7話 竹中との相談
「というわけだ」
水無月は先ほどの人事部長との話を竹中に説明した。
「信じられないわ。駅伝をやめて、マラソン重視でいくなんて・・・」
竹中は独り言を言うように呟いた。
実業団にとって駅伝優勝が最大の目標というのは、選手だけでなく、マネージャーの竹中にとっても常識だったのだ。その常識が完全にひっくり返された形だ。
「確かに俺も驚いた。だが、企業が個人競技中心の方針とするのは、他にもあるだろう」
「あるよ。同じ陸上競技でも短距離を見てよ。リレーがあるけれど、あれを重視している企業は少ない。全日本実業団選手権に、リレーはあるけれど、世間の注目度は高くないわ。必然的に100mや200mなどの個人競技の結果を重視しているでしょう。オリンピックや世界選手権となると、個人競技では勝てない。だからリレーを重視するようになるけどねけどね。
それにしても、意外だわ。デメリットもあるけれど、その分、駅伝の宣伝効果はでかいのに・・・」
「経営方針として正しいかどうかは俺らが気にしても仕方がない。決まってしまったものは覆されないだろう。問題はどの大会をターゲットにするかだ。」
「男子の場合、主要マラソンは6つね。北海道マラソン・東京マラソン・びわ湖毎日マラソン・福岡国際マラソン・別府大分マラソン」
「でも、このうち、この前、出場した北海道マラソンは除外だな」
「どうして?」
「世界選手権は来年ある。この前の大会は世界選手権代表選考会だったが、来年の大会はそうじゃない。世界選手権が行なわれる8月にある大会だ。だから、国内外の有力選手は世界選手権に出ている。そこで優勝するのが簡単だとは言わないが、勝ったとしてもそれほど会社が評価してくれるとは思えない。記録を出すにしても、8月のあの暑い時期のマラソンで記録が出るとは思えない」
夏は冬に比べて暑い。だから、夏場のマラソンは冬のマラソンに比べて5分ほどタイムが悪くなると言われている。
「だったら、どの大会を目標にするの?大会の規模なら、福岡国際マラソンだけど、12月にある大会だから時間がないでしょ」
一般的にマラソンの為の準備が6ヶ月と言われている。もちろん、これはあくまで目安だ。もっと短い期間でマラソンに出場して優勝したケースもある。
「2月にある東京マラソンを目標にする。今からちょうど半年後だし、大会の規模としても問題ない。ここで優勝すれば、世界選手権という次のステップにすすめる。会社だって俺のクビをとりやめるに違いない」
「確かに東京マラソンで優勝なら、会社の求める結果にふさわしいものだわ。でも、2月だったら別府大分マラソンもあるじゃない。あそこなら新人の登竜門と言われるぐらいだから東京マラソンに比べて難易度が少しばかり下がる。そっちにするという手もあると思うけど」
「別府大分でも駄目ということもないが、会社へのアピール度という点では難易度の分だけ劣る」
「でも、マラソンで結果を出した事がない水無月君にとって、ハードルの高すぎるんじゃない?まずは、少し小さくてもいいから、勝てる可能性の高い大会を選ぶべきよ」
「その大会が別府大分と言いたいわけだ」
「そうよ」
「その理屈はわかる。ただ、俺は東京マラソンに出る。勝てるかどうかとか、いつもみたいに途中で失速しないかと色々不安もある。だが、勝てると信じてる。勝てるという前提で勝負を考えないと勝てる試合も勝てないものだ」
「最終的に決めるのは、あなたよ。マネージャーの私には、どうこう強制する権利はないからね」
竹中の言うとおり、マネージャーに選手がどの試合に出場するかを決める権限などない。マネージャーにあるのは、選手が目標するという試合で結果を出せるようにサポートする事だけだ。
それに水無月の場合、頭ごなしに指示しても効果がないタイプだ。目上の者からの指示だと、言う事を聞くが、あくまで表面上のことだ。あきらかに不満げな表情を隠そうともせずにスタートラインにたったりする事もある。それでもトラック競技だと試合に勝てる事が多いのだが、記録的には平凡な記録で終わったする。
今回出る種目はマラソン。水無月が今まで一度もまともな結果を出していない。結果を出すには最低でも気持ちの面でマイナスになる事はするべきではない。
「俺は東京マラソンに出る」
「わかったわ。私も全面的に協力する。大会まで6ヶ月もあるんだから十分準備できるはずよ」
「ああ、そうだな。持久力がないのが問題だ。トラックや駅伝で結果が出せるのに、マラソンでは駄目なのはやはり持久力がないのだ。スピードは天性のもの、スタミナは後天的なものと言うぐらいだから、もっと長い距離の走り込みを重点的にやるべきだと思うんだ。そうすれば、最後までスタミナが持つはずだ」
「確かに、持久力強化は大事な事だと思うよ。練習ではそれを重点的にやるのは私も賛成。でも、それ以前にペース配分を覚えないと駄目よ。あなたのレースはいつも、前半飛ばしすぎなのよ。だから、後半持たない。マラソンという種目は、トラックや駅伝とは違う。力押しで通じるわけじゃないの。それを自覚すべきなのよ」
「・・・・」
沈黙する水無月。
竹中からの指摘は正しかった。それゆえに反論できない。
「ねえ、、聞いてるの!?水無月君!?」
「聞いているさ。もちろん」
「私が思うに、あなたはペース感覚というものは、既にしっかり持っているのよ、例えば、キロを3分ペースで走れと言われれば、ほぼ正確にそれをこなすわ。そういう選手は試合でも完璧に試合を組み立てることができ、優勝もしくは、少なくともその日出せる自分のの全てを出せる。そう、全てをね。でも、あなたは出せない?何故だかわかる?」
水無月は数秒の間、沈黙した後に口を開いた。
「後先を考えずに前半からとばすからだろ。マラソンなのに、まるでトラックレースのようなペースで」
「その通りよ。つまり、前半からとばしすぎるのは、貴方のペース感覚がおかしいんじゃなくて気持ちの問題なのよ。だったら、気持ちの持ち方次第でどうにかなる。やっぱり、あなた、こころのどこかで、・・・水無月真司の事を意識してるんじゃないの?」
竹中の言葉に水無月は沈黙した。だが、その沈黙は数秒だけだ
「俺はおじさんの走りがしたい。おじさんは最初から最後まで一番先頭を走っていた。そのまま優勝していた」
水無月真司。名前からもわかる通り、水無月の親戚だ。正確にいえば、水無月の父の兄だ。有名な陸上選手だった。陸上関係者はもちろん、陸上に興味がない一般人でもその名は知っていた。専門は長距離選手であり、フルマラソンを最も得意としていた。当時の日本記録保持者だ。数多くの国際大会で優勝していた。しかも、前半から先頭に立ち、そのまま最後まで独走とするという戦法を得意としていた。27歳の時にオリンピックの日本代表に選ばれる。
個人差はあるもののマラソン選手のピークは27歳から29歳と言われている。27歳で出場する水無月真司は金メダル確実と大いに期待されていた。たとえ金メダルをとれなくても銀か銅のメダルは獲得すると思われていたし、本人もそのつもりでいた。しかし、オリンピック直前に交通事故にあった。歩行者として横断歩道を渡っていると、飲酒運転をした車に引かれたのだ。本人はよけようとしたが、それは無理だった。車のスピードはよけるには速すぎた。
本人には一切過失のない不幸な事故だった。病院に運ばれたが、医師の懸命の治療もむなしく亡くなった。
彼の死は陸上界にとって大きな損失であった。水無月にとってもそうだ。叔父である真司はあこがれた人物だった。水無月は目指すべき目標がなくなったわけだが、情熱を失ったわけではなかった。叔父がやり遂げようとしてかなえれなかった夢をかなえようと考えた。
すなわち、オリンピックのフルマラソンで金メダル。世界選手権での金メダルをとった日本人男子はいるが、オリンピックで森下の銀メダルが最高だ。世界の強豪が集まる大会のなので、その中で一番になるのは非常に難しい。それ以前に出場するだけでも、すごい事なのだ。
「あなたは水無月真司じゃないのよ!。もう一度、言うわ。あなたは水無月真司じゃないのよ!」
強い口調で言う竹中。彼女は、わりとはっきりとものを言うタイプだったが、大声を出出す事は、めったにしない。水無月の行動を止めたい一心だった。
「わーってるよ」
邪魔くまそうに言う水無月。
「だったら・・・・」
「とにかくこの話はやめだ!」
そう言って、水無月は竹中の所から去っていく。
後姿を見つめる竹中。水無月はまともに反論できないから、逃げたに違いない。彼だって頭ではわかっているのだ。今のスタイルが間違っているということが。だが、感情がいう事を聞かない。
水無月は、頑固な性格だ。今回のようなやり取りを何回やっても、自分の考えを変えたりはしないだろう。
ふうーと、竹中はため息をつく。
「やっかないな男を好きになったものだわ。私って・・・