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メリーゴーラウンドホース

作者: いしだ

 遊園地のベンチに一人、腰を掛ける。

恋人がトイレから戻ってくるまでの間、俺は行き交う人々を眺めていた。デートの途中だというのに、一人になるとやけに冷静になる。

 俺は相手からどう見られているのだろう。

 俺は相手をどう見ているのだろう。

 一緒にいる時は考えなかった事が一気に押し寄せた。この時間はきっと盲目の魔法が一時的に解けてしまうインターバルだ。

 そう、解けて、しまう。

 見た目も性格も良い。好きになる要素は充分に揃っている。それに何より俺を好きだと言う。付き合わない理由はない。

 嫌いな訳じゃない。

 でもきっと好きな訳でもないんだ。

 こんなことを考える俺はおかしいんじゃないかとずっと思っていた。でも違う。みんな気付かないようにしているだけだ。

 馬鹿々々しい。

 手を繋いで歩くカップルも、子供を連れる夫婦も、この遊園地にいる人間の笑顔は自分を洗脳して創った笑顔。この恋が運命であると、そう自分に言い聞かせてどちらか一方が抱いた恋愛感情に付き合ってあげているだけ。それにその恋愛感情だって自分が出会った数少ない人間の中から消去法で選ばれただけの大したことない感情だ。

 俺にはそれがどうも滑稽に見えたし、自分はそんな風にはなれないと思っていた。


彼女と出会うまでは。



 イヤホンを付けて大音量で音楽を聞き、満員電車にいながらひとりだけの世界に浸る。

 車内アナウンスも周りの話し声も掻き消すほどの音楽が、死んだ顔の人間を嘲笑っているようだった。

 学校までの30分は音楽に浸かれる楽しみともう一つ別の楽しみがあった。

 同じクラスの月島(つきしま)佑里(ゆり)はいつもこの車両に乗ってくる。俺と同じくイヤホンを着けながら。

 ドア付近の彼女をチラチラ見ていると一瞬目が合った。

 反射的に逸らしてしまったがもう一度彼女を見ると、やはり俺を見ている。

 今まで一度も目が合ったことが無かった俺は高揚した。

 彼女はイヤホンを片耳取って指をさす。

 俺は彼女が自分を認識してくれたことが何より嬉しく、そのジェスチャーの意味を深く考えなかった。  すると彼女はイヤホンを着け直し、スマホを触り始めた。

 彼女の視線は当然俺から薄っぺらい板に移る。

 今はスマホさえ妬ましく思えた。

ピコン

 メッセージアプリの通知音がして俺もスマホを見つめると、登録されてない人間からメッセージが来ていた。

『今、同じ電車だよね?』

 送り主はYURIとある。

「えっ。」

 小さく声が出てしまい焦っているとまたメッセージが来た。

『音漏れしてるよ』

「えっ。」

 俺は急いでイヤホンを外すとみんな同じ世界にいたことが分かった。

みんな同じ音楽を聞いていた。俺に聞かされていた。

 俺は急いで停止ボタンを押して周りに軽く頭を下げた。

 顔がどんどん熱くなる。

『教えてくれてありがとう』

 平常心を取り戻すために、平然を装った返信を彼女に送った。

『私もその曲好きだよ』

 慰めだとは分かっている。それでも俺はぎゅっとスマホを握りしめた。


 月島佑里は美しくて強い。見た目もそうだが中身もだ。

 人に媚びない性格のせいで彼女には友達らしき人はいない。

 それでも彼女が惨めな、可哀そうな子だとは思えなかった。

 彼女はクラスメイトを遠ざけ、その友情ごっこを軽蔑している。俺と同じだ。

 まぁ俺は悪目立ちする気がないから遠ざけはしないが。


「なぁ(かける)。3組の西野って知ってる?」

 昼食の菓子パンを頬張る山内は椅子の上で胡坐をかきスマホをいじっている。そして何かを見つけるとイナバウアーをして後ろの席の俺にスマホの画面を見せてきた。

「誰それ。」

「この子だよ。お前の事好きらしいよ。」

 山内が見せてきたのはプリクラの画像だった。

「どっちだよ。」

「こっちの可愛い方。」

「加工しすぎてそれじゃ分かんねぇよ。」

「えー可愛いじゃん。まぁ駆のタイプではないか。」

「お前が付き合えば。」

「はー?モテるからって酷いね。それに俺は月島みたいなミステリアスなのがタイプだから。」

 山内は彼女の大ファンだ。

 山内だけじゃない。彼女を好きな男は多い。告白されて付き合わない男などいないだろう。

 俺も含めて。

 それでも誰も彼女に告白しないのは

「まぁでもあいつは手出せねぇけど。」

 自分が釣り合わないと、手の届かない存在だと分かっているからだ。

「何でだよ。」

 分かっているが聞いてみる。 

「あれは観賞用。まぁ駆だったらいけるかもな。」

「なんだよそれ。」

 まんざらでもない。



『今日の放課後ちょっと時間ある?』

 月島から連絡が来たのは、初めて連絡をした日から4日後の事だった。

 登校して自分の席に着くや否や彼女からのメッセージを見て驚いた。

「まじか。」

「え、どうしたの?」

 思わず声が出た俺に反応した山内は、俺のスマホを覗こうとしてくる。

 俺は咄嗟にスマホをポケットにねじ込んだ。

「なんで。」

「母親から。何でもねぇよ。」

「あっそ。」

 山内は不服そうだが今教える訳にはいかない。

 俺はいつだって慎重だ。結果が出るまでは喜んではいけない。

 それでもその日の授業はにやけが止まらなかった。

 渡り廊下で彼女を待っている間は、自分が告白する訳じゃないのに心臓が飛び出しそうだった。

 人気の少ないところではあるが、何人かの生徒が通りかかった。その度に俺は彼らを見つめてしまい訝しげに見られる。

「あの、桂木君。」

「はい。」

 声を掛けられていよいよかと思ったが、振り向いたところには五十嵐がいた。

「なんだよ。お前かよ。」

 五十嵐(いがらし)隆樹(りゅうき)は俺と同じバスケ部だったが、五十嵐は補欠だったし、同じクラスではあってもあまり話したことはない。

「ごめんね。急に呼び出して。」

「は?何でそのことお前が…」

 俺が月島に呼び出されたことをこいつは知っているのだろうか。

「ここじゃあれだから、あっちで。」

 五十嵐は俺を体育館の方に案内した。

「こっち。」

 五十嵐は体育館の倉庫に入って行った。そこに月島の姿を探したが人影はなかった。

「何でこんなところに呼び出すんだよ。」

「ごめんね。誰にも聞かれたくなくて。」

「何を?ていうか…月島は?」

「佑里はここに来ないよ。桂木君を呼び出してもらっただけ。」

「は?」

 何でこいつは月島を下の名前で呼ぶんだ?

 まさか、付き合ってるとか?

 それで俺が月島の事が好きなのがバレて、呼び出されたとか?

 人目を避けるのはこいつにボコられるからか?

 すごく嫌な予感がした。

「言いたいことがあって。」

 やばい。きっと殴られる。

「なんだよ。」

「僕…」


「桂木君の事が好きなんだ。」


 倉庫が静寂に包まれた。

 五十嵐は目を合わせない。

 緊張なのか照れなのか頬が赤くなっている。

 その表情を見て五十嵐が嘘を付いている訳ではないことは分かった。

 それでも俺には言葉の意味が分からなかった。

「は?」

「だから、ずっと好きだったんだ。」

「誰が…」

「僕が。」

「誰を…」

「桂木君を。」

 その意味を理解した時、俺の頭の中に今まで考えたことのない言葉が浮かんだ。

 ホモ

 ゲイ

 同性愛者

 LGBT

 そういう人間がいることを知っている。

 知ってはいるが本当に存在する事を初めて実感した。

 偏見を持ってはいけない。差別をしてはいけない。

 そんなこと分かってる。

 でもそんなに俺は大人じゃなかった。


「きもちわるい。」


 その言葉が五十嵐をどれほど傷つけたのかを考えられる余裕はなかった。

 俺は走って体育館を出た。

 


 翌日、俺は怒りなのか後悔なのか驚きなのか、何色でもない感情を隠して、何事もなかったかのように登校した。

 電車に月島の姿はなかった。

「おっはよー。」

 俺の気持ちとは裏腹に上機嫌で教室に入ってきた山内は、教室中を見渡して誰かを探してる様だった。

「誰か探してんの?」

「ううん。何でもない。」

 俺がこいつに隠し事をすることはあっても、こいつが俺に何かを隠すことは今までなかったからただでさえ悪い気分がより悪くなった。

 まぁ隠し事なんて誰にでもある。

 クラスメイトが徐々に席に座り、五十嵐以外が揃った。

 欠席かと少し安心している自分がいた。

「あ!五十嵐!おはよう。」

 山内の声で五十嵐が来たことが分かった。

 合わせる顔が見当たらない。

 山内は自分の机に腰かけて椅子の上に足を置く。

 後ろの席の俺の前には山内の膝があった。そして山内は俺の方を向いたまま大声で五十嵐に話しかけた。

「なぁ五十嵐。お前何でズボン履いてんの?」

 息が止まりかけた。

 俺は思わず山内を見上げた。

「山内何言ってんのー?」

 近くにいた女子が山内を見て笑う。

 まさか…。

「五十嵐。お前、男が好きなんだろ?」

 教室が一瞬静まり返る。

 クラスメイト全員が山内の号令で五十嵐を見つめた。

 俺はただ息を潜めることしか出来なかった。

 山内は昨日の事を知っているのか?

 もしかして見てたのか?

 俺は山内も五十嵐も誰の顔も見れず、ただ机を見つめた。

「何それ!まじ?」

「んな訳なくね?」

「確かにあいつなんか女っぽいところあるよな。」

「山内の冗談でしょ。」

 クラスメイトのヒソヒソ話を遮るようにまた山内が口を開けた。

「俺、知ってんだよね!五十嵐は駆が好きらしいよ。」

「えー!」

 みんなの視線が全身から伝わった。

 やっぱり山内は知っていた。

 どうすればいい?

 俺はどうしたらいい?

 顔をあげられずにいる俺の肩を山内が叩く。

「で、返事は?」

 見上げると、山内の顔は笑っていた。

 俺の味方か敵か分からないそんな笑みだった。

 途端に俺はこいつが怖くなった。

「え…そんな事」

 その時だった。教室の前方で椅子が音をたてて倒れた。

 驚いた山内は俺からその音源にいる人間に視線を移した。

「何?」

「あ、ごめん、邪魔して。」

 自分の席に座っていたはずの月島は、椅子が倒れるほど勢いよく立ち上がり、クラスメイトの視線を集めていた。

 倒れた椅子を元に戻し、彼女は山内に近づく。山内に何かを言うと思ったが、目の前を通り過ぎて、五十嵐の方へ向かって行った。

 彼女の目は怒りを堪えている。

「隆樹、行こう。」

 彼女は真っ青な顔で突っ立っていた五十嵐の手を取り、教室を出て行く。

 その時、一瞬だけ彼女と目が合った気がした。

「え、これはどういう?」

「五十嵐は月島と付き合ってるって事?」

「俺、あの二人が一緒にいるところ見たことある。」

「私もある!」

「え、何じゃあ山内が嘘ついてるって事?」

「何か勘違いしたんじゃない?」

「なんだよ。山内びっくりさせんなよ。」

 山内はわかりやすく動揺した。

「違う!俺見たんだ!体育館の倉庫で五十嵐が駆に告白してるところ。なぁ?駆。」

 さっきとは打って変わって山内は俺に縋った。

「…練習だよ。あいつが月島に告白する練習。ごめんな勘違いさせて。」

 誰を守りたかったかなんてわからない。

 もしかしたら誰かを守るんじゃなくて俺に隠し事をした山内に復讐したかっただけなのかもしれない。

「はぁ?」

「ほらやっぱりな。なんだよ山内。ハラハラさせんなよ。」

「ちょっと面白かったけどね。」

「いーなー五十嵐、月島とか。あいつどんな手使ったんだよ。」

「月島さんも意外だよね。」

 山内はそれ以上何も言わなかった。

 その日から山内が俺に話しかけてくることも、俺が山内に話しかけることもなくなった。友情なんてこんなもんだ。



 あの騒動の1週間後には夏休みが始まり、幸いなことに俺は山内とも五十嵐とも顔を合わせずに済んだが、俺の気持ちが晴れることはなかった。

 親の勧めで塾の夏期講習に申し込んでからは、人並みの受験生の夏休みが始まった。

 俺は勉強に集中したが、勉強があの日の事を忘れさせてくれるどころか、得体の知れない焦りや緊張が俺を襲い、滅入っていた。


 20時。勉強の手を止めて俺は夕食を買いに塾を出た。

 いつもコンビニばかりだからたまにはと近くのスーパーで夕食を買った。

「そら待って。」

 聞き覚えのある声が近くで聞こえて俺は思わずその人を目で追うと、スーパーを出たところに月島と5、6歳くらいの子供が手を繋いで歩いていた。

「月島?」

 俺は何も考えずに、彼女を呼び止めた。

 振り向いた彼女の笑顔は俺を見た瞬間に消えてしまう。

 俺は時間が経ったせいで忘れていた。

 五十嵐を傷つけ、彼女に軽蔑されていたことを。

 あの日、五十嵐を助けた彼女は、今と同じ目をしていた。

 俺を貶し、蔑む、そんな目。

「…何?」

「あ、いやごめん。たまたま見かけたから。家ここら辺なの?」

 俺は彼女が俺と話したくないと分かっていながらも、俺に好意があるという希望を捨てられずにいた。

 彼女は怪訝な顔を緩ませたが、気を許した訳ではなさそうだ。と言うより、何かに脅えている様だった。

「そっちは?」

 彼女は明らかに動揺していた。

「塾が近くにあって。家は二駅先なんだけど。」

「だあれ?」

 彼女が手を握る男の子が振り返った。

 赤いキャップを被っているせいで顔はよく見えない。

「私のクラスメイト。」

 彼女は男の子のキャップの(つば)を下げ、俺から顔が見えないようにした。

「ごめん。私たち急いでるから。勉強頑張って。」

 彼女は逃げるように去って行った。

 俺はそんなに嫌われているのか。

 その日は塾に戻らず家に帰った。

 


 日の光を浴びないと気がおかしくなりそうな時、俺は昼食を塾の裏にある公園で食べることにしていた。

 ベンチに腰掛けてコンビニで買ったおにぎりとチキン、菓子パンをピクニック気分で食べる。

 遊具には夏休みを存分に楽しむ子供が5、6人戯れていた。

 徐々に親が迎えに来て解散し、俺が昼食を食べ終える頃には1人だけになっていた。

 赤いキャップを被った男の子。

「いや、まさか。」

 もしかしてと思い凝視していると、男の子は砂場の前で転んでしまった。

 泣き出す子供を放っておけるほど鬼ではないので俺はその子に駆け寄った。

「大丈夫?」

 男の子を水場まで連れて行き、砂まみれの膝を水で洗い流した。

 血が出ていたが絆創膏を持っていないので駅前でもらったティッシュで押さえることにした。

「家帰って絆創膏でも貼りなよ。」

「うん。」

 赤いキャップにはスポーツブランドのロゴが刺繍されている。

 間違いない。

 この男の子は月島と一緒にいた子だった。

「君さ、月島佑里知ってるよね?俺の事覚えてる?」

「うん。スーパーの人。」

 男の子は流水を両手に溜め、汗だくの顔を洗う。

 鍔が邪魔になると思って、俺はキャップを取った。

「覚えてたんだ。その、君はおとう…妹?」

 取ったキャップからは束ねられた髪が出てきた。

 服装は男の子みたいだけどお下がりか何かだろう。よく見ると可愛らしい顔立ちをしていて完全に女の子だった。

 女の子は自分の頭を触って帽子がないことに慌てた。

「髪の毛…長いけど、僕は佑里の弟だよ。」

「そうなんだ。」

 この子の目は泳いでいる。

 声も男の子にしては高い。

「名前は?俺は桂木駆(かつらぎかける)。」

「そら。」

「月島そら君?よろしく。」

 そらちゃんはキョロキョロ何かを探している。

「これ探してるの?」

 俺は持っていた赤いキャップをそらちゃんの前に出した。

「うん。ありがとう。もう行くね。」

「気を付けてね。」

 そらちゃんはそそくさと公園から去って行った。

「何で…」

 そらちゃんが被っていた赤いキャップ。

 取った時に名前が書いてあるのが見えた。

『下野星空』

 星空(そら)ちゃんと月島は何を隠しているのだろう。

 それも俺なんかに。



 夏休みが終わり、退屈な学校が始まった。

 そして俺は月島が俺に向ける不信感と、俺が彼女に向ける疑問を払拭する為に動きだした。

「ちょっといい?話したいことがある。」

 体育の授業後の廊下で一人で歩く彼女を見つけた。

「私は話すことはないけど。」

「そらちゃんの事で。」

 彼女は目を見開き、分かりやすく俺を警戒した。

「詮索する気はないけど、俺の話を聞いてほしい。誤解を解きたい。」

 彼女は俺を睨みつけたが、最後は折れてくれて、放課後屋上に集まった。

「誤解って何?」

「その、月島は俺が五十嵐のこと山内に言ったと思ってるでしょ?」

「違うの?」

「うん。俺は言ってない。何であいつが知ってたのかは俺にも分からない。」

「そうなんだ。信じるよ。」

 彼女は淡々と答えた。俺が嘘をついてようと本当の事を言ってようと彼女にはどうでもいいらしい。

「それでその、そらちゃんの事なんだけど。」

「誤解が解けたんだからもういいでしょ?詮索する気はないって言ったよね?」

「そうだけど、俺はただ知りたいんだ。」

「面白半分で知って何になるの?山内君みたいにみんなにバラす?」

「面白半分じゃない。誰にも言わないって約束する。」

「私があなたに話す義理なんてない。」

「義理なら…ある。」

「は?」

「俺は、月島が好きなんだ。」

 自分でも何を言っているのか分からなかった。ただ、このままでは彼女は何も教えてくれないんじゃないかと必死だった。

 人生で初めての告白をこんなにあっさりとしてしまう程に、俺はおかしくなっていた。

 彼女の言葉を待つ数秒、鼓動が早くなるのを感じた。しかし彼女の表情は何も変わっていなかった。

「きもちわるい。」

「え?」

 彼女は俺を軽蔑した。

 その言葉は俺が五十嵐に言った言葉だった。そして彼女はわざとその言葉を選んでいる。

「きもちわるい。」

「何で。」

「傷ついた?」

「は?」

「傷ついたでしょ?」

 俺の目から涙がこぼれた。

「え、なんで。」

 泣きたくなんかなかった。それでも俺の目から涙は出続けた。

「その痛みを、あんたは隆樹に味合わせたんだから。いやその何倍も隆樹は傷ついたんだから。」

 彼女は俺に復讐しているのだろうか。

「月島は五十嵐のなんなの?五十嵐が好きなの?」

「あなたに関係ない。」

「俺が五十嵐を傷付けたから、月島は俺を傷つけるの?」

「そう。私はあなたが嫌いだから。」

 オブラートを剥がしたその言葉は俺の何かを壊した。

「嫌い?俺の事を知りもしないで?」

「知ってる。人を見下して、人の心を弄んで、自分の偏見で人を簡単に傷つける。それで傷つけた事にも気付かない。そんな人間。」

「違う。」

「違わない。あんたは偏見だらけのクソ野郎。」

 何でそこまで言われなきゃいけないんだ。

「偏見だらけなのはお前もだろ?お前だって俺を傷つけたじゃねぇか。俺を呼び出すなんて思わせぶりな事をしたのは、人の気持ちを弄ぶことにならないのか?今だって、俺の気持ちを知ってて俺を罵って傷つける。クソ野郎はお前も一緒じゃねえか。」

 自分を全否定された俺は、目の前の好きな人さえも傷つけることが出来た。

冷静になんてなれなかった。

「なら…そんなクソ野郎を好きなんて言うな。」

 彼女はその場から立ち去った。

 何であんな事言ってしまったんだろう。

 何で月島は俺がそんなに嫌いなんだろう。

 俺が何をした?

 いや分かってる。

 五十嵐を傷つけたからだ。

 でも何で五十嵐をそんなに庇うんだよ。

 屋上で泣き崩れた俺には後悔と疑問だけが残った。

 終わった。

 初恋が終わった。

 初恋だったんだ。

 高校生になって何人か彼女が出来たが、俺は誰にも恋をしていなかった。相手が好きだと言うから付き合ってあげているだけ。

 俺には恋愛という茶番を繰り広げて溺れる人間が無様に見えていた。

 でも月島は違った。

 彼女は誰かに媚びることも茶番に付き合うこともない。俺と同じ人間だった。

 だからいつか俺たちは惹かれ合うと、そう思っていた。

 でも今、終わった。

 初恋は俺を労わる要素を残すことなく残酷に終わった。


 しかし俺の予想とは裏腹に彼女との関係はすぐに変わることとなった。

 3日後の日曜日の事だった。



 塾の自習室で勉強をしていると、いきなり彼女から電話が掛かってきた。

 あまりにも急な事だったので先日のことを思い出す余裕もなく、急いで外に出て通話マークを押した。

「もしもし。」

「助けて。」

「え?」

「そらが高熱なの。」

「病院に連れて行かないと。」

「それは出来ないの。」

「何で。」

「…保険証がないから。」

「え?でも確か、保険証なくても受診は出来るはずだけど。」

「え…そうなの?」

 彼女の声は今にも消えそうな声だった。

「今どこ?」

「家だけど。」

「それって俺と会ったスーパーから近い?」

「うん。」

「今から行くよ。とりあえず落ち着いて。位置情報送ってくれる?」

 彼女はすんなりと俺の指示に従った。

 電話を切るなり、屋上でのことを思い出した。しかし電話の声があまりにもあの日の彼女と結びつかず、そのせいで自分がされたことが夢だったんじゃないかとすら思えてきた。


 彼女のアパートはスーパーから走って2、3分の所にあった。歩いたら5分くらいだろうか。

 チャイムを鳴らすなりすぐに開いたドアからは、青ざめた彼女が出てきた。

 中に入ると、ここで月島とそらちゃんが二人で一緒に暮らしていることが分かった。二人だけで。

 1Kの部屋に一つしかないベットの上に寝ているそらちゃんがいた。

 額からは多量の汗が噴き出し、息が荒い。

 水枕をしてもその熱は収まっていなかった。

「隆樹が電話に出ないの。」

 色々聞きたいことはあったが、とりあえずそらちゃんを助けるのが先だった。

「ひとまず近くの救急に行こう。タクシー呼ぶよ。」


「ごめん。急に呼び出して。」

 落ち着きを取り戻した彼女と俺はそらちゃんの診察中、待合室のベンチに腰を下ろした。

「別にいいよ。」

 病院に来られて安心したのか、疲れきった彼女はか弱く小さく見えた。3日前の彼女とは似つかない。

「この前のこともごめん。言い過ぎたと思ってる。」

「もういいよ。」

 なんとなく気まずい空気が流れた。

「聞いてもいい?」

 何のことかは分かっている筈だ。彼女が俺に好意がなくても、恩くらいはあるだろう。

「呼んでおいて言えることじゃないけど、聞かないで欲しい。」

 それはあまりにも無理なお願いだった。

「俺には知る権利があると思うけど。」

「あなたの為だよ。自分でも意味わからないこと言ってるって分かってる。でももう、私に関わらない方がいい。」

「それでも教えて欲しい。」

 彼女にただフラれただけではプライドが許さなかった。何か収穫がなければ俺は自分が保てなかったんだろう。でもこれほどまでに他人の事を知りたいと思ったのは初めてだった。

「きっと後悔するよ。」

「覚悟してるよ。」

 彼女はしばらく黙ってから話し始めた。

「そらは私の妹でも、親戚でも何でもない。赤の他人。」

 そらちゃんのフルネームを知っている俺はあまり驚かなかった。

「赤の他人だから保険証もないし、母子手帳もない。」

「じゃあなんで一緒に住んでるの?」

「それは、」

 彼女は唾を呑んだ。

 

「私が誘拐したから。」


 薄暗い廊下の蛍光灯が点いたり、消えたりする。

 俺は彼女の言葉をすぐには咀嚼できなかった。

 俺は赤の他人である二人には何らかの事情があると思っていた。

 彼女の家は彼女の両親が住んでいる痕跡がない代わりに、二人が家族のように暮らしている様子が容易に想像できた。

 だから彼女とそらちゃんは血縁関係になくとも家族であるように感じていた。家族になるくらいの事情があると。

 でもよく考えれば高校3年生と小学生になる手前くらいの子供が、二人暮らしをする事情なんてものがあるのだろうか。姉妹でもない二人が。

「どういう意味?」

「意味?そのまんまだけど。私が誘拐したの。」

「だからなんで?」

 彼女は周囲を見渡した。

 俺たちの会話が聞こえる距離に人はいない。

「その話、後でいい?誰にも聞かれたくない。」

 後でということは、別の場所でということだろうか。

 彼女は誘拐犯にのこのこ従う人間がいるとでも思っているのだろうか。

 俺が戸惑っている事に気付いたのか彼女は続けて言った。

「大丈夫。私よりあんたの方が絶対強いから。」

 自分が誘拐犯であると告白しておいて、彼女の態度は何も変わらなかった。

 そのせいで誘拐犯が何なのか分からなくなっていた。

 誘拐犯は誘拐した人間を病院に連れて行こうとするのだろうか。

 「誘拐」という聴き馴染みのない単語に戸惑いつつも、まだ彼女の物語の序章も見えていない気がして、この小説を読み終えるまでは彼女を警戒することは出来なかった。


 両親が不在の中、高熱の妹を運んできた優しい姉は高い診察料を払い、病院を後にした。

 行きと同様にタクシーに乗り、アパートの階段を登る。

「佑里!」

 玄関前に五十嵐が立っていた。

「ごめん。電話気が付かなかった。そらは」

 五十嵐は俺の背中で眠るそらちゃんを見て安堵するのと同時に、俺を見て目を丸くした。

「ただの風邪だから大丈夫。心配かけてごめんね。」

「なんで桂木君がいるの?」

「そらを病院に連れて行ってくれたの。」

「じゃあ話したの?」

 どうやら五十嵐は事情を知っているようだ。

「これから。全部言おうと思う。」

「いいの?」

 その会話を俺に聞かれている時点で遅いと思うが二人は話を続けた。

「うん。もう隠せないし。」

 俺は再び彼女の家に招かれた。

 そらちゃんをベットに寝かせ、俺たちは折りたたみのテーブルを囲った。

 気を遣った彼女は麦茶を3つ用意し、正座する。

 口火を切ったのは彼女だった。

「何から話せばいいんだろう。」

 彼女は少し考えてから、大きな双眼を俺に向けた。

「まず私の話からしていい?」


 私のお母さんは父親の不倫相手だった。

 父親はお母さんが働く会社の上司で別に家庭を持っていた。

 お母さんはそれを知っていたし、お母さんにとっての私は望まない子でもないってそう教えられてきた。

 父親は「結婚は出来ないけどそれでもいいなら」と私を産むことを承諾したらしい。

 それでも父親は周りの目を気にしてお母さんを退職させ、代わりに十分すぎる生活費を毎月振り込み、私たち親子はそれに支えられた。

 私は父親を恨んではいない。

 すべてはお母さんが望んだことだし、月に1回家に来る父親はそう悪い人には見えなかったからだ。

 私たちは辛くなんてなかった。

 むしろその生活が辛かったのは父親の方だったんだと思う。お母さんを半殺しにしているようなものだから。

 段々と家に来る回数は減り、私が小学生になった頃から顔を見せることも、連絡をしてくることも一切なくなった。

 そのせいでお母さんはどんどん精神を病み、自暴自棄になってしまった。

 鬱って診断されたのは私が小学3年生の時。地獄のような生活は何年も続いた。

 転機になったのは私が中学生になる時。

 社会復帰を医者に勧められたお母さんはスーパーのパートを始めた。そしてそこで彼氏ができた。

 高木さんはお母さんの3歳年上でスーパーの店長をしていた。料理が得意で気遣いが出来て、お母さんにも私にも優しかった。

 そして中学3年生の時、事件が起きた。

「佑里、高木さんの事どう思う?」

 夕食の跡片付けを終えたお母さんは、リビングで勉強をしていた私にそう聞いてきた。

「え、いきなり何?いい人だと思うけど。」

「実は、今日プロポーズされたの。」

「えっ。」

 お母さんは頬を赤らめてポケットから小箱を取り出した。

 ドラマとかでよく見るその箱の中身を私は知っている。

 お母さんはゆっくりと手の中の宝物を私に見せた。シルバーのリングには一粒の宝石が付いている。

「高そう…。」

 思わず本音が出てしまった。

「よかったね。お母さん。おめでとう。」

 私は上手く笑えていただろうか。

 この時感じたのはお母さんを取られる恐怖だけだった。

「ありがとう。高木さんの実家がある高知に引っ越すことになるけどいい?」

 お母さんが描く幸せな家族に自分も入っていて安堵する。

「いいの?私も。」

「何言ってるの?高木さんは佑里のお父さんになるんだよ。」

「お父さん…」

 高木さんが嫌いな訳じゃない。むしろ好きな方だ。

 どん底だったお母さんを救ってくれた恩人で、何より高木さんといるお母さんは父親に見せていた笑顔を浮かべていた。

 お母さんのその笑顔が私は大好きだった。

 その笑顔が毎日見られる。嬉しい筈なのに父親というものがいまいち分からない私は不安だった。

「高木さんがお父さんになったら、毎日楽しいね。」

 私はお母さんの笑顔を望んだ。

 それから数日後、自室で寝ている時に誰かの声で目を覚ました。

 それはお母さんの泣き声だった。

 私は忍び足で廊下に出て、リビングの扉に耳を寄せた。

「どうして予め言わなかったの?私は佑里を捨てることは出来ない。」

 その言葉ですべてを悟った。

 高木さんの実家は高知で旅館を営んでいた。

 家業を捨ててこっちに出てきたらしいが、お母さんと結婚して後を継ぐことになっていた。そして恐らく、私の存在を両親に今になって言ったんだろう。

 結果は猛反対。そりゃそうだ。いきなり15歳の孫ができるなんて夢にも思っていなかっただろうし、人目が気になるのは仕様がない。

「佑里がいるから結婚出来ないって言うなら結婚しないから。」

 お母さんが私を選んでくれたことが嬉しかった。そして同時に涙が出た。

 私がいなかったらお母さんは幸せになれるのに。

 今までずっと思い続けてきた言葉だった。

 私さえ産まれなければお母さんは父親を諦めて別の人と結婚したんじゃないか。

 お母さんは私を望んだ子だと言った。

 でもそれはきっと嘘だ。私を守るための嘘。

 そうでなくても私の存在がお母さんの人生を邪魔している事は明らかだった。

 私を隠すためにお母さんは家族と疎遠になった。

 私が彼氏を作りなよって言うまで恋愛をしなかった。

 生活費をくれるだけ私たちは恵まれていると私の嫌いな笑顔をつくった。

 このチャンスを逃したらまた前の生活に戻ってしまう。

 顔の肉が無くなって、虚ろな目でぼーっとしていると思ったら急に泣き出して、私にずっと謝ってくる母を励まし続けるそんな生活に。

 私さえいなければ。

 涙が止まらなかった。

 私はすぐには決断できず布団に戻った。

 そして次の日の夜、決断した。

「お母さん、私の事捨てていいよ。」

「何言ってるの?」

 鶏肉を切るお母さんの手が止まった。

「もしかして、昨日の会話聞いちゃった?」

「うん。ごめん。」

「捨てる訳ないでしょ?」

 お母さんは怒っていた。でもどこか安心している様だった。

「でも私、来年高校生だし。たまに電話と生活費さえくれれば一人暮らしだってできる。寮生活の高校生だって沢山いるし、高校卒業したらどうせ一人暮らしするんだろうし、ちょっとくらい早くなったっていいと思わない?」

「本気で言ってるの?」

 お母さんの顔に血色が戻る。

「もう子供じゃないんだから。十分育ててもらったよ、もう巣立ちの時期。お母さんはお母さんで幸せになって。」

 お母さんは泣きながら私を抱きしめた。

 私はこの日、本当は死のうとした。

 自分さえいなければお母さんは幸せになれるから。

 それでも死ねなかった。死んだらお母さんを悲しませる。

 私は誰にも迷惑をかけない良い子にならなければいけなかった。


「それでずっと一人暮らしなの?」

 俺は気が付くと泣いていた。

 彼女が泣かないから、俺は泣いていた。

「うん。お母さんと高木さんは高知に行って、あれから子供もできた。私は父親に引き取られたって事になってる。」

「連絡は?今もしてるの?」

「うんん。お母さんからの連絡は一度も来てない。私が望んだ通り、お母さんは私を捨てたの。」

「だから、」

 そこまで言って口を噤んだ。

「そうだよ。だから私はそらを誘拐した。」


 高校生最後の夏休み、私は街中に行って新しい洋服を買った。

 隆樹は男の人が好きな訳だけど、女の子になりたい訳じゃないから女装はしないらしい。だから私は一人で買い物に出かけた。

 この日は観測史上最も暑い真夏日で、外に出たことを後悔した。

 紙袋を抱えて帰路に就くと、乗る予定のバスが私の横を過ぎて行った。

「えっ。」

 バスは運よく信号で止まり、左折のウィンカーを光らせている。

 私は猛ダッシュで角にある駐車場を斜めに横断してバス停に向かった。

 その時だった。

 一台の車の中から視線を感じた。

 目をやると子供が私を見つめていた。髪は濡れて汗が大量に噴き出し、唇は血色がなく、顔色が悪い。

 私は足を止めた。

 バスは動き出した。

 熱中症。

 すぐに分かった。

 警察を呼ぶか、救急車を呼ぶか、親を呼ぶか、恐らく全部正しかったのにどれも出来なかった。

 気が動転していたのかもしれない。

 あるいは暑さで冷静な判断が出来なかったのかもしれない。

 私は真っ先に車のドアを開けた。

 開いた。

 中にいる少女に持っていたスポーツドリンクを飲ませて、額の汗を拭った。

 少女は私の声掛けに頷いて答えたし、自分でペットボトルを押さえていたから、危険な状態にはなっていなかった。

 水分と塩分のお陰で徐々に血色も戻ってきた。

「汗拭くよ。」

 自分用に所持していたハンドタオルで今度は腕を拭いた。

 少女は七分袖の服を着ていた。正確には長そでの服が成長した体に合わなくなってその長さになっていた。

 そして汗を拭いて気付いた。

 少女の腕には幾つもの痣があった。

 捲し上げたズボンからも痣のついた脚が出てきた。

「どうしたのこれ?」

 少女は何も言わなかった。

「誰にされたの?お父さん?」

 首を横に振る。

「お母さん?」

 ゆっくり頷く。

 少女は虐待されていた。

 この駐車場はパチンコ屋のものだった。

 なんとなく少女の母親像が浮かび、同時に腹が立った。

「どうする?どうすればいい?」

 やることなんて一つしかない。

 通報する。

 でもそれが出来なかった。

「ここにいるか、私と逃げるかどっちがいい?」

 自分が何を言っているのか分からない。

「…たすけて。」

 そらがドアの鍵を開けたのか、母親が閉めなかったのか、今でもわからない。

 でもなぜか後者に思えた。

 母親はそらがいなくなって欲しいのではないか、と。

 気が付けば私はそらを連れ去っていた。


 彼女の行為は誘拐というには悪意がなく、保護というには間違ったやり方だった。

「何で母親がそらちゃんを捨てようとしたって思ったの?」

「ただの勘。でも当たってた。そらの母親は今も失踪届を出してない。」

「それでも、俺は通報するべきだと思う。今からでも。」

「通報はしない。」

 彼女ははっきりと言い切る。

「どうして?」

「そらの為。通報したところでまた親のところに戻される可能性がある。」

 児童相談所が関与していても虐待をされている子供は多くいる。

 保護してもらえる子供には基準とかがあるのかもしれない。

 それでも通報しない理由にはならない。

 罪を犯す理由になどなるはずがない。

「いやいや、そらちゃんの為になってないって。痣があったなら児童養護施設とかが保護してくれるだろうし、それに今の生活続けても、そらちゃんにも、君にも未来はないって。」

「先がないことなんて分かってるよ。でも、」

 彼女は涙を流した。

「そらと一緒にいたいの。」

 潤んだ双眼がまっすぐ俺の目を見つめた。

 そんな目をされたって俺は折れる訳にはいかない。彼女の為に。

「…今、何歳?」

「5歳。」

「二人で生きていくってどうやって?小学校にも行けない。今日だって俺がいなかったら病院にだって行けなかっただろ?」

「お金ならある。父親の仕送りは私が全部もらってるから。学校に行けないなら塾に行く。高くても病院は行かせられる。」

「本気で言ってんの?」

「正しくないのは分かってる。」

「犯罪だぞ?」

「それでもいい。犯罪者でいい。」

「いい訳ねぇだろ?なぁ?目を覚ませよ。」

 俺は彼女の肩を揺すっていた。

 振動でコップが倒れ、五十嵐が立たせる。

 ティッシュでテーブルを拭く奴をよそに彼女は言った。

「正論じゃない。あんたには分からないだろうけど。」

 屋上での出来事を思い出し、苛立つ。

「じゃあ何で俺に言ったの?限界が来てるんじゃないの?」

 彼女は自分の行動を間違ってないと思っている。

 でも罪を犯して平気でいられる訳がない。

 彼女は俺に的を射られたのか、脱力して正座を崩し膝を立たせる。

「そうだよ。もう限界なの。自分で選んだ道なのに、後悔してないのに、それでも限界なの。だから探らないで欲しかった。そっとしておいて欲しかった。隆樹以外に教えるつもりはなかったのに、あんたは聞いてきた。だから、頼っちゃったの。」

 ふと後悔が押し寄せる。

 俺は何がしたかったのだろう。

 ただの失恋に終わらせたくなくて、まだ彼女を諦めきれなくて、そんな下心だけで彼女の秘密に触れた。俺は自己満の為に彼女の小説を最後まで読み切りたかっただけだった。それがこんな大事だとは思わなかった。

「こんなつもりじゃなかったんだ。ごめん。」

「だから後悔するって言ったのに。」

 手を引くなら今だった。

 これ以上踏み込んだらもう戻れない。最悪の場合、共犯者になってしまう。

 でも、もう遅かった。

「月島は…俺にどうしてほしい?俺はどうすればいい?」

 突き放されると思った。

「味方になってほしい。」

「えっ。」

 彼女は意外にも俺を受け入れた。

 顔が熱くなっていくのを感じる。

「私があなたに秘密を打ち明けたのは、助けを求めたのは多分、味方になって欲しいから。現実的で冷酷なあなたの考え方は私とは対照的でしょ?だからそんな人に正しくなくても、間違ってないって言って欲しかった。」

 彼女の真剣な眼差しが本心であることを証明する。

「冷酷って…」

 突然の告白に照れ隠ししか出来ない。

「でも選ぶのはあなただよ。私は最低な人間だから、あなたの好意を自分の都合のいいように利用してるだけ。だから自分で選んで。」

 選択権は俺にあると彼女は言う。

 でも俺は彼女を前にするとひれ伏す事しかもう出来なくなっていた。

 彼女が望んだことが俺の望むこと。プライドなんてとっくに消えていた。

 それほどまでに固執していた。

「味方になるよ。」



「なんでお前は月島と仲いいの?」

 月島の家を出て、隣を歩く五十嵐にずっと聞きたかった質問を投げかけた。

「佑里は命の恩人なんだ。さっき佑里がしていた話で、佑里が死のうとしたって言ったの覚えてる?」

 自分が母親にとって邪魔な存在だと分かった月島は死のうとしたが出来なかったと言っていた。

「その日なんだよね。僕が死のうとしたのも。」

「えっ。」

 こんなにも自殺志願者が多いことに驚いた。

「僕、中学の時に自分が同性愛者だって気付いたんだ。叶わない恋どころか恋だと言うことも出来なくて、苦しかった。誰にも相談できなくて、ある時、屋上から飛び降りようとした。そうしたら佑里がいて、佑里も死のうとしてた。今まで話したことなかったんだけど、何時間も話して、僕たち友達になったんだ。ただの傷の舐め合いだけど。」

「そうだったんだ。」

「佑里って自分が苦しんだ分、苦しんでいる人を放っておけないんだと思う。僕もそらも助けられてばっかりだし。だから今度は僕が佑里を助けたいんだ。」

「そっか。俺も月島を助けたいよ。味方になるって言ったし。」

「桂木君は本当に佑里が好きなんだね。」

 どういう反応をすればいいのか分からなかった。

「…うん。その」

「いいよ。佑里から全部聞いた。桂木君が山内君に言ってないことも。僕は桂木君が好きな前に佑里の事が好きだから、失恋できただけでもよかったって思ってる。」

「俺は五十嵐を無神経に傷つけた。本当にごめん。」

「もういいよ。佑里から色々言われたんでしょ。意外と口悪いよね。」

「…うん。イメージとは違ったかな。」

 同性を好きになるという感覚が俺には理解できなかった。

 それでも理解できないからと言って排除したり攻撃するのは間違っているとこの時ようやく分かった。



 それから一週間、塾の後や休みの日に佑里の家に行き、すっかり元気になったそらの遊び相手になった。

 これが佑里の味方になったと言えるのかは正直よく分からなかったが、二人のままごとに付き合うことになった。


 一週間後のこの日は隆樹も一緒だった。

「そろそろ帰るね。」

 そらが寝てから時計を見ると20時を回っていた。

 アパートを出るなり辺りを見渡した隆樹は小声で話し始めた。

「考えたんだけど、俺たちで二人の束の間の幸せを守ってあげられないかな。」

「どういう意味?」

「駆が前に言ってた通り、二人には未来が無い。待ってる未来は誘拐がバレて捕まるか、そらを児童相談所に連れて行くかのどちらかだと思うんだよね。」

 それは俺も考えていたことだった。この二つしか結末はない。

「捕まるのは避けたいから、そらを児童相談所に連れて行くしかないと思う。でもその間出来るだけ長く今の生活を送らせてあげたい。」

「長くって最長でもそらが小学生になる前だろ。」

「そこまで長くなったら最高だけど、もっと危惧する事が…」

「母親の通報か。」

「うん。出来るだけ長くっていうのは、そらのお母さんが通報する直前あるいはバレる直前。その時にそらを合法的に保護してもらえれば、」

「その前に、佑里はそらを手放せるかな。」

「佑里だって覚悟しないといけないことくらい分かってるよ。だからその決意が出来るまで猶予をあげたい。」

「簡単に言うけど、そんなことできるか?」

「やるんだよ、僕たちで。そらのお母さんを探そう。」

「えっどうやって?手掛かりは?」

「ないよ。どこのパチンコ屋か佑里から聞きだして、車の色とか車種をそらから聞いて張り込むしかないと思う。」

 行為自体は賛成だが、来月に推薦入試を控える俺にそんな時間はない。

 自分の将来を捨ててまで協力は出来ない。

 結局、俺の決意なんてその程度だ。

「あ、分かってるよ。駆は忙しいよね。大丈夫、僕が一人で張り込むから。だからいい手がかり聞き出せたら教えて欲しいのと、これからあまり佑里の家に行けなくなるって事を伝えたくて。」

 隆樹は美容の専門学校への進学が決まっていた。だから甘えることにした。

「悪いな。何か手伝えることあったら言って。それと見つけたら連絡して。」

「分かった。」

 ようやく俺が佑里の味方になれそうな気がした。



「このまま時間が止まればいいのに。」

 そらを寝かしつける佑里がそう呟いた。

「それは無理だよ。」

 俺は面白くない返事をする。

「わかってるよ。ただ、明日になるのが怖いだけ。学校になんか行きたくない。このままそらといたい。」

 ずっと一緒にいると彼女が高校生である事を忘れてしまう。

 二人は親子なんじゃないかと錯覚してしまう。

「そらと私が出会ったのは運命だった。」

 運命。

 俺はその言葉がすごく嫌いだ。

 そんな非現実的なものある訳がない。

「運命なんてないよ。」

「あぁそうだった。駆は運命も愛も信じないよね。」

「そんなことないよ。」

 佑里は揶揄うように笑った。

「ずっと聞きたかったんだけど、佑里は今もお母さんが好きなの?」

 俺には佑里が前にした話が衝撃だった。

「どうして?」

「だって…その、」

 俺はどう言ったら佑里を傷つけないか言葉を探した。

「いいよ。はっきり言って。」

 いよいよ見つからなかった。

「ごめん。その、佑里は産まれてこなかったらよかったって言ってたけど、子が産まれるのは親が産んだからであって、佑里の意志じゃないというか。佑里のお母さんが肩身の狭い人生を送ることになったのは、お母さんのせいであって、俺だったら自分を捨てろなんて言えないし、捨てられたら親を恨むんじゃないかなって。」

 佑里は否定も肯定もしなかった。

「親子の愛は無償の愛ってよく言うでしょ?でもそれって親が子に向けるものじゃなくて子が親に向けるものだと思うの。だから子供は親がどんなに酷い人でも嫌いになることは出来ない。私がお母さんに自分を捨てろって言った時、お母さんはきっと嬉しかったんだと思う。なんなら、高木さんとの会話を私にわざと聞かせたんじゃないかって。」

「そんな…まさか。」

「思い過ごしかもしれないし、事実かもしれない。でもそれは私にはどうでもいい。無理だから。心の底から嫌いになるなんて。」

 佑里は悲しい顔をした。

「いっそ嫌いになれたら楽なのにね。」

 吐き捨てるように言った彼女のセリフが頭の中で反芻した。

「そらを初めて見た時は、あの時の自分を見ているみたいだった。母親に要らないって言われたら、それを受け入れる。死ぬことさえも受け入れてるみたいで。だからどうしても救いたかったの。」

「それで、そらを助けて、佑里は救われたの?」

 佑里は固まった。救われた訳ではないようだ。

「佑里は俺の事分かってないよ。」

 佑里はキョトンとしている。

「俺は運命は信じてないけど愛は信じてる。だから、俺は佑里を救いたい。」

「何それ。」

「初めてだったんだ。人を本気で好きになるのは。佑里に冷たくあしらわれても、自分の好意を利用されても、それでも好きなんだ。これは愛だってそう思う。」

「らしくないこと言うね。」

 そうだ。本当にらしくない。

 俺は佑里に狂わされた。

「でもありがとう。駆が味方になってくれたお陰で気持ちが軽くなったのは確かだから。」

「俺は何も出来てないよ。」

 佑里に感謝されて舞い上がる。

 俺は至って単純な男だ。

 佑里が微笑む。

 二人きりの部屋。

 急に緊張してくる。

「あのさ…ハグ、していい?」

 佑里は少し驚いて「変態」と罵った。

「3秒だけね。」

 そして意外にも許可してくれた。

 俺はゆっくり佑里の肩に腕を回す。

 心臓の鼓動がバレそうで深呼吸する。

 佑里のいい匂いが鼻を通り、体温が胸に伝わる。

 3分経って母親からの着信があるまで佑里が離れることはなかった。



「そらの母親を見つけた。」

 塾を出て帰路に就くと隆樹が待っていた。

 缶コーヒーを2つ持っている隆樹は片方を俺に差し出してきた。

「本当に?」

 コーヒーをありがたく受け取ったが、眠れなくなるので口を付けることはなかった。

「うん。駆がそらから車のナンバー聞き出してくれたから、張り込みしてたら見つけたよ。」

 俺はこの数日、佑里の目を盗んでそらから母親の情報を聞き出した。

 幸運なことに車のナンバーは母親の誕生日だった。

「それで見つけてどうしたの?」

「原付で家まで尾行した。」

「えっ家が分かったのか?」

「うん。これからは計画通り見張ろうと思う。家からそんなに遠くないし、僕、時間だけは沢山あるから。」

「ごめんな。お前ばかりにさせて。」

 隆樹はコーヒーを飲もうとして止める。

「駆がそんなこと言うなんて、驚いたよ。でも大丈夫、心配しないで。バレないようにちゃんと見張るから。」

「うん。何かあったら必ず連絡して。」

「わかった。」


 その連絡が来たのは入試前日だった。

「どうしよう。そらの母親が警察にいる。」

 電話越しに隆樹の荒い吐息が聞こえる。

「今何処にいる?」

「警察署の前のファミレス。」

「わかった。すぐに行くから待ってて。」

 明日の面接の練習をしていた俺はもう寝るつもりだったが、急いで着替えて玄関に向かった。

「何してるの?」

 背筋が凍り、振り返ると廊下に母さんが立っていた。

 怒りと恐怖が混ざったようなそんな顔だった。

「…塾に…忘れ物してきた。」

「それ明日必要なの?」

「うん。」

「じゃあ車出すから待ってて。」

「いいよ。すぐ戻るから。」

「ねぇ。明日が何か分かってる?」

 多分母さんに俺の嘘はバレている。

「分かってるよ。」

「なら、どうして?最近何処に行ってるの?塾の後、いつも何してるの?」

「そんなの…なんだっていいだろ。」

 感情に任せて本音が出てしまった。

 ダメだ。今は何としてでも早く隆樹の所に行かなければならない。ここで母さんと喧嘩してる場合じゃない。

「息抜きぐらい、別にいいでしょ。今だって緊張で眠れないんだ。気晴らしに散歩したらすぐ戻るから。」

 母さんの顔は俺を疑ったままだった。

「分かった。でも9時には寝て。」

 顔と言葉が一致してなかったが、今はそんな事気にしてる場合じゃない。

 俺はスニーカーを履いて外に出た。

 十月の夜に夏の名残なんてものはない。

 もう一枚上着を着てくるべきだったと後悔したが走るとすぐに気温に慣れた。


 ファミレスの窓側の席に隆樹がいる。気が気じゃないのか、俺を見つけるなり立ち上がった。

「どうしよう。」

 隆樹を宥めて座らせ、状況を整理する。

「警察に行ったのはいつ?」

「1時間くらい前。マンションから出てきたから後をつけたらここに。」

「そうか…ついに来たか。」

 ついに来た。束の間が終わる時が。

「佑里に言うしかない。」

「そんな…」

「それしかないだろ。このままだったら佑里は。」

 周りの目を気にしてその先は言わなかった。

 隆樹は少し考えて、じっと目を瞑り、ゆっくりと目を開けた。

「そうだね。僕たちが守るのは佑里で、そらを守るのは国がするべき。間違ってない。」

 俺たちはすぐに佑里の家に向かった。


「どうしたの?こんな時間に。」

 少し眠そうな佑里は部屋着のまま出てきた。

「大事な話があるんだ。」

 佑里は俺たちの顔を交互に見て事の重大さを理解したようだった。

「そらが寝てるから外に行こう。」

 俺たちは佑里の提案で近くの公園に移動した。


「それで私は指名手配でもされてるの?」

 口火を切ったのは佑里だった。

「そこまでじゃないけど、そらの母親が警察に行ったのを隆樹が見たんだ。」

 佑里の顔に感情は無かった。

「ごめん。僕、佑里に内緒でそらのお母さん見つけて監視してたんだ。」

「俺も隆樹に協力してた。」

 佑里はまだ無表情のままだ。

「二人が何かしてるのは気付いてた。私の家で最近会ってないのに、妙に仲良さそうだから。」

 俺たちの行動は見透かされていた。それでも佑里は何も言ってこなかった。

「ごめん。黙ってて。」

 隆樹が申し訳なさそうに謝る。

「謝る必要はないよ。むしろ、感謝してる。二人は私を守ってくれてたんでしょ?」

 佑里は感謝をしていると言うが、その顔はそらと離れなければならない絶望で青ざめていた。

「今すぐそらと離れなきゃ行けない?」

「…うん。」

 俺は結局最後まで佑里に現実を突きつけるしかなかった。

「1日だけ、猶予はもらえない?」

「えっ?」

「最後に思い出を作りたい。堂々とそらと外を歩きたい。」

 佑里の最後の願い。俺たちの答えは一つしかなかった。

「でも…明日って。」

 隆樹も気付いた。

「俺の入試がある。でも関係ないよ。二人で最後の思い出作ってきなよ。俺は参加できないけど。」

 隆樹は申し訳なさそうな顔をして頷いた。

「わかった。僕が責任もって見張っておくよ。二人で好きな所に行ってくればいい。」

 俺は二人の最後を見守ることは出来ない。

 二人の思い出に入ることは出来ない。

「ありがとう。駆の試験が終わったら、児童養護施設にそらを連れて行くよ。」

「受け入れてくれそうなところ探しておく。」

 トントン拍子に話は進んだが、懸念している事がある。

「佑里は、覚悟出来てるの?」

 俺と隆樹は佑里の答えを待った。

「分からない。最初からこうなるって分かっていたけど、未だにそらのいない生活が想像できない。覚悟は出来てるのかもしれないし、出来ないまま全てが終わる気もする。でも一つだけ分かるのは、私たちに幸せな未来は来ないってこと。」

 かける言葉が何も見つからなかった。

 そらは施設で暮らすことになっても、母親の元に戻ることになっても、辛い道を歩むことになる。

 佑里は上手く理由を作って誘拐の罪に問われなかったとしても、そらを失った傷を癒すことは出来ない。

 いや、そうだろうか。

 佑里の傷は時間が解決してくれるんじゃないだろうか。

 そもそも佑里は変えられない運命を辿るそらの人生に勝手に介入して、勝手に傷ついて、自滅しているだけだ。

 ただ盲目になっているだけで、目を覚ませば自分の行いが意味のない事だったと気付く筈。そらと出会う前の月島佑里に戻る筈だ。

 俺は決めた。

 すべてが終わった後、傷ついた佑里の心は俺が癒す。

 目を覚まさせる。

 それが俺が出来る唯一の事だ。

 もしかしたら佑里はそうして欲しくて俺を傍に置いているのかもしれない。いや、考え過ぎか。

 


 都内の試験会場まで埼玉の北部からは電車で2時間弱で行けるが、昨日の事があったからか、母さんが車で送ってくれた。

「頑張ってね。」

 背中で応援の言葉をもらい俺は会場に向かった。

『そらの希望で遊園地に行くって。僕が付いてるから駆は安心して試験に臨んで。頑張ってね。』

「遊園地か…。」 

 二人が手を繋いで歩く姿を想像する。

 コーヒーカップやジェットコースターにメリーゴーランド。

 何人かの元カノと行ったそこは俺には居心地が悪かった。

 でも二人なら、本当に好きな人と行くのなら。違うのかもしれない。

『遊園地でばったり母親と会うことはないと思うけど、万が一の為に気を付けてって言っておいて。後は任せた。』

 俺はスマホの電源を切った。


「志望動機は何ですか?」

 小論文の試験を終えていよいよ面接が始まった。

 今だけは佑里たちの事を忘れて自分の将来の事に集中しようと心に決め、予め用意していた言葉を並べる。

「将来の夢は?」

 これも用意してきた。

「世界と日本を繋ぐ貿易関係の仕事に就きたいと思っています。」

 ふと、佑里の顔がちらつく。

 俺の将来に、俺の未来に、佑里はいるのだろうか。

 いや、佑里の未来に俺はいるのだろうか。

 ずっと何かが引っかかっている。

 ずっとモヤモヤしている。

 佑里たちは今楽しい時間を過ごしていて、隆樹もいるから俺が行く必要はない。

 そう分かっているのにモヤモヤする。

 自分だけここにいる事も、今まで勉強のせいでみんなといられる時間が限られていた事も、そらの母親の件を隆樹に任せっきりにしていた事もずっと申し訳なく思っていた。

 でも今俺がモヤモヤしているのはそんな事じゃない。

 もっと大きな何かが俺の中にある。

 俺だけが安定した、決められた未来に向かって進んでいる。

 今のこの時間を乗り越えれば俺だけが…佑里を置いて先に進める。

「貿易の仕事をして成し遂げたいことはありますか?」

 そうだ。俺は何がしたい?

 俺は、俺は…佑里と一緒に生きたい。

 佑里とそらと隆樹と遊園地に行きたい。

 二人の最後を見届けたい。

 俺がいなくて良くても、俺はいたい。

「私は…」

 面接官と目が合う。

「私は日本を豊かにすることのみならず、発展途上国など経済力に乏しい国々を豊かにする為に100%公正な貿易を実現させたいです。」

 俺は、自分の人生を捨ててまで佑里を選べなかった。



 入試は午前中で終わった。

 俺は急いで電車に乗って遊園地に向かう。

 休日ということもあって遊園地は満員電車並みに混んでいた。

 隆樹と入場口の前で落ち合うと、佑里とそらはカフェスペースでアイスを食べていた。

「駆も何か食べる?」

 入試後直行した俺は空腹が限界に達していたので、隆樹と遅めの昼食を取ることにした。

「あの二人、本当に楽しそうでよかった。」 

 ハンバーガーを咀嚼しながら隆樹の視線の先にいる二人を見つめた。

 アイスがべっとりついたそらの口元を佑里が笑いながら拭く。

 なんてことない事でも佑里には幸せな事なんだろう。

「あのさ、駆。これからの事なんだけど。」

 隆樹はスマホを取り出して俺に画面を見せる。

 そこには近くの児童養護施設のホームページが表示されていた。

「ここなら相談窓口もあるからいいと思うんだけど、問題はどう説明するかだよね。」

「あぁ。それなら考えたよ。まず、佑里からそらに接触したのはちょっとまずいから、そらが佑里に熱中症で倒れそうだって助けを求めたことにしよう。それで佑里は涼しい場所で休憩させようとして家に招いたけど、そらは虐待されてるから家に帰りたがらなかったっていうのはどう?」

「2か月半も通報しなかった口実は?」

「うーん。そらが行きたがらなかったってことで押し通せるんじゃないか?佑里だって未成年なんだから、そらから頼まれたってことにすれば誘拐にも犯罪にもならないと思う。」

「なるほど。でも、そらは嘘つけるかな?」

「それは…そらはずっと家に帰ろうとしなかったんだし、佑里といたいって思ったならそれは帰りたくないってことだろ。」

「そっか。まぁ多少のミスがあっても罪を問われることはないよね。」

「あぁ。」

 俺はこの時大きな間違いをしていた。


「もう一回乗っていい?」

「えーまた?」

「うん!」

「じゃあ写真撮るからそら乗ってきていいよ。」

「やった!」

 そらは駆け足でメリーゴーランドの列に走って行く。

「今日はありがとう。試験どうだった?」

 俺は今日初めて佑里と話をした。

「まぁ上手くいったと思う。」

「そっか。よかった。邪魔したんじゃないかって心配だったから。」

 少し当たってるが俺は否定した。

 それから隆樹と話し合って決めた今後の流れを佑里に説明した。

「じゃあ後3時間でお別れかぁ。」

「…そうなるね。」

 ちょうどそらを乗せた馬が回り始めて俺たちは手を振る。

 スマホで写真を撮りだす佑里に俺は最後の確認をした。

「佑里、覚悟は出来たの?」

 佑里はスマホの画像を確認すると、そらに手を振る。

 その瞳は潤んでいた。

「そらが生きていればそれでいい。」

 その言葉にどんな思いが込められていたのか、この時はまだすべてを理解できていなかった。

 泣きそうになった隆樹はいきなり佑里のスマホを奪った。

「もう一回二人で乗ってきなよ。僕が写真撮るから。ほら、そらはまだ遊び足りなさそうだよ。」

 停止した馬から離れようとしないそらは係員から無理やり降ろされた。

「そらは元気だな。」

 佑里は俺たちに礼を言って立ち去ろうとしたが、立ち止まってまた戻ってきた。

「言い忘れてたんだけど、一つだけ約束して欲しい事があるの。」

 佑里は周囲を見渡して俺たちにしか聞こえないような声で言った。

「万が一私が捕まっても、二人は自分の身を守ってね。二人が犯罪者になったら私は一生自分を許せなくなる。私を想うなら、自分の為に私を捨てて。」

 そんなことは起きない。

 でも万が一を見据えた保険だった。

「私が犯罪者だってこと忘れないで。」


「こっち向いて!」

 はしゃぐ二人を隆樹は必死に画面に映す。

 その時だった。

「何あれ?」

「警察?」

「事故かな?」

「え何?怖いんだけど。」

 周囲の人間が何かを見て騒いでいるのが分かった。

 大衆の視線の先に目をやると、20人くらいの警察官がいた。制服を着ている人もいれば、スーツ姿の人もいる。

 制服の警察官が周囲の野次馬を押しのけて空間を作ると、スーツの人がその空間を歩く。

 空間は次第に一つの道を作った。

 そしてその道はメリーゴーランドへと続いていた。

「嘘だろ。」

 嫌な予感が当たったのが隆樹の言葉で分かった。

 隆樹は何かを指さしている。

「あの人…」

 隆樹の指の先にいたのは一人の女性だった。男性警察官のなかに明らかに民間人の女性がいた。

「もしかして」

 血の気が引いていくのを感じた。

「そらの母親。」

「どうして?なんでだよ。万が一じゃねぇのかよ。」

 急いで佑里を目で探すと二人はまだ馬の上に乗っていた。

 周りの人が降りていく中で佑里とそらだけがまだ座っている。

 佑里は状況を察したのだろう、固まったままだ。

「逃がさないと。」

 隆樹が呟く。

「逃がしたら本当に犯罪者じゃねぇか。」

「じゃあどうすれば?あの様子じゃあ、きっと娘が誘拐されたって言ってるよ。」

「それでも逃げたらお終いだ。計画通りに証言させれば…そらにはもう説明したのか?」

「え?」

「そらに自分から佑里に近づいて、帰りたくないって言ったって言わせるんだよな。そのことそらは知ってるのか?」

 隆樹の顔が青ざめる。

「…後で言うつもりだった。」

 俺は佑里を目で探すと、佑里はそらに何かを言っていた。

「あぁよかった。佑里も気付いてた。」

 なんとかこの状況で首の皮一枚繋がったが、俺たちが追い詰められている事に変わりはなかった。

 とうとう刑事らしき人がメリーゴーランドの中に入り、佑里とそらを連れて行く。

 俺たちは野次馬の最前列に移動し、状況を見守った。

「怪我はない?」

 そらの母親は娘を誘拐された可哀そうな母親にしか見えなかった。

 きっと他の人間の目にも、今抱きかかえた子供を虐待していた母親には見えないだろう。

「痛いところある?酷い事されてない?辛かったね。」

 母親は涙ながらにそらを撫でた。

 これが演技だと思うとぞっとした。

「違う。」

 佑里の声だった。

「その子はあんたの子供じゃない。その子は私の子。」

 ギリギリそらの母親には聞こえていなかった。

 佑里は気が動転しているのか抑えきれなくなった思いを口に出した。でもそんなこと言ったら本当に佑里は誘拐犯になってしまう。取り返しが付かなくなる。

「そらは、」

 今度は大きな声で言い始めた。

 佑里は泣いている。

「佑里!やめろ!」

「駆、静かに。」

「静かにしていられるかよ。」

「さっき佑里に言われたこと忘れたの?僕たちが関わる訳にはいかない。僕は駆を守るよ。」

「なんだよそれ。佑里を見捨てるのか?」

「駆を守ることが佑里の為なら、僕は佑里を見捨てるよ。」

「どうして、」

「あの子!」

 俺たちが揉めているとそらの母親が大声をあげた。

 母親は俺たちを見て指さしていた。

「あの子たちも共犯者よ。早く捕まえて!」

 騒ぎ出す母親を近くの警察官が宥めて出口の方へ連れて行った。

 代わりに別の警察官が俺たちに近づいて来る。

「話、聞かせてもらっていい?署まで来てくれるかな?」

「僕たちは…」

 隆樹が何か反論しようとした。

「ここで話す訳にも行かないでしょ。」

 警官の言う通り、辺りは野次馬だらけでことは既に大きくなっていた。

 警察も未成年を晒し者にする訳にいかないのか早期撤退したいようだ。

「分かりました。行きます。」

 俺たちは車で警察署へ向かった。



 案内されたのはドラマでよく見るような取調室だった。

 2対1で対面する状況は数時間前の面接とは違う緊張感で、今にも逃げ出したくなる。

 俺の個人情報を告げると早速取り調べが始まった。

「君には話を聞きたいだけだから、そう怖がらないで。」

 40半ばくらいだろうか、『野上』と名乗った強面の刑事が俺に微笑むが、言葉に反して不気味な顔だった。

「君は制服を着ているってことは今日は学校だったのかな?」

「推薦入試でした。」

「ほぉ、推薦か。じゃあ君は成績がいいんだね。部活は何かしていたの?」

「バスケです。」

 そんなことを聞いて何になるのか考えたが、恐らく俺の人柄を知ろうとしているだけだ。

「じゃあ五十嵐君と同じだった訳だね?」

「はい。」

「月島佑里とはどういう関係?」

 やっと佑里の名前が出た。

「ただのクラスメイトです。」

「付き合ってたの?」

「その質問、関係ありますか?」

「ごめんごめん。ただの興味だよ。あ、言っとくけど答えたくない質問は答えなくていいからね。」

 黙秘権ってやつだろうか。

 俺を見透かしているような刑事の目は合わせたら、何もかも吐いてしまいそうになる。

 俺はこの人に嘘をつかなければいけない。だからこの人の気迫に屈する訳にはいかない。

 自分を奮い立たせると汗が滲んだ。

「あの、月島は、何をしたんですか?」

 言葉を間違えてはいけない。俺は慎重に選んだ。

「それはこっちが君に聞きたいよ。月島佑里は何をしたのかね?」

 長く話すとボロがでるから俺は極力短く話した。

「月島はそらちゃんを保護していました。知っているのはそれだけです。」

 刑事は俺の表情から情報を得ようとしているが、それはこっちも同じだ。

「そらちゃんか。それは下野セイラのことか?」

「え?」

 刑事はボールペンで白紙の紙に『星空』と書いた。

「キラキラネームとまではいかないか。」

 佑里はずっと『星空(せいら)』を『そら』と勘違いしていたのだろうか。

 あるいは誘拐がバレないように本名で呼ばないようにしていたのかもしれない。

「話を戻そう。保護というのは、何から守っていたの?」

「母親です。」

「どうしてお母さんから守る必要が?」

 分かっていて質問してくる意図を探したが、俺に語らせることに意味があるとしか思えず、お望み通りに答えた。

「そらちゃんが虐待されていたからです。」

 不気味な笑顔を浮かべていた刑事が一瞬険しい顔になった。

 今の俺の台詞にボロが出ていたとは思えない。

 どこだ?

 どこで間違えた?

「君も本当にそう思っていたんだね。」

「え?」

 思わず間抜けな声がでた。

「五十嵐君も君と全く同じ事を言ったよ。」

 そりゃあそうだ。

「でもね…虐待されてないんだよ。」

「は?」

 虐待されていない?

 どういう意味だ?

 この人は嘘をついて俺を揺さぶっているのか?

「そうか。君たちは恐らく、月島佑里に騙されていたんだ。」

 一瞬動揺したがこの人に揺さぶられていることに気が付いた。

 佑里が俺たちを騙すはずがない。

 つまりはこの刑事は俺に佑里を裏切らせようとしているに違いない。

「信じていないようだね。いいだろう。すべて話そう。」

 刑事は手元の資料をペラペラと捲り、3枚の写真を机上に並べた。

「月島佑里は8月3日パチンコ屋の駐車場で下野星空を誘拐している。」

 写真は防犯カメラの映像をコマ送りにしたものだった。

 本人から聞いた話の通り、佑里は駐車場でそらを誘拐していた。が、何かおかしい。

 一枚目の写真にはそらとそらの母親が乗る車の近くに佑里が映っている。

 二枚目は車から降りてお店に向かって歩いている母親と、車に近づく佑里。

 三枚目はそらを車から降ろしているシーンだった。

 佑里は長時間車に放置されて熱中症で死にそうなそらを放っておけなかったと言っていた。

 しかしこの写真を見るに母親が車から降りるのを狙っているみたいだった。

「君たちは騙されていたんだよ。母親に虐待を受けている少女を保護していると聞かされていたんだろうが、実際はただの誘拐だ。」

 刑事は写真を見て驚く俺を、誘拐だと知らされていなかった人間だと勘違いしたが、訂正するつもりはない。

 それよりも知りたいことがある。

「そ、星空ちゃんが虐待されていないというのは、どういうことですか?」

「ん?言葉通りだが?」

「でも、あの母親は星空ちゃんが連れ去られても、今まで通報しなかったんですよね?それって連れ去られてもいいって思ってたからじゃないんですか?」

「下野星空は無戸籍児だったんだ。戸籍を手に入れたのは最近だよ。」

「え?」

「下野星空の母親、名前はえっと…あ、下野みなみ。下野星空は下野みなみの前夫との子供なんだ。だが前夫は出生届提出を認めず、下野星空は無戸籍児になったらしい。よくある話だよ。下野みなみがこの日パチンコ屋に行ったのも、前夫に会う為だったそうだ。」

 無戸籍児。

 聞きなれない単語が頭の中で反芻する。

「つまり、戸籍がないから下野星空は社会的には存在しないことになる。警察は存在しない人間が誘拐されたと言われても動けないよ。」

 頭がぐちゃぐちゃにかき乱された。

 息が荒くなる。

 そらは虐待されていない。

 母親はそらを探さなかったんじゃなくて、戸籍がないから探せなかった。

 それじゃあ本当に…佑里はただの誘拐犯なのか?

「一つ気になることがあるんだ。君はさっき遊園地で月島佑里が叫んだ時、止めたよね?あれはどういう意味だったんだ?」

 そらを自分の子だと訴える佑里を思わず止めてしまった瞬間をこの刑事は見逃さなかった。

 俺の罪が晴れた訳ではないらしい。

「君は月島佑里が誘拐犯であることを知っていたんじゃないのか?」

「違います。佑里は誘拐犯じゃありません。」

 俺は佑里に騙されていたと思うことなんてできない。

 そらは虐待されていなかったのかもしれない。

 それでもその事実を佑里が知っていたとは限らない。

 佑里は勘違いしてそらを誘拐したに違いない。

 この刑事が佑里がただの誘拐犯だと言えるのは、この2か月半の二人を見てきてないからだ。

 ただの誘拐犯なら、身代金を要求したり、人質に苦痛を与えるはず。佑里はそんなことしてないし、佑里がそんなことできる筈がない。動機がないんだよ。

「どうしてそう思うんだ?これだけの証拠があるのに。」

「佑里は星空ちゃんが虐待されていると勘違いして保護していたんです。そうじゃなきゃ動機がありませんから。」

「動機か。動機ならあるぞ。俺の仮説に過ぎないが。」

 刑事はまた資料を捲り、ファイルごと俺に見せてきた。

「3年前の事件を君は知っているか?」

「3年前?」

 3年前なら中学3年生になる。

 中学3年の時といえば佑里が母親に自分を捨てろと言った時だ。

「3年前、月島佑里は母親を殺害している。」

 空気が止まった。

 頭が真っ白になった。

「は?」

「ここ。『月島由香は刃渡り18センチの包丁で娘・佑里を殺害しようと試みたところ揉み合いになり誤って自身の下腹部を刺し死亡』って。月島佑里は未成年だし、正当防衛が認められて罪に問われなかった。」

 視界がぐらつき、汗が噴き出す。

 佑里は母親を殺していた?

 じゃあ、あの話は嘘だったということか?

 何で俺に嘘をついた?

 隆樹は知っていたのか?

 俺はずっと騙されていたのか?

 佑里はただの犯罪者なのか?

 俺の中で大きな何かが音を立てて崩れて行った。

 それは佑里の犯罪を肯定する前提かもしれないし、信頼かもしれない。

「だが正当防衛といっても母親を殺した事実は変わりない。それに俺は正当防衛さえも疑っているよ。月島佑里本人しかその現場を見ていないからね。」

「佑里が…故意でやったと言うんですか?」

「あぁそうだ。月島は母親を殺害して、次のターゲットに下野星空を選んだ。戸籍のない人間ならバレても大丈夫とでも思ったんだろう。」

 違う。

「待ってください。佑里はそら、じゃなくて星空ちゃんを殺してません。警察にだって言っていい事と悪い事の分別くらいつきますよね?」

「一つの仮説だ。そう怒るなよ、少年。だがな、本当に殺さなかったと言い切れるか?俺たちが捕まえなかったら、そうなっていたと俺は思うがな。」

 違う。

 間違っている。

「それはありえません。俺たちは遊園地で最後の思い出を作った後に児童養護施設に星空ちゃんを連れて行くつもりだったんです。」

「ずいぶんタイミングが悪い時に捕まったんだな。それで、月島がそうしようって言ったのか?」

 ちが…佑里はそんな人間じゃない。

「提案したのは俺ですけど、佑里も納得してくれました。」

 刑事はしたり顔だった。

「まぁいい。ここで君と話し合ったって、下野星空に何の危害も与えていない事実は変わらないからな。 おまけに未成年ときたら、また罪に問われないだろうよ。」

 刑事はまるでそらに危害が加えられていて欲しかったと言う様だった。

「そこまで分かっていて、どうして俺に仮説とか話すんですか?」

 刑事は一層険しくなった。

「未来に犠牲者を出さない為だ。月島佑里を野放しにしたら、また次の犯罪をするかもしれない。」

「佑里はそんな人間じゃ」

「君の言い分は分かった。だがな、下野星空を見る月島佑里は異常だった。本当に自分の子だと思っている様だった。自分を母親だと信じきっていたよ。そういう異常な心理をもつ人間は危ない。俺は何人も似た奴を見てきた。」

 この人も俺と同じ事を感じていた。

 佑里はそらを妹ではなく娘としてみている。

 そこに危うさを感じたことはなかったが。

「俺の勘は確かだ。月島佑里は危ない。だから、桂木君。彼女を罪に問えない以上、守れるのは君しかいないよ。」



 俺たちが遊園地にいることがバレたのは隆樹の尾行が下野みなみにバレていたからだった。

 下野はあの日、そらの戸籍を手に入れ警察署に行方不明届を出しに行った。その時、自宅付近にしか出没しなかったストーカーが警察署にまで付けてきたから怪しく思い、逆に後を付けると、佑里に辿り着いたそうだ。


 あれから佑里は1週間の停学処分になった。

 それだけだった。

 法律のことはよく分からないが子供が子供の家に寝泊まりしていただけで、罪にはならなかったらしい。

 しかし、遊園地の野次馬の中にいた数名の生徒が佑里が映っている動画を拡散させ、この件は学校中に広まった。

 動画は既に削除されたが、人間の記憶から消すことは出来ず、月島佑里が誘拐犯であるというニュースは校内に波紋を呼んだ。

 停学処分の1週間が過ぎても佑里は学校に来なかった。

 家に行けば会えるのに、俺は連絡一つ出来ていない。

『月島佑里は母親を殺害している』

『野放しにしたらまた次の犯罪をするかもしれない』

 あの刑事の言葉がまだ頭に残っている。

 刑事は佑里を今まで見てきたであろう殺人者の一人としてカウントしていた。

 そして佑里が俺に言った言葉。

『私が犯罪者だってこと忘れないで。』

 この言葉が俺をずっと苦しめていた。


「佑里の家に行こうよ。」

 終礼が終わるなり隆樹はそう言ってきた。

「えっ…いや。」

 隆樹も俺と同じで佑里から何も聞かされていなかった。

 俺たちは佑里に嘘を付かれた不信感と、これ以上踏み込んでいいのかという戸惑いで、佑里に会おうと口にすることが出来なかった。

「本人に直接聞かないと、何も分からないじゃん。一人でも行くから。」

 俺を見つめる隆樹の目は覚悟の色をしている。

 真実を知るのが怖くて縮こまっているのは俺だけだった。

「一人で行くなよ。…分かった。行こう。」

 俺たちは一週間ぶりに佑里に会いに行くことにした。


 開いたドアから出てきたのは、血色がなく隈が出来た佑里だった。

「痩せた?」

 佑里は隆樹の言葉に「少し」と返して中に招いた。

 部屋の中は何も変わっていなかった。そらと暮らしていた時のままだった。

「警察から全部聞いたんでしょ。」

 佑里の口ぶりからして俺たちに嘘を付いたことへの罪悪感はなく、あっけらかんとしていた。

「佑里の口から本当の事を言って欲しい。」

 いつもの折り畳みテーブルを1対2で挟んで座った。

 佑里は俺たちの顔を交互に見て、口を開く。

「3年前のあの時、私は『自分を捨てろ』ってお母さんに言うことが出来なかった。お母さんを想うなら、私はお母さんの元から去るべきなのにそれが出来なかった。その結果、お母さんの結婚は無くなってまた二人きりの生活が始まった。でも以前とは違ってお母さんは明らかに私を邪魔に思ってた。それで高校生になる前の春休み、事件が起きた。お母さんは包丁を持って私に言ったの。『あんたなんか産まなきゃよかった。あんたさえいなければ私は幸せになれたのに。あんたを殺したら幸せになれるかな』って。酷く酔っぱらってた。でもそれが本音なんだって分かって気が付いたら包丁を奪って刺してた。お母さんは私を殺す気なんてなかったのかもしれない。でも殺されるくらいなら殺してやるって思った。」

 佑里の目から涙がこぼれた。

 それなのに佑里は悲しそうな顔をしていなかった。

「本当に殺したのか?」

 刑事に聞いたことと相違はない。

 それなのに信じられずにいた。

「そうだよ。」

 佑里は淡々と答える。

「何で嘘をついたの?俺たちが通報するとでも思ったの?」

 隆樹が口を挟む。

「私が殺人者だと知っていても、二人は私に協力してくれた?」

「それは…」

 佑里の冷たく鋭い目が俺たちを凝視する。

 俺も隆樹も言葉が続かない。

 分からない。

 それが答えだった。

 いくら恋に溺れていても俺は殺人者を抱きしめることが出来たのか分からない。

「そうなるでしょ。私は嘘をついて誘拐を正当化して、二人を利用した。二人の好意を自分を守るために利用したの。ずるい女でしょ?」

 佑里のその態度は、傍から見れば名探偵に当てられ開き直る犯罪者そのものだった。

 でも俺には演技にしか見えなかった。

「そらを誘拐した動機は何?」

 一番聞きたかったことだ。

「佑里は親に死ねと言われたら死ぬそらに、昔の自分が重なったから誘拐したんだと思ってた。でも佑里は自分の運命に抗った。じゃあそらを誘拐した動機は何?」

 佑里は少し考えて慎重に答えた。

「そらにも…子供にも、親に反発する権利はある。」

「それは自分と同じようにそらにも反発して欲しかったって事か?」

「そうだよ。」

「でも、そもそもそらは虐待なんてされていなかったんだよな?」

 佑里は俺に核心を突かれたのか固まってしまった。

「佑里はそらが虐待されてるって勘違いしたのか?」

「駆、一気に質問しすぎだよ。」

 隆樹は俺を止めようとしたが、それは出来なかった。

「そらが虐待されてたかどうかは分からない。でもそらは私に助けてって言ってるような目をしてた。」

 耳を疑った。

「目?それってつまり、妄想って事?」

「どう…だろうね。妄想かもしれないし、真実かもしれない。」

 信じられなかった。

 佑里は確かにロマン主義ではあった。

 運命とか奇跡とかそんな御伽噺の主人公のような言葉をよく使う。

 それでもここまで曖昧で、不確かなものを罪を犯すほど信じているなんて思ってもいなかった。

「はぁ?なんでそんな曖昧なんだよ。確かな根拠も無しに佑里は罪を犯せるのか?」

 佑里は黙ったまま答えようとしない。

 俺は佑里が正常な思考を持っているのか確かめる必要があった。

「なぁ…本当にそらの体に痣はあったのか?」

 心から「あった」と言って欲しかった。そうじゃないと


「なかった。」


 あの刑事が言った事が本当になってしまう。

 段々と自分の体から血の気が引いていくのが分かる。

 隆樹も顔を強張らせたまま固まっている。

「本当は気付いてたのか?そらは虐待されてないって。」

 佑里は何も言わない。

「お前は本当に…ただの犯罪者なのか?」

 佑里は黙り続ける。

 それが肯定を意味していると悟った。

「お前はそらを殺そうとしてたのか?」

 佑里は最後まで何も言わなかった。

『月島佑里は危ない。』

 刑事の言葉が脳内で反芻する。

 佑里は異常だ。



 佑里はしばらくして高校を退学した。

 あの日、佑里の家で俺が感じたのは恐怖だけだった。

 佑里は自分を捨てようとした憎しみで母親を殺し、幸せそうな母子に嫉妬した。

 少女をさらい、殺して母親を苦しめることで自分の親への憎しみを晴らそうとしたのかもしれない。

 そんな最悪のストーリーさえ辻褄があってしまうのだ。

 佑里の事を考えれば考えるほど、俺が知らない佑里の裏の顔を想像してしまい、最近は夢にまで出てくるようになった。


「今日の夕食何がいい?」

 朝食を食べ終わったばかりの俺に、母さんは夕食の話をする。

「なんでも。」

「合格祝いなんだから、好きなもの言ってよ。」

 母さんの空元気の正体は昨日届いた合格通知のせいだ。

 母さんは試験会場に送ったきり戻ってこなかった息子を警察に迎えに行き、何も話さないことを叱ったものの、それ以上聞いてこなかった。

 口を利かなくなった反抗期の息子に悩み続けているのは知っていたが、俺に母さんを気遣う余裕はない。

「なんでもいいと言っているんだから、それ以上聞くな。」

 食卓でコーヒーを飲む親父は、息子に興味なんかない。

 あの日、警察に世話になったことを責められたが、内申に影響が出て大学に行けなくなることを危惧しただけだった。

 大学に合格さえすればなんでもいいのだろう。

「行ってきます。」

 大学に合格したらもっと気持ちが高揚するものだと思っていた。

 それでも気が晴れないのは未だに佑里を忘れられないからだ。

 外に出ると、冷たい風が吹いた。

 もう冬になる。

 佑里と最後に会ったのはひと月前の事だ。

 たった一ヶ月。それなのにもう何年も経ったような疲労がある。

「おはよう。」

 バス停で待っていると、隆樹が隣にいた。

 最近は電車に乗らずにバスで登校している。

 佑里を忘れるためだ。

 隆樹も俺に付き合ってくれて遠回りをして通学している。

「おはよう。」

「はい、これ。」

 隆樹は小さな黒色の紙袋を差し出した。

「合格祝い。」

 中には高そうなチョコレートが入っていた。

「残るもの好きじゃないでしょ。」

「ありがとう。」

 隆樹とはほぼ毎日一緒にいるが、あれから佑里の話をすることはなかった。

 お互い話さないのが暗黙の了解になっている。

 バスに乗り込み、隆樹と他愛もない話をした後スマホを開いた。

 ダラダラとSNSを眺め、ネットニュースなんかも開く。

「えっ。」

 いつもの習慣なのに手が止まった。

 俺は目を疑った。

 ネットニュースの記事に知っている名前が載っていた。

『5歳の長女に暴行を加え死亡させたとして、警察は母親の下野みなみ(26)容疑者を逮捕しました。』

「嘘でしょ。」

 気が付くと隆樹も同じ記事を見ていた。

「これって、そらのことなのか?」

「こっちの記事に星空って書いてある。」

「暴行って…虐待ってことだよな。」

「これって…佑里の勘は当たってたってこと?」

 そらが死んだ。

 親に虐待された。

 いや、ずっと前からされていた?

 でも佑里はそらの体に痣は無かったって…。

「とにかく…佑里だ。佑里はこの記事見たのか?」

 ちょうどバスが停留所に止まる。

「行こう。」

 隆樹は俺の腕を引っ張り、座席を立った。


 バス停から佑里の家まではそう遠くなかった。

 それでも俺たちは必死に走った。

 荒い息を殺す。

 インターフォンを押そうとして直前で手が止まり、隆樹と目があう。

 大丈夫と目で伝える隆樹に背中を押され、俺はボタンを鳴らした。


 一か月ぶりの佑里はあまり変わっていなかった。

 ここだけ時間が止まっているような気さえした。

「どうしたの?いきなり。」

「話したいことがある。」

 佑里はピンとは来ていない様子だ。

「とりあえず、寒いから入って。」

 俺たちは温かい部屋に入ると、いつもの席に座った。

 佑里もいつも通りお茶をだした。

 あの日のことが嘘みたいに振舞う彼女は、きっとそらのニュースを知らない。

「それでいきなり何?」

 佑里が座って、いよいよ本題に入らなければならなくなった。

「ニュース見た?」

「何の?」

「今日の。」

「見てないけど、何?」

 隆樹が恐る恐るスマホの画面を見せる。

 佑里は手に取るなり食い入るように読み始めた。

 佑里は読み終わる前にスマホを裏返し、机に押し当てた。

 そして彼女は顔を見られたくないのか、立ち上がると何も言わずに洗面所に消えて行ってしまった。

 何分待っても佑里は出てこなかった。

 登校時間が過ぎていることを告げるように、母さんから電話が掛かってきた。

「今どこにいるの?」

「ごめん。寝過ごした。体調悪いから今日は休む。」

 母さんにいくつか言い訳をしていると、やっと洗面所のドアが開いた。

 出てきた佑里の目は赤くなり、虚ろになっていた。

「佑里。本当の事話してくれないか?」

 俺は気付いた。自分がした過ちと、佑里が隠した真実を。

「君はただの犯罪者じゃないんだろ?」

 隆樹が隣で「えっ」と驚く。

「駆、どういう意味?」

「俺たちは佑里はただの犯罪者だと思っていた。何の正義もない、ただ私利私欲の為に罪を犯したと思っていた。でもそれは間違ってる。こんな簡単なこと、なんで気付けなかったんだろう。」

「何のこと?」

 隆樹が催促する。

「そらは一度だって母親の元に帰ろうとしなかった。そらが佑里に寄せていた絶対的な信頼は、子供だから何の疑問も抱かないとばかり思っていた。でも、あの子にはちゃんとした自我も知性もある。そらは自分の名前も、性別も隠して生きていた。そんな子が理由もなしに知らない人間についていく筈がない。俺たちはそらの気持ちをちゃんと考えられていなかった。俺らがした過ちはそらの気持ちを見落としたことだ。」

「じゃあ佑里はただの犯罪者じゃない。理由があるって事だよね?佑里。」

「佑里、お願いだ。本当の事を言ってくれ。君はそらを殺そうとしていたのか?」

 俺たちはじっと佑里を見つめたが、佑里は黙り続けた。それでも何か言う気になったのか口を開いた。

「本当の事を言ったら、二人はまた味方になってくれる?」

 佑里はずるい人間だ。

 俺たちの好意をまた自分のために利用しようとしている。

 ここでイエスと答えれば俺たちはまた後に引けなくなる。佑里の魂胆なんて丸見えで、こんなに分かりやすい詐欺に引っかかる人なんていないだろう。

 でも俺たちにはやはり拒否権なんてなかった。

 隆樹と目を合わせる。

 隆樹はゆっくりと頷く。

「味方になるよ。」

 つまりは共犯者だ。

 佑里はテーブルの前に座り、ゆっくりと口を開いた。


「殺そうとしてたよ。」

 

 驚きはしなかった。佑里の殺意が単色ではないと分かっているからだ。

「そらが虐待を受けていた根拠なんてない。毎日毎日、駐車場に取り残されてたそらの本当の事情なんて分からない。でもあの子は昔の私と同じ目をしてた。だからどうしても助けたかった。これは嘘偽りない感情。」

 そらが虐待されていたのは事実だった。

 佑里の勘は当たっていた。

 そんなもの信じられないが実際当たっていた。

 根拠のない確信に自分の全てを委ねる佑里が理解できない。でも佑里はそういう人間だ。

 そらとの出会いは運命だと彼女は言うのだろう。

「でも、そらを殺してあの母親が悲しむのか知りたかったのも事実。」

 ふと佑里の言葉に危うさが顔を出す。

 そらを助けたいと思いながらも、殺意が生まれる。自分を投影した対象を殺したいと思う。

 どういうことだ?

 疲れ切っている脳を働かせた。

 佑里はお母さんに自分を捨てろと言った日、自殺しようとしていた。いや、実際には捨てろって言ってなくて、お母さんを殺した。

 でも自殺しようとしていたのは本当なのだろう。そうでなければ佑里と隆樹は出会っていないのだから。

「それは佑里が自殺していたら、佑里のお母さんは悲しんだのか、それを知る為にそらを殺そうとしたってことか?」

「そう、だと思う。でも本当に知りたかったのは、あの日お母さんは私を本気で殺そうとしたのかってこと。親は子供を捨てられるのか、殺せるのかそれが知りたかった。」

 赤く充血した佑里の目はさらに赤くなっていった。

 そらの母親はそらを捨てようとしたのか、そらを殺そうとしたのか、佑里はそれが知りたかったのだろう。でも、だとしたら佑里がそらを殺すのは何か違う気がする。佑里はそらの母親じゃないんだから…

「だから私は、そらの母親になったの。」

 はっとした。

 そうだ。このままごとで佑里が演じるのはいつだって母親だった。

 佑里は自分とお母さんとの関係を、そらとそらの母親に投影した訳じゃない。そらと佑里自身で親子という関係を演じていたんだ。つまり佑里は、自分のお母さんの気持ちを理解するためにそらの母親になったんだ。

 前に刑事は、佑里が母親を演じている事に危うさを感じていた。異常だと言っていた。

 18歳の女子高生に母性が芽生えることが危ないことなのかは分からないが、母親に殺されそうになった少女が、実際に子供を産んで母親になるのではなく、母親を演じようとすることが危ないことなのは理解できる。

 佑里はやはり、そらを殺すために誘拐していた。本人もそう言っているんだから紛れもない事実だ。

「でも…殺せなかった。」

 その言葉を聞いて胸を撫で下ろした。

 そうだよ。佑里はあの刑事が思い描いているような人間じゃない。

 そらの訃報を聞いた佑里は泣いていた。殺すはずだった相手の死を聞いて泣いていた。

 それほどまでに佑里はそらの母親になっていたんだ。

 ふと、昔佑里が言った台詞が浮かんだ。

『親子の愛は無償の愛ってよく言うでしょ?でもそれって親が子に向けるものじゃなくて子が親に向けるものだと思うの。』

 佑里はきっと無償の愛が親から子に向けたものであることを証明したかっただけなんだ。ただそれだけなんだ。

 全ての謎が解けた今、佑里は俺たちが危惧していたただの犯罪者じゃないと分かって安堵する。

 でも何かが引っかかった。

 何かまだ見落としている気がする。

 佑里はただの犯罪者じゃない。

 佑里は親から子への無償の愛を証明…できた。

 できて…しまった。

「私はそらを殺せなかった。だからお母さんも私を殺せなかったんだと思う。」

 その証明は佑里のお母さんも佑里を殺せなかったということの証明にもなった。

 佑里のお母さんに殺意はなかった。

 つまり佑里は…

「だから私は、ただの人殺しなの。お母さんも私を殺せなかった。でも私はお母さんを殺した。」

 正当防衛という言葉に守られていた罪が姿を現し、佑里に降りかかった。

 佑里は震える手を抱えながら泣き崩れる。

 そんな様子を俺はただ見ていることしか出来なかった。

「そらも私と出会わなければこんなことにはならなかったかもしれない。」

 佑里は死ぬんじゃないか。そう思った。

『だから、桂木君。彼女を罪に問えない以上、守れるのは君しかいないよ。』

 あの刑事の言葉が脳裏をよぎる。

 その言葉は佑里が猟奇的な殺人者で、未来の犠牲者を殺人者から守る為に言った言葉だと思っていた。

 でももしかしたら違うのかもしれない。

 刑事が言った言葉は、佑里本人を守るための言葉なのかもしれない。

 どうすれば佑里を守れる?

 どんな言葉を投げかければ佑里を救えるんだ?

 俺は必死に考えた。

 佑里はお母さんを殺したことも、そらを死なせたことも自分のせいだと思っている。

 でも、無理矢理かもしれないけど、佑里のせいではない気がする。

 包丁を向けられれば抵抗するのは当たり前だし、そらだって佑里と出会わなくても母親に殺されていたかもしれない。

 そうだ、あの日、遊園地に行く前日、俺は決めたんだ。すべてが終わった後、盲目になった佑里を目覚めさせると。

 それは今なのかもしれない。

「佑里、目を覚ませ。」

 泣きはらした佑里の顔が上がるのをゆっくり待つ。

「君はそらの母親じゃない。赤の他人なんだよ。君が助けてなかったらもっと早く殺されていたかもしれない。可能性なんていくらでもある。これが良かったのか悪かったのかなんて誰にも分からない。それと、佑里のお母さんだって殺意がなかったかなんて分からないだろ?君は母親を演じて、子供を殺せなかったのかもしれないけど、子供を殺せる母親だっている。現にそらの母親がそうだろ?だから佑里は、そらのこともお母さんのことも自分のせいだって思わなくていい。」

 気付いたら俺も泣いていた。

 必死に死なないでくれと説得した。

 佑里が何を語るのか俺たちは固唾をのんで見守る。

「全部妄想だとしても、私はこの夢から覚めたくない。」

 佑里の答えは期待していたものとは違った。

「どうして?」

「そらとお母さんを愛している自分を失いたくないから。お母さんは私を愛していたって、殺そうとは思っていなかったって信じたいの。私はただの殺人者だって思いたい。そらとの出会いも運命だった。」

「違う!運命なんかじゃない。あの車に乗っていた女の子がそらじゃなくても、佑里はその子に同じことを言っていた。運命なんかない。誰でもよかったんだ。」

 佑里は俺の言葉を時間をかけて飲み込んだ。

 そして微笑んだ。

「そうかもしれない。でもその女の子はそらだった。私が運命の出会いだって思いたかったらそれは運命の出会いになるの。」

 電流が全身に流れて、言い返す言葉が消えた。

 運命という言葉がずっと嫌いだった。

 それを分かっていて言ってくる彼女は、意地悪だった。

 でも彼女の言葉が離れない。

 俺はずっと恋人を運命の人だと信じている人間を滑稽だと嘲笑っていた。

 でも違った。

 嘲笑われているのは俺の方だった。

 俺は運命を信じることも、盲目になることも出来ない、可哀そうな人間だった。

 途端に自分が惨めに思え、運命を信じることができる人間に憧れた。

「どうしたら…そう思えるんだ?俺には理解できない。」

 力が抜ける。

 佑里に俺の説得なんて一つも響いていない。

「理解できなくても、受け入れることはできるよ。駆はいつもそうしてきたでしょ?」

「俺が?いつ?」

「いつもだよ。正反対の私たちが一緒にいられたのは、駆が私を受け入れてきたからだよ。」

 佑里の口調が妙に優しくなる。俺を洗脳して、俺の好意を利用しようとしているからだ。

 一体何に?

「佑里、君は何をしようとしてるの?」



「君は月島佑里の犯行を全て知っていたのか?」

 佑里は俺たちに詳しい事は何も言わずに家を出た。それからの佑里の行動を知ったのは、夕方のニュースだった。

 佑里は護送車に乗り込もうとした下野みなみをナイフで刺し殺した。

 18歳の少女が犯罪者を殺したニュースは全国放送され、瞬く間に広がっていった。

 そして俺たちは任意ではあるが、またあの刑事に呼び出された。

「知りませんでした。」

 刑事の顔が怪訝になる。

「今日、学校を休んだみたいだけど、それは月島佑里と一緒にいたからか?」

「…」

「君の友達も一緒だったみたいだね。」

「…」

「なぁ、桂木君。俺が前に言った事忘れたのか?」

 覚えている。

「月島佑里から未来の犠牲者を守れるのは君だけだった。なぜ君は止めなかった?」

「俺は何も知りませんでした。月島が下野さんを殺すことも。でも、下野さんは殺されて当然だと思います。そらを殺したんだから。」

 刑事は机を叩いた。

 俺は驚いたが、怯むことはなかった。

「ふざけるな。殺していい人間なんていない。例え殺人者でも殺してはいけない。学校で教わっただろ。復讐心は死の連鎖を生むだけだ。それを肯定する奴は子供でも許さない。」

 刑事の目の色が変わった。

 復讐というものに過剰な反応を示していた。

「学校で教わったのは、警察は、国は、弱者を助けてくれるということです。でもそれは間違っていた。大人は誰もそらを助けてくれなかった。佑里を止めるべきだったのは、あなた達大人じゃないんですか?」

 刑事は黙り込んだ。そして小さな声で呟いた。

「すまない。さっきのは八つ当たりだ。自分の不甲斐なさを認めたくなくてな。」

 


 事情徴収が終わり、俺は隆樹を待つために警察署近くの通りにあるベンチに座っていた。

 でもそこに現れたのは隆樹ではなく、さっきまで嫌なほど話していた刑事だった。

「まだ何か御用ですか?」

 刑事は無断で俺の隣に座った。

「休憩中だ。君と雑談をしたくてな。」

 疑わしいが逃げたらさらに怪しまれそうなので仕方なく付き合うことにした。

「あの子とは付き合ってたのか?」

「え?違いますよ。」

「じゃあ片思いか。」

 勝手に決めつけられて心外ではあったが、間違ってはないので何も言わないことにした。

「君は相当モテるだろ?なのにどうして彼女に固執するんだ?」

 それは俺にも分からない事だった。

「…分かりません。でも…切り離せないんです。」

 彼女を切り離すことが出来れば、全てを忘れて生きることが出来れば、いつかまた代わりになる人間が現れる。

 彼女の代わりなんていくらでもいると、今までの人生でそう証明してきたし、実際そうなのだろう。

 でも俺はそれが出来ない。

「運命の恋ってやつか。青春だな。」

「あなたからそんな言葉が出るなんて思いませんでした。」

「俺も案外ロマンチストだからな。」

 刑事はタバコを取り出したが、俺を見てポケットに戻した。

「いいですよ。気を遣わなくて。」

「いや、禁煙するよ。」

 じゃあなぜ吸おうとしたんだという問いは、胸の中に留めておいた。

「はっきり言おう。俺は君を心配している。君は月島佑里に囚われて、道を外すんじゃないかって思っている。君みたいな頭のいい子供でも、こういう時正しい判断が出来ない。一度休息を取るべきだ。親御さんに言いにくいなら俺が。」

「心配しなくていいですよ。俺は運命とか信じてないです。結局信じることなんて出来なかったんです。俺は現実主義の面白くない人間ですから。」

 刑事に向かって何を言っているんだと後悔した。

「俺にはそうは見えなかったが。」

「え?」

「君は十分、月島佑里にぞっこんで、運命だと信じ切っているように見えていたよ。」

「そんなことは。」

「自分では気付けないものなのかもな。でもこれが運命だったのかは歳を取れば分かるぞ。桂木君、君に夢はあるか?」

「いきなり何ですか?」

「少年よ大志を抱け。俺が好きな言葉だ。俺が関わる子供はみな傷ついて、傷つけることしか知らない奴ばかりだ。『殺して何が悪い』『殺されて当然だ』と君が言ったような言葉を平気な顔して言うんだ。でもそんな言葉を言わせたのは我々大人だ。子供には何の罪もない。だから大人はせめて子供たちを更生させる責任がある。そして更生に必要なのは夢だ。復讐心は自分自身を傷付けるが、夢は傷ついた心を癒す薬になる。だから、桂木少年、君も夢を持て。」

 刑事は言いたい事だけを言って警察署に戻って行った。

「めちゃくちゃな人だ。」

 俺を非行少年と一緒にしないで欲しいが、覚えておくことにした。

「何話していたの?」

 刑事と入れ違いで隆樹が来た。

「あの人は、佑里を止められなかった自分を悔やんでいるのかも。」



 教室は佑里の話題で持ち切りだった。

 そこに佑里がいなくてよかったと思うほど、容赦ない言葉が飛び交っていた。

 学校としても佑里は既に退学していたから風評被害は少なくて済んだ。2、3日は記者が辺りをうろついていたが、その程度だった。

 反対に、警察や児童相談所等の行政府が批判の的となった。

 一度警察にお世話になった佑里をなぜ野放しにしたのか。

 なぜ星空ちゃんの虐待を見抜けなかったのか。

 そんな議論がワイドショーや週刊誌で連日取り上げられた。

 でもそんなニュースも数週間経てば風化して、世間の関心は離れて行った。

 俺たちは罪に問われることも、学校から処分が下ることもなかった。

 佑里は誰にも迷惑をかけなかった。かけてくれなかった。

 佑里は俺たちに味方になって欲しいとは言ったが、一度だって共犯者になれとは言わなかった。それがすべてだった。



「佑里、君は何をしようとしてるの?」

 俺の好意を何に使うのか、考えれば考える程恐ろしくなった。

「けじめをつけてくる。」

「だから何を…」

「聞かない方がいい。聞いたら止めるから。」

 その言葉で佑里がしようとしていることをすぐに悟った。

 佑里はクローゼットからジャンパーを取り出し、着ていたパーカーの上に羽織る。

 止めるべきだった。

 それなのに「行かないで」と言うことが出来なかった。

「私は私利私欲の為に罪を犯す、ただの犯罪者だから。」

 戦闘服を身につけた佑里は笑った。その姿は勇敢な兵士にも、恐怖に脅える子羊にも見えた。

 佑里は母親を愛していた。

 そらを愛していた。

 そのことを俺たちは否定したくなかった。

 俺たちもまた佑里がただの犯罪者になることを望んでいたのかもしれない。

 隆樹が棚の上に置かれたものに気付き、手に取る。

「これ。」

 隆樹と目が合うと、彼は俺にそれを差し出した。

「佑里、待って。」

 俺は玄関で靴を履く佑里を呼び止めた。

「忘れ物。」

 佑里は黙って赤いキャップを受け取った。


 遊園地のベンチに一人、腰を掛ける。恋人がトイレから戻ってくるまでの間、俺は行き交う人々を眺めていた。

 ちょうどあのメリーゴーランドが見える。

「もう2年か。」

 俺の前を手を繋いだカップルや、子供を連れる夫婦が通り過ぎていく。

 みんなその恋が、その愛が運命だと信じているみたいに。

 滑稽だ。

 人はみな自分を御伽噺の主人公にしたがる。

 些細で、なんてことない出来事でもそのストーリーの中では奇跡にも運命にもなり得た。

「お待たせ。ここにいたんだ。」

 そして彼女は誰よりもその空想物語の中で生きることを望んだ。ヒロインになりたかったのだろう。

「うん。どこに行く?」

「久しぶりにあれ乗ろうよ。」

「幼稚すぎない?まぁでも俺たちの思い出だし、乗るか。」

「うん。行こう。」

 彼女が母親を殺したとき、そらを誘拐したとき、突き動かしたものはきっと誰よりも強い愛だ。

 彼女は愛に囚われていた。

 彼女の体には、愛情の弓がずっと刺さっていた。

 だから彼女は愛に生き、愛の中で死んだんだ。

「待ってよ、隆樹。」


 月島佑里は下野みなみを殺害してから数週間後、少年刑務所に送られた。

 そして彼女はそこで、自殺した。



 佑里の訃報は担任の口から告げられた。

 生徒の為にも、報道より先に知らせるべきだという学校側の判断だ。

 佑里の訃報にクラスメイトは悲しんだ。みな動揺し、泣く人もいた。

 担任は白いユリの花が入った花瓶を、佑里の席に置いた。

 数分間の黙祷が佑里に捧げられる。

「佑里ちゃんの為に何か出来ないかな?」

 黙祷の後、何人かの女子の言葉を引き合いに、お別れ会だの墓参りだの色んな計画が進んだ。

 クラスメイトが死んだ。

 友達が死んだ。

 その事実だけしか、こいつらには映っていない。

 なぜ悲しめる?

 なぜ泣ける?

 散々佑里を毛嫌って、佑里の机に触らないようにしていたのは誰だ?

 クラスから犯罪者が出たことで自分の内申に響くかもと迷惑がっていたのは誰だ?

 他のクラスの野次馬にご丁寧に佑里の個人情報をペラペラ話していたのは誰だ?


「きもちわるい。」


 俺の声はみんなに聞こえていた。

 クラスメイトの視線が俺に集まる。

「見事な手のひら返しだな。」

 言ってしまえば、緊張も解けた。

「桂木、お前何言ってんの?」

「そうだよ。みんな月島が亡くなって混乱してんだよ。」

 そうだ、そうだの大合唱が始まった。

「佑里が可哀そうだよ。」

 佑里が可哀そう。

 どこからか聞こえたその言葉が、俺は許せなかった。

「佑里はちっとも可哀そうなんかじゃない。何も知らずに騒いでるお前らの方がよっぽど可哀そうだ。」

 もう自分を止められなかった。

 俺は佑里の席に近づいて、花瓶を床に叩きつけた。

 ガラスが破壊音が響き渡ると同時に、教室は静寂に包まれた。

 花瓶の破片で切れた右手から血が垂れる。

「お前らなんかに何が分かる。」

 俺は自分の鞄を持って学校を出た。


 こんなことするつもりは無かった。

 俺たちはクラスメイトよりも先に、佑里の訃報を野上刑事から聞かされていた。

 佑里にそらのキャップを渡した時、覚悟は出来ていた。

 佑里が殺人という罪を背負い続けることが出来ない事くらい分かっていた。

 漠然と、佑里は死ぬのだとそう分かっていた。

 だからこそ、言いようのない思いや何色でもない感情が俺たちを苦しめた。

 別の方法があったのではないか。

 俺たちは佑里を守れたのではないか。

 いや違う。守らなかったんだ。

 守らないことが佑里の為だと信じたから。

 俺たちは間違ってない。なのに悲しくて、苦しい。

 佑里とそらがいるあの家に戻りたい。


 俺は制服のまま自室のベットに潜り込んだ。声が漏れないよう布団の中で泣き叫んだ。

 いつしか深い眠りにつき、気が付くと朝になっていた。


 階段を降りてリビングに行くと母さんと目が合う。

 母さんは一瞬驚いたが、風呂に入るよう促しただけだった。

 鏡に映る自分は、全くイケてなかった。

 皺だらけの制服にボサボサの髪の毛。

 瞼は腫れて目は赤くなっている。

 シャワーの水を浴びると右手が痛んだ。

 昨日、花瓶を割った時にできた傷口は血が固まっていたが、(かさ)(ぶた)にはまだなっていない。

 リビングでテレビを見ている父さんも母さんも、昨日夕飯を食べなかった理由を聞いてこなかった。

 二人が佑里の事をどこまで知っているのかは分からない。

 あれだけニュースになっていたのだから佑里の誘拐の事も、殺人の事も、自殺の事も知っているだろう。

 だが俺が佑里との間柄を問われることも、関わるなと言われることもなかった。

「いただきます。」

 朝食なのか昼食なのか分からない食事が用意されていた。

 父さんはまだテレビを見ている。

 母さんは俺の制服にアイロンをかけ始めた。

 何で聞かないんだ。

 自然と涙が出て、白米がしょっぱくなる。

「ありがとう。」

 反抗期と思春期を長引かせている息子を二人はそっと見守ってくれていた。

 心配かけてごめん。

 迷惑をかけてごめん。

 その言葉を口にできる程、俺はまだ大人じゃなかった。

「制服ここに下げておくから食べたら持って行ってね。」

 母さんの目は少し潤んでいた。



 殺人者の葬儀を挙げてくれるほど親しい親戚がいなかった佑里の葬儀は、極めて質素なものだった。

 佑里の遺体が入った棺桶にそらの赤いキャップと二人の写真、俺の制服のポケットに入っていた渡り銭を入れた。


「二人に見せたい物がある。」

 火葬場の外に野上刑事は、俺たち二人を呼び出した。

 野上刑事が喪服のポケットから取り出したビニール袋には小さな赤色のニット帽が入っていた。

「これは?」

下野星空(せいら)のものだ。まだ新しいから下野みなみの元に帰った後、買い与えられたんだろうな。」

「これが何だって言うんですか?」

 野上刑事は袋を開けて中身を差し出した。

 重要なものだから袋に入っていたのだろうに、もう必要ないのだろうか。

 受け取って帽子を見ていると、拙い子供の字を見つけた。

「『そら』って書いてあるだろう。」

「はい。そらが書いたんでしょうね。」

 言ってから気付いた。

 そらは母親の元に戻ってもなお、自分を『そら』と名乗っていたのだろうか?

「下野星空を保護した時、俺はこの子と話したんだ。賢い子だと思ったよ。自分から月島に近づいた。遊び相手が欲しかったとしか言わなかったんだ。月島に誘拐されたとも、母親に虐待されていたとも言わなかったんだ。月島は自供したのにな。」

「え?佑里は自供したんですか?」

「あれ、言ってなかったか?月島は最初から自分が誘拐犯だと主張していたんだ。でも本人の自供だけで罪にはならない。被疑者がいても被害者がいないんじゃな。」

 どういうことだ?

 佑里が誘拐罪に問われなかったのは、警察に捕まる前に、佑里がそらに誘拐でないと供述するよう指示したからだと思っていた。

 でも佑里は初めから自分が誘拐犯だと言った。

 俺と隆樹は顔を見合わせる。

 隆樹も分かっていないようだ。

「俺が思うにな、下野星空は月島を守ろうとしたんじゃないか?5歳の子供がここまで考えられるか分からないが、誘拐と言ったら月島は捕まるし、虐待されてると言ったらどんな手段を使っても、月島は必ず自分を助けようとする。月島の未来を考えるなら、これが一番だと思ったんじゃないか?」

「でも、5歳ですよ。」

「そんな話を下野星空の前でした覚えは?」

 記憶を巡らせる。

 隆樹と俺は同時に目を見合わせた。

 そらが熱を出して寝ている時、俺は佑里からすべてを聞かされた。その上で俺は今の生活に未来はないと叱った。

 あの時そらが話を聞いていたとしたら、こんな考えに辿り着いたかもしれない。

 でも平仮名しか書けない5歳児だ。

「例え佑里を守る為に自分が何をするべきか分かっていたとしても、暴力を振るう母親の元に戻れないと思います。」

「俺もそう思う。だがな、下野星空の遺体はこの帽子を必死に守っていたそうだ。月島から貰ったものは全部母親に捨てられたから、母親から貰った帽子に、月島から貰った名前を書いて大事に守っていた。それほどまでに下野星空も月島佑里が好きだったんだと俺は思う。」

 そらは自分を犠牲にしてまで佑里を守ったのか?

 母親に隠れて佑里を想っていたのか?

 気が付くと涙が出ていた。

「それじゃあ二人は、本当に親子じゃないですか。」

「あぁ。」



 火葬場の煙突から灰色の煙が昇る。

 俺と隆樹は近くの花壇に腰を下ろして、それをじっと眺めていた。

「今頃一緒にいるのかな。」

「うん。きっと一緒だよ。」

 煙は徐々に青い空に溶けていく。

「二人は運命だったのかもな。」

 隆樹は驚いて俺の顔を見る。

「駆の口からそんな言葉が出るなんて思わなかったよ。」

「確かに。俺はどうかしてる。」

「駆が変わったのは佑里のお陰だね。」

「俺は何も変わってないよ。」

「気付いていないだけだよ。」

 野上刑事にも前に似たような事を言われた。

「駆は僕を軽蔑していたのに、今はこうやって一緒にいてくれてる。十分駆が変わった証拠だよ。」

「あの時の事は、反省してるよ。」

 隆樹に告白の話をされるとばつが悪い。

「思い返せば1年も経ってないんだよね。1年前は僕たちはただのクラスメイトだった。まぁ僕は駆が好きだった訳だけど。」

「そうだな。」

 きっかけは何だろう。電車で流れた音楽なのか、隆樹の告白なのか。

 その前に、俺が佑里を好きになったきっかけは何だったんだろう。

 考えてもよく分からない。

 きっと些細な事の積み重ねなんだ。ドラマもくそもない。

「大変な1年だったけど、忘れられない1年にもなった。あの家は幸せで溢れてたな。」

 佑里とそらと隆樹がいる家を想像する。

 佑里とそらがいる別の未来を想像する。

「佑里にとって俺たちは何だったんだろう。」

「佑里にしか分からないけど、佑里ならきっと、僕たちに委ねると思う。」

「委ねる?」

「運命だと自分が思いたかったらそれは運命になる。佑里はそう言ってた。だからきっと僕たちが佑里の事を運命だと思いたかったら、佑里は運命の人だよ。駆は佑里を運命の人だって思える?」

 隆樹が真剣な眼差しを向ける。

「思いたいよ。」

 隆樹は微笑んだ。

「よかった。」

「何が?」

「僕は駆が好きだから。」

 隆樹の二度目の告白は、きもちわるいとは思わなかった。

「駆が誰を好きでも僕は駆が好き。僕にとっての運命の人は駆だけだから。僕の気持ちに駆が応えられないのも分かってる。でもせめて君を守りたい。駆の運命の人が佑里で、今苦しいのならその痛みを分かち合いたい。駆の痛みを理解できるのは僕だけだから。だから、だから…駆の痛みが消えるまで、駆にまた運命の人が現れるまで傍にいたい。」

 隆樹の好意など最初から知っていた。

 隆樹をフッた後、何となく友達になっていたが、友達だと思っていたのは恐らく俺だけだった。

 一度恋愛感情を持った相手を、純粋な友達だと思うことが出来ないことくらい俺にだって分かる。

 隆樹の手は震えていた。

「俺に緊張なんてするなよ。」

 隆樹は「ごめん」と笑って震える手を隠した。

「俺は…まだ理解できない。男が男に恋愛感情を持つことが、きもちわるいとは思わないけど、理解できた訳じゃない。俺はお前といると安心するし、一緒にいたいって思える。でもそれはお前に佑里を感じているだけだと思う。お前が佑里の友達じゃなかったら、俺はお前と一緒にいたか分からない。」

『でもその女の子はそらだった』

 いつかの佑里の声が聞こえた。

「でもそれは僕だった。佑里の友達は僕だった。」

「お前まで、そんなこと言うなよ。」

 そうだ。実際、佑里の友達は隆樹だった。

「利用していい。僕を利用して欲しい。佑里の代わりにはなれないと思うけど、駆が前を向けるように支えたい。僕の前では弱いところを見せてほしい。」

 この時俺は何に突き動かされたのだろう。

 隆樹の強さに惹かれたのだろうか。

 自分だけ運命という言葉を信じ切れてないことを恥じたのだろうか。

 俺も御伽噺に入りたかったのだろうか。

 流されただけなのかもしれない。

 佑里を失った悲しみから解放されたかっただけかもしれない。

 恐らく全部だ。

「甘えていいのか?」

「うん。」

「利用していのか?」

「うん。」

「泣いてもいいのか?」

「うん。」

 隆樹の肩で俺は泣いた。

 理性のない赤ん坊の様に、声をあげて泣いた。

 冬の外は寒かった。体を芯から冷やした。

 それでも胸が熱くなって、心地よく感じた。



 俺はその年、大学に進学はしなかった。推薦で合格した大学の入学を辞退した。

 父さんも母さんも最初は反対したが、最後は俺の夢を応援してくれた。

 あれから一年、必死に勉強をして地元の大学の児童福祉学科に進学した。

 浪人する決断をした理由は、ただ強くなりたいからだ。

 俺は親に虐待されたことも、包丁を向けられたことも、自分の性に悩み苦しんだこともない。

 あの中で俺だけが恵まれていた。

 三人と出会うまでは優越感だったそれは、いつしか疎外感に変わっていた。

 悲劇に見舞われたい訳じゃないが、三人の強さに憧れていたんだ。

 そして俺は気付いた。

 俺がしたいことは大層な事ではない。

 ただ苦しんでいる子供を助けられる大人になりたい。

 それに気付いた時、俺は前を向けた。



 メリーゴーランドの馬に乗った隆樹は笑っていた。目が合って俺も笑う。

 俺は隆樹の感情を理解できたのか、今でも分からない。

 それでも受け入れることは出来た。

 今なら言える。

 この恋は運命だ。

 この愛は本物だ。

「君が佑里の友達でなくても、俺は君を好きになってた。」

 隆樹には聞こえていない。

 それでいい。

 俺もまた愛に囚われた人間なのだろう。

 ぐるぐると坩堝にはまっていく。

 あぁ滑稽だ。


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