだったのだ。
今ここで起きていることが、『選定の儀』の初日であることは間違いない。
同じ過ちを繰り返さないためにも、状況を把握するべきだ。
まずは今の状況が、一年前と同じなのか確認するべきだ。
陰気と評判な長い前髪の間から、こっそりと自分の左右に並ぶ候補者達を観察してみる。
一回目と同じで、四人の候補者は右から身分の高い順に並んでいる。公爵家、伯爵家、子爵家、平民の順番だ。並んでいるメンバーも一回目と変わらない。
エシルの右隣が、この中で一番身分の高い公爵令嬢だ。ただの公爵家ではなく、王家と並ぶ二大公爵家の一つであるオランジーヌ家の長女ソフィアだ。エシルの二つ年下で十九歳。
燃えるような赤髪とつりあがった青い目が印象的で、四年前に急に太る前までは美しさでも有名だった。優秀で完璧な淑女だが、自分にも他人にも大変厳しい。
エシルのすぐ左隣に立つのは、子爵家の令嬢マリアベルだ。子爵家というより、世界を股にかける大商人として有名な家だ。有り余る財力にものを言わせ、その発言力は高位貴族以上だ。
ソフィアと同じ十九歳だけど、ふわふわのピンクブロンドとミルクティー色の丸い目で幼く見える。見た目の通り礼儀やマナーがなっていないのは、甘やかされて育ったからだ。
見た目がいくら愛らしく甘いお菓子のようだとしても、中身まで同じだとは限らない。マリアベルはエシルが一番関わりたくない人物で、性格は怖いくらいにあざとくしたたかだ。
マリアベルの左横に立つのが、平民のアイリーンだ。
シルバーブロンドとアメジストのように澄んだ瞳は、十七歳とは思えない圧倒的な美しさだ。
平民の間で爆発的に人気があるルーメ教で聖女と呼ばれる存在なのは、この美しさも間違いなく影響している。
エシルの知るアイリーンといえば、まるで精巧な人形のようで一切の表情がなかった――? はず、だ……。
……何も映していなかったアイリーンの瞳に、怯えが広がっている。恐怖で見開かれた目は、なぜかエシルに向けられている。
これは、困った……。
それじゃなくてもルーメ教にとってエシルは天敵だ。アイリーンとの間に何かあった日には、エシルに及ぶ被害は甚大だ。考えるのも、恐ろしい……。
見なかったことにして、エシルは『選定の儀』の進行に意識を向けた。
「『選定の儀』は、ノーラフィットヤー国にとって最も重要な儀式だ。その儀式を執り行う役目を任されたことを、私は誇りに思う」
『選定の儀』の責任者は、王太子だ。というのも、選ばれた精霊樹の従者は王太子妃になるのが習わしだからだ。
国にとって最も重要な女性を王家に取り込むこのシステムは、とっても効率的で政治的には必要不可欠なのだろう。エシルには納得できないが……。
「最近はノーラフィットヤー国が精霊に護られし国であることを疑問視する声が、周辺諸国から上がっていると聞く。私はそれを不満に思う!」
王太子は両手を胸に置いて、天を仰いだ。
「ノーラフィットヤー国はかつて精霊の国であった! 私たちは精霊樹と精霊から加護を受けている! それは、ここにいる精霊樹に選ばれた四人の精霊の愛し子たちが証明してくれている!」
精霊樹の従者には誰でもなれるわけではないし、立候補もできない。従者に選ばれるのは、火・風・水・土・光・闇の精霊の愛し子のみだ。そして、選ばれるのは必ず女性だ。
精霊愛し子は何の力も持たないため、精霊が見えない人間に見分けられない。愛し子が分かるのは、精霊樹だけだ。
だからまず精霊樹が、従者候補である愛し子を数名選ぶ。
選ばれた愛し子は精霊樹の下に集められ、一年を共に過ごす。そうやって精霊樹は信頼できる者を、たった一人だけ従者に選ぶ。それが『選定の儀』だ。
芝居がかった王太子が、後ろにそびえ立つ精霊樹を仰々しく見上げる。
同じ演目を何度も観劇する人がいるのは知っているが、この茶番は一度で十分だ。そう思えてしまうくらい今までの流れは、全てエシルの知るものと同じだった。
「この愛し子たちの中から、一年後に従者が選ばれる。精霊樹が憂いなく選べるよう、私は最善を尽くそう!」
王太子は馬鹿みたいに両手を広げた。見ている方が恥ずかしくなるくらい、みっともない。
一度目は、こいつに怯えていたのかと思うと、エシルはもう笑えてしまう。
真っ白な王太子の軍服に、暗い影が落ちた。精霊樹の葉の間からこぼれた煌めきも消えていく。朝日に大きな雲がかかり、一瞬で辺りが薄暗くなっていた。
鬱蒼とした精霊樹の後ろから強い風が吹き抜け、太い枝が大きく揺れて葉が音をたてる。精霊樹は巨木だ。その音だけで、周りを圧倒する。
いつだって穏やかな姿しか見せなかった精霊樹。全てを受け止めて、優しい光をきらめかせていた精霊樹。その精霊樹が、エシルの不安を掻き立てて胸をざわつかせる。
むせ返るようなこの深く濃い緑の匂いは、エシルの視界が真っ黒に染まる直前に感じたものと同じだった……。
読んでいただき、ありがとうございました。