オカルト本位な馬鹿
世の中にはオカルトマニアという人種がいる。現に俺の目の前に。
なんにでもオカルトを絡めてでしか考えられないという厄介な人間は何故か俺の幼馴染だったりする。
名前は田中太郎。今時田中太郎。たぶん三十年前くらいなら普通の名前だったと思う。しかし令和の今ではキラキラネームより目立つ。
そして俺の名前は中田翔。昔はおしゃれだったかもしれないが今では凡百に沈んでいる名前だったりする。
俺はやや釣り目気味のフツメンで太郎はたれ目気味のフツメン天然パーマ。
こいつの話を一通り聞いた後、下らねえと言い捨てるのが毎度のルーティンなのだが。本日は日本古代から恐れられているという悪霊だという。
「崇徳上皇かね」
とりあえず有名どころを言ってみた。
「違うって、もっと意外な名前だよ、て崇徳上皇は古代じゃないだろ中世だよ」
どうせくだらない話だと思う。
そして、そいつは古ぼけた本を取り出した。
タイトルは「隠された十字架」。発行はなんと昭和だ。
「なんと聖徳太子は怨霊だったっていうんだ」
いかにもエッヘンという風にふんぞり返る。しかしだ、よく考えてほしい、この本は昭和に発行されている。
つまり何十年前に言われていたことなのだ。つまり知っている奴は知っている話というわけだ。
ものすごく使い古された話なんじゃねえの?
目の前のもすごく見慣れた顔を見た。
ちょっとたれ目ののんきそうな顔だ。
しかしだこういう怨霊らしいというのは本当に怨霊なのか?
日本の三大怨霊とされる菅原道真、この人の有名な和歌を思い出してもらいたい。
東風吹かば匂いおこせよ梅の花主なくとも春忘れなそ。
この和歌から感じられるのは諦観だ。とてもじゃないが怨霊となって人を呪い殺したり天変地異を起こしたりという風には思えない。
とにかく俺は奴から本を受け取った。
法隆寺がまあいろいろと普通の寺じゃないということと
ガマガエルがどうとか柱の数がどうとかまあオカルトマニアの琴線に触れるんだろうなという表現がまあいっぱいある。
だが俺はあることに引っかかった、この説にはとんでもない矛盾がある。
それは大前提も大前提なんだが。
悪いのは蘇我の入鹿で、蘇我の入鹿は非業の最期を遂げたはずなのになんで聖徳太子は怨霊のままなんだ?