2話 帰りのバス
試合後、水無月は本革工業の実業団選手と共にバスで選手寮に向かっていた。このバスは実業団が所有しているバスだ。普通の実業団はそんなものは所有していない。それだけ本革工業は資金がある実業団だ。
水無月や監督はもちろんのことその他の選手も一緒だ。運転するのは監督。車は高速道路をひた走り、陸上部の寮に向かっている。大会には選手全員が出場していた為に全員疲れている。中には、ぐっすり寝ている選手もいた。しかし、水無月と高倉は起きていた。
高倉は実業団の後輩で水無月の隣に座っている。水無月は窓際の席に座り外の景色を眺めている。その表情はとことん暗い。彼の心理状態を考えれば当然と言えよう。
二人以外の選手は誰もが寝ているが、仮に起きていたとしても誰も声をかけようとしないだろう。明らかに声をかけるべきではないのは明らかだった。バスの中だから一人にはなれないが、一人になりたそうなのは誰の目にも明らかだった。
しかし、それをわかっていながら無視する人間もいる。高倉だ。
「もうすぐ、寮につきますね。水無月さん」
「ああ、そうだな」
「帰ったら、また社長に怒られてしまいますよ。へっへっへっ」
高倉はいやらしい笑みを浮かべた。この笑顔は悪役そのものだ。
「なにがおかしい!?」
水無月は高倉の顔をにらみつける。
「いえ、別に」
「何が別にだ!?おまえは今日の結果がたまたま良くて、俺の結果が悪かったからって調子にのっているんじゃないか。上から目線で話しやがって」
「今日だけですか。ここ2・3年はずーとこのパターンですよ」
彼の言う通りだった。高倉の成績がいい。今年は日本選手権で1万mでも優勝している。
「これなら間違いなく選ばれると思いますよ。僕の実力なら。特に僕は伸び盛りの人間ですから。あなたと違ってね」
水無月の方をにやっと笑いながら高倉は言った。「あなたと違ってね」という所をわざわざ強調する嫌味さ。その言葉に即座に水無月は反応する。
「おい、お前、けんか売っているのか」
水無月は顔を怒らせつつ言う。
「いえ、別に。ただ僕は事実は言っただけですよ」
水無月は我慢ができない性格だった。子供の頃からその性格でよく同級生とけんかをしたものだった。
水無月は2列目の窓際の席に座っていた。シートベルトをしっかりしめていたが、すぐにはずした。隣の高倉の方に体を寄せて、胸倉をつかんだ。右手のコブシに力がこもる
「てめえ、何様のつもりだ」
「よせ、水無月」
監督が大声を上げた。
監督は運転中だった。しかし、ミラーごしに二人の様子は観察していた。揉め事を起こさないか心配だったのだ。
すぐさま、二人の所に行き引き離したいが、なにぶん、高速道路を運転中だ。一般道路なら路肩によせて停車するという選択肢があるが、ここではそれができない。
「誰か、二人を止めろ!」
監督は怒鳴った。その声に眠っていた選手達は一瞬で目が覚めた。
すぐさま、近くに座っていた選手が二人のそばによっていく。
「おい、止まないか。二人とも」
「とにかく、落ち着け」
すぐに二人は取り押さえられた。二人とも抵抗したが、それも無駄だった。
陸上選手というのは、それほど格闘能力に秀でていない。特に、持久力を武器とする長距離選手は筋力がないものだ。反射神経もにぶい選手が多いし、水無月も高倉もそうだった。取り押さえるのは簡単だった。
「放せ、こいつをぼこぼこにしないと気がすまない」
取り押さえられながらも、抵抗する意思だけは失われていない水無月。力の限り、怒鳴った。
「ぼこぼこなんて、汚い言葉を・・・。あなたの品のなさがよくわかりますね。スポーツ選手とは分別をわきまえた・・いわば紳士でなければなりません。格闘技系の選手なら、そういった好戦的で短絡的な言動も必要なのかもしれませんが、我々は陸上選手。非格闘競技の選手なのです」
負けじと言い返す高倉。その口調から、水無月を馬鹿にしている
「何をえらそうに・・・お前の上から目線の物言いがむかつくんだよ。お前の論理だと、紳士じゃないといけないんだろ。お前のどこが紳士だ!?」
「僕のどこが紳士ではないとでも!?」
「その顔、口調・性格・・・全てが程遠い。マスコミだって、それはわかっているのさ。お前の活躍を褒めても、おまえの人格を誰もほめやしないじゃないか。お前に、もし、紳士な所が少しであるのなら、マスコミはそこをほめたたえるんじゃないのか。でも、お前にはない。だから、褒めない」
「そんなのはマスコミの目が節穴なだけだ」
「言い訳をするな!」
「言い訳じゃない。ぼけ」
「あほ」
「ばか」
「まぬけ」
二人の口げんかは続く。相手をののしる言葉も低レベルになっていた。まるで子供のけんかだ。
バスは3時間後、寮についた。
到着までの間、バス内の空気は険悪ムード一色。周りのものはぜんぜんリラックスできなかった。
選手たちは試合の後なのに、こんなことがあったせいで、疲れたがとれなかった。
試合の疲れを癒すために、練習はなかった。各自、寮の部屋に戻った。