2-8 10日目① ダメ男は婚約者と勉強する
今日が終われば、リハビリと言う名目の休みが終わって、学園の生活が始まるのか。うまくやっていけるか不安はあるが、勉強の方もいくらかは分かるようになったし、後はあるがままを受けとめて、頑張っていくしかないだろう。ひとまず、今日もトレーニングしますか。
朝食を食べた後、着替えて修練場に向かおうとしたら、アレクに呼び止められた。何だろう?
「レオン様。ミストレア家のフィオナ様が、13時頃に伺いたいとのことですが、いかがいたしますか?」
「わかった。大丈夫だと伝えてくれ。あ、もし外に使いの人がいるなら、冷たい飲み物でも飲んでから帰ってもらってほしい。今日は暑いからな」
「かしこまりました」
アレクが去っていく背中を見送る。フィオナは多分、この前はしなかった社会を教えてくれるのだろう。ありがたい。……何かもてなしができないものか。お菓子でも用意するように伝えておくか。
一瞬、前世でやったことのあるクッキーでもと少し思ったが、そんなことで厨房を使うのは気が引けるし、トールは今ガラスープの研究に熱を入れているみたいなので、邪魔はしたくない。
そういえば、この世界にはかん水がないのかもしれない。きっちり調べたわけじゃないが、誰も存在を知らなかったとトールに聞いた。そうなると灰汁の上澄みを使うのが一番か……。
また、昆布などの魚貝だしは、それらしきものを例のダールストン商会というところが売りに出しているそうな。そちらは料理長が目を付けたらしく、今研究中らしい。
近くにいた使用人に、午後にお茶とお茶菓子の用意を言づけると、俺は外に出た。とたんにかっと夏の日差しが肌をさす。本格的に夏に突入したのか、暑さが急に強くなってきた気がする。熱中症に気をつけないと。
修練場に行くと、いつも通りのメニューを行う。一緒にやる騎士の数は増えていないが、入れ替わりでやってきていると最近仲良くなった騎士が教えてくれた。トレーニングの後はドッヂボールをする事になった。昨日の話を聞いた騎士のひとりがどこからかボールを持ってきたからだ。触ってみると、ゴムボールのように弾力がある。聞いてみると、これはスライムでできているのだという。倒した後に残るスライムの体は、加工次第で料理にも使えるし、ゴムみたいにすることもできるのだとか。休憩をはさんでから、ドッヂボールで汗を流した。最初はルールで戸惑うこともあったけど、慣れてくるとかなり白熱した試合になった。なにしろ、全員それなりに体を鍛えている人間ばかりなので、飛んでくるボールがけっこう早い。ボールを見きれず当たってしまうことも何度かあった。もちろん俺も当て返したけど。
昼食前に解散し、昼食を食べると、フィオナがやってくる13時も近くなってきた。ふと、前回も前々回も、部屋で彼女を出迎えたけど、来る時間が分かっているのなら出迎えた方がいいのではないかと思った。というわけで、今俺は玄関のエントランスに立っているわけだが、約束の時間からもう10分以上たつのに、彼女は一向に現れない。……何かあったのか?
もちろんスマホや電話と言う文明の利器はこの世界にない。しかし、途中でトラブルにでもあっている可能性も捨てきれない。様子を見に行こうかと考えたとき、1時間ほど遅れることを知らせる使いがやってきた。承ったと返事をして、部屋で待つことにする。ステータスを見てみたり、魔法を使う時のイメトレをしたり、頭の中で前世に好きだった曲を再生してみたりして、時間をつぶした。そして40分ほど経ったころ、フィオナはやってきた。
「本当に申し訳ありません……」
部屋に通してふたりになったとたん、フィオナは深く頭を下げた。その体は小刻みに震えていて、多分俺がひどい言葉で責めるだろうと思っているのがなんとなくわかった。
「顔をあげてくれ」
「で、ですが、私は自分で来ると言っておきながら……」
「怒るつもりはない。それに、使いの者から遅れることは聞いていた。ちゃんと知らせてくれたから、それでいい」
さらに声をかけたが、一向に彼女は顔をあげない。どうしようか……?
「……君はいつまで頭を下げているつもりなんだ?」
すこし低めに声を出してみる。びくりと彼女の体がこわばるのが分かったが、続ける。
「今日は、私に社会を教えてくれるんじゃなかったのか? 君はその約束も反故にする気なのか?」
「……‼ そ、それは……」
「顔をあげなさい。命令だ」
すると、フィオナは恐る恐る顔をあげた。あまり使いたくはなかったが、レオンは彼女にさっきのような口調で命令をしていたことがあったようだ。口惜しいが、彼女の顔をあげさせるには、今はこれが一番手っ取りばやかった。
この世の終わりのような顔をしているフィオナを、俺はイスにいざなう。座った所で向かいに座り、なるべく優しく、ゆっくりとした口調で話す。
「怖いことを言ってすまなかった。私は怒っていないから、気に病まないでほしい」
「……」
「まあ、遅れることはよくないことかもしれないが、君は遅れることを知らせてくれただろう? 遅れた理由は知らないが、でも、どのくらい遅れるかを知らせてくれただけでもだいぶ助かった。だから、もういいんだ」
とここで、頼んでおいた飲み物とお菓子がやってきた。目の前に置かれたティーカップの紅茶を飲んでから言う。
「それに、どれくらい遅れるかを知らせてくれたおかげで、こうしていれたての紅茶が飲めるというものだ。……うん。美味い」
カップに口をつけつつ、彼女の様子をうかがうと、先ほどよりも幾分かましな顔になっていた。
「では、勉強を始めようか」
俺の言葉に、彼女は小さく頷いた。
前の時に約束した通り、フィオナは社会を教えてくれた。内容はこの世界にある国の地理と、それぞれの国の関係性に関することが中心だった。しかも彼女は今日やる内容を分かりやすく説明するためにわざわざ紙に書いた地図にそれぞれの国の関係性を簡潔にまとめたものを用意してくれていた。川や主な山脈の名前、国の首都なども書き込まれていて、時間をかけて作ってくれたことがよくわかった。
まず、この世界には大陸がふたつあり、大きな方をハーモニクス大陸。小さい方をディスコルド大陸と言うようだ。俺が暮らしているハルモニア王国はハーモニクスの方にあり、こちらにはそれ以外にもソプラニア王国、オルテノール共和国、エルバス帝国、バリトニック教国という4つの国がある。そしてディスコルドの方には、アルトゲート魔王国という国だけがあるのだとか。
ハーモニクスにおいては真ん中にバリトニック教国があり、北側にソプラニア王国、東側にハルモニア王国、南側にエルバス帝国、西側にオルテノール共和国という位置関係になっており、アルトゲート魔王国のあるディスコルドはハルモニア王国から見て東南に位置していた。
国同士の関係だが、ハルモニア・ソプラニア・オルテノールの3国は同盟関係にあり人や物の行き来が活発。ハルモニア学園にもそちらの国から留学してくる生徒もいるのだとか。3国が同盟を結んでいるのは南のエルバス帝国に対抗するためで、30年ほど前には、3国とエルバスの間で戦争も起きていた。……今はもう戦争していないが、休戦中のようなもので、予断を許さない状況でもあるようだ。
バリトニック教国はこの世界で広く信仰されている“バルト教”という宗教の総本山を有する宗教国家だ。バルト教と言うのは、この世界を作ったという神と、神から力を授けられた“聖女”や“英雄”と呼ばれる存在を信仰の対象とする宗教だ。“聖女”や“英雄”と呼ばれる存在は歴史の中で何度か現れており、最も有名なのは今から150年ほど前に現れた“歌い手の聖女”と“救国の英雄”だ。
今から150年前、アルトゲートを治める魔王は配下の魔族や魔物と共にハーモニクスに攻め込んできた。ハーモニクスの国々はどこも大きな被害を受け、特にディスコルドから近い位置にあったハルモニアとエルバスは特にひどい状態になったという。そんな中現れたのが、前述のふたりである。
“歌い手の聖女”は聖なる声を紡いだ歌で、味方を鼓舞し、敵の戦意をくじいた。
“救国の英雄”は強力な魔法と剣の腕で攻め込んできた魔物たちを斬り伏せたという。
その後ふたりとえりすぐりの騎士や魔法使いが力を合わせ、魔王を打ち倒した。
これがのちに“人魔大戦”と呼ばれることになった世界規模の戦争である。ちなみに、先のふたりが使っていた魔法に関しては、今も詳しいことはわかっていないようだ。研究者の間では、今認知されている魔法とは違う、特殊なものだったというのが主流の考えらしい。
なお、大戦の後、魔王国では穏健派の新たな魔王がたち、こちらの国々と和平が結ばれた。今の魔王も穏健派で、大陸間の行き来や交流を積極的に行おうとしているようだ。しかし、依然魔族に対する感情はあまりよいものとは言えず、あまり進んではいないのが現状だ。
このふたりの次に聖女が現れたのは、今から40年ほど前。ソプラニア王国に現れた“豊穣の聖女”だ。
当時飢饉に悩まされていたソプラニアに現れた彼女は、その聖なる力で土壌をよみがえらせ、雨を呼んだ。その力により多くの人々が救われたという。その後も彼女は土壌や作物の改良のために力を尽くした。しかし、30年前、異常気象によりソプラニアよりもひどい飢饉に数年にわたって襲われたエルバス帝国は、聖女の力と努力によって豊かになった国の領土を奪うために侵略を始めた。狙われたソプラニアを守るために、ハルモニアとオルテノールも参戦し、ハーモニクス全土を巻き込んだ争いに発展した。この戦争は5年ほど続き、中立を宣言していたバリトニック教国が間に入り、戦争は休戦状態になった。
そしてそれが、今まで続いている。
ここで時間を見てみると、もう2時間がたとうとしていた。だいぶ集中していたらしい。
「少し休憩しないか?」
そう提案してみると、フィオナも素直にうなずいた。
ベルを鳴らすと、すぐにメイドがやってきて、紅茶をいれてくれ、お茶請けも追加された。紅茶を飲む。お。アイスティーになってる。喉が渇いていたからありがたいな。
お茶請けのクッキーをつまみながら、なんとなく、向かいに座るフィオナを見る。彼女は素人目にもわかるくらい洗練された動作でアイスティーを飲んでいる。その整ったしぐさに思わず見とれてしまった。それからしばらくお互いに無言のまま時間が過ぎる。そんな中、俺は彼女の変化に気が付いた。




