14.空腹とトマトリゾット
本日一話目の投稿です。
よろしくお願いします。
「どこにもいないとは思っていたけど、どうしてこんなところにいるのですか?」
エシル一人しかいないはずの場所で、仁王立ちをしたソフィアが怒鳴った。
「……『どうしてこんなところにいるのか?』なら、私もソフィア様に聞きたいですね……?」
「わたくしは貴方を探してに決まっているでしょう? じゃなきゃ、わざわざ気味の悪い離宮になんて来ません!」
「そう、ですか……」
ニンニクの香りが食欲をそそるトマトリゾットの火を止めたエシルは、食器棚の横にあるはめ殺し窓をぼんやりと眺めた。
この離宮で、普通に窓の外を見られるのはこの小さな窓だけだ。
三年前まで王妃が暮らしていた離宮は、どこか薄暗く悲しい場所だ。誰もが薄気味悪いと感じ、誰も近寄らない。
作業台にある椅子に座ったソフィアは「離宮なのに、オランジーヌ家の厨房の十分の一もないわ……」と、狭い厨房を見渡して眉をひそめた。
調理場と作業台と貯蔵庫。確かに狭いが、居心地は悪くない。
「こじんまりとしていて、私は落ち着きますけどね」
「そんなこと言うのは、エシル様くらいです。変わっているわね」
「まぁ、否定はできませんね」
生い立ちからして、普通の令嬢とは違う。その上『邪悪な闇の精霊の愛し子』として国中から非難を浴びている。これで普通の令嬢として振舞えたら、ちょっと異常だ。
「ここは……、建前としては、王妃様が静養するために作られたのよ」
「静養って、もっと遠くに行くものかと思っていました」
「従者である以上、精霊樹からは離れられないでしょう?」
ソフィアの顔は、王妃を嘲っているのか憐れんでいるのか分からない。
役立たずであっても、精霊樹と毎日顔を合わせる。
今日こそは言葉を与えてもらえるはず! という希望もついえた従者にとって、それはどれだけ心を黒く染めるものだったのだろうか?
「従者や愛し子に選ばれることは、幸せなのでしょうか……」
「名誉なことよ」
そう言ったソフィアだが、すぐに「わたくしには、ここは牢獄にしか思えないわ」と言うのはいかがなものか……。
苦笑いをしたエシルだけど、それは離宮を指すのに一番相応しい言葉に思えた。
たった一つの小さな窓以外は、全て鉄格子がつけられている。王妃を守るためとはいえ、随分と重々しい。
あれだけゴテゴテとど派手な王城とは違って、離宮には何もないのもかえって不思議だ。安普請というわけではない。ただ何の思い入れもなく、全てが薄っぺらだ。人が暮らすためというより、閉じ込めるための建物に思える。
「牢獄でも何でも、私は料理ができればそれでいいです」
ダンスールがネイビルに進言してくれたおかげで手に入れた。ここはエシルにとって安息の地だ。
人の目を気にすることなく、嫌がらせに煩わされることなく、ゴミみたいな食事を食べる必要もない。このトマトリゾットのように、好きな料理を作って、好きに食べられる。
温かい湯気が上がるトマトリゾットの皿を持って、エシルは悩んだ。
厨房に椅子は二つしか置いていない。一つはソフィアが座っていて、もう一つはソフィアの向かいに置かれている。ソフィアと向かい合って食事をするのは避けたいけど、勝手にやってきたのはソフィアだ。エシルが気をつかう必要はない。……はずだ。
机代わりの作業台の上に置いたトマトリゾットを、ソフィアは物珍しそうに見ている。
「見たことがないわ……。平民の食べ物かしら?」
「どうでしょうか……。私は貴族の食べ物も平民の食べ物も見たことがないので、分からないです。ただ、ダンスールが作るものは変わっているので、一般的ではないのかもしれません」
エシルを育ててくれたダンスールは、一見どこにでもいる普通の四十歳の男性だ。本人は自分のことを「完璧なモブ」と言っていた。
そんなダンスールは、見た目以外は非凡の塊だった。
「私に料理を教えてくれたのはダンスールですが、本当に奇怪な材料を見つけたり作ったりするのが天才的でした。仕入れ先の相手も、なかなか癖のある面白い人たちばかりでしたし……」
国境のあばら家に住んでいた時のことを思い出すと、エシルはクスリと笑ってしまう。
コクタール家としては野垂れ死んで欲しかったのだろうが、エシルとダンスールは楽しく暮らしていた。これ以上の幸せはないと思えるほどに……。
「ダンスールの作る料理は、もちろん全部美味しいのですけど……。一口目を食べるのに、とっても勇気が必要なものもあります」
「勇気のいる食べ物って、想像がつかないわ……」
「あっ! 毒とかではないですよ? ダンスールは美容と健康にはうるさい人でした。このトマトリゾットにだって、野菜の栄養素を漏らさずに米に吸わせるとか、トマトには美肌効果があるとか、リゾットは水分があるから少しの量で満腹になるから太らないとか色々といいこと尽くしです」
必死にダンスールを擁護するエシルの前で、ソフィアは「美肌、太らない……」とぶつぶつ言いながら急にトマトリゾットに熱い視線を向ける。
ダンスールは博識で、料理だけでなく畑仕事も上手で優しい。それ以外も薬草の知識もあり大工仕事も何でもこなす。エシルにとってダンスールは「生活の達人」だった。本当に尊敬しているし、大好きな人だ……。
だが、ただ一つ、難点があった。
自分のことを『異世界人だった前世の記憶がある』と言うのだ……。
あの頃のエシルは、半信半疑だった。いや、信じていない寄りだった。「ダンスールもきっと、辛い思いをしたんだな」と心配していたくらいだ。
だが、自分が一年前から死に戻ってきたことを考えると、ダンスールに異世界人だった記憶があるのも嘘じゃないと思える。世の中、何があるか分からない。
「太ら……じゃない。こんな場所で料理をしているのは、どうしてですか?」
「そうですね……。一番の理由は料理が好きなことですが、城から出される食事が酷すぎるのも理由の一つですね。ほら、王太子が好きなことをしていいって言っていたじゃないですか!」
「言っていましたけど、よくこの離宮を使う許可が取れましたね。渋る国王から鍵を奪い取ったと聞いていますよ……」
王妃様が暮らした場所に思い入れがあるのか、国王は離宮の鍵を肌身離さず持っていた。決して誰も中に入れないし、自分近寄はないどころか離宮がある方向も見ない。屋敷の手入れもしないから、不気味度が増して「入らずの家」と呼ばれているほどだった
「その辺はネイビル様が色々と手配してくださったので、私は分からないんです。ちょっと悪そうな顔をしていましたけど……」
呆れた顔をしたソフィアは「……ちょっとじゃない悪い顔を、常にしていると思いますよ」と呟くと、思い出したように緊張感のある顔に戻った。
「エシル様は、お茶会でマリアベルを烈火のごとく怒らせましたよね?」
「まぁ、結果的に……、そうなりましたね」
「チャービス家は裏世界とも関係が深い。何をしてくるか分かりません。エシル様は教会からだって狙われていますし、気を付けるべきだわ。玄関も鍵が開いていたし、不用心です」
「……はい……」
人気のない場所に住んでいたエシルに、鍵をかける習慣はない。
一度殺されたし、殺されかけた。ソフィアの言う通り、気を付けるべきなのかもしれない。
だが、今はご飯が先だ。食事を楽しめる幸せをかみしめて、エシルは「いただきます」と手を合わせる。
「そのトマトリゾット、わたくしも食べたいわ!」
これはエシルのご飯なのに、食べるのを躊躇うくらいの熱視線がトマトリゾットに向けられている。
さっきまでは眉をひそめていた食べ物を、気合を入れて欲する理由は何なのか?
リゾットとソフィアを交互に見て、エシルは疑問しかわいてこない。
一回目だって、一緒にご飯を食べるような仲ではなかった。それどころか、こうやって向き合って話をするような仲でもなかった。
マリアベルみたいに陰湿な嫌がらせをソフィアから受けたことはない。でも、冷ややかな目は、いつも何か言いたそうだった。
今だって勝手に押しかけられたけど、懐かれる要素はない。
この突然の訪問には、何か裏がある?
「ソフィア様は、私に用があるのですよね? 何ですか?」
王家が表向きの存在なら、オランジーヌ家は影の王だ。
王家が権力に縋り振りかざすのに対して、オランジーヌ家は不気味なくらい静かに人々を掌握する。
そんな国も人も丸裸にできる家の娘らしく、ソフィアは年齢以上に老獪だ。エシルからすれば、用心して距離を取りたい相手だ。
エシルはこの二週間の間で、一度殺され、未遂も一度経験した。当然危険センサーの感度も上がっている。
そのセンサーが、走って逃げろと警報を鳴らす。エシルは食事を諦め立ち上がった。
一目散に逃げ出すはずのエシルが、固まったまま自分の胃袋の辺りを押さえて見下ろしている。
足を上げようとした、その瞬間。ガタンという椅子が床に擦れる音にも負けない、グォーとお腹の鳴る音が聞こえたと思えたが……。勘違いだったようだ。トマトリゾットを食べ損ねたけど、あれほどの音が鳴るほどエシルのお腹は空腹ではない。
気を取り直して再度逃げようとすると、またグォーと音がする。エシル、ではない。音はソフィアから聞こえる。「いやいや、ありえない」首を振ってエシルが呟くと、ソフィアのお腹からまたグォーと音が聞こえてきた。
公爵令嬢が空腹? それも、お腹が鳴るほど? そんなこと、ある?
真っ赤な顔をしたソフィアが、エシルを見上げて「公爵令嬢だって、空腹でお腹が鳴ることくらいあるわ!」と叫んだ。
「……えっ? どうして私が考えていることが分かりました? もしかして、心が読める……」
「そんなわけないでしょう! 貴方、心の声が駄々洩れなのよ! 今更口を押さえたって、遅いわ!」
お腹の音を聞かれたのが恥ずかしくてソフィアはそっぽを向いているが、その間も絶え間なく音が鳴り続けている。
ソフィアがいかにお腹に力を入れたところで、自力で止めるのは無理だ。それほどまでに、お腹は食べ物を欲している。
「厨房に言えば、軽食でもお菓子でも昼食でも何でも準備してくれますよ?」
「それじゃ、ダメなのよ!」
涙目でお腹を押さえたソフィアに見上げられた。
「何がダメなのか、分かりませんけど……」
エシルを睨んだソフィアは「痩せないからに決まっているわ!」と叫び、力任せに作業台を叩いた。
バンという大きな音が、厨房内に響く。
「何としても、痩せないといけないのよ!」
ソフィアの必死な決意をかき消すように、今まで一番大きなお腹の音が狭い厨房に響き渡った。
「……えっと、落ち着きました?」
「…………美味しかったわ。ありがとう」
「いえ、お口に合ってよかったです……」
きれいに空になった白い皿を、エシルが片付ける。その後姿を、ソフィアはじっと見ている。
結局、ソフィアはトマトリゾットを食べた。
顔見知り程度の相手に手料理を振舞うことを、エシルだって警戒した。それでも、腹の音が止まらないほど空腹なソフィアを放っておくなんて、飢える辛さを知るエシルにはできない。
「わたくしは、エシル様のことを勘違いしていたようです……」
「はぁっ?」
ソフィアのシュンとした態度に、エシルはお皿を落としかけた。
いつも自信満々で上から目線のソフィアからは考えられない言動だ。危険センサー最上級の警報を鳴らす。
「愛し子に選ばれてから、顔合わせも兼ねて何度か四人でお茶会をしましたよね?」
「…………」
無言のエシルは、遠い目になっている。
思い出したくない、記憶の一つだ。ソフィアにとってはお茶会の場でも、エシルにとっては公開処刑の場だった。
「あのお茶会でのエシル様と今のエシル様が、同一人物だとわたくしには思えないのです」
同一人物なのは間違いない。ただ一度死んで、戻ってきただけだ。
そう言えたら簡単だけど、『邪悪な闇の精霊の愛し子』伝説に拍車がかかる可能性の方が高い。信じてもらうには、エシルの置かれた立場は非常に不安定だ。
「……意味が、分かりませんが?」
「弱者につけ込むのが、貴族の常套手段です。それなのにエシル様は人の顔色ばかり窺って、肯定も否定もせずに曖昧に笑うだけでした……」
一回目の『選定の儀』はもちろん、家族にだってエシルはそう対応してきた。
下手なことを言えば、劣悪な環境が酷くなる。自分の意見は言わずに、相手に都合よく解釈された方が守られるものが多かった。
「わたくしはエシル様を見る度に、『つけ込まれないようにもっと気をつけるべきなのが、なぜか分からない! しっかりしなさい!』と怒鳴りたい気持ちを押さえていました。先日のお茶会でも、八つ当たりしましたし……」
確かにお茶会での一言はソフィアらしくなかったが、申し訳なさそうに見上げられるほどエシルは気にしていない。
どうしたものかと顎に手を置いて考えていると、ソフィアから疑るように見上げられていた。
「城でお会いしたエシル様からは、そんな様子がなくなっていました」
「………………こ、『コクタール家の出がらし令嬢』が、お茶会なんて参加したことがあると思いますか? 王都に来ることさえもなかったですから、それはもう緊張しておりました……」
ひきつった笑顔の説明で、あのソフィアが納得するとはエシルだって思っていない。それでもこれ以上の回答が思いつかないのだから、ソフィアの冷たい視線なんて見ないふりだ。
「王都に緊張していたのに、初めての王城で緊張しないのですね……。エシル様はやっぱり強い方です」
「……えぇ、まぁ……」
ソフィアの嫌味に目が泳ぐ時点で、強さの欠片も見えない。でもいい。「王城生活は二回目なので」なんて口走るより、全然いい。
エシルは後片づけを始めて暗に退場を促しているのに、ソフィアは全く動かない。帰るそぶりもない。
勝手に来て、勝手に食べて、勝手に居座る。ただの質の悪い人ではないか!
「ソフィア様、用事が済んだのなら帰っていただいてよろしいですか? 私もそろそろ出たいので」
ソフィアのことだから難癖をつけて居座るかと思ったが、意外にも急に焦りだして「用事は、まだ……」とせわしなく両手をこすり合わせている。チラチラとエシルを見上げる姿は、子供が秘密を打ち明ける時みたいだ。
ソフィアを置いてでも帰ろうと猛スピードで片付けるエシルに向かって、ソフィアはきゅっと目を閉じて早口でまくし立てる。
「わたくし、エシル様にお礼を言いたくて、ここまで探しに来たのです!」
ドガンという音が響いたのは、エシルが鍋を流しに落としたからだ。
なぜかエシルの言葉を待っているソフィアが、やっぱりなぜか期待を込めてエシルを見ている。その視線を向けられるほど、エシルは困惑しかしない。
「……お礼? いや、何も、思い当たりませんけど?」
顔の中のパーツが入れ替わりそうなほど困ったエシルから出た声は、ソフィアとは大分温度差がある。
いくら真っ赤な顔を向けられても、お礼を言われるほど二人は関わっていない。
「先日の王太子殿下のお茶会で、わたくしはエシル様に助けられました」
「助けてないです」
間髪入れないエシルの返答に気づかずに、ソフィアは「そんなことはありません」とキラキラと感謝のこもった目を向けてくる。
「マリアベルの暴走をエシル様が止めてくれなければ、わたくしはあの女に手を上げていたでしょう」
「いやぁ……。そこまでは、しなかったと思いますよ……」
一回目ではコテンパンに言い負かそうとして、マリアベルのあざとさにやり返された。ソフィアはむしろ、やられた側だ。勝手に事態を深刻化させて感謝されても困る。
内心焦りながらも軽く流そうとするエシルを、ソフィアはどこまでも追ってくる……。
「いいえ! あの時のわたくしは、本当にあの女の頬を叩こうと思ったのです。そんなことになれば、殿下は今以上にわたくしを厭い遠ざけたでしょう」
「…………」
これだけ泣き出しそうな笑顔で「太った醜い女なんて、もともと嫌われていますしね……」と言われてしまえば、見ないふりはできない。
完全に逃げの体勢だったエシルだが、ここまで来たら話に付き合う覚悟を決めた。姿勢を正してソフィアと向き合ったエシルは、一回目からの疑問を口にした。
「王太子の……、どこに恋する要素がありますかね?」
人生最大の謎に挑む顔でそう言われたソフィアは、途方に暮れた顔を傾げた。
「……エシル様、もう少し慎みを持ちませんか?」
「そういうこととは縁遠い環境で過ごしました。興味があるか、興味がないか、私は二択しかないらしいです」
「…………」
ちなみ恋の好きも、物語や小説でしか知らない。そんなエシルからすれば、王太子は「王子様」という肩書以外に恋の対象となる要素はない。優秀で理性的なソフィアが、なぜそんな王太子に恋をするのか? 解けない数学の問題のようで、興味津々だ。
「こうもはっきりと言われたのは、お父様以外では初めてだわ」
そりゃそうだろう……。この国で一番身分の高い令嬢に聞ける話ではない。
でも、貴族の常識なんて持ち合わせていないエシルには通用しない。興味があることは追及する。それだけだ。
「こういったらなんですけど……。ソフィア様が王太子を慕うことに、オランジーヌ家は賛成していないですよね?」
ソフィアの表情が一瞬で曇る。エシルから視線を逸らすと、「家は……関係ありません……」と歯切れが悪い。
やっぱりオランジーヌ家は、ソフィアの恋心には反対だし、『選定の儀』に参加することも快くは思っていないのだ。
「オランジーヌ家は二大公爵家の一つですよ? 家の意向に逆らうのは、ソフィア様らしく――」
「そんなのは、分かっています!」
怒鳴り声と共に、また大きな打撃音が鳴る。作業台を叩きつけたソフィアが、勢いよく立ち上がった。
両手を握り締めて唇をかみしめるソフィアは、何かをこらえて震えている。それが怒りなのか、悲しみなのか、苦しみなのか分からない。
ただ呆然と見上げるエシルの前で、青い瞳に溜まった涙がぼろぼろと決壊した。それと同時に膝から床に崩れ落ちると、溜まっていたものを吐き出すように声を上げて泣き出した。
読んでいただき、ありがとうございました。