1話 北海道マラソン
ここは北海道。今日は毎年恒例の北海道マラソンが開催されていた。既にレースは終盤を迎え、先頭の選手がゴールに続々と近づいてきた。一番初めにゴールしたのは外国人招待選手のデルタだ。2時間11分35秒。2時間10分を超えたのは真夏のマラソンである事を考慮するといい記録だ。
1分後、日本人招待選手の高倉がゴールした。本革工業の実業団選手で、年齢は23歳。初マラソンだ。今までトラック・駅伝を中心に活躍しており、陸上関係者からの評価も高い。マラソンをやれば、大物になると期待されていた。見事、その期待通りになったわけだ。
さらに続々と入場してきて、20番目にトラックに帰ってきたのは水無月だ。同じ橘工場の実業団選手で高倉の先輩に当たる。前半は集団を大きく離した。だが30キロを過ぎたあたりから大きく失速し、ずるずると後退していった。ふらふらとしていたが、それでもあきらめずにゴールにたどり着いた。記録は2時間20分13秒。
水無月は、ばったりとトラックに倒れこみ仰向けになった。フルマラソンを走るという事は、トップレベルの選手にとっても過酷なものだが、それにしても水無月は他の選手より疲れきっていた。
「また、負けたのか・・俺は・・」
と、ポツリつぶやく水無月。
周囲を見回すと高倉を報道陣が囲んでいる。勝ったのはデルタであるが、デルタを囲む報道陣の数はわずか。日本の報道陣はどうしても日本人選手を中心に報道したがるものだ。
「優勝こそしなかったですが、この気温で2時間12分はさすがです。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
高倉は型どおりの返事をした。
「この調子だと、オリンピックのメダルも狙えるのじゃないですか」
「金メダルを狙いますよ。もちろん」
「自信たっぷりですね」
「当然です。今回は初マラソンなので、調整の仕方がわからなくて100%の力を出し切れませんでした。しかし、次のレースでは最高の状態でマラソンを走れると思うんだ。今回はデルタに負けたが、次はデルタだろうが、他の有力選手だろうと勝てる自信があります」
マスコミの前だから強気なことを言うのではなくて、これが高倉の本心だった。学生時代から実力は群を抜いており、陸上関係者からも「天才」と呼ばれている。大きな挫折などなく、高倉自身も自分は天才だと思っていた。自分は金メダルをとる為に生まれてきた人間だと思っている。
その後もしばらくマスコミは高倉を囲んでいた。彼への質問が一通り終わった後、今度は水無月を囲みだした。
高倉と違って、水無月は心身共に疲れきった様子。しかし、マスコミはそんな事気にせずに質問を浴びせる。
「今回も20位と実力を出し切れなかったわけですが、お気持ちはいかがですか」
「引退という話をある陸上関係者から聞きましたが、本当ですか」
「ファンの方の期待を今回も裏切ってしまった形ですが、ファンの方に何か一言をお願いします」
それらの質問に露骨に眉をしかめる水無月。自分の不快な感情を隠すという気はまるで感じられなかった。そんな精神的余裕はなかった。
「何かコメントをくださいよ。特に引退についてのコメントが欲しいな。僕は。視聴者もそれを望んでいる」
マスコミが相手の気持ちを考えないで質問するのはいつの時代も一緒だ。
望んでいるのは視聴者ではなく、マスコミだ。マスコミは自らが視聴者の代弁者のように振り舞う。
「引退?誰が言ったのですか。それは。私はそんなこと一切考えたことはない」
今まで沈黙を守ってきた水無月だが、ついに口を開いた。
それが彼の率直な想いだった。彼は今まで陸上競技一筋で生きてきた。他の道など考えた事がなかった。それなのに、なぜ、そんな事を聞かれなければならないのか。
「あれ、そうですか。みんな言ってますよ。水無月選手は引退するんじゃないかって?」
「みんなって誰だ。何処のどいつだ」
徐々に水無月の口調が厳しくなってきた。
マスコミに対して冷たい対応をしても得な事など一切ない。だが、我慢の限界だった。
「陸上ファンはもちろんの事、陸上関係者の中にだって、そういう人はいます。ほら、あの観客席を見てくださいよ」
マスコミは観客席を指差す。
普通のスポーツの試合と違い、マラソン観戦にはお金がいらない。道路での観戦はもちろんの事、陸上競技場にも無料で入る事ができる。必然的に大勢の人が観客席にいた。
「あそこにいる人たちだって思っていますよ。私が今、言ったことをね」
「しつこい人達だな。引退する気はないといったらないんだ!?なぜ、わからない!?」
ついに水無月は怒鳴った。その怒鳴り声に一瞬マスコミは黙った。
「あー、すいません。水無月もレース後だから疲れているのですよ」
さっと間に入る監督。
監督は水無月の体を掴み、「帰るぞ。水無月」と言った。水無月は抵抗しようとしたが、監督の表情を読み取り我慢した。
「取材はこの辺で終了と言うことに」
マスコミに対して一礼する監督。その言葉の後、二人は会場から出ようと歩き出す。
「待ってください。監督。もう少し話を」
後ろでマスコミの引き止める声があったが、無視してその場を去った。